迎えのない朝

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CHAPTER 26 / 28

第二十五章 あと一歩

戸崎は杖を後部座席へ入れ、運転席へ回りかけた。

「こっちです」

 成瀬が助手席の戸を開けていた。

「そうでした。いつもの癖で」

「今日は、癖で動かないでください」

 十月十六日の夕方だった。駐車場の白線を越えるだけで、左脚がついてこない時がある。戸崎は自分の足元を見た。

「走らない。前へ出ない。座って聞く」

「お願いします」

「人が倒れたら?」

 成瀬の手がドアから離れた。

「そのための人も、います」

 戸崎は彼女を見た。帰ってくださいと言われる前に、頷いた。

「分かりました」

 車に乗ると、成瀬は黒い鞄を後ろへ置いた。持ち手が少し青い。触って確かめることなく、ファイルを一つ出し、閉じた。

 遠山の事件の令状は、まだ届いていなかった。

 悟は会議室へ来る途中で、若い作業員に呼び止められた。

 伝票を二枚持った男だった。悟が一枚を指し、向こうから先に、と言うと、男は頷いて駆け戻った。悟が、走るな、落とすぞ、と声を掛ける。男は笑い、歩き直した。

 戸崎はそのやり取りを戸口から見ていた。

「また人数、多いですね」

 悟が入ってきた。

「今日は、俺も戻りました」

「歩けるんですか」

「ええ。ゆっくりなら」

「そうですか。よかった」

 悟は椅子を引き、七時便があると言った。成瀬は時間を約束できないことと、任意の聴取であることを先に伝えた。

「じゃあ、長引くって送ります」

 携帯で打ち、机に伏せる。それから二人を順に見た。

「今日は、こっちの返事も聞けます?」

「詩乃さんとの面会ですか」

「連絡するって、言いましたよね」

「面会は、お約束できません」

 悟は成瀬の鞄を見た。彼女が台車の写真を出す間、指で机を一度叩いた。

「俺の方は、そのままか」

 成瀬は写真を置いた。

 悟が目を落とした。しばらく、そのままだった。

「寺田さんに返した物と、会社から別の営業所へ出た物です。取っ手が入れ替わっていました」

「誰が入れ替えたんですか」

「あなたに伺っています」

「台車ですよ。皆、使いますけど」

 成瀬は潰れた肩を指した。

「ここに残っていた血液が、遠山さんと一致しました」

 隣の作業場で梱包テープの音がした。悟はそちらを見てから、写真を持ち上げた。

「この台、うちのですか」

「平台は。取っ手は、借りていた台車の物です」

「班長、何て言ってました」

「映像も確認してもらいました。十日の夜、あなたが青い台車を持ち帰っているところです」

「直したって、言いましたよね」

「ピンとテープ、と」

 悟は写真を机へ戻した。

「壊れたまま返せばよかったんですか」

「どこで使いましたか、直す前に」

 返事はなかった。悟が携帯を取ったので、成瀬は待った。

「弁護士に聞いていいですか」

「どうぞ。相談先の案内もできます」

 画面を点けたまま、悟は動かなかった。やがて携帯を戻した。

「今は、やめます。台車の話はしない」

「分かりました」

 成瀬は写真をしまった。戸崎は机の下で左足の位置を変えた。悟が、それも見ていた。

「俺を見てると、脚、痛くなるんですか」

「座ってると、固まるんです」

 悟は戸崎の顔を見た。戸崎は足を置き直してから、次を訊いた。

「二日の電話のことを聞きます」

 通話は十九時三十六分だった。悟は十九時五十分ごろと答え、店は隣と見間違えたと訂正している。

「そこに付け足すことは、ないです」

 悟が先に言った。

「写真館の時計が十四分進んでいたことは、御存じでしたか」

「同じだけ間違えたから、あそこにいたって?」

「その理由を聞いています」

「たまたま。それじゃ駄目なんですか」

 成瀬の前で、記録係のペンが動いた。悟はそれを見て、笑いかけた口を戻した。

 戸崎が訊いた。

「宇津木さんの携帯を、見たことはありますか」

「ないです」

「お姉さんの向かいの椅子に、置いてありました」

 悟の視線が戸崎へ戻った。

「宇津木さんのところから持ち出されていた物です。真知さんの手には、宇津木さんと同じ結び方があった。左右の小指を一本でつなぐ形です」

「写真、出すんですか」

「必要なら」

「やめてください」

 成瀬は鞄へ掛けていた手を戻した。

 悟は机の上を見ていた。携帯が震えた。伏せたままだったので、誰からかは分からない。

「この形は、外へ公表していません。遠山さんにもありました」

 戸崎が続けると、悟は顔を上げた。

「じゃあ、同じ人でしょうね」

 誰も答えなかった。悟は成瀬の方を見た。

「次は何です」

「匿名相談のことです」

 悟の部屋の回線から接続した記録を伝えると、彼は、誰が触ったかまで分かるのか、と訊いた。

「ほかに使った方がいれば、その人にも確認します」

「覚えてないです」

 成瀬は二枚の画像を並べた。詩乃が倉庫で作業する写真と、仁に送られた切抜き。

「元の写真を持っているだけでは、この切抜きと同じになりません。相談へ送った時の画像が使われています」

 悟は写真の角を揃えた。詩乃の背中を、指が少し隠した。

「お父さんが閉じ込めるって、送った人は知ってたんですかね」

「詩乃さんは、お父さんが怖いと書いています」

「怖い、だけでしょう。娘の場所を教えたら、必ずああなるって? 誰にも分からないでしょう」

 戸崎は鞄から手帳を出した。

「仁さんがしたことは、仁さんに聞いています」

「本人がやったのに、その前にいた人へ持ってくるんですね。そしたら何でも、前へ前へ行けますよ」

「今、あなたがしたことを聞きたいんです」

 悟は写真を離した。

「使ったことがないと話しましたね」

 成瀬が言う。

「その答えを訂正しますか」

 悟はしばらく黙り、それから、もっと前のも持ってるんですか、と訊いた。

「詩乃さんのじゃなくて。俺の、最初の」

 戸崎はペンを止めた。

「あれ、金がなくて。電話すればいいってことは分かってたんですよ。払えない、待ってくれって。そりゃ言うことはそれしかない。でも、何から言えばいいか分からない。電話したら、向こうがすぐ出るでしょう」

 悟は携帯を手元へ引いた。

「文、考えてくれたんです。読み上げればいいように。俺、そのまま読んだら、待ってもらえました。怒鳴られもしなかった」

 悟は携帯を裏返した。画面は点かなかった。

「文なら、消せるんですよ。まだ送ってないから。電話だと、向こうがはいって出たら、もう。俺、喋れなくなって。姉ちゃんに掛け直してもらったこともあります。馬鹿みたいでしょう」

 戸崎は答えず、聞いていた。

「でも文なら、先に直せる。読んで、その人が聞きたいの、そっちじゃなかったなって。それで書き直して」

 隣の作業場で呼出しの声がした。悟は聞き取ろうとするように首を動かしたが、立たなかった。

「それで、同じように困ってる人がいて。俺にも書けると思って。最初の返事、すごかったですよ。助かったって。もう一個聞いていいですかって」

「そこから、続けたんですね」

「向こうから来るんです。俺が探して、困ってませんかってやったわけじゃない」

 声が速くなった。

「仕事中に来れば休憩まで待つし、帰ってから読むのもある。飯食いながら。こっちは給料の出る仕事もしてるんですよ。そのあと、誰にもやれって言われてないのに」

「やめたいと思いませんでしたか」

「思いますよ。でも、もう途中まで聞いてるんです。今から別の人に、初めから説明させるんですか」

 悟は水を飲んだ。一口では足りず、コップを傾けたまま飲み切った。

「いいことだけ返せば、早いんでしょうね。よかったですねって。そこは危ないから条件を見せてって言ってるのに、もう決めましたって。それで、おめでとうって書けば終わる」

 空のコップを置いた。

「書かない方が、親切なんですか」

 成瀬は返事をしなかった。悟の手が机へ開かれる。説明を受け取る相手を待つ手だった。

 戸崎は相談の写しを置いた。

 周りが静かになれば、自分で決められるようになる。

 必要なら、その時は迎えに行く。

「詩乃さんは、ずっと返事を書いています」

「ちゃんと返す人でしたから」

 悟はすぐに口を閉じた。紙の上へ指を載せる。

「そこにも、書いてあるでしょう」

「真知さんに会ったことも、食べた物も」

「姉ちゃんは、行けば食わせますよ」

 悟は椅子を寄せた。

「一回断ったくらいで、やめません。持って帰れって。鍋が重いからここで食えって。あれを断ったら、具合悪いのかって」

 成瀬は目を上げた。戸崎は机の紙を動かさなかった。

「昨日も、その鍋の話をしていました」

 悟が成瀬を見た。

「詩乃さんが?」

「はい」

 悟は口を開き、閉じた。目の前の写真だけを裏返した。詩乃が写っている方だった。

「何時に起きて、誰に頭下げて、何て返されたか。俺には、そこまで来てたんです。朝も夜も。長い時は、今送って迷惑じゃないですかって聞いてから、何回にも分けて」

 戸崎は足を動かすのをやめた。

「姉ちゃんが知ってたの、何杯食ったかだけでしょう」

 廊下で誰かが立ち止まった。会議室の戸へ手が掛かり、すみません、と外から声がした。

「大丈夫」

 悟はそちらへ答えた。同じ声で成瀬に向き直る。

「あの人、俺のこと何て言ってました」

「その答えは、ここではしません」

「聞いてるだけですよ」

 悟の掌が上を向いた。

「あの人が持ってきたの、俺の書いたとこだけですか。自分で、どうしたらいいですかって言ってきた方も、ちゃんと持ってきた?」

 成瀬は答えなかった。

「全部読んでからにしてくださいよ。途中から、俺が何かさせたみたいに。何か言ってください」

 戸崎は紙へ指を置いた。

「迎えに行くのは、あなたですか」

「行ける人が行けばいいでしょう」

「詩乃さんが、別の人に頼んでも?」

 悟は戸崎を見た。

「俺に聞いたんですよ。先に」

 戸が開き、広瀬が入った。成瀬へ視線を送ると、彼女が立った。

「川瀬悟さん」

 悟の手が携帯へ動いた。

「ここからは任意ではありません」

 成瀬が逮捕状を示した。遠山隆一に対する殺人容疑。

 悟は読み上げる間、座っていた。顔だけが少しずつ下がり、最後には机を見ていた。

「立ってください」

 入ってきた警察官たちに促され、悟は椅子を引いた。戸崎は座ったまま、その足元を見た。

 椅子が机へ当たった。

 悟は右腕を取った手を身体へ挟み、横の警察官を肩で押した。押された背中が戸枠へぶつかり、空いたところへ悟が踏み出した。

「川瀬!」

 戸崎は立った。

 悟が廊下を抜けた。梱包台の上に赤い柄が見え、彼の手がそこへ伸びる。切りかけの箱が床へ落ちた。

 若い作業員が奥で立ち尽くしていた。成瀬がその前へ入り、下がって、と声を掛けた。

 悟がカッターの刃を出した。

「来ないでください」

 頼むような声だった。

「置いてください」

 成瀬は手を出さず、作業員が退く場所を空けた。男は箱につまずき、尻をついた。

 悟の顔が成瀬へ向いた。戸崎は一歩出た。床を蹴るはずの左脚が、まだ後ろにある。

 壁へ手が当たった。

 警察官たちが廊下から走ってくる。刃が胸の高さへ上がる。成瀬が横へ動いた。その幅だけでは足りないと、戸崎には分かった。

 あと一歩。

 その一歩が遠かった。

 私は咄嗟に、悟に横からとびかかった。

 脇腹へ肩が入り、台の角が背中を打った。箱が崩れ、硬い物が床を跳ねた。すぐ横から腕が伸び、悟の肘を押さえた。

「右、持ってる!」

 声が重なった。左腕も床へ伏せられ、カッターが遠ざけられた。

 戸崎は壁に手をついたまま、左脚へ力を入れた。震えるばかりだった。

 成瀬は片膝をついている。彼女が作業員に立てるかと訊き、男が頷いた。服が切れていない。戸崎はそこまで見て、やっと声を出した。

「成瀬、大丈夫?」

「はい。戸崎さん、座ってください」

「分かってる。今、脚が」

 誰かが椅子を持ってきた。戸崎は腰を下ろした。自分の腕を支えてくれた手へ、礼を言ったつもりだったが、声になったか分からなかった。

 悟は床で押さえられたまま黙っていた。手錠が掛かり、起こされる。

 梱包台に残った伝票が、送風機の風でめくれた。若い作業員が拾おうとして身を屈め、警察官に止められた。作業は全部止まっていた。

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目次

迎えのない朝

  1. 01序章
  2. 02屋根のない駅
  3. 03名前を知っている
  4. 04撮影室
  5. 05今日の配達
  6. 06冬を越した箱
  7. 07店を開ける人
  8. 08鍵を渡すまで
  9. 09部屋へ戻る服
  10. 10使わない鍋
  11. 11二人目
  12. 12青い丸
  13. 13三つの現場
  14. 14紺の半袖
  15. 15片方の補助輪
  16. 16店の中
  17. 17返す服
  18. 18店じまい
  19. 19積込口
  20. 20一人分
  21. 21手を貸す
  22. 22言い分
  23. 23返す日
  24. 24丸を消す
  25. 25迎えに来る人
  26. 26あと一歩読書中
  27. 27向かいの席
  28. 28終章 迎えのない朝

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