戸崎は杖を後部座席へ入れ、運転席へ回りかけた。
「こっちです」
成瀬が助手席の戸を開けていた。
「そうでした。いつもの癖で」
「今日は、癖で動かないでください」
十月十六日の夕方だった。駐車場の白線を越えるだけで、左脚がついてこない時がある。戸崎は自分の足元を見た。
「走らない。前へ出ない。座って聞く」
「お願いします」
「人が倒れたら?」
成瀬の手がドアから離れた。
「そのための人も、います」
戸崎は彼女を見た。帰ってくださいと言われる前に、頷いた。
「分かりました」
車に乗ると、成瀬は黒い鞄を後ろへ置いた。持ち手が少し青い。触って確かめることなく、ファイルを一つ出し、閉じた。
遠山の事件の令状は、まだ届いていなかった。
悟は会議室へ来る途中で、若い作業員に呼び止められた。
伝票を二枚持った男だった。悟が一枚を指し、向こうから先に、と言うと、男は頷いて駆け戻った。悟が、走るな、落とすぞ、と声を掛ける。男は笑い、歩き直した。
戸崎はそのやり取りを戸口から見ていた。
「また人数、多いですね」
悟が入ってきた。
「今日は、俺も戻りました」
「歩けるんですか」
「ええ。ゆっくりなら」
「そうですか。よかった」
悟は椅子を引き、七時便があると言った。成瀬は時間を約束できないことと、任意の聴取であることを先に伝えた。
「じゃあ、長引くって送ります」
携帯で打ち、机に伏せる。それから二人を順に見た。
「今日は、こっちの返事も聞けます?」
「詩乃さんとの面会ですか」
「連絡するって、言いましたよね」
「面会は、お約束できません」
悟は成瀬の鞄を見た。彼女が台車の写真を出す間、指で机を一度叩いた。
「俺の方は、そのままか」
成瀬は写真を置いた。
悟が目を落とした。しばらく、そのままだった。
「寺田さんに返した物と、会社から別の営業所へ出た物です。取っ手が入れ替わっていました」
「誰が入れ替えたんですか」
「あなたに伺っています」
「台車ですよ。皆、使いますけど」
成瀬は潰れた肩を指した。
「ここに残っていた血液が、遠山さんと一致しました」
隣の作業場で梱包テープの音がした。悟はそちらを見てから、写真を持ち上げた。
「この台、うちのですか」
「平台は。取っ手は、借りていた台車の物です」
「班長、何て言ってました」
「映像も確認してもらいました。十日の夜、あなたが青い台車を持ち帰っているところです」
「直したって、言いましたよね」
「ピンとテープ、と」
悟は写真を机へ戻した。
「壊れたまま返せばよかったんですか」
「どこで使いましたか、直す前に」
返事はなかった。悟が携帯を取ったので、成瀬は待った。
「弁護士に聞いていいですか」
「どうぞ。相談先の案内もできます」
画面を点けたまま、悟は動かなかった。やがて携帯を戻した。
「今は、やめます。台車の話はしない」
「分かりました」
成瀬は写真をしまった。戸崎は机の下で左足の位置を変えた。悟が、それも見ていた。
「俺を見てると、脚、痛くなるんですか」
「座ってると、固まるんです」
悟は戸崎の顔を見た。戸崎は足を置き直してから、次を訊いた。
「二日の電話のことを聞きます」
通話は十九時三十六分だった。悟は十九時五十分ごろと答え、店は隣と見間違えたと訂正している。
「そこに付け足すことは、ないです」
悟が先に言った。
「写真館の時計が十四分進んでいたことは、御存じでしたか」
「同じだけ間違えたから、あそこにいたって?」
「その理由を聞いています」
「たまたま。それじゃ駄目なんですか」
成瀬の前で、記録係のペンが動いた。悟はそれを見て、笑いかけた口を戻した。
戸崎が訊いた。
「宇津木さんの携帯を、見たことはありますか」
「ないです」
「お姉さんの向かいの椅子に、置いてありました」
悟の視線が戸崎へ戻った。
「宇津木さんのところから持ち出されていた物です。真知さんの手には、宇津木さんと同じ結び方があった。左右の小指を一本でつなぐ形です」
「写真、出すんですか」
「必要なら」
「やめてください」
成瀬は鞄へ掛けていた手を戻した。
悟は机の上を見ていた。携帯が震えた。伏せたままだったので、誰からかは分からない。
「この形は、外へ公表していません。遠山さんにもありました」
戸崎が続けると、悟は顔を上げた。
「じゃあ、同じ人でしょうね」
誰も答えなかった。悟は成瀬の方を見た。
「次は何です」
「匿名相談のことです」
悟の部屋の回線から接続した記録を伝えると、彼は、誰が触ったかまで分かるのか、と訊いた。
「ほかに使った方がいれば、その人にも確認します」
「覚えてないです」
成瀬は二枚の画像を並べた。詩乃が倉庫で作業する写真と、仁に送られた切抜き。
「元の写真を持っているだけでは、この切抜きと同じになりません。相談へ送った時の画像が使われています」
悟は写真の角を揃えた。詩乃の背中を、指が少し隠した。
「お父さんが閉じ込めるって、送った人は知ってたんですかね」
「詩乃さんは、お父さんが怖いと書いています」
「怖い、だけでしょう。娘の場所を教えたら、必ずああなるって? 誰にも分からないでしょう」
戸崎は鞄から手帳を出した。
「仁さんがしたことは、仁さんに聞いています」
「本人がやったのに、その前にいた人へ持ってくるんですね。そしたら何でも、前へ前へ行けますよ」
「今、あなたがしたことを聞きたいんです」
悟は写真を離した。
「使ったことがないと話しましたね」
成瀬が言う。
「その答えを訂正しますか」
悟はしばらく黙り、それから、もっと前のも持ってるんですか、と訊いた。
「詩乃さんのじゃなくて。俺の、最初の」
戸崎はペンを止めた。
「あれ、金がなくて。電話すればいいってことは分かってたんですよ。払えない、待ってくれって。そりゃ言うことはそれしかない。でも、何から言えばいいか分からない。電話したら、向こうがすぐ出るでしょう」
悟は携帯を手元へ引いた。
「文、考えてくれたんです。読み上げればいいように。俺、そのまま読んだら、待ってもらえました。怒鳴られもしなかった」
悟は携帯を裏返した。画面は点かなかった。
「文なら、消せるんですよ。まだ送ってないから。電話だと、向こうがはいって出たら、もう。俺、喋れなくなって。姉ちゃんに掛け直してもらったこともあります。馬鹿みたいでしょう」
戸崎は答えず、聞いていた。
「でも文なら、先に直せる。読んで、その人が聞きたいの、そっちじゃなかったなって。それで書き直して」
隣の作業場で呼出しの声がした。悟は聞き取ろうとするように首を動かしたが、立たなかった。
「それで、同じように困ってる人がいて。俺にも書けると思って。最初の返事、すごかったですよ。助かったって。もう一個聞いていいですかって」
「そこから、続けたんですね」
「向こうから来るんです。俺が探して、困ってませんかってやったわけじゃない」
声が速くなった。
「仕事中に来れば休憩まで待つし、帰ってから読むのもある。飯食いながら。こっちは給料の出る仕事もしてるんですよ。そのあと、誰にもやれって言われてないのに」
「やめたいと思いませんでしたか」
「思いますよ。でも、もう途中まで聞いてるんです。今から別の人に、初めから説明させるんですか」
悟は水を飲んだ。一口では足りず、コップを傾けたまま飲み切った。
「いいことだけ返せば、早いんでしょうね。よかったですねって。そこは危ないから条件を見せてって言ってるのに、もう決めましたって。それで、おめでとうって書けば終わる」
空のコップを置いた。
「書かない方が、親切なんですか」
成瀬は返事をしなかった。悟の手が机へ開かれる。説明を受け取る相手を待つ手だった。
戸崎は相談の写しを置いた。
周りが静かになれば、自分で決められるようになる。
必要なら、その時は迎えに行く。
「詩乃さんは、ずっと返事を書いています」
「ちゃんと返す人でしたから」
悟はすぐに口を閉じた。紙の上へ指を載せる。
「そこにも、書いてあるでしょう」
「真知さんに会ったことも、食べた物も」
「姉ちゃんは、行けば食わせますよ」
悟は椅子を寄せた。
「一回断ったくらいで、やめません。持って帰れって。鍋が重いからここで食えって。あれを断ったら、具合悪いのかって」
成瀬は目を上げた。戸崎は机の紙を動かさなかった。
「昨日も、その鍋の話をしていました」
悟が成瀬を見た。
「詩乃さんが?」
「はい」
悟は口を開き、閉じた。目の前の写真だけを裏返した。詩乃が写っている方だった。
「何時に起きて、誰に頭下げて、何て返されたか。俺には、そこまで来てたんです。朝も夜も。長い時は、今送って迷惑じゃないですかって聞いてから、何回にも分けて」
戸崎は足を動かすのをやめた。
「姉ちゃんが知ってたの、何杯食ったかだけでしょう」
廊下で誰かが立ち止まった。会議室の戸へ手が掛かり、すみません、と外から声がした。
「大丈夫」
悟はそちらへ答えた。同じ声で成瀬に向き直る。
「あの人、俺のこと何て言ってました」
「その答えは、ここではしません」
「聞いてるだけですよ」
悟の掌が上を向いた。
「あの人が持ってきたの、俺の書いたとこだけですか。自分で、どうしたらいいですかって言ってきた方も、ちゃんと持ってきた?」
成瀬は答えなかった。
「全部読んでからにしてくださいよ。途中から、俺が何かさせたみたいに。何か言ってください」
戸崎は紙へ指を置いた。
「迎えに行くのは、あなたですか」
「行ける人が行けばいいでしょう」
「詩乃さんが、別の人に頼んでも?」
悟は戸崎を見た。
「俺に聞いたんですよ。先に」
戸が開き、広瀬が入った。成瀬へ視線を送ると、彼女が立った。
「川瀬悟さん」
悟の手が携帯へ動いた。
「ここからは任意ではありません」
成瀬が逮捕状を示した。遠山隆一に対する殺人容疑。
悟は読み上げる間、座っていた。顔だけが少しずつ下がり、最後には机を見ていた。
「立ってください」
入ってきた警察官たちに促され、悟は椅子を引いた。戸崎は座ったまま、その足元を見た。
椅子が机へ当たった。
悟は右腕を取った手を身体へ挟み、横の警察官を肩で押した。押された背中が戸枠へぶつかり、空いたところへ悟が踏み出した。
「川瀬!」
戸崎は立った。
悟が廊下を抜けた。梱包台の上に赤い柄が見え、彼の手がそこへ伸びる。切りかけの箱が床へ落ちた。
若い作業員が奥で立ち尽くしていた。成瀬がその前へ入り、下がって、と声を掛けた。
悟がカッターの刃を出した。
「来ないでください」
頼むような声だった。
「置いてください」
成瀬は手を出さず、作業員が退く場所を空けた。男は箱につまずき、尻をついた。
悟の顔が成瀬へ向いた。戸崎は一歩出た。床を蹴るはずの左脚が、まだ後ろにある。
壁へ手が当たった。
警察官たちが廊下から走ってくる。刃が胸の高さへ上がる。成瀬が横へ動いた。その幅だけでは足りないと、戸崎には分かった。
あと一歩。
その一歩が遠かった。
私は咄嗟に、悟に横からとびかかった。
脇腹へ肩が入り、台の角が背中を打った。箱が崩れ、硬い物が床を跳ねた。すぐ横から腕が伸び、悟の肘を押さえた。
「右、持ってる!」
声が重なった。左腕も床へ伏せられ、カッターが遠ざけられた。
戸崎は壁に手をついたまま、左脚へ力を入れた。震えるばかりだった。
成瀬は片膝をついている。彼女が作業員に立てるかと訊き、男が頷いた。服が切れていない。戸崎はそこまで見て、やっと声を出した。
「成瀬、大丈夫?」
「はい。戸崎さん、座ってください」
「分かってる。今、脚が」
誰かが椅子を持ってきた。戸崎は腰を下ろした。自分の腕を支えてくれた手へ、礼を言ったつもりだったが、声になったか分からなかった。
悟は床で押さえられたまま黙っていた。手錠が掛かり、起こされる。
梱包台に残った伝票が、送風機の風でめくれた。若い作業員が拾おうとして身を屈め、警察官に止められた。作業は全部止まっていた。