詩乃は、持ってきてほしい物を紙に書いていた。
借りていた部屋の住所。下段の引出しにある紺の半袖。黒いズボン。机の上の、紙に包んだ袖。
最後の行だけ、あとから小さく足されている。
「袖?」
成瀬が訊くと、詩乃は自分の腕の上で長さを示した。
「外したんです。ほどく途中だったので。丸めたのもあるけど、そっちは要らないです」
「分かるように、書き加えてもいいですか」
「私が書きます」
成瀬は渡されかけた紙を返した。詩乃はペン先をなめらかに動かし、紙包み、と括弧で囲んだ。面談室で見た中では、いちばん迷いのない字だった。
金曜日の午後だった。医療機関の職員と支援担当者が、同じ机に座っていた。
「あと、仕事先に電話したいです」
「今、連絡したいところがありますか」
支援担当者が訊いた。
「待っててもらってるか、もう別の人に頼んだか。私、休んでるって、自分では言ってないので」
成瀬は持ってきた書類を開かなかった。今日伝えることを知れば、詩乃の用事は変わる。先に話してもらうべきだと分かっていても、そのまま聞いていることが、何かを隠す時間に思えた。
「詩乃さん」
自分の声が少し硬い。
「今日は、お伝えしなければならないことがあります」
詩乃のペンが止まった。
「父のことですか」
「川瀬真知さんのことです」
戸崎が隣で手帳を置いた。成瀬は詩乃の顔を見たまま、亡くなったことを伝えた。
「火曜日の夜から、水曜日の早朝までの間と考えています」
「火曜日なら」
詩乃は戸崎へ顔を向けた。
「父、警察にいたんですよね」
「いました」
戸崎が答えた。
「出てないんですよね」
「外には出ていません」
詩乃が紙を二つ折りにしかけた。途中で止め、広げた。
「もう一人、います」
成瀬の言葉に、詩乃は顔を上げなかった。
「遠山隆一さんも、昨夜、店で亡くなりました」
ペンが机から落ちた。戸崎が拾おうと腰を浮かせ、支援担当者に、こちらで、と止められた。
詩乃は何も言わない。さっき書いた紙の端を指で押さえていた。
「店、どうするんですか」
「御家族と確認しています」
「物、いっぱいあるんです。名前、袋にしか書いてないのもあるから。袋と別にしちゃうと、誰のか」
成瀬は頷いた。遠山の棚を思い出した。青い丸の紙袋は、そのまま残してある。
「伝えます」
「あと、ペダル。私が借りてるの」
「返さなくていいと、おっしゃっていました」
成瀬が伝えると、詩乃は顔を上げた。
「新しいのを買えたと真知さんから聞いて、それなら、もうそれを使えばいいと」
「でも、私のじゃないから」
詩乃は机の向こうを見ていた。
「うちに、あります。二つ。古い方も、まだ使えるんです」
「御家族にも、伝えましょうか」
「はい。捨ててないって、言ってください」
成瀬は預かっている物の欄へ書き足した。詩乃はその字を見てから、頷いた。
詩乃は返してもらったペンを握った。その手のまま、鍋、と言った。
「真知さん、鍋、使いましたか」
戸崎が動いた。
「大きいやつです。弟にもらったの。あんなので何作れっていうんだって、ずっと」
「悟さんですね」
成瀬が確かめると、詩乃は頷いた。
「一緒に御飯食べた時も、その話して。真知さんがおかわり入れようとしたら、悟さんが自分の茶碗出したんです。俺のなくなるって」
詩乃が少し笑った。
「じゃあもう一回炊くって。本当に立つから。二人で、もういいって」
笑いながら、息が足りなくなったように口を開いた。支援担当者がそばへ寄り、休みましょうか、と言った。
成瀬は開いていない資料を鞄へ戻した。
廊下で、戸崎が壁へ背をつけた。
「鍋、使ってなかった」
声は成瀬へ届くぎりぎりの大きさだった。
「箱に入ってましたね」
「言ったらよかったですか」
成瀬は面談室の扉を見た。
「分かりません」
戸崎が壁から背を離した。
「昨日、俺」
顔を向けると、彼は面談室を見ていた。中で椅子を動かす音がする。
「いや。先に、今日の話を」
成瀬は持っていた資料の角を揃えた。昨夜、戸崎が地図を押さえていた手を思い出した。自分も、残れませんでした、と言った。その先は何も出てこなかった。
扉が開くまで、二人ともその場を離れなかった。
戻ると、着替えの紙が裏返されていた。
「小暮さんは、いますか」
詩乃が先に訊いた。
「連絡は取れています。警戒もしています」
「じゃあ、小暮さんへは電話しない方がいいですか。私から来たら、嫌かもしれない」
「それは、まだ聞いていません」
成瀬は椅子へ座った。
「仕事をどうするかの話なら、間に入ることもできます」
「父も、そう言います」
成瀬は返事を止めた。詩乃は紙を表へ戻し、続けた。
「すみません。でも、誰に何を言ってもらったか、私、分からなくなるので。今日じゃなくていいです。自分で話したいです」
成瀬は、今日訊かなければならないと思っていた項目を、一つ後ろへ回した。
「分かりました。場所だけ、先に確かめてもいいですか。小暮さんの店とは別に、仕事をしていた場所」
詩乃が戸崎を見た。
「小暮さん、言いました?」
「伝票から、倉庫が出ました」
「黙っててって、私が頼んだんです」
語尾が急に強くなった。
「店を見られたら追われるから。父の知り合いが来るようになって。それで、小暮さんが、前に使ってたところを」
「今、こちらで場所を確認してもいいですか」
詩乃はすぐには答えず、支援担当者を見た。その人が待っているのを見てから、いいですと言った。
最後に小暮と会ったのは八月十一日。春の終わりではなかった。倉庫へ仕事の物を取りに行き、小暮もいた。警察へ場所を知らせないよう頼んだのは、その日以前からだった。
成瀬が確認した文を読み返すと、詩乃は一か所だけ直した。
「警察も、父に伝えると思ってたんです。警察に見つけてほしくない、じゃなくて」
「直します」
小暮に渡した青い鳥の見本について訊くと、今度は詩乃の方から質問が返った。
「売れてるんですか。別の人が作ったの」
「調べているところです」
「見せてもらっただけ、なんですか」
「いいえ。製作された品があると聞いています」
成瀬は言い直した。
「私にも現物、見せてください。写真じゃ、袋の内側が見えないので」
「用意します」
詩乃はその返事だけ確かめるように頷いた。
支援担当者と残りの時間を確かめ、成瀬は相談相手のことを訊いた。家を出てから、仕事や住所の相談をしていた人。真知以外に、生活のことをまとめて知る人がいたか。
「顔を知らない人なら」
詩乃は着替えの紙の端を折った。
「匿名の掲示板です。家を出た時、何からやればいいか分からなくて。書いたら返事をくれて」
「どんな返事でした」
「寝てくださいって。パスワードだけ変えたら、今日は寝てくださいって」
詩乃は折り目を指でなぞった。
「十個も言われたら、何もできなかったです。だから、変えたって次の日に書きました。よかった、って来て。それだけだったんです」
「そのあとも?」
「返事、来ました。仕事の値段も。その人が、ほどくのと縫うのは別の作業だから、別に数えていいって」
成瀬は遠山の言った紙を思い出した。詩乃は自分で単価を上げた。その前に、見知らぬ相手と相談していた。
「嫌になったことは、なかったですか」
尋ねると、詩乃が折っていた紙を戻した。
「嫌だったって、思わないと駄目ですか」
「いいえ。聞き方が悪かったです」
「助かったんです。本当に」
成瀬はペンを置いた。詩乃が自分で話すのを待った。
「真知さんに、また泊まりにおいでって言われた話をしたら、二回目からは断りにくくなるって。それも、そうかなと思ったんです。泊まりませんって書きました」
「ええ」
「でも御飯は行ったんです。それ書いたら、断ったんじゃなかったですかって。泊まるのを断ったって返したら、今度は、何時に帰りましたかって。次も行くって約束してませんかって」
戸崎は膝に載せた手帳を開いていなかった。
「御飯の時の話、全部思い出そうとして。私、何か約束したかなって。悟さんがいたのは年明けで、その時には……」
詩乃は首を振った。
「すみません。何の話でしたっけ」
「その相手への返事です」
「行くって決めたのは私ですって。それを書いたら、来なくなりました。返事が」
「それきり?」
「次の日に来ました。普通に、仕事の返事。私の方では、変な言い方してごめんなさいって、下書きしてたんです。でも送らなかった。来たので」
成瀬は机の空いたところへ、確認したい記録の範囲を書いた紙を置いた。詩乃は読み、スマートフォンには消さずに残していると答えた。
作業場で撮った写真も送っていた。宣伝に使って大丈夫か、父に場所が分からないか。夏には、仕事も父も用事の返事も多くて疲れたと書いた。相手は、必要なら迎えに行く、と返した。
「会ったことは?」
「ありません。名前も、声も知りません」
「悟さんとも、その後は連絡を?」
「番号、知らないです。年明けに食べて、春に玄関で会っただけなので」
成瀬は二つを別々に記した。
「工場で、送ろうとした文も、その相談相手ですか」
詩乃が頷いた。
「父と工場にいる。出られないかもしれない。書いて消しました」
「真知さんには、書かなかった」
「来ちゃうから」
すぐに返った。
「あの人なら、私のいる場所を知らないと思ったから」
成瀬の携帯が鞄の中で震えた。誰も手を伸ばさなかった。
面談を終え、成瀬が鞄を持ち上げると、根元の毛羽立ちへ詩乃が目を向けた。
「まだ直してないんですね」
「ええ」
「遠山さんなら」
詩乃はその先を言わなかった。
「昨日、私にも言われました。直すなら、先に中身を出してって。警察だと名乗る前に」
成瀬が言うと、詩乃は短く息を吐いた。
「見ますよね、そこ」
「ええ」
成瀬は鞄を少し持ち上げた。詩乃も根元のほつれを見て、手を膝へ戻した。
「着替えの紙、お願いします」
詩乃が支援担当者へ渡した。成瀬はその手が離れるのを見届けて、鞄を底から抱えた。