迎えのない朝

最新版第十改稿版版を確認する →

CHAPTER 14 / 28

第十三章 紺の半袖

詩乃は、持ってきてほしい物を紙に書いていた。

 借りていた部屋の住所。下段の引出しにある紺の半袖。黒いズボン。机の上の、紙に包んだ袖。

 最後の行だけ、あとから小さく足されている。

「袖?」

 成瀬が訊くと、詩乃は自分の腕の上で長さを示した。

「外したんです。ほどく途中だったので。丸めたのもあるけど、そっちは要らないです」

「分かるように、書き加えてもいいですか」

「私が書きます」

 成瀬は渡されかけた紙を返した。詩乃はペン先をなめらかに動かし、紙包み、と括弧で囲んだ。面談室で見た中では、いちばん迷いのない字だった。

 金曜日の午後だった。医療機関の職員と支援担当者が、同じ机に座っていた。

「あと、仕事先に電話したいです」

「今、連絡したいところがありますか」

 支援担当者が訊いた。

「待っててもらってるか、もう別の人に頼んだか。私、休んでるって、自分では言ってないので」

 成瀬は持ってきた書類を開かなかった。今日伝えることを知れば、詩乃の用事は変わる。先に話してもらうべきだと分かっていても、そのまま聞いていることが、何かを隠す時間に思えた。

「詩乃さん」

 自分の声が少し硬い。

「今日は、お伝えしなければならないことがあります」

 詩乃のペンが止まった。

「父のことですか」

「川瀬真知さんのことです」

 戸崎が隣で手帳を置いた。成瀬は詩乃の顔を見たまま、亡くなったことを伝えた。

「火曜日の夜から、水曜日の早朝までの間と考えています」

「火曜日なら」

 詩乃は戸崎へ顔を向けた。

「父、警察にいたんですよね」

「いました」

 戸崎が答えた。

「出てないんですよね」

「外には出ていません」

 詩乃が紙を二つ折りにしかけた。途中で止め、広げた。

「もう一人、います」

 成瀬の言葉に、詩乃は顔を上げなかった。

「遠山隆一さんも、昨夜、店で亡くなりました」

 ペンが机から落ちた。戸崎が拾おうと腰を浮かせ、支援担当者に、こちらで、と止められた。

 詩乃は何も言わない。さっき書いた紙の端を指で押さえていた。

「店、どうするんですか」

「御家族と確認しています」

「物、いっぱいあるんです。名前、袋にしか書いてないのもあるから。袋と別にしちゃうと、誰のか」

 成瀬は頷いた。遠山の棚を思い出した。青い丸の紙袋は、そのまま残してある。

「伝えます」

「あと、ペダル。私が借りてるの」

「返さなくていいと、おっしゃっていました」

 成瀬が伝えると、詩乃は顔を上げた。

「新しいのを買えたと真知さんから聞いて、それなら、もうそれを使えばいいと」

「でも、私のじゃないから」

 詩乃は机の向こうを見ていた。

「うちに、あります。二つ。古い方も、まだ使えるんです」

「御家族にも、伝えましょうか」

「はい。捨ててないって、言ってください」

 成瀬は預かっている物の欄へ書き足した。詩乃はその字を見てから、頷いた。

 詩乃は返してもらったペンを握った。その手のまま、鍋、と言った。

「真知さん、鍋、使いましたか」

 戸崎が動いた。

「大きいやつです。弟にもらったの。あんなので何作れっていうんだって、ずっと」

「悟さんですね」

 成瀬が確かめると、詩乃は頷いた。

「一緒に御飯食べた時も、その話して。真知さんがおかわり入れようとしたら、悟さんが自分の茶碗出したんです。俺のなくなるって」

 詩乃が少し笑った。

「じゃあもう一回炊くって。本当に立つから。二人で、もういいって」

 笑いながら、息が足りなくなったように口を開いた。支援担当者がそばへ寄り、休みましょうか、と言った。

 成瀬は開いていない資料を鞄へ戻した。

 廊下で、戸崎が壁へ背をつけた。

「鍋、使ってなかった」

 声は成瀬へ届くぎりぎりの大きさだった。

「箱に入ってましたね」

「言ったらよかったですか」

 成瀬は面談室の扉を見た。

「分かりません」

 戸崎が壁から背を離した。

「昨日、俺」

 顔を向けると、彼は面談室を見ていた。中で椅子を動かす音がする。

「いや。先に、今日の話を」

 成瀬は持っていた資料の角を揃えた。昨夜、戸崎が地図を押さえていた手を思い出した。自分も、残れませんでした、と言った。その先は何も出てこなかった。

 扉が開くまで、二人ともその場を離れなかった。

 戻ると、着替えの紙が裏返されていた。

「小暮さんは、いますか」

 詩乃が先に訊いた。

「連絡は取れています。警戒もしています」

「じゃあ、小暮さんへは電話しない方がいいですか。私から来たら、嫌かもしれない」

「それは、まだ聞いていません」

 成瀬は椅子へ座った。

「仕事をどうするかの話なら、間に入ることもできます」

「父も、そう言います」

 成瀬は返事を止めた。詩乃は紙を表へ戻し、続けた。

「すみません。でも、誰に何を言ってもらったか、私、分からなくなるので。今日じゃなくていいです。自分で話したいです」

 成瀬は、今日訊かなければならないと思っていた項目を、一つ後ろへ回した。

「分かりました。場所だけ、先に確かめてもいいですか。小暮さんの店とは別に、仕事をしていた場所」

 詩乃が戸崎を見た。

「小暮さん、言いました?」

「伝票から、倉庫が出ました」

「黙っててって、私が頼んだんです」

 語尾が急に強くなった。

「店を見られたら追われるから。父の知り合いが来るようになって。それで、小暮さんが、前に使ってたところを」

「今、こちらで場所を確認してもいいですか」

 詩乃はすぐには答えず、支援担当者を見た。その人が待っているのを見てから、いいですと言った。

 最後に小暮と会ったのは八月十一日。春の終わりではなかった。倉庫へ仕事の物を取りに行き、小暮もいた。警察へ場所を知らせないよう頼んだのは、その日以前からだった。

 成瀬が確認した文を読み返すと、詩乃は一か所だけ直した。

「警察も、父に伝えると思ってたんです。警察に見つけてほしくない、じゃなくて」

「直します」

 小暮に渡した青い鳥の見本について訊くと、今度は詩乃の方から質問が返った。

「売れてるんですか。別の人が作ったの」

「調べているところです」

「見せてもらっただけ、なんですか」

「いいえ。製作された品があると聞いています」

 成瀬は言い直した。

「私にも現物、見せてください。写真じゃ、袋の内側が見えないので」

「用意します」

 詩乃はその返事だけ確かめるように頷いた。

 支援担当者と残りの時間を確かめ、成瀬は相談相手のことを訊いた。家を出てから、仕事や住所の相談をしていた人。真知以外に、生活のことをまとめて知る人がいたか。

「顔を知らない人なら」

 詩乃は着替えの紙の端を折った。

「匿名の掲示板です。家を出た時、何からやればいいか分からなくて。書いたら返事をくれて」

「どんな返事でした」

「寝てくださいって。パスワードだけ変えたら、今日は寝てくださいって」

 詩乃は折り目を指でなぞった。

「十個も言われたら、何もできなかったです。だから、変えたって次の日に書きました。よかった、って来て。それだけだったんです」

「そのあとも?」

「返事、来ました。仕事の値段も。その人が、ほどくのと縫うのは別の作業だから、別に数えていいって」

 成瀬は遠山の言った紙を思い出した。詩乃は自分で単価を上げた。その前に、見知らぬ相手と相談していた。

「嫌になったことは、なかったですか」

 尋ねると、詩乃が折っていた紙を戻した。

「嫌だったって、思わないと駄目ですか」

「いいえ。聞き方が悪かったです」

「助かったんです。本当に」

 成瀬はペンを置いた。詩乃が自分で話すのを待った。

「真知さんに、また泊まりにおいでって言われた話をしたら、二回目からは断りにくくなるって。それも、そうかなと思ったんです。泊まりませんって書きました」

「ええ」

「でも御飯は行ったんです。それ書いたら、断ったんじゃなかったですかって。泊まるのを断ったって返したら、今度は、何時に帰りましたかって。次も行くって約束してませんかって」

 戸崎は膝に載せた手帳を開いていなかった。

「御飯の時の話、全部思い出そうとして。私、何か約束したかなって。悟さんがいたのは年明けで、その時には……」

 詩乃は首を振った。

「すみません。何の話でしたっけ」

「その相手への返事です」

「行くって決めたのは私ですって。それを書いたら、来なくなりました。返事が」

「それきり?」

「次の日に来ました。普通に、仕事の返事。私の方では、変な言い方してごめんなさいって、下書きしてたんです。でも送らなかった。来たので」

 成瀬は机の空いたところへ、確認したい記録の範囲を書いた紙を置いた。詩乃は読み、スマートフォンには消さずに残していると答えた。

 作業場で撮った写真も送っていた。宣伝に使って大丈夫か、父に場所が分からないか。夏には、仕事も父も用事の返事も多くて疲れたと書いた。相手は、必要なら迎えに行く、と返した。

「会ったことは?」

「ありません。名前も、声も知りません」

「悟さんとも、その後は連絡を?」

「番号、知らないです。年明けに食べて、春に玄関で会っただけなので」

 成瀬は二つを別々に記した。

「工場で、送ろうとした文も、その相談相手ですか」

 詩乃が頷いた。

「父と工場にいる。出られないかもしれない。書いて消しました」

「真知さんには、書かなかった」

「来ちゃうから」

 すぐに返った。

「あの人なら、私のいる場所を知らないと思ったから」

 成瀬の携帯が鞄の中で震えた。誰も手を伸ばさなかった。

 面談を終え、成瀬が鞄を持ち上げると、根元の毛羽立ちへ詩乃が目を向けた。

「まだ直してないんですね」

「ええ」

「遠山さんなら」

 詩乃はその先を言わなかった。

「昨日、私にも言われました。直すなら、先に中身を出してって。警察だと名乗る前に」

 成瀬が言うと、詩乃は短く息を吐いた。

「見ますよね、そこ」

「ええ」

 成瀬は鞄を少し持ち上げた。詩乃も根元のほつれを見て、手を膝へ戻した。

「着替えの紙、お願いします」

 詩乃が支援担当者へ渡した。成瀬はその手が離れるのを見届けて、鞄を底から抱えた。

読んだ位置は、このブラウザに自動で保存されます。

目次

迎えのない朝

  1. 01序章
  2. 02屋根のない駅
  3. 03名前を知っている
  4. 04撮影室
  5. 05今日の配達
  6. 06冬を越した箱
  7. 07店を開ける人
  8. 08鍵を渡すまで
  9. 09部屋へ戻る服
  10. 10使わない鍋
  11. 11二人目
  12. 12青い丸
  13. 13三つの現場
  14. 14紺の半袖読書中
  15. 15片方の補助輪
  16. 16店の中
  17. 17返す服
  18. 18店じまい
  19. 19積込口
  20. 20一人分
  21. 21手を貸す
  22. 22言い分
  23. 23返す日
  24. 24丸を消す
  25. 25迎えに来る人
  26. 26あと一歩
  27. 27向かいの席
  28. 28終章 迎えのない朝

読みやすく整える

文字の大きさ
背景の色

設定と読んだ位置はこのブラウザだけに保存されます。別の端末には同期されません。