救急車の扉が、まだ開いていた。
戸崎は車を下り、先着した警察官に案内されて旧棟へ回った。新しい棟では荷下ろしが続いている。後退するトラックの音が、壁に当たって何度も返った。
事務室の前に警備員が座っていた。額のガーゼを自分で押さえ、固定された左腕を見ている。
「少しだけ、伺えますか」
戸崎が救急隊員へ声を掛けると、短く、と返された。
しゃがんで名乗った時、警備員が先に言った。
「あの人、呼んだんですか」
「誰が、誰を?」
「警察。呼ぶって言ったから」
戸崎は隣の警察官を見た。通報は匿名だったと聞いている。目の前の男が電話したのではなかった。
「最初から聞かせてください。何時ごろ、人が来ました」
「九時前だと。巡回、九時までに戻るつもりだったので」
「時計を見た時刻では、ないんですね」
男が頷いた。戸崎は時刻の欄を空けた。
作業着の男だった。反射材が光り、帽子を被っていた。旧棟の四番の奥で荷物が崩れ、下に人がいるかもしれないと言った。
「手、貸してくれって。そういう言い方でした」
「一緒に行った」
「行きますよ」
警備員が戸崎を見た。
「人かもしれないって言われたら。見ないでいいかどうか、俺、ここから分からないんで」
戸崎は、何をしに行った、と書きかけて、その下へ続けた。人かもしれない、矢印、行く。警備員の靴は踵が潰れていた。休憩中に履き直す間もなく出たのだろうと考え、決めずに訊くと、そうだと返ってきた。
奥には何も崩れていなかった。振り返ったところから記憶が曖昧で、次に分かった時には床にいた。落ちた無線へ手を出すと、踏まれた。
男は固定された腕を身体へ寄せようとした。救急隊員が支え、動かさないよう声を掛けた。
「救急車って、言ったんです」
警備員はガーゼを持つ手で目元も隠した。
「そしたら、人を呼ぶから待っててって。動くなって」
「殴った相手が」
「はい」
戸崎はペン先を紙から離した。
「その人、慌ててました?」
「急いでる感じは。でも、普通でした。最初から、普通に言うんです。だから、俺」
その先は聞かなかった。救急隊員が搬送すると告げ、二人で警備員を支えた。
戸崎は立ち上がりながら、最後に通報したのが本人でないことを確かめた。
「目が開いたら、警察の人がいたので。呼んだんだなって」
警備員はそう答えた。
戸崎は何も返せなかった。待てと言った相手を、この人は床でも待っていた。
事務室の床には、灰色の作業手袋が二枚置かれていた。
人の手がない分だけ、糸の渡り方がよく見えた。左右の小指を、一本が繋いでいる。
小暮の上着では、布の袖口全体が寄っていた。戸崎はその写真を出すことはせず、現場の記録係へ、手袋の位置から残してほしいと頼んだ。
成瀬は道路側の入口へ回っていた。新棟の作業員と旧棟へ来た者を分け、出入りの確認を始めている。電話を掛けると、重機の音に混じって返事が来た。
「警備員さん、人が下敷きかもしれないって呼ばれてます」
『言葉も、本人が覚えていましたか』
「手を貸してくれ、だったと。もう搬送します。あとで取り直せるところは、病院で」
『分かりました』
戸崎は手袋へ目を戻した。
「小暮さんを、ここへ呼ぶためじゃないですね」
『行き先も漏れていません。ここへ来る理由は、今のところありません』
「俺らを呼んだ」
言ってから、自分の言い切り方に気づいた。
「それも、まだですか」
『私は、通報の記録を聞けていません』
成瀬の返事は低かった。
『海側を確認してもらえますか。現場指揮からも、四番側を頼まれています。誰かと一緒に』
「二人います。行きます」
戸崎はそばの警察官たちへ声を掛けた。一人は警備会社の責任者を待ち、もう一人と積込口へ向かった。
旧棟の照明はところどころ消えていた。白線を辿ると、海風の通る外へ出る。雨の残る窪みが、靴の下で浅く鳴った。
海側の積込口には、二番、三番、四番と番号が残っていた。四番の横を回ると、道路側から入った車も通れる構内路に繋がる。戸崎はその先へライトを向けた。
遠くで短くクラクションが鳴った。
二十一時四十三分、白いワンボックスが道路側の案内灯を通り過ぎた。
出ていくトラックとすれ違い、旧棟へ向きを変える。警察官が誘導灯を振り、車を止めた。
「そちらは閉鎖しています。ここで待ってください」
運転席の窓が下りた。
「四番は、こっちですか」
その声に戸崎は振り向いた。北原工業の名が車体にあり、窓の中には仁がいた。
「北原さん」
声を掛けると、仁の顔が変わった。
「何で、警察が」
「どうしてここへ来たんですか」
戸崎は車の横へ近づいた。仁は前を見ていた。四番の照明、その奥の赤色灯。
「詩乃は」
「ここには、いません」
「まだ来てないだけです」
戸崎の足が止まった。
「会う約束をしたんですか」
「本人が、話すって」
「本人から連絡が?」
「そう言ってるって、来たんです」
仁の右手はハンドルを握ったままだった。戸崎は窓枠へ手を置き、声を落とした。
「エンジンを切ってください。連絡を見せてください」
「先に詩乃と会います」
「詩乃さんは、ここにいません」
「あなたに、何で分かるんですか。俺にも言わないのに」
誘導灯を持つ警察官が運転席側へ来た。戸崎は仁の手を見ていた。エンジンを切らない。
「北原さん、一度降りましょう」
「また連れていくんですか」
「話を確かめたいんです」
「詩乃は、自分で決めたって。今度は自分でって」
仁はギアへ手を動かした。
「触らないでください」
警察官の声が強くなった。
「誰から来たんです」
戸崎も声を張った。
「警察がいたら帰るって、書いてあったんですよ!」
車が動いた。
戸崎は窓から手を引き、声を上げた。前方の警察官が退き、誘導灯が大きく横へ振れた。仁は四番へ向けてハンドルを切った。
「止まれ!」
一度、速度が落ちた。止まる、と戸崎は思った。
次の瞬間、エンジン音が高くなった。
濡れた白線を踏んで車の鼻先が外へ向く。積込口から出てきた警察官が、前へ回るように誘導灯を上げた。退く足と進む車の向きが重なった。
「下がれ!」
戸崎は腕を伸ばした。声だけでは届かないと思ったのか、思わなかったのか。肩を掴み、横へ押した。
硬いものが左の腰の下へ当たった。
足をつこうとして、つけなかった。目の前にコンクリートの縁が来た。腕より早かった。
息が出たまま、吸えなくなった。
赤い棒が地面に落ちている。誰かの靴がそれを跨いだ。仁の声が、遠い。
「詩乃はどこだ」
まだ、それを言っている。
戸崎は身体を起こそうとした。痛みが遅れて来て、目の奥が白くなった。
「動かないでください」
肩を押さえる手があった。別の手が、無線を持っている。
「怪我、は」
「俺は大丈夫です。戸崎さん、動かないで」
誰の手か確かめるために首を回すこともできなかった。大丈夫なら、よかった。それだけを口にしようとして、空気が喉で止まった。
成瀬が四番へ着いた時、誘導灯が一本、積込口の脇へ置かれていた。
救急車は出たあとだった。二台目だったのだと、説明されてから分かった。警備員を乗せた救急車のことばかり考えていた。
「意識は、ありました」
警察官が言った。
「左脚と、骨盤の周辺。腹部も確認すると」
「搬送先を」
成瀬は番号を控えた。ペンの先が一度滑り、最後の数字を書き直した。
北原仁は、その場で逮捕されていた。停止を求める警察官の前で車を進め、戸崎を負傷させた。車両は動かさず、運転席周辺も保全していた。
別の車の後席に仁が見えた。成瀬が近づくと、彼は内側から顔を向けた。
「知らなかったんです」
「何を」
「警察がいると。詩乃と、会うだけで」
成瀬は窓の手前で止まった。
「誰から連絡が来ました」
「知らない人です。でも、前にも当たったから」
成瀬は手帳を開いた。土曜日には、その後の連絡はない、と答えていた。
「今日の文は、残っていますね」
「携帯に。もう持っていったでしょう」
そばの捜査員が、端末を確保していると答えた。成瀬はその人へ確認の項目を伝えた。
「先生、呼んでください」
仁が言った。
「瀬尾先生には、来ることを話しましたか」
「話してません」
「警察にも」
「言ったら会えなくなるんですよ。書いてあったんです」
仁は前のシートへ目を向けた。
「本人が決めたって。自分で話すって」
成瀬はその二つを書いた。字が細くなり、もう一度なぞりかけてやめた。
戸崎へ電話で何と言ったかは、一語ずつ覚えていた。海側へ。誰かと一緒に。二人いる、と返ってきた。足りない確認があったのなら、どこだったのだろう。
広瀬から電話が来た。今いる場所を答えると、本部へ戻れと命じられた。成瀬は現場の引継ぎをしてから車へ乗った。
助手席には図面が開いたまま残っていた。四番を戸崎が指したところに、爪でついた浅い線があった。
零時を過ぎて、車内の物の一覧が届いた。
手袋。会社の書類。懐中電灯。小封筒。
封筒は運転席脇の収納に入っていた。口は閉じられ、表に宛名はない。成瀬は手続の確認を担当へ頼み、画面を拡大したまま待った。
「戸崎は」
広瀬が隣へ来た。
「手術に入りました」
「何時に」
「連絡は、十分前です」
広瀬が時計を見た。二人とも、封筒の写真へ目を戻した。
現場班が、戸崎の携帯を持ち帰った。倒れた場所に落ちていたという。成瀬が預かろうと手を出すと着信が鳴り、応答すると、昼に頼まれた映像の用意ができたという連絡だった。
「明朝、伺います」
時間を決めて書いた。相手が、戸崎さんによろしくと言った。
「はい」
成瀬は電話を置いた。空いた椅子へ上着を掛けかけ、手に持ったまま立っていた。