小暮智久は、警察手帳を見ると、客の前ではやめてくれと言った。
土曜日の午前十一時。古着店の試着室から、裾を折ったズボンを抱える客が出てきた。小暮はその客へ返事をしながら、戸崎たちを外へ押し戻しかけた。
「何時なら」
「今って言うんでしょ。分かってます」
小暮は客に、少しだけ、と告げた。客は時計を見て、今日は帰ると言った。
「丈はそれで決まり?」
「家でまた履いてみる」
「じゃ、まだ切らないよ」
客が出ると、小暮は入口の札を準備中へ返した。三十五歳。後ろで結んだ髪が、首筋に張りついていた。
「北原さんの用で来たんじゃないんですよね」
「宇津木健さんの事件について、伺っています」
成瀬が答えた。
「それと、北原詩乃さんのお仕事について」
「ほら、結局」
小暮は奥へ歩いた。椅子には服が積んである。戸崎が立ったままでいいと言うと、それなら助かる、と服をどけなかった。
仕事机には裁ちかけの布と、ほどいた裏地が広がっていた。棚の糸は色ごとに並び、黒だけ同じ銘柄が三本ある。下に丸めた上着には反射材がついていた。
「仕入れに着ていくんです。車が出入りする所だから」
戸崎の視線を見て、小暮が言った。
「この黒、よく使うんですね」
「丈夫だから。何に使ったかまで全部覚えてませんよ」
「詩乃さんへ渡す材料も、ここから?」
「仕事の分は。本人が持ってるのもあります」
小暮は黒い糸を持ち上げず、隣の箱を閉めた。戸崎は棚全体を見た。糸のある店へ来るのが当然なのに、あの朝見た黒い線が先に浮かんだ。
詩乃とは前年春から取引があった。古着の繕い、小物の縫製。店員ではなく、品物を納める人だった。
「御本人と、交際をされていた?」
戸崎が訊くと、小暮が顔を上げた。
「してない」
「仕事以外にも会っていたか、確認です」
「飯食わせたか、泊めたか。その順で来る? 父親も同じでしたよ」
「お父さんが何度も?」
「本人も知り合いも。冬じゅう。あの人、俺の店を待合所だと思ってるんです。誰か来たら一緒に顔見て」
小暮は入口を振り返った。ガラスの向こうで、男が準備中の札を覗いて通り過ぎた。
「娘が連絡を寄こさないって、俺に言うんですよ。俺が電話線切ったんですか」
戸崎は昨日の仁の部屋を思い出した。冷たい茶、洗ったコート。そこへ小暮の声を持っていくと、収まりが悪かった。
「詩乃さんの住所を知っていたら、お父さんに渡すと思っていますか」
成瀬が訊いた。
「違うんですか」
「御本人の安全と意思を先に確認します。そのままお渡しはしません」
小暮はすぐには返事をしなかった。机の服を少し脇へ寄せ、引出しを開けた。
「それ、先に言ってくださいよ」
納品書が出てきた。去年と今年で、単価が変わっていた。
「上げたんですね」
「上げろって言われたから」
一月の紙には、〈次回からこの金額でお願いします〉と書いてある。
「本人から?」
「この字、俺じゃないでしょう」
「その前に、誰かが間に入ったりは」
小暮は紙を押さえた。戸崎が引こうとしても動かない。
「誰ならいいんです?」
「そういう意味では」
「父親は、俺が変な知恵つけたって。値段上げてって言われたの俺なんですけど。本人が書いてきたって、今、見せてるでしょう」
戸崎は紙から手を離した。
「写させてもらえますか」
小暮が指をどけた。成瀬は、始めた月と単価の変わった月を別々に書いた。
作業机の隅に、青い鳥を縫った巾着があった。戸崎が訊くと、小暮は手に取って裏返した。内側は縫い代まで細かく処理され、店の屋号の札がついている。
「本人の見本です。裏までほどいて見せるんですよ。そこまで誰も見ないって言ったら、私が見るからって」
小暮は少し笑った。
「頼む方は、ありがたいです。遅いけど」
「今も同じように、仕事を?」
笑いが消えた。
「八月から、休んでます」
十六日の夜、〈家のことで、しばらく休みます〉と来た。二十日ごろに〈体調は大丈夫〉と一度返事があり、それから連絡はない。最後に直接会ったのは春の終わり。以降、品物は送られることが多かったという。
成瀬が休業の文を読んだ。
「どちらの家かは、訊きましたか」
「訊いたけど、そこは返ってこなかった」
「返信を拝見しても?」
小暮は携帯を出した。画面を見せながら、自分が送ったそのあとの文まで指で送った。〈急ぎの分だけどうする〉。〈無理なら別の人に振る〉。〈体だけ返事して〉。
「最後のは、仕事の返事じゃなくて、安否ですよ」
「はい」
成瀬はそのまま記録した。
宇津木の名は詩乃から聞いたが、直接会った記憶はない、と小暮は言った。九月二日の夜は隣県の業者向け倉庫へ仕入れに行った。十八時すぎまでそこにおり、二十時四十分すぎに自宅近くのコンビニで買物をした。
「間、空いてるでしょう。高速なら、戻れますよ」
小暮はレシートを二枚探した。
「そっちが言う前に俺が言うと、怪しいんですか」
「いつ戻ったか、確認します」
成瀬が答えた。小暮は二枚とも渡した。
春までの差出人住所が残る封筒も出てきた。今どこに住み、どこで働いているのかは知らないという。戸崎は、それまで頼めていた仕事が止まった後の机を見た。ほどいた服が少しずつ残っている。
「見つかったら、仕事の話は自分でします」
小暮が言った。
「お父さんにも、警察にも代わりに言ってもらわなくていいです」
「分かりました」
戸崎が返すと、小暮は入口の札を取りに行った。外へ出た二人の後ろで、すぐ営業中になった。さっき通り過ぎた客は、戻らなかった。
午後、仕入れ先から小暮が出たのは十八時十一分だったと分かった。コンビニの決済は二十時四十三分。その間の行動を探す班が、使用車両と反射材の上着について追加の確認を進めた。
仁のバンの経路もつながり始めていた。写真館から駅へ、弁当店から工場へ。戸崎が一覧を読みかけた時、広瀬が室内へ入ってきた。
「現場の写真が出た」
端末が机へ置かれた。
男は椅子に座っていた。宮下が肩へ触れる前の姿だった。画像の上と右が切られ、両手の間に黒いものが見える。投稿には〈黒い糸で縫われた遺体〉と添えてあった。
「最初の投稿はもう消えてる。転載をたどれ。宮下の会社へも確認」
戸崎は宮下の番号を開いた。仕事に入れないと会社へ連絡した、と言っていた。画像を送ったとは聞いていない。
成瀬が流出写真を拡大した。
「小指の一本は、これでは見えません」
「そこは引き続き伏せる」
広瀬が言った。誰かが受話器を取り、隣の電話も鳴った。
宮下へ掛ける直前、恵から着信が来た。
『玄関に、人が二人。会社の名前で調べたって』
「開けなくて大丈夫です。今、どちらにいますか」
『台所。水を出したら、いるって分かりますよね』
戸崎は紙へ住所を書き、そばの警察官に渡した。恵の声は小さかった。
『私、顔が出てるのかだけ、聞きたくて』
答えを言う前に、戸崎は写真を閉じた。
内装会社の事務所で、宮下と杉本という社員が机を挟んで座っていた。携帯が二台、前へ出ている。
「俺が撮りました」
宮下が言った。
「寝てると思って。会社に、作業できないって。それを救急のあと消して、グループのも取り消しました」
「最初に、写真のことは話していませんでしたね」
成瀬が訊くと、宮下は膝を見た。
「怒られると思った。……いや、違う。死んでる人を撮ったって、言いたくなかった」
杉本が携帯を表へ返した。
「保存したのは俺です。応援会社へ送った。こっちだって人と車止めなきゃならないから。写真なら早いと思って」
その先の転送相手を、一人ずつ確認した。一人が翌日、地域の投稿アカウントへ載せていた。元の写真では小さかった人物を切り出し、説明を付けたのだという。
「取り消したら、ほかからも消えると思ってたんです」
杉本は元の画像を出した。壁の時計まで写っていた。五時五十一分。グループで受信したのは五時三十七分。
「撮ってから送るまで、どのくらい空きました?」
「すぐです。撮って、そのまま」
宮下が答えた。
成瀬は時計を指で隠さず、画像全体を見直した。
「前日の室内写真もありますか。工事前の」
杉本が履歴を遡った。別の社員が施工確認で撮った写真がある。送信は十六時十二分、時計は十六時二十六分だった。
「こっちも十四分」
戸崎が言うと、杉本は顔を上げた。
「そんなのまで見るんですか」
「人のいた時刻を調べています。こちらも、撮った方へ確認させてください」
成瀬は画像と記録の提供を頼んだ。杉本は頷き、連絡先を探した。
宮下が、奥さんに謝りに、と口を開いた。戸崎は、今はここで話してほしい、と言った。
「本人に、俺から」
「今、ご自宅で、蛇口もひねれずにいるんです」
言ってから戸崎は口を閉じた。二人とも携帯を見ていた。あの家のことをここで話す必要はなかった。
成瀬は取り消した時刻の確認へ戻った。宮下は答え、途中で一度、分からないと言い直した。
仁の部屋の玄関には、冬物の箱がなかった。
「約束しましたっけ」
チェーンを外しながら仁が言った。戸崎は昨日の冷茶を思い出し、今日は靴の話はないのだなと思った。
テーブルへ映像を置く。宇津木は十九時三分に着いた。仁の車は十九時七分に入り、三十一分に出た。
「二十四分、入口を見ていたんですか」
成瀬が訊いた。
「裏も回ったんです。時計見ながら歩いてませんから」
「宇津木さんと会いましたね」
戸崎が言うと、仁は茶碗へ伸ばした手を戻した。
「あの人が、勝手に来たんですよ」
その言葉を、成瀬が書いた。
「延期したのに。車があるから入ったんです。来たなら先に電話すれば済むでしょう」
「昨日は、会っていないと」
「私が呼んだことになったら、責任を取れと言われる。今もそういう聞き方でしょう」
戸崎は映像をどけなかった。
「詩乃さんのことを、聞きましたか」
「何を知ってるんです?」
「それを教えてください」
仁は眼鏡を押し上げた。
「荷物を運んだだけで、その後は知らないって。去年もそう言われて、今回も。そんなわけないでしょう。親にも黙って連れ出しておいて」
「口論に?」
「声が大きくなることは、ありますよ。答えないんだから」
仁は立った。用事がある、と言って戸口へ向かうが、二人が動かないので戻った。
「怒ったら、殺したことになるんですか」
「当日の服を見せてもらえますか」
成瀬の問いに、仁は自分の袖を見た。
「工場です。仕事着はそこで替えるので」
「今から伺えますか」
「片付いてないんです。日を決めてください」
「明日なら?」
「だから、こっちが連絡する。協力しないとは言ってません」
仁は茶を飲んだ。昨日からどこが変わったのかと思い、戸崎は自分がもう一度も頷いていないことに気づいた。
署へ戻ると、広瀬は工場へ入る仁のバンの画像を見ていた。弁当店のあとだった。
「会ったことと口論は認めました。服は工場。中を見るのは日を決める、と」
戸崎が報告すると、広瀬は空いている椅子を指した。
「当日の衣類。首を圧迫したもの。それと、消えた仕事用端末。工場の捜索を請求する。供述の変わった所、映像と並べて出せ」
戸崎は机へ向かった。成瀬があとから来て、弁当店の記録を横へ置いた。
「二つ、買っています」
「弁当?」
「飲物も二本。箸も二膳です」
戸崎は写真の仁を見た。一人で暮らしていると言った。工場へはほとんど行かないと言った。
携帯で元妻への文を打った。明日は行けない。送る前に、先に電話するべきか迷い、結局送った。
返事は短かった。
娘には自分で話して。
戸崎は携帯を伏せた。机の向こうで成瀬が同じ映像をもう一度開いた。仁の車が工場へ入る。二人はその先が暗くなるまで見た。