九月二十二日、戸崎は紙コップに手を伸ばしていた。
成瀬は戸口で足を止めた。枕の位置を変えれば届きそうだったが、彼は右肘をついたところでやめ、背中を戻した。二度目に手が上がった時、成瀬は入っていった。
「取ります」
「どうも。そこ、あと五センチが遠いんです」
飲み終えたコップを戻し、テーブルを寄せた。戸崎は空いた手を布団の上に置いた。
「仕事してます?」
「しています」
「だったらよかった。飯島さん、怒ってました?」
「小暮さんに。帳簿は見せてくれました」
「あの人の怒り方、電話でも分かりましたもんね」
成瀬が笑う前に、戸崎は顔をしかめた。腹を押さえる手を見て、椅子から腰が浮く。
「大丈夫。笑う方も、こっちの勝手なんで」
成瀬は座り直した。
知らせようと用意した話は幾つもあった。封筒の時刻、台車の写真、警備員の退院見込み。いずれも口を開けば、あの晩へ戻ってしまう。
「海側へ行くように言ったのは、私です」
戸崎がこちらを向いた。
「私が行っていれば」
「何が違いました?」
成瀬は口を閉じた。
「すみません。責めてるんじゃないです。ほんとに、何が違ったんだろうって」
戸崎は左脚を見た。
「俺が走ったんですよ。顔が見えたんで、引っぱれば間に合うと思った」
「でも、あそこへ――」
「あそこへ行かなかったらって、今、言わないでくれませんか」
声は小さかった。成瀬は膝へ両手を置いた。
「俺、戻るつもりでやってるんです。今日も歩く。昨日より先までって。あそこへ行かなきゃって言われると、何て返せばいいか」
戸崎はそこで息を吸い、片手を上げた。成瀬が立とうとするのを止める手だった。
「待って。今、脚が」
廊下から食器を重ねる音がした。成瀬は膝の上の手を見ていた。戸崎が息をつくまで、顔を上げられなかった。
「……すみません」
戸崎が言った。
「謝らないでください」
「それも、ちょっと」
成瀬は顔を上げた。
「言い方、悪かった。俺、あなたが来る前から、これ、取れなくて」
戸崎がコップへ目を向けた。テーブルを寄せたので、今は手の届くところにある。
「仕事の話は、できますか」
「二枚だけ。今日は」
手元に広げた資料を重ね直した。
選んで渡すうち、残りを全部置いていきたくなった。あとで見るでしょう、と言えば彼は受け取るだろう。成瀬は二枚だけをテーブルに残した。
帰り際、戸崎は右足の靴下を直そうとしていた。成瀬が声を掛けると、今度は頼まれた。踵へ布を戻し、引きすぎたところを緩めた。
「助かりました」
成瀬は礼に返事をした。
午後、施設で詩乃が差し出したのは、小暮への手紙だった。
「返してほしい物、これで分かりますか」
青い鳥の刺繍の見本を返してほしい。次に何を作るか考えられないので、今月中に。そのあとには、小暮の店へ初めて持っていった日のことが書かれていた。売物になると言われて嬉しかった。ほかの人が縫うと分かっていたら、渡さなかったかもしれない。
成瀬は読み終え、隣の紙を取った。
「型紙も、一緒にですか」
「型紙は持ってます。最初の巾着だけです」
「では、青い鳥の刺繍をした巾着一点。いつ渡したかも、分かれば」
「去年の春です。日にちは、今は」
「確かめてからで構いません。期限は九月三十日まで、と書くと、あとで読んでも分かります」
詩乃はメモを覗いた。
「今月中、じゃ駄目ですか」
「意味は同じです。返却先は、ここは書かない方がいいので、担当の方を窓口に」
支援担当者が頷き、自分の連絡先を伝えた。成瀬はそれを加えた。頼まれた物は分かった。相手に誤解されないように、もう少し。
「この、嬉しかったというところは、今も認めていると取られない方が」
「今は嬉しくないです」
「ええ。そこを、先に返却の件を書いたあとで――」
便箋が遠ざかった。
成瀬が顔を上げると、詩乃は二枚を重ね、角を揃えていた。
「何を直すんでしたっけ」
成瀬はペンを持ったまま止まった。
「分かるかって、聞いたんです」
「分かります。返してほしい物は」
詩乃は頷いたが、紙を戻さなかった。
「すみません。書き方まで、変えてしまいました」
成瀬の前には、自分で整えたメモだけが残った。詩乃は便箋を鞄へ入れた。
「今日は出さないです」
担当者が、宛先だけ別の紙にして渡した。詩乃はそれを受け取り、成瀬のメモも持ち帰ると言った。ただ、今は見ない、と付け足した。
次の約束は二十四日だった。成瀬は時刻を読み上げてから、書いた手帳を閉じた。
二十四日の面談で、手紙は支援担当者へ渡された。
封筒にはもう小暮の名前があった。宛先を確かめる間、詩乃はそこを指で押さえていた。
「戸崎さんに、会えますか」
連絡事項を終えると、詩乃が訊いた。
「具合を本人に聞きたいです。行ったら迷惑かもしれないですけど」
「聞いてみます」
「ありがとうございます」
成瀬は予定を書いた。出し終えた手紙が気になったが、何を書いたかは尋ねなかった。
病院と戸崎へ確認して、土曜日の午後が決まった。
二十六日、戸崎はベッドを起こして待っていた。
「さっきまで壁の染み見てたんで、助かります」
詩乃が入口から頭を下げると、戸崎は窓の横を指した。
「日本地図に見えません?」
詩乃は椅子へ座る前に、そちらを見た。
「見えないです」
「俺も最初は。五日目くらいから」
成瀬は付き添いの担当者に会釈し、戸を少し開けておいた。廊下で待つというので、出る時に声を掛けると伝えた。
「歩く練習してるって聞きました」
「ええ。今日、トイレの前まで行けたんです」
「よかったです」
「そこから戻ってくるのがね。行く分しか考えてなくて」
戸崎が成瀬を見る。彼女は椅子を寄せすぎていたので、少し離した。
詩乃は膝に置いた手を重ねた。
「真知さんに泊めてもらわなかったら、って、まだ考えます」
戸崎の顔から笑みが消えた。
「前、そういうことじゃないって言ってくれましたよね。覚えてます。でも、また」
「俺が言ったら、それで考えなくなるわけじゃないですよね」
「はい」
成瀬は窓の方を見た。染みの輪郭は、どこにも似ていなかった。詩乃はしばらく黙ったあと、戸崎へ寝られているかと尋ねた。彼は、朝が早すぎる、と答えた。眠れなかった夜に限って朝が早い。
戸崎が布団を動かし、枕の位置を頼んだ。成瀬は立って直した。椅子を退けた詩乃が、床に置かれた紺の手提げへ目を留めた。
「いつもの、黒いのは」
「持ち手が切れてしまって。家にあります」
「ああ、ついに」
戸崎が言った。成瀬は頷いた。
「いつ切れたんです」
「手術が終わった時に」
戸崎は彼女を見た。成瀬は、使いすぎました、と言おうとしてやめた。
「まだ使いたいんですけど、あそこまで切れると」
「付け根は残ってますか」
詩乃が訊いた。
成瀬は、垂れた持ち手しか覚えていないと答えた。詩乃は少し考え、見せてもらえれば分かるかもしれない、と言った。
「私が縫えるところなら、やってみたいです」
成瀬はすぐ返事ができなかった。詩乃は続きを言わずに待っている。成瀬は顔を上げ、お願いします、と答えた。
「直せそうなら、代金も教えてください」
「材料を見てからでもいいですか」
「はい」
戸崎はベッド脇のコップを取った。今日は届いた。成瀬が受け取ろうとした手を戻すと、彼は自分でテーブルへ置いた。
翌日、鞄の底を払うと十円玉が一枚出てきた。
成瀬は内ポケットを全部確かめ、袋へ入れて施設に届けた。詩乃は中を開き、両方の付け根を順に曲げた。
「片方だけ替えると、もう片方もすぐ切れそうです」
「両方、お願いします」
「中を少し開けてから、連絡します。教室のミシンも、借りられるか聞いてみます」
成瀬が、いつでもいいです、と言うと、詩乃は袋から顔を上げた。
「来月の初めに、一回見てもらえますか。色も、違うかもしれないので」
成瀬は手帳を出した。十月一日。時刻を二人で決めた。
支援担当者が小暮への手紙は届いたと伝えると、詩乃は礼を言い、返事はまだかと訊いた。
まだだった。
「三十日を過ぎたら、もう一回書きます」
詩乃は鞄を抱えて奥へ戻った。成瀬は玄関で、来る時と同じ紺の手提げを持った。中には仕事の資料が残っていた。次は小暮へ行く。