迎えのない朝

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CHAPTER 23 / 28

第二十二章 返す日

九月二十二日、戸崎は紙コップに手を伸ばしていた。

 成瀬は戸口で足を止めた。枕の位置を変えれば届きそうだったが、彼は右肘をついたところでやめ、背中を戻した。二度目に手が上がった時、成瀬は入っていった。

「取ります」

「どうも。そこ、あと五センチが遠いんです」

 飲み終えたコップを戻し、テーブルを寄せた。戸崎は空いた手を布団の上に置いた。

「仕事してます?」

「しています」

「だったらよかった。飯島さん、怒ってました?」

「小暮さんに。帳簿は見せてくれました」

「あの人の怒り方、電話でも分かりましたもんね」

 成瀬が笑う前に、戸崎は顔をしかめた。腹を押さえる手を見て、椅子から腰が浮く。

「大丈夫。笑う方も、こっちの勝手なんで」

 成瀬は座り直した。

 知らせようと用意した話は幾つもあった。封筒の時刻、台車の写真、警備員の退院見込み。いずれも口を開けば、あの晩へ戻ってしまう。

「海側へ行くように言ったのは、私です」

 戸崎がこちらを向いた。

「私が行っていれば」

「何が違いました?」

 成瀬は口を閉じた。

「すみません。責めてるんじゃないです。ほんとに、何が違ったんだろうって」

 戸崎は左脚を見た。

「俺が走ったんですよ。顔が見えたんで、引っぱれば間に合うと思った」

「でも、あそこへ――」

「あそこへ行かなかったらって、今、言わないでくれませんか」

 声は小さかった。成瀬は膝へ両手を置いた。

「俺、戻るつもりでやってるんです。今日も歩く。昨日より先までって。あそこへ行かなきゃって言われると、何て返せばいいか」

 戸崎はそこで息を吸い、片手を上げた。成瀬が立とうとするのを止める手だった。

「待って。今、脚が」

 廊下から食器を重ねる音がした。成瀬は膝の上の手を見ていた。戸崎が息をつくまで、顔を上げられなかった。

「……すみません」

 戸崎が言った。

「謝らないでください」

「それも、ちょっと」

 成瀬は顔を上げた。

「言い方、悪かった。俺、あなたが来る前から、これ、取れなくて」

 戸崎がコップへ目を向けた。テーブルを寄せたので、今は手の届くところにある。

「仕事の話は、できますか」

「二枚だけ。今日は」

 手元に広げた資料を重ね直した。

 選んで渡すうち、残りを全部置いていきたくなった。あとで見るでしょう、と言えば彼は受け取るだろう。成瀬は二枚だけをテーブルに残した。

 帰り際、戸崎は右足の靴下を直そうとしていた。成瀬が声を掛けると、今度は頼まれた。踵へ布を戻し、引きすぎたところを緩めた。

「助かりました」

 成瀬は礼に返事をした。

 午後、施設で詩乃が差し出したのは、小暮への手紙だった。

「返してほしい物、これで分かりますか」

 青い鳥の刺繍の見本を返してほしい。次に何を作るか考えられないので、今月中に。そのあとには、小暮の店へ初めて持っていった日のことが書かれていた。売物になると言われて嬉しかった。ほかの人が縫うと分かっていたら、渡さなかったかもしれない。

 成瀬は読み終え、隣の紙を取った。

「型紙も、一緒にですか」

「型紙は持ってます。最初の巾着だけです」

「では、青い鳥の刺繍をした巾着一点。いつ渡したかも、分かれば」

「去年の春です。日にちは、今は」

「確かめてからで構いません。期限は九月三十日まで、と書くと、あとで読んでも分かります」

 詩乃はメモを覗いた。

「今月中、じゃ駄目ですか」

「意味は同じです。返却先は、ここは書かない方がいいので、担当の方を窓口に」

 支援担当者が頷き、自分の連絡先を伝えた。成瀬はそれを加えた。頼まれた物は分かった。相手に誤解されないように、もう少し。

「この、嬉しかったというところは、今も認めていると取られない方が」

「今は嬉しくないです」

「ええ。そこを、先に返却の件を書いたあとで――」

 便箋が遠ざかった。

 成瀬が顔を上げると、詩乃は二枚を重ね、角を揃えていた。

「何を直すんでしたっけ」

 成瀬はペンを持ったまま止まった。

「分かるかって、聞いたんです」

「分かります。返してほしい物は」

 詩乃は頷いたが、紙を戻さなかった。

「すみません。書き方まで、変えてしまいました」

 成瀬の前には、自分で整えたメモだけが残った。詩乃は便箋を鞄へ入れた。

「今日は出さないです」

 担当者が、宛先だけ別の紙にして渡した。詩乃はそれを受け取り、成瀬のメモも持ち帰ると言った。ただ、今は見ない、と付け足した。

 次の約束は二十四日だった。成瀬は時刻を読み上げてから、書いた手帳を閉じた。

 二十四日の面談で、手紙は支援担当者へ渡された。

 封筒にはもう小暮の名前があった。宛先を確かめる間、詩乃はそこを指で押さえていた。

「戸崎さんに、会えますか」

 連絡事項を終えると、詩乃が訊いた。

「具合を本人に聞きたいです。行ったら迷惑かもしれないですけど」

「聞いてみます」

「ありがとうございます」

 成瀬は予定を書いた。出し終えた手紙が気になったが、何を書いたかは尋ねなかった。

 病院と戸崎へ確認して、土曜日の午後が決まった。

 二十六日、戸崎はベッドを起こして待っていた。

「さっきまで壁の染み見てたんで、助かります」

 詩乃が入口から頭を下げると、戸崎は窓の横を指した。

「日本地図に見えません?」

 詩乃は椅子へ座る前に、そちらを見た。

「見えないです」

「俺も最初は。五日目くらいから」

 成瀬は付き添いの担当者に会釈し、戸を少し開けておいた。廊下で待つというので、出る時に声を掛けると伝えた。

「歩く練習してるって聞きました」

「ええ。今日、トイレの前まで行けたんです」

「よかったです」

「そこから戻ってくるのがね。行く分しか考えてなくて」

 戸崎が成瀬を見る。彼女は椅子を寄せすぎていたので、少し離した。

 詩乃は膝に置いた手を重ねた。

「真知さんに泊めてもらわなかったら、って、まだ考えます」

 戸崎の顔から笑みが消えた。

「前、そういうことじゃないって言ってくれましたよね。覚えてます。でも、また」

「俺が言ったら、それで考えなくなるわけじゃないですよね」

「はい」

 成瀬は窓の方を見た。染みの輪郭は、どこにも似ていなかった。詩乃はしばらく黙ったあと、戸崎へ寝られているかと尋ねた。彼は、朝が早すぎる、と答えた。眠れなかった夜に限って朝が早い。

 戸崎が布団を動かし、枕の位置を頼んだ。成瀬は立って直した。椅子を退けた詩乃が、床に置かれた紺の手提げへ目を留めた。

「いつもの、黒いのは」

「持ち手が切れてしまって。家にあります」

「ああ、ついに」

 戸崎が言った。成瀬は頷いた。

「いつ切れたんです」

「手術が終わった時に」

 戸崎は彼女を見た。成瀬は、使いすぎました、と言おうとしてやめた。

「まだ使いたいんですけど、あそこまで切れると」

「付け根は残ってますか」

 詩乃が訊いた。

 成瀬は、垂れた持ち手しか覚えていないと答えた。詩乃は少し考え、見せてもらえれば分かるかもしれない、と言った。

「私が縫えるところなら、やってみたいです」

 成瀬はすぐ返事ができなかった。詩乃は続きを言わずに待っている。成瀬は顔を上げ、お願いします、と答えた。

「直せそうなら、代金も教えてください」

「材料を見てからでもいいですか」

「はい」

 戸崎はベッド脇のコップを取った。今日は届いた。成瀬が受け取ろうとした手を戻すと、彼は自分でテーブルへ置いた。

 翌日、鞄の底を払うと十円玉が一枚出てきた。

 成瀬は内ポケットを全部確かめ、袋へ入れて施設に届けた。詩乃は中を開き、両方の付け根を順に曲げた。

「片方だけ替えると、もう片方もすぐ切れそうです」

「両方、お願いします」

「中を少し開けてから、連絡します。教室のミシンも、借りられるか聞いてみます」

 成瀬が、いつでもいいです、と言うと、詩乃は袋から顔を上げた。

「来月の初めに、一回見てもらえますか。色も、違うかもしれないので」

 成瀬は手帳を出した。十月一日。時刻を二人で決めた。

 支援担当者が小暮への手紙は届いたと伝えると、詩乃は礼を言い、返事はまだかと訊いた。

 まだだった。

「三十日を過ぎたら、もう一回書きます」

 詩乃は鞄を抱えて奥へ戻った。成瀬は玄関で、来る時と同じ紺の手提げを持った。中には仕事の資料が残っていた。次は小暮へ行く。

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目次

迎えのない朝

  1. 01序章
  2. 02屋根のない駅
  3. 03名前を知っている
  4. 04撮影室
  5. 05今日の配達
  6. 06冬を越した箱
  7. 07店を開ける人
  8. 08鍵を渡すまで
  9. 09部屋へ戻る服
  10. 10使わない鍋
  11. 11二人目
  12. 12青い丸
  13. 13三つの現場
  14. 14紺の半袖
  15. 15片方の補助輪
  16. 16店の中
  17. 17返す服
  18. 18店じまい
  19. 19積込口
  20. 20一人分
  21. 21手を貸す
  22. 22言い分
  23. 23返す日読書中
  24. 24丸を消す
  25. 25迎えに来る人
  26. 26あと一歩
  27. 27向かいの席
  28. 28終章 迎えのない朝

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