北原仁は、玄関で戸崎の靴を見た。
「暑いでしょう。その靴で一日歩くんですか」
「今日は、まだ二階分です」
「三階です。ここ」
「一階からなので」
仁が笑い、廊下の段ボールを持ち上げた。側面に〈詩乃 冬物〉と書いてある。九月四日の朝、外の熱気に背を押されて入ると、冷房の空気が足元を流れた。
部屋には冷茶が二つ出ていた。仁は箱を隣室へ入れ、椅子を勧めた。壁の写真では、制服姿の娘が卒業証書らしい筒を持ち、父親と並んでいる。娘の目だけが半分閉じていた。
「ひと箱便には、長いこと頼んでいました」
仁は料金表を机へ出した。戸崎が手元の写しと同じだと答えると、紙を片づけずに中央へ置いた。
北原工業は縫製を請け負っていた。注文が減って工場を畳み、今は残った建物の管理と小口の取引を続けている。写真館も、その一つだった。
「一人で細かい仕事を受けてくれるでしょう。うちみたいに中途半端に物が残ってる所は、助かったんです」
成瀬が予定表を開いた。
「二日の十九時、写真館で約束をされていましたね」
「棚を見てもらう予定でした。ただ、延期しました。私の都合がつかなくなって」
「延期は、何時ごろに?」
仁は携帯を手に取った。五時二十六分の発信。一分四十八秒。
「来週に、と言いました」
成瀬が時刻を写す間、仁は画面をこちらへ向けて持っていた。
「宇津木さんは、そのあと一度家へ戻り、管理屋さんの仕事に行くと言って出ています」
戸崎が伝えると、仁の腕が下がった。
「じゃあ、下見だけでもしておこうと思ったんでしょうね」
「延期したのにですか」
「そういう人でしたよ。頼んだ以上のことをしてくれる。寸法だけ測っといた、とか」
仁は茶を勧めた。戸崎は口をつけた。成瀬の方は減っていなかった。
「内装業者へ鍵を渡したあと、北原さんも戻っていますか」
「戻りました。裏の戸締まりが気になって」
「何時ごろです?」
「七時前くらいかな。入口を見て、すぐ」
「宇津木さんとは?」
「会ってません」
仁は携帯を操作し直した。
「私、そのあと駅前で弁当を買ってます。七時四十八分。電子決済なので、そちらも調べれば分かります」
「よく覚えていらっしゃいますね」
「昨日、警察から電話があって。何時に何をしたか訊かれるでしょう。レシートを探して、捨ててあったから、こっちを」
画面が机へ置かれた。時刻だけが白く光っていた。
写真館の鍵には青い印がついていた。束の中には工場の鍵もある。仁は一本ずつ机へ並べ、どの建物のものか説明した。捜査への協力を求められると、何でも、と答えた。
「工場は今、何にお使いですか」
成瀬が印のない鍵を見て訊いた。
「布と機械が残ってるだけです。ほとんど行きません。電気も最低限で」
仁は鍵をまとめた。
成瀬が、詩乃さんには、と言った時に、携帯の画面が暗くなった。
仁はそれを見て、指で一度たたいた。
「娘は去年から、行方が分からなくなっています」
「宇津木さんが、昨年十一月に詩乃さんの荷物を運んだ可能性があります」
仁は眼鏡を外した。
「娘は、何を言ってるんですか」
「まだお会いしていません。仕事の控えを確認しています」
「……そうですか」
眼鏡を拭くのかと思ったが、仁はそのまま握っていた。
引出しから一枚の紙を取り出した。娘を捜すための紙だった。届出当時、二十五歳。壁の制服の写真より大人びた顔と、当時着ていた服、仁の連絡先が並んでいる。
「先月も配りました。見たという人がいたので。駅の向こうで」
「どなたですか」
「知らない人です。会社の問い合わせに、写真を添えて」
小暮の店とは別の作業場所へ、詩乃に似た女が出入りしている。そういう連絡だったと仁は言った。
「小暮さんのお名前まで?」
「ええ。元から知ってる男ですけど。娘に縫い物をさせていたので」
「その連絡は残っていますか」
「あります。会社へ来たものは消すなと、瀬尾先生が」
会社のことを相談している弁護士、瀬尾直人。仁は名前を教えたあと、送った人を調べるのかと訊いた。
「元の連絡を確認したいんです」
「誰がくれたかは、私も知りたいですよ。でも、娘がいるかもしれないと思ったら、先に探すでしょう。出どころを調べる前に」
戸崎は頷いた。その順序は分かった。
娘が家を出てからは、ここで一人で暮らしていると仁は話した。娘の部屋はそのままで、今日どけた冬物も、洗ってあるのだという。外で服の仕事をしたいと言い、家を出た。北原工業にもできる仕事はあるが、家でまで父親と顔を合わせたくなかったのかもしれない。仁は先に自分への批判を口にして、眼鏡を掛けた。
「分かりますよ。私も若い頃、家に帰ってまで仕事の話は嫌でしたから」
「最後に話したのは、いつです?」
戸崎が訊いた。
「家を出た夜です。帰ってくるよう言いました。あの子は、自分から連絡すると。そのままです」
「電話は?」
「もうつながらない。変えたんでしょうね」
冷房が止まり、部屋の中が急に静かになった。
「毎日掛けたいわけじゃないんです。大人なんだから放っておけと言われますけど、大人なら、電話くらい出るでしょう。無理なら、あとからでも」
戸崎は自分の携帯を思い出した。何の用、と娘から返ってきた時、声を聞きたいだけだと書けなかった。あの子の暮らしの中にはもう、こちらの知らない食事や風呂の時間がある。
「その電話で、詩乃さんはほかに何と言っていました?」
成瀬が訊いた。
「連絡するって。今、話しましたよ」
「帰るようにと言われて、どう答えたかを」
「そんなに正確には。去年のことですから」
仁は戸崎の方へ向いた。戸崎は運搬記録の写しを出した。
「ミシンも運んだようです。持っていったのは御存じでした?」
成瀬のペンが止まった。戸崎は気づいたが、紙を戻さなかった。
「初めて聞きました」
仁は写しへ目を落とした。
「それは私が買ったものです」
「詩乃さんが使うために?」
「もちろん。でも、家の物でしょう。黙って持っていくのは。泥棒だと言うつもりはありませんよ、娘に」
「宇津木さんに、そのお話をされたことは」
「去年十二月に一度。何も知らないと言われました」
「最近は?」
仁の口が閉じた。
「娘を見たという話があったから、知っているなら教えてほしいとは、思いました」
「二日の電話でも?」
「電話では仕事の話だけです」
成瀬が書き終わるのを、仁は待った。それから小暮の住所と番号を渡した。娘に仕事を回し、父親には居場所を知らせない男。仁の手帳には何度もなぞった名前が残っていた。
「小暮さんを、疑っているんですか」
「宇津木さんの関係を調べています」
戸崎が答えた。
「娘が見つかったら、連絡はしてくれますよね」
はい、と言いかけた時、成瀬が口を開いた。
「御本人の意思と安全を確認します。成人されているので、居場所をそのままお伝えすることはできません」
「無理に連れ帰れと言ってるんじゃないんです」
仁は薄く笑った。
「元気かどうか、それだけです。そこまで警戒されるようなことですか」
戸崎は茶碗を机へ戻した。飲み切っていた。
帰り際、仁が冬物の箱を廊下へ出した。寒くなれば戻ると思っていた、と言った。
「冬が一つ、終わってしまった」
「帰れると、いいですね」
戸崎が言うと、仁は初めて目を細めた。
「お子さんは?」
「娘がいます。まだ小さいですけど」
「今のうちですよ、口を利いてくれるの」
戸崎は笑った。階段へ出たあとで、その笑い方を成瀬に見られたかと気になった。
一階分下りても、彼女は何も言わなかった。
「さっき、娘さんの電話を詳しく聞いても、あれ以上は出なかったと思いますよ」
戸崎の方から言った。
「どうでしょう」
「覚えてないと」
「戸崎さんがミシンの話に移ったので、聞くのをやめました」
成瀬は足を止めずに言った。戸崎は手すりへ置いた手を離した。
あの時、仁がこちらを向かなければ何を訊いただろう。今さら思い出しても、選ばなかった方の質問は出てこなかった。
車へ戻ると、別班から映像の報告が来ていた。
弁当店の十九時四十八分は確認できた。その前、十九時三十一分、写真館側から駅方向へ向かう白いバンも残っていた。ナンバーの末尾二桁は仁の車と一致する。
「七時前に、入口だけ」
成瀬は手帳の文を読み上げた。戸崎は画像を次へ送った。
二十時二分。裏手から大通りへ出る男がいた。顔は暗く、帽子のつばしか分からない。作業着の背と腕に、二本の反射材が光っていた。
「工事の人ですかね」
「服だけでは。照会してもらいます」
成瀬は画像番号を書いた。
戸崎はエンジンを掛けた。仁が時刻を向けたまま置いていた携帯と、どけた冬物の箱が、同じ部屋にあったことを考えていた。