真知は玄関を開けると、先に台所の方へ戻っていった。
「魚、今火止めるとこなんで。上がってください」
戸崎は成瀬と目を合わせ、靴を脱いだ。九月八日、火曜日の午後七時を回っていた。部屋の中まで暑い。先日の配送場で会った時と同じように、真知は二つの用事を同時にしていた。
「そこ、物どけて座って。悟、立ってないでコップ」
食卓の男が、はいはいと返事をした。
「弟です。うるさかったら帰らせます」
「来るなって言えばよかっただろ」
「晩御飯いるって言うから」
「そのあとに警察来るって言ったじゃん」
男が戸崎たちへ会釈し、川瀬悟です、と名乗った。作業着の袖を肘までまくっている。真知より大きいが、目元がよく似ていた。
戸崎がハンカチで首を拭くと、真知は濡らしたタオルを持ってきた。
「そっち、もう汗でしょ。これ使って」
「すみません」
冷たかった。戸崎は首へ当て、そのまま手に持った。
鍋から鯖が皿へ移された。トマトは大きく切ったままで、茶碗は悟のものだけ大きい。冷蔵庫の上には新品らしい鍋の箱があった。
「そっちじゃないんだ、使うの」
悟が姉へ言った。戸崎が鍋の箱を見たので言ったらしかった。
「この魚、あんな底広いのに入れたら汁なくなるよ」
「人来たら使うって言っただろ」
「御飯食べに来たんじゃないんです。警察は」
真知が戸崎へ向き直った。
「弟が誕生日にくれたんです。でかいんです、やたら」
「大勢で食べる時には、よさそうですね」
「大勢来ない。こいつしか来ない」
「俺は人じゃないらしいんで」
悟が麦茶を置いた。戸崎は笑って受け取った。
詩乃の安全は確認されているが、現在の居場所を知らせることはできない。仁の件も、捜査中のため詳しく話せない。成瀬がそう伝えると、真知は頷いた。
「生きてるなら。よかった」
少し下を向いたあと、悟へ、食べて、と皿を寄せた。
「そっちの用事、先に聞いたら」
悟が言った。
「待ってたら冷めるでしょ。今日も遅いから」
「荷崩れだって。人いるかもって言われて、一回全部止めたんだよ」
「いたの?」
「いなかった。言われたら見に行くしかないし」
「じゃ、いいじゃない」
真知は自分も座った。だが携帯が鳴ると、椅子を引いたばかりの身体で立った。
「寺田さん。今、家。……それ、昨日言った。冷蔵のを後にしたら、全部積み直しだって」
成瀬の手帳は開かないままだった。悟が空の小皿を重ね、流しへ運んだ。
「冷蔵の札、今貼っとけば?」
電話をしている姉へ、悟が言った。
「明日の人が剥がすだけ。寺田さん、朝また言われんの嫌でしょ」
真知は一度弟を見て、そのまま電話へ伝えた。声が小さくなった。
「そう。うん。写真送って。分かった、お願い」
携帯を置くと、真知は悟を見た。
「そういう知恵はあるんだよね。前は寺田さんに言うのも、私に頼んでたくせに」
「前の話、今する?」
「今、喋ってるの見たから」
「礼から言えば」
「ありがとう。ついでに台車返して」
「それは別。金曜って言ったろ。今週いっぱい借りてんだから」
「取っ手抜けるの、直してから返せって言ってたよ」
「元から。ピン片方ないんだもん。借りた時から」
「本人に言ってよ。私、台車の伝言までしないからね」
戸崎には先日の寺田の顔が浮かんだ。今度は誰の伝票を持っているのだろう。真知が、すみません、終わり、と成瀬へ向き直り、ようやく手帳が開いた。
前年十一月、宇津木から、一晩泊まれる場所を探している女性がいると連絡があった。
「車が止まった時、助けてもらってたから。健さんに頼まれたら、駄目って言いにくいじゃないですか」
真知は言い、すぐ、嫌だったわけじゃないですよ、と付け足した。
「女同士の方がいいだろうって。本人もそれならって言ってると。夜だけ、ここへ」
「詩乃さんには、その時初めて?」
「初めて」
「悟さんは」
戸崎が目を向けると、悟は箸を止めた。
「その晩はいません。今日は来るなって来たんで」
真知が履歴を探した。携帯を成瀬へ差し出す途中で、茶の輪に気づき、悟が袖で拭こうとした腕を叩いた。
「そこ、台拭きあるのに」
「近かったんだよ」
画面には去年十一月の会話があった。
〈今夜だけ一人、泊めてもいい?〉
〈女?〉
〈女。若い子。今日は来ないで〉
〈分かった〉
翌朝は〈飯二回おかわりした。大丈夫そう〉。悟は〈それ大丈夫の基準なの〉と返していた。
「まだ言ってる。食べないよりいいじゃない」
真知が笑った。悟は麦茶を飲んだ。
翌日、詩乃は自分で不動産屋と話すと言った。真知はネットで部屋をいくつか一緒に見ただけで、保証人などは本人が調べていた。その後も、仕事が決まった、小物ができたと時々連絡が来た。
「泊まったのは、それっきりですか」
「泊まりは一回。でも御飯は、あと二回くらい。年明けと、春。悟も会ったよね」
「春は玄関だけ」
「年明けは食べたでしょう。一緒に」
「ああ、あの時か」
悟が箸で骨をよけた。
「何かお話を?」
「仕事、何してるんですかとか。連絡先も知らないです。名前は姉ちゃんが呼んでたから」
「宇津木さんは、御存じでした?」
「会ったことは。一回。姉ちゃんの車が動かなくなった時、荷物移すの手伝いに来てくれて。二年くらい前かな。俺の名前、覚えてたかは分かんないですけど」
成瀬が、そのほかにも会った記憶はあるか訊くと、悟は、たぶんない、と答えた。
「二日の夜のことも、確認させてください。仕事は何時まででしたか」
「六時四十分くらい。打刻あると思います」
「そのあと、どちらへ」
「駅の南。飯、何にしようかって歩いてて。姉ちゃんに電話しました。七時五十分くらい」
真知が携帯を手に取った。
「来たよ。今日は寄らないって」
「履歴を見てもよろしいですか」
同意して差し出された画面を見て、成瀬が時刻を読んだ。
「十九時三十六分です」
「そんな早かったっけ」
悟が身を寄せた。
「じゃ、その頃。そこまで覚えてないです」
「南口の、どの辺でした?」
「裏の弁当屋。前は自転車屋だったとこ。混んでたから、やめて」
成瀬は道順を訊いた。悟は交差点を二つ挙げ、そこから線路沿いへ出たと言った。
「カメラないんですかね。俺、飯に迷ってるだけなのに」
「いつも迷ってるじゃん」
真知が言った。戸崎は彼女にも、電話で場所まで分かったのかを確かめた。
「南の方って、本人が言ったから。見たわけじゃないです」
「はい」
成瀬が書く間、真知はトマトへ塩を振った。悟の皿は横へどけ、自分の分だけにした。
戸崎が宇津木以外に詩乃を手伝った人を尋ねると、真知は修理屋の遠山隆一を挙げた。
「ミシンの足が歪んでたの。健さんが、誰かいないかって。うちの車の留め具も見てもらってる人だから」
「遠山さんのお店は?」
「駅の反対。向かい、クリーニング屋です。看板だと何の店か分からないんで」
真知は住所を確かめるために立った。冷蔵庫に貼った紙を見て戻る途中、悟の皿へ鯖をもう一切れ足した。
「それ、俺の分?」
「余るから」
「余るって、俺まだ最初の食ってるけど」
「喋ってるからでしょ」
「聞かれるからだよ」
戸崎は手帳を膝へ下ろした。
「食べてください。こちら、ゆっくり待ちます」
「明日早いから、そんなゆっくり待たれるのも」
真知が言って、自分で笑った。戸崎も笑い、もう一度手帳を上げた。
悟は詩乃の箱を小暮の店へ届けたこともあった。春、真知が車を出せない日に、配送の帰りに寄った。中には入らず、小暮が表へ出てきたので渡したという。
「ついでって言うけど、こっちのついでじゃないんですよ」
真知が台拭きで食卓の端を拭いた。
「何でも車がある人に言えばいいと思って」
「金取ればいいんじゃん」
悟が言った。
「してるよ、お金の話は」
声が変わり、悟は口を閉じた。
「渡すって言った日にいるなら、届けますよ。でもいない。別の所へ持ってきて。違うでしょう、それ」
真知は台拭きを置き、もう持っていかない、と言った。戸崎は小暮の店の準備中の札を思い出した。誰も待てない人ばかりだった。
「詩乃さんとは、八月も連絡を?」
「頭の方が最後です。忙しいって。それから、返事なくて」
成瀬が、父親に見つかった可能性は考えなかったかと訊いた。
真知は手を止めた。
「考えました」
「どなたかに相談は」
「しなかった。警察に言ったら、父親へ戻されると思って」
行方不明者届が出ていることは、前に詩乃から聞いていた。父親には居場所を知られたくないとも。
「本人が嫌がってたから、って。そのせいにするのは駄目ですね。今になって」
成瀬は、成人の安全と意思を確認し、家族だからといって当然に居場所を伝えるわけではないと説明した。真知は額を押さえた。
「先に知りたかった」
「御存じない方も多いです」
悟が、家族にも言わないんですか、と訊いた。
「本人が言うなって言ったら?」
「安全確認など、必要な対応はします。ただ、御家族だからという理由だけで伝えるわけではありません」
「へえ」
真知が弟を見た。
「何、急に」
「ニュース見たから。家へ戻すんだと思ってた」
悟は茶碗についた米を箸で取った。成瀬は手帳の頁をめくり、次の確認へ移った。
詩乃に詳しい事情を訊いたことはない、と悟は言った。聞かない方がよさそうだったから。
「何か言われたんです?」
「いや。こっちが聞いたら、向こうは断らなきゃなんなくなるでしょう。姉ちゃんちで飯食ってる時に」
戸崎は頷きかけ、止めた。真知が、聞かなくてもいいことは聞くくせに、と弟へ言った。
「姉ちゃんにはな」
「ほら、相手見てる」
悟は笑った。真知は新しい麦茶を持ってきて、彼のコップから先に注いだ。
「この人、金貸すと来なくなるんです」
「今その話?」
「返せないと気まずいんでしょう。だから御飯だけ。食べる物なくなったら来るから」
「返したのもあるだろ」
「あるね」
「そこで終わる?」
「続きを聞きたいの?」
悟は箸を置いた。
「借りたまま顔出すのが、嫌なんだよ」
「御飯までそう数えないでよ。あんた、誰とも食べられなくなる」
「数えてねえって。俺だって、さっきの寺田さんのやつ。あれで明日の朝、揉めなくて済むだろ」
「うん。助かった」
真知はすぐに言った。
「四時から怒鳴らずに済む」
「だろ」
悟は箸を取り、皿の端の身を集めた。真知が流しへ向くと、それを御飯に載せて食べた。
戸崎は麦茶を飲んだ。手帳の頁を一つ戻す用事はあったが、今は戻さなかった。
真知の携帯に写真が来た。冷蔵の札を貼った箱だった。彼女は画面を悟にも見せ、短く返事を打った。
「できるじゃん」
悟が言った。
「できるよ。寺田さん、やること決まれば早いんだから」
真知は食卓へ携帯を伏せた。
確認が一段落する頃、悟は味噌煮の汁を御飯へ掛けていた。
「食べれば、だいたい大丈夫って思ってるよな」
「駄目なの?」
「駄目なこともある」
「じゃあ残す?」
「腹は減る」
真知は鍋の縁を拭き、火の消えていることを確かめた。戸崎は手の中のタオルを畳んだ。返すには濡れすぎていたので、持って帰って洗ってよいか訊くと、いいですよと真知は流しから答えた。
上着のポケットへ入れた。
悟が皿を重ねて水へつける。水が出すぎだと姉が言うと、聞こえない、と返した。真知が蛇口へ手を伸ばす前に、悟は自分で閉めた。
「じゃ、帰る」
「ゴミ持って。あと保存容器、三つ」
「洗ってる」
「洗ってても、うちにはない」
「一個、まだ冷凍庫」
「何入ってるの」
「煮物」
「いつの!」
「先週。そんな怒鳴んなよ」
「食べなさいよ」
悟は玄関の袋を持ち上げ、靴を履いた。戸崎たちへ頭を下げてから、冷蔵庫の上を顎で指した。
「鍋、使えよ。そのうち」
「人来たら」
「俺、来てんだろ」
「それ、さっき聞いた」
悟は鼻で笑って出ていった。
二十時六分。戸崎は手帳へ記した。真知は閉まった扉の鍵を一度確かめ、食卓へ戻った。
残った細かな日付を確認する間、真知は麦茶を注ぎ足した。詩乃から受けた連絡も見せてもらい、必要な範囲を記録した。彼女は途中で大きく欠伸をし、すみませんと目を押さえた。
「四時なんですよね」
「三時に起きます。まだ十二時じゃないから大丈夫」
戸崎は手帳を閉じた。立つと、真知も玄関まで来た。
「詩乃ちゃん、会えるようになったら」
成瀬が振り向いた。
「御飯くらいは、と思うんです。元気になったら」
真知は扉に手を掛けたまま、言い直した。
「本人が来たいなら」
「落ち着かれたら、伝えます」
「お願いします」
戸崎は礼を言った。真知はそれより先に、戸口の靴が当たらないよう足元を見ていた。
部屋を出たのは二十時十八分だった。
階段の電灯が切れかけていて、戸崎は時刻の八を一度書き直した。一階まで下りると、上の部屋から水を流す音がした。
外の蒸し暑さに、また汗が出た。ポケットのタオルを取り出しかけ、今はやめておいた。
集積所の網の下に、悟が持って出た袋が押し込んであった。収集は翌朝と書いてある。
「言います?」
成瀬が訊いた。
「今日は、やめときましょう」
車へ向かって歩くと、上で窓が開いた。振り返った時には、レースのカーテンが下りていた。