迎えのない朝

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CHAPTER 03 / 28

第二章 名前を知っている

成瀬千紘が供述の頁を戻すたびに、机の端へ置いたおにぎりが目に入った。

 九月二日、午後三時。朝買った鮭のおにぎりだった。昼に食べるつもりで包装の半分まで剥いたところへ、三浦が確認を頼みに来た。その紙を返すと別の電話が鳴り、海苔の端が乾いて反っていた。

 向かいの広瀬は、成瀬が止まっている頁を見た。

「何かあるのか」

「変わってないかもしれません」

「供述?」

「はい」

 越谷の飲食店の駐車場で、男が殴られた。最初は知らない相手と言い、翌日には店で何度か見た男だと話した。担当者は関係の欄を〈面識あり〉に直している。

 成瀬は、被害者が相手の名字を知った経緯を指で追った。店員が呼んでいた。いつもハイボールを頼む。名前を呼んだことはない。

「知り合いかと聞いたら、違うと答えると思います」

「それで、何を戻す」

 広瀬は結論を待っていた。成瀬はファイルを手元へ戻した。書き方が気になるだけで所轄を動かしたくはない。だが供述を変えたと扱われるのも違った。

「先に担当へ聞きます」

 電話口の刑事は、まず謝った。

『申し訳ありません。面識あり、がいけませんでしたか』

「名字を知っていた理由は、この通りですね。店員が呼ぶのを聞いた」

『はい』

「事件の前、二人で話したことは?」

『たぶん、ないです』

 成瀬は次の言葉を待った。相手の息が近く聞こえた。

『もう一度行って、そこ聞いてきます』

「今からですか」

『今日の四回目で。すぐ行けます』

「四回目?」

 成瀬は顔を上げた。広瀬がこちらを見ていた。

「待ってください。まだ行かないで。これまでの記録にありませんか」

『記録はあります』

「まず見せていただけますか。こちらでも読みます」

『はい。すみません』

 詫びる必要はないと伝えても、もう一度同じ返事が来た。成瀬が通話を切ると、広瀬は自分の画面へ目を戻した。

「三浦の同期。徹夜明けだ」

「聞いていませんでした」

「聞かれなきゃ言わんだろ。今から行けるって言った?」

「ええ」

 今も向こうでは、記録を探している。受け取り次第こちらから連絡する、と言っておけばよかった。成瀬は付箋に刑事の名前を書いた。電話番号は資料にある。なぜ名前だけ別に書いたのか、自分でも分からなかった。

 隣へ戻ってきた三浦に、その刑事の普段の呼び名を訊いた。

「大ちゃんです」

「それは、使えませんね」

「使ったら、今日寝られないと思います」

 三浦が笑った。成瀬も少し笑い、冷めたおにぎりをようやく手に取った。

 追加の記録には、被害者が最初に言った言葉が残っていた。〈いつもの人だと思ったので、車をどけてくれと言いました〉。成瀬は「いつもの人」の横へ印をつけた。二回目に名字を答えた時も、男は、いつも見るだけです、と続けていた。

 成瀬は自分の確認事項を短く書き、担当へ返した。供述の変化とした部分については、広瀬にも改めて見てもらった。

 電話が来た。

『行かなくて大丈夫ですか』

「この件は、今ある記録で確認できました。ありがとうございます」

『はい』

 少し間があった。

『まだ、何かあります?』

「いえ。お疲れさまでした」

 今度は相手が先に切った。

 広瀬が席を立ち、冷房の吹出口を見上げた。紙コップの底に残ったコーヒーを飲んで、眉を寄せる。

「飯、食ったか」

「さっき」

「もう夕飯の時間だぞ」

 成瀬は時計を見た。六時半を過ぎていた。空いた日の帰りは早い、と思われている。その空いた日を自分で塞いでいるのかもしれなかった。

 黒い鞄にファイルを入れると、持ち手の根元に白い繊維が出た。指で寝かせてファスナーを閉める。

「まだ替えないんですか、それ」

 三浦が言った。

「底から持てば、まだ」

「鞄って、底から抱える物でしたっけ」

「今日はそうです」

「明日もそうでしょ」

 成瀬は返事をせず、鞄を机の縁へ寄せた。三浦が笑っている。

 成瀬は底へ手を添え、鞄を持ち上げた。鍵は内ポケット、名刺入れはその隣。新しいものを買うと、何日かは今の場所へ手を入れてしまうだろう。それも嫌だった。

 電車で妹からの写真を開いた。実家の物置だった。段ボールが三箱、手前へ引き出されている。赤い缶の蓋が少しだけ見えた。

 日曜やる。お姉ちゃんの箱、開けていい?

 成瀬は当番を確認してから、行ける、と返した。いいよ、と答えれば済むことだったのに、缶の中身を思い出せなかった。

 帰りのスーパーで焼き魚と豆腐を買った。鞄へ入れようとして、持ち手を見てやめた。片手ずつに提げて帰り、魚を皿へ移したところで妹から電話が来た。

「まだ開けてないよ」

「開けていい。赤い缶、何が入ってるんだっけ」

「知らないから聞いてるんだけど」

「うん、そうか」

 妹の後ろで水が流れていた。夫が皿を洗っているという。成瀬が魚をレンジへ入れる音を聞いて、妹は、今御飯だった、と言った。

「まだ。これから」

「お母さん、何も捨てないって。釣り竿も」

 父が亡くなってから、成瀬は物置へ入っていない。葬儀の時には、香典袋の名前を確かめていた。妹が庭へ出て何かを運んでいたのは覚えている。何を運んだのかは見ていなかった。

「竿、私が引き取ろうか」

「釣りするの?」

「しないけど」

「じゃあ、うちの物置が二つになるだけじゃない」

 成瀬は食器棚と壁の隙間を見た。細い竿なら立つのではないか、とまだ考えていた。

「来るだけでいいよ。持って帰るもの、探さなくていいから」

「分かった。軍手ある?」

「ある。お昼も買っとく。四人前」

「四人?」

 妹の夫も来るらしい。お金は出すと言うと、妹は、お母さんに言って、と返した。

「私が買ったって言うと、足りないんじゃないって別のもの作るから。お姉ちゃんが頼んだってことにする」

「頼んでない」

「今頼んで」

 成瀬は笑った。

 向こうの水音が止まり、アイスあったっけ、と男の声がした。妹が冷凍庫を開けて、あるよ、と答えた。その声で成瀬にも訊いた。

「お姉ちゃん、食べる?」

「電話で?」

 妹が笑い出した。成瀬は魚の皿をレンジから一度出し、また入れた。電話の向こうに、いつもの食器を伏せる音がした。

 通話を切ると、温めのボタンを押した。

 妹へ〈アイスは食べたい〉と送る。すぐ既読がついたが、返事は来なかった。もう食べ始めているのだろう。成瀬も箸を出した。

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目次

迎えのない朝

  1. 01序章
  2. 02屋根のない駅
  3. 03名前を知っている読書中
  4. 04撮影室
  5. 05今日の配達
  6. 06冬を越した箱
  7. 07店を開ける人
  8. 08鍵を渡すまで
  9. 09部屋へ戻る服
  10. 10使わない鍋
  11. 11二人目
  12. 12青い丸
  13. 13三つの現場
  14. 14紺の半袖
  15. 15片方の補助輪
  16. 16店の中
  17. 17返す服
  18. 18店じまい
  19. 19積込口
  20. 20一人分
  21. 21手を貸す
  22. 22言い分
  23. 23返す日
  24. 24丸を消す
  25. 25迎えに来る人
  26. 26あと一歩
  27. 27向かいの席
  28. 28終章 迎えのない朝

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