成瀬千紘が供述の頁を戻すたびに、机の端へ置いたおにぎりが目に入った。
九月二日、午後三時。朝買った鮭のおにぎりだった。昼に食べるつもりで包装の半分まで剥いたところへ、三浦が確認を頼みに来た。その紙を返すと別の電話が鳴り、海苔の端が乾いて反っていた。
向かいの広瀬は、成瀬が止まっている頁を見た。
「何かあるのか」
「変わってないかもしれません」
「供述?」
「はい」
越谷の飲食店の駐車場で、男が殴られた。最初は知らない相手と言い、翌日には店で何度か見た男だと話した。担当者は関係の欄を〈面識あり〉に直している。
成瀬は、被害者が相手の名字を知った経緯を指で追った。店員が呼んでいた。いつもハイボールを頼む。名前を呼んだことはない。
「知り合いかと聞いたら、違うと答えると思います」
「それで、何を戻す」
広瀬は結論を待っていた。成瀬はファイルを手元へ戻した。書き方が気になるだけで所轄を動かしたくはない。だが供述を変えたと扱われるのも違った。
「先に担当へ聞きます」
電話口の刑事は、まず謝った。
『申し訳ありません。面識あり、がいけませんでしたか』
「名字を知っていた理由は、この通りですね。店員が呼ぶのを聞いた」
『はい』
「事件の前、二人で話したことは?」
『たぶん、ないです』
成瀬は次の言葉を待った。相手の息が近く聞こえた。
『もう一度行って、そこ聞いてきます』
「今からですか」
『今日の四回目で。すぐ行けます』
「四回目?」
成瀬は顔を上げた。広瀬がこちらを見ていた。
「待ってください。まだ行かないで。これまでの記録にありませんか」
『記録はあります』
「まず見せていただけますか。こちらでも読みます」
『はい。すみません』
詫びる必要はないと伝えても、もう一度同じ返事が来た。成瀬が通話を切ると、広瀬は自分の画面へ目を戻した。
「三浦の同期。徹夜明けだ」
「聞いていませんでした」
「聞かれなきゃ言わんだろ。今から行けるって言った?」
「ええ」
今も向こうでは、記録を探している。受け取り次第こちらから連絡する、と言っておけばよかった。成瀬は付箋に刑事の名前を書いた。電話番号は資料にある。なぜ名前だけ別に書いたのか、自分でも分からなかった。
隣へ戻ってきた三浦に、その刑事の普段の呼び名を訊いた。
「大ちゃんです」
「それは、使えませんね」
「使ったら、今日寝られないと思います」
三浦が笑った。成瀬も少し笑い、冷めたおにぎりをようやく手に取った。
追加の記録には、被害者が最初に言った言葉が残っていた。〈いつもの人だと思ったので、車をどけてくれと言いました〉。成瀬は「いつもの人」の横へ印をつけた。二回目に名字を答えた時も、男は、いつも見るだけです、と続けていた。
成瀬は自分の確認事項を短く書き、担当へ返した。供述の変化とした部分については、広瀬にも改めて見てもらった。
電話が来た。
『行かなくて大丈夫ですか』
「この件は、今ある記録で確認できました。ありがとうございます」
『はい』
少し間があった。
『まだ、何かあります?』
「いえ。お疲れさまでした」
今度は相手が先に切った。
広瀬が席を立ち、冷房の吹出口を見上げた。紙コップの底に残ったコーヒーを飲んで、眉を寄せる。
「飯、食ったか」
「さっき」
「もう夕飯の時間だぞ」
成瀬は時計を見た。六時半を過ぎていた。空いた日の帰りは早い、と思われている。その空いた日を自分で塞いでいるのかもしれなかった。
黒い鞄にファイルを入れると、持ち手の根元に白い繊維が出た。指で寝かせてファスナーを閉める。
「まだ替えないんですか、それ」
三浦が言った。
「底から持てば、まだ」
「鞄って、底から抱える物でしたっけ」
「今日はそうです」
「明日もそうでしょ」
成瀬は返事をせず、鞄を机の縁へ寄せた。三浦が笑っている。
成瀬は底へ手を添え、鞄を持ち上げた。鍵は内ポケット、名刺入れはその隣。新しいものを買うと、何日かは今の場所へ手を入れてしまうだろう。それも嫌だった。
電車で妹からの写真を開いた。実家の物置だった。段ボールが三箱、手前へ引き出されている。赤い缶の蓋が少しだけ見えた。
日曜やる。お姉ちゃんの箱、開けていい?
成瀬は当番を確認してから、行ける、と返した。いいよ、と答えれば済むことだったのに、缶の中身を思い出せなかった。
帰りのスーパーで焼き魚と豆腐を買った。鞄へ入れようとして、持ち手を見てやめた。片手ずつに提げて帰り、魚を皿へ移したところで妹から電話が来た。
「まだ開けてないよ」
「開けていい。赤い缶、何が入ってるんだっけ」
「知らないから聞いてるんだけど」
「うん、そうか」
妹の後ろで水が流れていた。夫が皿を洗っているという。成瀬が魚をレンジへ入れる音を聞いて、妹は、今御飯だった、と言った。
「まだ。これから」
「お母さん、何も捨てないって。釣り竿も」
父が亡くなってから、成瀬は物置へ入っていない。葬儀の時には、香典袋の名前を確かめていた。妹が庭へ出て何かを運んでいたのは覚えている。何を運んだのかは見ていなかった。
「竿、私が引き取ろうか」
「釣りするの?」
「しないけど」
「じゃあ、うちの物置が二つになるだけじゃない」
成瀬は食器棚と壁の隙間を見た。細い竿なら立つのではないか、とまだ考えていた。
「来るだけでいいよ。持って帰るもの、探さなくていいから」
「分かった。軍手ある?」
「ある。お昼も買っとく。四人前」
「四人?」
妹の夫も来るらしい。お金は出すと言うと、妹は、お母さんに言って、と返した。
「私が買ったって言うと、足りないんじゃないって別のもの作るから。お姉ちゃんが頼んだってことにする」
「頼んでない」
「今頼んで」
成瀬は笑った。
向こうの水音が止まり、アイスあったっけ、と男の声がした。妹が冷凍庫を開けて、あるよ、と答えた。その声で成瀬にも訊いた。
「お姉ちゃん、食べる?」
「電話で?」
妹が笑い出した。成瀬は魚の皿をレンジから一度出し、また入れた。電話の向こうに、いつもの食器を伏せる音がした。
通話を切ると、温めのボタンを押した。
妹へ〈アイスは食べたい〉と送る。すぐ既読がついたが、返事は来なかった。もう食べ始めているのだろう。成瀬も箸を出した。