土曜の朝、電話番を替わる者が来ず、戸崎は椅子に座ったままパンの袋を開けた。
父親を出すからだ、という電話が続いた。テレビの中でも、仁が車に乗る同じ映像が流れる。少し前まで世間が欲しがっていた顔を、自分も欲しがっていた。
次の電話は、不審な車だった。
「何色ですか」
戸崎が訊くと、相手は、さっきも言ったと怒った。別の番号へ掛け、ここを教えられたらしい。
もう一度住所から聞くと、車は隣家へ来た工事業者だと分かった。確認した担当者から返事が来た時には、パンの断面が乾いていた。
「替わります」
成瀬が戸崎の机へ紙を置いた。
「先に食べてください。読んでると食べなくなるので」
「そんな顔してます?」
「昨日、半分残ってました」
戸崎は袋を持ち直した。成瀬は次の着信を取り、名乗り始めた。
詩乃の通信記録だった。
最初は、寝ることと食べることが書いてある。自分が今日できたことを、詩乃は一つずつ報告していた。パスワードを変えました。泊まれるところができました。御飯を二杯食べました。
よかった、と相手は返していた。
頁をめくると、仕事の値段と住所のことが増えた。宇津木に運んでもらった荷物。真知の台所。遠山のミシン。小暮の作業場所。
戸崎はパンを食べ終えてから、もう一度最初の頁へ戻った。
「これなら、毎日来ますね」
電話を置いた成瀬へ言った。
「一個できたって言ったら、ちゃんと返ってくる」
六月には、納期のやり取りがあった。
金曜日までならできますと送りました。
返事をする前に見せてください。
もう送ったんです。
取り消せますか。条件を見てからにしましょう。
翌朝、詩乃は待ってもらったと報告していた。
「量を見ないと、分からないです」
成瀬が小暮への確認欄に日付を書き込んだ。
七月十九日には、真知が迎えに行くと言ってくれた、と詩乃が書いていた。相手は、迎えに来る人が増えるほど自分で帰れなくなることもある、と返していた。
その二日前、仕事の宣伝写真を送っている。元の画像は抜けていたが、返事は残っていた。
窓は切った方がいいです。あなたの仕事だけ見てもらえばいい。
公開された写真には巾着と指先しかない。戸崎は、仁の会社へ送られた粗い画像を隣へ置いた。窓越しの人影が、紙の上でも潰れている。
「元を持ってた人なら、場所を隠す前を見てる」
「支援担当が追加で聞いたところ、小暮さんにも仕事の相談文を渡したことがあるそうです。全部を、この一人だけが知っていたとは限りません」
成瀬が別の紙を重ねず、離して置いた。戸崎はそれぞれの日付を見た。
悟の描いた帰り道も届いていた。職場を出た映像はある。駅前から先の路地に映像がなく、南口へ着いた姿はまだ見つからない。通話は通信会社の記録でも十九時三十六分。接続した基地局の範囲には、南口も写真館も入る。
戸崎は地図へ指を置いた。何も書かれていない部分を線で繋げば、歩いた気になりそうだった。
「午後、北原さんです」
成瀬が言った。
「まだ書類が出ない?」
「見せるとは言っていません。話はする、と」
戸崎は空いたパンの袋を丸めた。
北原工業の事務所には、引取り業者の男が来ていた。
仁は戸崎たちを入口で待たせ、男へ何度も、布の方は別だ、と説明していた。機械は日曜に予定どおり出してよい。段ボールは触らないでほしい。
「全部だと聞いたから、二人で来る手配したんですけど」
「布は、まだ見る人がいるんです」
仁は伝票の一か所へ線を引き、控えを受け取った。男が出ていくと、ようやく二人へ椅子を勧めた。
「娘にも、確認したい物があるでしょう」
座る前に言った。
「担当から訊いています。花柄の布は、捨てないでほしいと」
「あれだけじゃないんです。だから、見てもらわないと」
戸崎はまだ椅子に座らなかった。仁が、どうぞ、と重ねてから腰を下ろした。
「水曜の夜に取りに来た書類、今日はありますか」
「経理の物です。家に持っていった分と、ここに戻した分がある」
「どれでもいいです。一つ見せてください」
「私しか分からない物なんです」
仁は書類立てへ目をやったが、何も出さなかった。
「取引先へ片っ端から電話されると、困る。先生に範囲を確かめてからにしてください」
「では、瀬尾さんに。二十一時五十六分ごろから九分ほど、会社にいた。その時は一人ですね」
「何度も答えています」
仁の指が伝票の上を擦った。線を引いた箇所で止まり、また反対へ戻った。
成瀬は匿名フォームの話をした。八月十三日よりあとに、同じような連絡はなかったか。
「ありません」
「別の窓口へは?」
「ないです」
「受信する端末を確認させてもらえますか」
仁は背を起こした。
「今ですか」
「同意をいただける範囲で」
「だったら、先生に聞きます」
成瀬は引き下がった。戸崎には、また同じ扉が閉まった気がした。仁は伝票の控えを持ち上げ、取って代わるようにこちらへ向けた。
「娘には、業者も待っていると伝えてもらえますか。明日なんです」
「担当へ引取りの範囲を伝えます」
「だから、あの子がいつ来るか」
「来る話は、していません」
仁は伝票を下ろした。成瀬は口を挟まなかった。
「皆さん、必要なところだけ訊くんですね」
仁が言った。
「こっちの仕事も止まってるんです」
戸崎は明日の業者の番号だけ控えた。
真知と遠山については、知らないという答えだった。悟は真知の弟と名前を聞いただけ。会った覚えもない。
外へ出ると、成瀬が車を開けた。
「俺、南口を見てきます」
「乗ってください。通れます」
「まだ気になるんです。混んでるって、どこから見たんだろうって」
戸崎は助手席へ乗った。成瀬はすぐに車を出さず、業者の番号を担当者へ送っていた。仁から預かった用事も、それで動き始めた。
夜、成瀬の妹から電話が来た。
明日は無理だと伝える前に、もう分かっていると言われた。署の裏口へ出ると雨が降り始め、濡れるのを避けて軒下へ戻った。
「赤い缶は開けていい。写真だけ、残しておいてくれれば」
「中、写真なの?」
「たぶん」
「たぶん、なんだ」
成瀬は黙った。妹は電話の向こうで何かを引きずり、ああ重い、と誰かに言った。
「お母さん、もう上の箱を下ろせないから。一緒に見ようって言ってるんだよ。捨てていいか聞いてるんじゃなくて」
「分かってる」
「分かってたら、全部こっちに決めさせないで」
成瀬は雨の落ちる舗道を見た。母にも謝っておいて、と頼みかけて口を閉じた。
「次、空いている日が決まったら、こっちから言う」
「うん。缶も置いとく。お姉ちゃんのアイスは食べる」
「まだあったの」
「ある。お父さんの眼鏡だって、まだあるよ」
そこは笑うところなのか、分からなかった。父が死んだ翌日、成瀬は眼鏡と読みかけの雑誌を袋へ入れた。母は眼鏡だけ取り出して、棚へ戻した。
妹の方で電子音が鳴った。
「ごめん、洗濯。じゃあね」
電話は切れた。成瀬が戻ると、戸崎が小会議室で段ボールを畳んでいた。
「それ、片付けます」
手を出すと、捨てない、と止められた。
「娘のです。駅を作ってて。屋根が要るって」
畳み損ねた蓋が浮いていた。成瀬が内側へ押すと、反対が起きた。二人で一度開き直した。
「先にこっち」
戸崎が端を押さえ、成瀬が折り込んだ。ようやく薄くなった箱を、戸崎は椅子の横へ立てた。
「明日ですか」
「今週は行けないって言いました。約束する前に」
成瀬は、そうですか、と答えた。訊いていない言葉を足すのが戸崎らしかった。自分も妹へ、来週なら、と言いかけた。
「遠山さんのところ、巡回した人に電話しました」
戸崎は手のテープくずを丸めた。
「何て?」
「俺が言いかけたこと、謝りました」
成瀬は顔を上げた。
「向こう、戻った時の話をしてくれました。何回も呼んだって。相勤の人と。俺、何も知らずに、あと少しって」
テープが指へ貼り付き、戸崎は二度振ってゴミ箱へ落とした。
「掛けるまで長かったです。番号出して、二回閉じました」
戸崎は箱を見た。
「三回目に、向こうが出なくて。もう今日はやめようかなって。そしたら、折り返してくれたんです」
「何て言うか、決めてました?」
「一応。でも、出たら、この間はすみませんでしたって。それだけになりました」
成瀬は軍手を片方ずつ重ね、机の端へ置いた。
「あなたにも」
戸崎が言った。
「本人が残るって言ったから、なんて。言ってないのに」
「言っていません」
「はい」
戸崎は箱の浮いた角を爪で押した。そこはもう折れていて、押しても形は変わらなかった。
「俺が残ればって、今でも思います」
「私もです」
成瀬が言うと、戸崎は手を止めた。
「先に聞いた方が、帰れたのかもしれません。どなたかに靴を渡してもらえないかって。姉のところへ行けませんか、より前に」
「言い出したら、きりがないですね」
戸崎は顔を上げた。
「あなたが言ってるの聞くと、きりがないって思うんです。自分だと、そこだけなんだけど」
成瀬は椅子の背へ手を置いた。すぐに次の話をする気になれなかった。廊下の向こうで電話が鳴り、誰かが慌ただしく取った。
成瀬は箱を避けて椅子を戻した。明日の担当表を二人の間へ置くと、戸崎が自分の行を指した。
「これ、俺、午前にしてもらえますか。午後の方、あなたと行きます」
「担当へ聞いてみます」
帰りは戸崎の車で駅まで送ってもらった。後ろの箱にシートベルトが掛かっていた。成瀬が見ていると、急ブレーキで潰すと怒られるんで、と運転席から言われた。
改札を入ったところで、妹から写真が届いた。赤い自転車に補助輪が片方だけ残っている。
これ、お姉ちゃんの? 私の?
成瀬はホームの端を避けて立ち、画面を広げた。裂けた星のシールを覚えていた。
私の。あなたにあげた。
返事はすぐだった。
もらってない。勝手に置いていった。
妹が泣いて、父と二人で後ろを押した。大丈夫、足が届くんだから、と成瀬は何度も言った。そのことを書くと、違う、と返ってきた。
足はついた。ブレーキに指が届かなかった。
成瀬は写真のハンドルを見た。
それはごめん。
今?
電車が入り、成瀬は笑ったまま乗った。写真を保存してから携帯をしまった。鞄を底から抱えると、切れかけた持ち手が指に当たった。