飯島は成瀬を見ると、腕時計を示した。
「八時からです。九時には出ます」
「はい。お願いします」
「二人で来るって聞いてたから、椅子、借りてきたんですけど」
事務机の前に、小さな椅子が二脚並んでいた。成瀬は自分の分だけ引いた。借り物の手提げを開けると、いつもの場所に内ポケットがなく、名刺入れが底へ落ちていた。
「戸崎は入院しています」
「ニュースの。そうか」
飯島は椅子を一つ片づけた。机へ戻ると、帳簿に挟んだ紙を何枚か抜き、関係のない客名を隠した。
「小暮さんが何を言ったか、先に聞いていいですか」
「九月十日の夕方、倉庫で飯島さんへ現金を渡したと。今日は飯島さんが覚えていることと、記録を確認したいんです」
「何を覚えてたら、あの人は助かるんです」
成瀬はペンを持ち直した。
「助かる方へ合わせなくて大丈夫です」
「合わせませんよ」
帳簿を開く音が強かった。
「こっちは縫った分も払ってもらってなかったんです。売れ残りを買い戻すって、随分いい話にしてますね」
飯島は日付を指した。成瀬が数字を写し終えるまで動かさなかった。
「無断で作らせた件は、別に伺います。この日、二人で数えたんですね」
「二枚合わなくて。あの人は箱が違うって言うし、こっちは数えて持ってきてるし。全部出しましたよ。床に」
「小暮さんが途中で外へ出たことは」
「出さなかった。何かあると、すぐ店へ戻るから。トイレもあとにしてくれって言いました」
成瀬は駐車場の映像で確認した十八時二分と十九時八分を示した。飯島は鞄から受領書の控えを出した。金を受け取るまで帰らなかった、と言い、支払の欄を爪で押さえた。
遠山が殺された時、小暮は飯島と倉庫にいた。
確認した順に読み返すと、飯島は頷いた。奥から呼ばれ、今行く、と大声で返した。
「これ、写しをいただけますか」
「そこの機械で。ここ以外は伏せますよ」
飯島が紙を重ねて立つと、机の下から糸くずが一つ転がった。
「守ってもらいたくて嘘をついたって、本当なんですか」
成瀬は顔を上げた。
「どこから聞きました」
「店の子。うちにも納品に来ますから」
「その件は担当が確認しています」
飯島は複写機の蓋を開けた。
「これで殺してないことになっても、払ってない金まで消えませんよね」
「消えません」
紙が出てくるまで、飯島は機械に両手をついていた。成瀬は出来上がった写しを受け取り、九時になる前に作業場を出た。
真知の勤務先では、寺田が貸出表を探していた。
成瀬が台車について連絡したのは前日の夕方だった。寺田は、書類を探す前に一つ頼みたいと言い、真知のロッカーから出した会社の上着を紙袋で持ってきた。
「そちらも、返す先を確認します。それから、悟さんに貸していた台車を」
「すみません。どこへ頼めばいいか分からなくて」
寺田は紙袋を置き、倉庫へ案内した。
青い平台の台車が壁に立て掛けてある。取っ手の白いテープは新しかった。
「十一日に返ってきました。姉ちゃんのことがあったんだから、急がなくていいって言ったのに」
「貸したのは?」
「一日です。ここに名前があります」
表には悟の字が残っていた。成瀬は台車と貸出表を撮影させてもらった。
「直して返してくれたんですね」
「ピン。抜けそうだったんですよ。あと、握るとこがねばついてたのを、巻き直してくれた」
成瀬は取っ手を起こした。左右が揃って止まる。手を離すと寺田が平台を押さえた。
「前の写真は、ありませんか」
「台車だけの?」
「荷物と一緒でも」
「それなら、何かあるかも。真知、積んだら写真送れって、うるさかったから」
寺田は携帯を出したが、画像を二、三枚送ったところで止まった。
「横しかないな。これ、見えます?」
「いただいて、見ます。正面もあれば」
「納品先にも聞いてみる。怒られるから撮ったやつが、役に立つんだ」
倉庫を出ると、先ほどの上着がまだ机にあった。寺田は袋の口を広げ、畳み直した。成瀬は返却についての連絡先を、その場で担当に確かめた。
恵の家へ着いた時、電話は終わっていなかった。
食卓の上に取引先の名前が並び、終えたものには赤い線が引いてあった。恵は受話口を覆って成瀬を招き入れ、また電話へ戻った。
「はい。今後も、お受けできません。ええ、亡くなったので」
成瀬は椅子の前で待った。恵が手で座るよう示し、聞いているうちに、その手が宙で止まった。
「そうでしたか。……いえ、私、聞いてなくて」
電話が切れた。
恵は座らず、開いた帳面を見下ろした。
「引越しを三回頼んだ人でした。最後、離婚で。急に出なきゃいけなくなって助かったって」
赤鉛筆を取る。
「お礼、私に言われても」
線を引かずに置いた。
「お待たせしました。仕事の控え、これです」
厚い箱を成瀬の前へ寄せた。見せるための場所は空いたが、成瀬はすぐには開けられなかった。
「今の電話は、あとで印を」
「分かってます」
恵の返事に、成瀬は手を引いた。
「ごめんなさい。昨日、同じ人に二回掛けたんです。夫が死んだのでって。二回」
恵は箱の蓋を開けた。写真館の仕事は棚の下見で、追加の荷物は現場で決めることになっている。成瀬は前に確認した頁を脇へ置き、別の日の欄を見せてもらった。
断った仕事の横に、ほかの業者の番号がある。長い走り書きは、運ぶ物ではなく電話した相手の話だった。
「宇津木さんは、頼まれると断りにくい方でしたか」
「断ってましたよ。腰が痛かったら。お酒飲んでても。いい人だったんでしょうって、聞かれるんですけど」
「会社で人に使われるのが嫌で、一人で始めたんですよ。そしたら、今度はお客さんが。夜でも来てって。で、帰ってくると、こんな時間まで使いやがってって、私に。知らないですよ、行ったの自分でしょう」
箱の上へ落ちていた輪ゴムを、恵は帳面へ挟んだ。
「断ればいいじゃないって言うと、じゃあ誰が運ぶんだって。別の業者もいるでしょう。私、運んじゃ駄目なんて言ってないんです。ああ、違う。仕事の話ですね」
「聞いています」
「そうじゃなくて、どこへ行ったか、でしょう。ちゃんとあるんです。ここに」
恵は帳面をめくった。
成瀬は、一つの依頼の下に三度書かれた時刻を見た。話を聞いただけの日と、実際に運んだ日が違う。
「詩乃さんの時も、最初はお客さんだった」
「そうです。若いのに頑張ってるって。お金まで安くして。こっちも頑張ってるよって、私、言いました」
成瀬の手元を見て、恵は付け足した。
「今の、書かなくていいです」
成瀬はペンを置いた。
恵が立ち、お茶を入れてきた。湯呑みを渡す手の先に、さっきの名前が残っていた。
「この人、終わってますね」
赤鉛筆を持ち、成瀬を見た。
「はい。さっきの電話です」
恵は名前を消した。その隣の番号を指で追い、受話器を取った。成瀬は控えを片づけ、冷める前にお茶を飲んだ。帰りの挨拶をする間も、恵は電話を耳から離さなかった。
署へ戻ると、物流センターへ仁を呼び出した連絡が机にあった。
二十時四十六分送信。会社の問い合わせフォームを使っている。
詩乃が自分で話す。二十一時四十分ごろ、四番積込口。警察がいる所では会わない。来るかどうかは仁が決める。来るなら、前の封筒をそのまま持ってくる。
成瀬はそれを、警察への通報の記録と並べた。そちらは二十一時六分だった。通報者は、手袋の小指が黒い糸で結ばれていることまで告げていた。
「警備員の方、自分が見に行ったのが悪かったのかって、何度も」
再聴取した刑事が、椅子に手を掛けて話した。
「同じ病室の人に、棚の袋を取ってと言われて、ナースコールを押したそうです」
「腕が使えなくて?」
「右で取れた、と。会社には言わないでほしいと言われました」
成瀬は頷いた。受け取った記録の最初へ戻った。呼ばれて行き、殴られ、助けを呼ぶと言われて待った。声は普通だったという。
この話を戸崎に伝えるべきだろうか。病棟へ電話しようとして、携帯に表示された次の予定を見た。
過去の公開投稿を調べ、サービス側を通して聴取への協力を求めていた。その一人と、電話の約束をしていた。
『辞めてませんよ。今も、そこで働いてます』
相手は退勤したところだった。途中で同僚に挨拶する声が入り、成瀬はペンを止めて待った。
詩乃の相談相手は、初めには自分も困り事を投稿していた。返済できない金について質問し、返せる日と連絡する日を一緒にしなくていい、と教えられた。その後の礼も残っている。電話を掛けた。怒られなかった。
回答する側へ回ってからも、最初のうちは似た助言が多い。
今、話している女性にも、給与の内訳を確かめた方がいいと教えていた。女性はそれを役立て、就職先を決めた。礼のあとには、条件を見せて、まだ辞退できる、と繰り返し投稿されている。
「条件は、ご自身で確かめたんですね」
『会社でもらって、家で見ました。でも、給料がいつ入るか分からなくて。今さら聞いたら、採用やめるって言われないかなって』
成瀬は、回答の写しへ日付を書いた。短い文が三つ続いていた。最初は問いだった。今の部屋の支払いには、間に合いそうか。
『聞かなきゃ、そこ分かんないですよね。何日って教えてもらって、家賃に間に合うって、その人にも返したんです。おかげで電話できましたって』
「そのあとも、条件を送るように言われた」
『そうです。だから、全部見て自分で決めましたって。採用の人にも、行きますって言ったあとで』
向こうで風の音がした。
『一回だけ、まだ考えてますって書きました。決めたって言うと、また来るから。そしたら、じゃあ明日続きをって。私、次の日はもう仕事だったんです』
「そのあと、返事をやめたのは」
『何を返せばいいんですか』
成瀬は答えられなかった。
『教えてくれたことは助かったんです。でも、辞めた方がいいって、もうその話になってて。昼休みに開いて、閉じて、また開いて。午後はロッカーに入れました』
向こうで駅の放送が鳴った。
『これ、あの人に話すんですか。まだ仕事辞めてないって』
成瀬は記録の扱いを説明し、今後の連絡方法も確かめた。通話を切ってから、日付の並ぶ資料へ目を戻した。
返事の来なくなった人は、ほかにもいる。
詩乃は翌日も書いた。その次の日も。長い文の最後に、これでよかったでしょうか、とあった。
成瀬は病院へ掛けた。今日は面会を見合わせてほしい、と告げられた。事情を聞くと、容体が悪化したわけではないという。それを確かめてから切った。
戸崎へ送る文を開いた。三軒、行ってきました、と打ち、数え直した。三軒とも、仕事をしていた。自分が帰ったあとも、まだ。
明日、資料を届けます。
そう足して送った。