遠山修理店の前は車一台が停まると、向こうから来る車が待たなければならなかった。
十八時十二分。巡回車の窓を下ろすと、接着剤の匂いがした。シャッターの下半分には、まだ夕方の光が当たっている。
「遠山さん」
声を掛けられ、店の奥から手が上がった。
「もう閉める。これ、しまったら」
靴箱を胸に抱えていた。エンジンの音があるので、最後は少し大きな声になった。
向かいで車が待っている。先へ抜けると、無線で商店街の端へ回るよう呼ばれた。駐車車両のため、搬入のトラックが入れないという。
遠山の店のガラスに、小さな白い紙が残った。
十八時四十七分、遠山の姉から連絡があった。十八時七分に弟から電話があり、片付けたら出ると言っていた。出る時にも掛けると言ったのに来ない。携帯は鳴り続ける。
戻ったのは十九時四分だった。
今度はガラス戸の前まで行き、名前を呼んだ。シャッターは床から三十センチほど開いている。中の照明が道路を細く照らしていた。
隣の警察官がもう一度呼んだ。返事がない。
膝を曲げると、無線機が鉄板へぶつかった。思ったより大きな音がして、一瞬、店の中から返事がしたように聞こえた。
作業台の脚。投げ出された靴の底。袖口。
「人、倒れてます」
シャッターへ両手が掛かった。持ち上げた向こうで、店の時計の秒針が動いていた。
救急隊が店から出てきた。入口の狭いところで道を譲り、身体を横にしても、肩が戸枠へ当たった。
遠山の傍らへは、もう入れなかった。頭の近くに靴型が落ち、血がその下へ回っている。指の間の黒い糸は、作業着の袖より濃かった。口にも糸が見え、そこから先へは目を動かせなくなった。
夕方、この口が返事をした。
戸崎と成瀬が到着すると、先着した警察官たちが入口の前へ集まった。向かいのクリーニング店主は、畳んだズボンを抱えて立っていた。店から客に呼ばれ、一度だけ振り返った。
「十八時十二分には、話せたんですね」
戸崎が手帳を開いた。
「片付けたら閉めると、言っていました」
「だったら、店を出るまで――」
「戸崎さん」
成瀬が彼の横へ立った。戸崎はペンを握ったまま、顔を下げた。
「扉は」
「正面は開きました。裏は内側から鍵が。開けたのは、救急隊が入ったあとです」
別の警察官がその順番を補った。戸崎は頷き、靴カバーを着けた。落とした包装を拾おうとして、成瀬に先を越された。
二人とも、さっきの言葉には戻らなかった。
店へ入る人数を絞るため、入口には一人ずつ立つことになった。出入りのたび、何をしに来たか尋ねる。遠山の店だから、と言う客がいて、今日はもう受け取れないと答えた。
「明日、履くんですけど」
五十代ほどの男だった。手には受取票がある。
「御連絡先を教えていただけますか」
「いや、靴だけ。そこにあると思うから」
それを渡すために、遠山が何時まで店に残っていたのか分からなかった。受取票の番号を控えると、客は急に声を落とした。
「さっき電話あったんです。早く来れないかって。こっちも、仕事なんで」
後ろで戸崎が足を止めていた。男へ頭を下げ、改めて担当から電話すると言った。
男は票を畳まず、そのままポケットへ押し込んで帰った。
店内の棚には、青い丸のついた別の袋が残っていた。川瀬と書かれ、中から革靴の踵が覗いている。成瀬が袋の位置を鑑識員に示した。
「悟さんの今日の仕事と、帰るところまで、確認をお願いします。靴は、こちらから先に言わずに」
戸崎が携帯を取り出した。繋がると会社の名を尋ね、まだそこにいるんですね、と繰り返した。
換気扇が天井で震えていた。戸崎は耳を塞ぎ、外へ半歩出て聞き直した。
「車を戻したところだそうです。同僚もいると」
通話を終え、彼は成瀬へ言った。成瀬は別班へ住所を送っていた。
「小暮さんが、夕方に店を出ています」
続けて入った連絡を読み、成瀬が顔を上げた。
「スタッフを残して。一緒に帰るという話だったんですが」
「いつ」
「四時半。戻ったのは七時二十分。銀行と、それから倉庫に寄ったと」
戸崎が入口の外を見た。通りの向こうでカメラを抱えた人が足を止め、近所の人へ話しかけていた。
新見が来ると、店の中から工具を動かす音がしなくなった。床に置く物を減らすため、鑑識員が折り畳み台を広げた。
「頭が先。手は、そのあとと見てる」
新見はそう言って、記録係が姿勢を決めるのを待った。
「床の靴型ですか」
戸崎が尋ねた。
「取るよ。ただ、これと決めないで。ほかの工具も傷と合わせる」
ライトが指先を照らした。小指の間を渡る一本と、そばの結び目が、写真へ収められていく。
コードが通路へ出ていた。跨ぐ場所を探して足を止めると、奥にいた戸崎が脇へ寄って通してくれた。すみません、と声を掛けたが、彼は遠山を見ていて返事をしなかった。
棚の黒い糸も一つずつ分けて袋に入れる。北原の工場の物、小暮の店の物とは別にするよう、確認する声がした。
血を吸ったガーゼが動いた時、胃の上が硬くなった。唾を飲み込んでも、喉の奥に何か残った。出入口へ向き直ると、客用の椅子が一脚、作業台へ向けられていた。
戸崎の携帯が鳴った。電話を切ると、手帳を成瀬へ向けた。
「仁は十七時三十八分から十九時九分まで、瀬尾法律事務所です。受付の映像と入館記録、事務員の話もあります」
「瀬尾さんも、一緒に?」
「二人で相談していたと」
戸崎は書いた時刻を囲った。
成瀬には小暮から電話が来ていた。
「今は、店の中で待ってください。スタッフの方と一緒に。車には乗らないでください」
何か長い返事があった。成瀬は話が終わるまで聞き、こちらから行きますと伝えた。
「明日から誰が買うんだ、だそうです」
電話を下ろして言うと、戸崎は大きく息を吐いた。
「その前に、殺されるかもしれないでしょう」
向かいの店主がこちらを見た。ズボンの折り目へ掌を当て、また目を下げた。
規制線を一度広げ直すことになった。見物人を遠ざけると、歩いてきた人が止まり、隣の人へ何があったか訊いた。答える人の声の方が、警察官より大きかった。
戸崎と成瀬が外へ出た時、記者が前へ出た。
「警察が店を閉めるように指導した、その直後ですか」
戸崎は広報の連絡先を告げた。
「確認してるんです。その事実だけでも」
クリーニング店主が、記者の横へ進んだ。
「俺が言いました。刑事さん、店でそう言ってたって聞いたから」
戸崎は立ち止まった。
「あの人、従ったんでしょう」
マイクが戸崎へ向いた。成瀬が横に並び、確認して説明すると答えた。記者がさらに尋ねたが、店主の方は戸崎だけを見ていた。
やがて、店主は抱えていたズボンを持ち替えた。
「うちの客も帰しちゃったよ。あとで来てくれって。今日はもう、来ないよな」
クリーニング店の戸が閉まった。内側から鍵を掛ける音が、通りまで聞こえた。
夜十時すぎ、捜査本部へ戻ると、戸崎の椅子にも資料が置かれていた。膝へ載せて座ったが、一枚目を読む前に会議が始まった。
広瀬が人の配置を替えた。小暮の警戒、倉庫を確認する班、悟の職場。明け方の交代が足りず、広瀬は自分の名を書き加えた。
悟は十九時すぎに職場へ戻っていた。十八時台は、まだ埋まらない。靴は遅くなったので寄らなかったと答えた。
小暮には現金を引き出した記録があった。誰と倉庫にいたのかは、言わない。
会議が終わっても、戸崎は椅子を引けなかった。
「明日の面談、支援担当が時刻を待っています」
成瀬が言った。
「俺が言います」
「時刻を、です」
「遠山さんのことも。俺が閉めてくれって言ったんだから」
成瀬は資料を机へ戻した。
「それは、二人で話しました」
「閉めさせるんじゃなかった」
戸崎は地図を引き寄せた。店から姉の家まで、車なら十五分もかからない。
「明るいうちに、俺らの車で連れていけばよかったんです。靴は、別の人に渡してもらって」
「片付けてから行くと、おっしゃいました」
「その話、明日、詩乃さんにします?」
成瀬の手が止まった。
「しません」
「本人が残るって言ったんだから、って」
「それ、私が言いましたか」
隣の机でプリンターが止まった。戸崎は顔を上げなかった。
「俺が言ったんです。十八時に閉めてくれって。あの人、紙まで貼って」
「聞いています」
「聞いてるだけじゃ――」
成瀬が椅子を引いた。脚が床を擦り、戸崎の声がそこで途切れた。
「残ってくれるかって、訊かれました。私たちに。戸崎さんだけじゃありません」
「だったら、どっちか残ればよかった」
「はい」
戸崎は彼女を見た。成瀬は座らず、椅子の背を持っていた。
「はいって、何ですか」
「残れませんでした」
廊下で広瀬が、自分の名前をもう一度名乗った。明け方の交代について話している。
「俺、あと少しって言ったんです。巡回の人に」
「現場で聞きました」
成瀬は携帯を取った。
「面談は午後で返します。よければ、支援担当へ連絡してください。私は小暮さんの方に掛けます」
戸崎は地図の端を押さえたままだった。
「これから、小暮さんをどこへ行かせるんです」
「それも、まだ決めていません」
成瀬は引いた椅子を戻した。戸崎が何か言う前に、机の資料を持ち上げた。
「私も、十八時なら間に合うと思いました」
戸口でそれだけ言い、出ていった。
戸崎は自分の携帯を起こした。遠山の姉からの報告が、未読のまま残っている。先に支援担当の番号を出し、午後の面談を頼んだ。
向こうから、何時に来られますか、と訊かれた。午後と言ったのは自分なのに、手帳を開くまで答えられなかった。