迎えのない朝

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CHAPTER 13 / 28

第十二章 三つの現場

遠山修理店の前は車一台が停まると、向こうから来る車が待たなければならなかった。

 十八時十二分。巡回車の窓を下ろすと、接着剤の匂いがした。シャッターの下半分には、まだ夕方の光が当たっている。

「遠山さん」

 声を掛けられ、店の奥から手が上がった。

「もう閉める。これ、しまったら」

 靴箱を胸に抱えていた。エンジンの音があるので、最後は少し大きな声になった。

 向かいで車が待っている。先へ抜けると、無線で商店街の端へ回るよう呼ばれた。駐車車両のため、搬入のトラックが入れないという。

 遠山の店のガラスに、小さな白い紙が残った。

 十八時四十七分、遠山の姉から連絡があった。十八時七分に弟から電話があり、片付けたら出ると言っていた。出る時にも掛けると言ったのに来ない。携帯は鳴り続ける。

 戻ったのは十九時四分だった。

 今度はガラス戸の前まで行き、名前を呼んだ。シャッターは床から三十センチほど開いている。中の照明が道路を細く照らしていた。

 隣の警察官がもう一度呼んだ。返事がない。

 膝を曲げると、無線機が鉄板へぶつかった。思ったより大きな音がして、一瞬、店の中から返事がしたように聞こえた。

 作業台の脚。投げ出された靴の底。袖口。

「人、倒れてます」

 シャッターへ両手が掛かった。持ち上げた向こうで、店の時計の秒針が動いていた。

 救急隊が店から出てきた。入口の狭いところで道を譲り、身体を横にしても、肩が戸枠へ当たった。

 遠山の傍らへは、もう入れなかった。頭の近くに靴型が落ち、血がその下へ回っている。指の間の黒い糸は、作業着の袖より濃かった。口にも糸が見え、そこから先へは目を動かせなくなった。

 夕方、この口が返事をした。

 戸崎と成瀬が到着すると、先着した警察官たちが入口の前へ集まった。向かいのクリーニング店主は、畳んだズボンを抱えて立っていた。店から客に呼ばれ、一度だけ振り返った。

「十八時十二分には、話せたんですね」

 戸崎が手帳を開いた。

「片付けたら閉めると、言っていました」

「だったら、店を出るまで――」

「戸崎さん」

 成瀬が彼の横へ立った。戸崎はペンを握ったまま、顔を下げた。

「扉は」

「正面は開きました。裏は内側から鍵が。開けたのは、救急隊が入ったあとです」

 別の警察官がその順番を補った。戸崎は頷き、靴カバーを着けた。落とした包装を拾おうとして、成瀬に先を越された。

 二人とも、さっきの言葉には戻らなかった。

 店へ入る人数を絞るため、入口には一人ずつ立つことになった。出入りのたび、何をしに来たか尋ねる。遠山の店だから、と言う客がいて、今日はもう受け取れないと答えた。

「明日、履くんですけど」

 五十代ほどの男だった。手には受取票がある。

「御連絡先を教えていただけますか」

「いや、靴だけ。そこにあると思うから」

 それを渡すために、遠山が何時まで店に残っていたのか分からなかった。受取票の番号を控えると、客は急に声を落とした。

「さっき電話あったんです。早く来れないかって。こっちも、仕事なんで」

 後ろで戸崎が足を止めていた。男へ頭を下げ、改めて担当から電話すると言った。

 男は票を畳まず、そのままポケットへ押し込んで帰った。

 店内の棚には、青い丸のついた別の袋が残っていた。川瀬と書かれ、中から革靴の踵が覗いている。成瀬が袋の位置を鑑識員に示した。

「悟さんの今日の仕事と、帰るところまで、確認をお願いします。靴は、こちらから先に言わずに」

 戸崎が携帯を取り出した。繋がると会社の名を尋ね、まだそこにいるんですね、と繰り返した。

 換気扇が天井で震えていた。戸崎は耳を塞ぎ、外へ半歩出て聞き直した。

「車を戻したところだそうです。同僚もいると」

 通話を終え、彼は成瀬へ言った。成瀬は別班へ住所を送っていた。

「小暮さんが、夕方に店を出ています」

 続けて入った連絡を読み、成瀬が顔を上げた。

「スタッフを残して。一緒に帰るという話だったんですが」

「いつ」

「四時半。戻ったのは七時二十分。銀行と、それから倉庫に寄ったと」

 戸崎が入口の外を見た。通りの向こうでカメラを抱えた人が足を止め、近所の人へ話しかけていた。

 新見が来ると、店の中から工具を動かす音がしなくなった。床に置く物を減らすため、鑑識員が折り畳み台を広げた。

「頭が先。手は、そのあとと見てる」

 新見はそう言って、記録係が姿勢を決めるのを待った。

「床の靴型ですか」

 戸崎が尋ねた。

「取るよ。ただ、これと決めないで。ほかの工具も傷と合わせる」

 ライトが指先を照らした。小指の間を渡る一本と、そばの結び目が、写真へ収められていく。

 コードが通路へ出ていた。跨ぐ場所を探して足を止めると、奥にいた戸崎が脇へ寄って通してくれた。すみません、と声を掛けたが、彼は遠山を見ていて返事をしなかった。

 棚の黒い糸も一つずつ分けて袋に入れる。北原の工場の物、小暮の店の物とは別にするよう、確認する声がした。

 血を吸ったガーゼが動いた時、胃の上が硬くなった。唾を飲み込んでも、喉の奥に何か残った。出入口へ向き直ると、客用の椅子が一脚、作業台へ向けられていた。

 戸崎の携帯が鳴った。電話を切ると、手帳を成瀬へ向けた。

「仁は十七時三十八分から十九時九分まで、瀬尾法律事務所です。受付の映像と入館記録、事務員の話もあります」

「瀬尾さんも、一緒に?」

「二人で相談していたと」

 戸崎は書いた時刻を囲った。

 成瀬には小暮から電話が来ていた。

「今は、店の中で待ってください。スタッフの方と一緒に。車には乗らないでください」

 何か長い返事があった。成瀬は話が終わるまで聞き、こちらから行きますと伝えた。

「明日から誰が買うんだ、だそうです」

 電話を下ろして言うと、戸崎は大きく息を吐いた。

「その前に、殺されるかもしれないでしょう」

 向かいの店主がこちらを見た。ズボンの折り目へ掌を当て、また目を下げた。

 規制線を一度広げ直すことになった。見物人を遠ざけると、歩いてきた人が止まり、隣の人へ何があったか訊いた。答える人の声の方が、警察官より大きかった。

 戸崎と成瀬が外へ出た時、記者が前へ出た。

「警察が店を閉めるように指導した、その直後ですか」

 戸崎は広報の連絡先を告げた。

「確認してるんです。その事実だけでも」

 クリーニング店主が、記者の横へ進んだ。

「俺が言いました。刑事さん、店でそう言ってたって聞いたから」

 戸崎は立ち止まった。

「あの人、従ったんでしょう」

 マイクが戸崎へ向いた。成瀬が横に並び、確認して説明すると答えた。記者がさらに尋ねたが、店主の方は戸崎だけを見ていた。

 やがて、店主は抱えていたズボンを持ち替えた。

「うちの客も帰しちゃったよ。あとで来てくれって。今日はもう、来ないよな」

 クリーニング店の戸が閉まった。内側から鍵を掛ける音が、通りまで聞こえた。

 夜十時すぎ、捜査本部へ戻ると、戸崎の椅子にも資料が置かれていた。膝へ載せて座ったが、一枚目を読む前に会議が始まった。

 広瀬が人の配置を替えた。小暮の警戒、倉庫を確認する班、悟の職場。明け方の交代が足りず、広瀬は自分の名を書き加えた。

 悟は十九時すぎに職場へ戻っていた。十八時台は、まだ埋まらない。靴は遅くなったので寄らなかったと答えた。

 小暮には現金を引き出した記録があった。誰と倉庫にいたのかは、言わない。

 会議が終わっても、戸崎は椅子を引けなかった。

「明日の面談、支援担当が時刻を待っています」

 成瀬が言った。

「俺が言います」

「時刻を、です」

「遠山さんのことも。俺が閉めてくれって言ったんだから」

 成瀬は資料を机へ戻した。

「それは、二人で話しました」

「閉めさせるんじゃなかった」

 戸崎は地図を引き寄せた。店から姉の家まで、車なら十五分もかからない。

「明るいうちに、俺らの車で連れていけばよかったんです。靴は、別の人に渡してもらって」

「片付けてから行くと、おっしゃいました」

「その話、明日、詩乃さんにします?」

 成瀬の手が止まった。

「しません」

「本人が残るって言ったんだから、って」

「それ、私が言いましたか」

 隣の机でプリンターが止まった。戸崎は顔を上げなかった。

「俺が言ったんです。十八時に閉めてくれって。あの人、紙まで貼って」

「聞いています」

「聞いてるだけじゃ――」

 成瀬が椅子を引いた。脚が床を擦り、戸崎の声がそこで途切れた。

「残ってくれるかって、訊かれました。私たちに。戸崎さんだけじゃありません」

「だったら、どっちか残ればよかった」

「はい」

 戸崎は彼女を見た。成瀬は座らず、椅子の背を持っていた。

「はいって、何ですか」

「残れませんでした」

 廊下で広瀬が、自分の名前をもう一度名乗った。明け方の交代について話している。

「俺、あと少しって言ったんです。巡回の人に」

「現場で聞きました」

 成瀬は携帯を取った。

「面談は午後で返します。よければ、支援担当へ連絡してください。私は小暮さんの方に掛けます」

 戸崎は地図の端を押さえたままだった。

「これから、小暮さんをどこへ行かせるんです」

「それも、まだ決めていません」

 成瀬は引いた椅子を戻した。戸崎が何か言う前に、机の資料を持ち上げた。

「私も、十八時なら間に合うと思いました」

 戸口でそれだけ言い、出ていった。

 戸崎は自分の携帯を起こした。遠山の姉からの報告が、未読のまま残っている。先に支援担当の番号を出し、午後の面談を頼んだ。

 向こうから、何時に来られますか、と訊かれた。午後と言ったのは自分なのに、手帳を開くまで答えられなかった。

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目次

迎えのない朝

  1. 01序章
  2. 02屋根のない駅
  3. 03名前を知っている
  4. 04撮影室
  5. 05今日の配達
  6. 06冬を越した箱
  7. 07店を開ける人
  8. 08鍵を渡すまで
  9. 09部屋へ戻る服
  10. 10使わない鍋
  11. 11二人目
  12. 12青い丸
  13. 13三つの現場読書中
  14. 14紺の半袖
  15. 15片方の補助輪
  16. 16店の中
  17. 17返す服
  18. 18店じまい
  19. 19積込口
  20. 20一人分
  21. 21手を貸す
  22. 22言い分
  23. 23返す日
  24. 24丸を消す
  25. 25迎えに来る人
  26. 26あと一歩
  27. 27向かいの席
  28. 28終章 迎えのない朝

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