宇津木恵は玄関で、相手の方は、と訊いた。
戸崎が答える前に、怪我をされたんですか、と続いた。夫が仕事中に事故を起こしたと思ったらしい。居間のテレビが天気予報を流し、台所から湯の沸く音がした。
「ご主人のことで、お伝えしなければならないことがあります」
成瀬が静かに言った。恵はもう一度、二人の手帳を見た。
戸崎が死亡を伝えると、彼女は後ずさりして上がり框へ踵をぶつけた。危ない、と手を出すより先に、テレビを消してきますと言って奥へ行った。
音が消えた。湯の沸く音だけになった。
恵は戻ってきて、スリッパを出した。片方の踵がちぎれかけていたので、棚の中へ手を伸ばしかける。
「それで大丈夫です」
恵は右のスリッパを置いた。もう片方は手に持ったままだった。戸崎は片足を入れて待った。
食卓には朝食の皿があった。四脚の椅子の一つを、熊のぬいぐるみが占めている。恵はそれを抱き上げ、戸崎の目に気づいて、娘の、と言った。
「置いていったんです。捨てたら怒るの」
どこへ置くか迷うように抱えたままでいたので、成瀬が別の椅子を指した。
「こちらに座ってもよろしいですか」
「ええ、そちらで」
恵は熊を元の椅子へ戻した。
お茶は結構ですと戸崎が言っても、彼女は湯呑を出した。
「何かしてないと、ちょっと」
急須を持って戻り、注ごうとしてから、空であることに気づいた。あら、と声がした。台所へ戻る。二人は黙って待った。
身元の確認に必要な手順を説明すると、恵は病院で会えるのかを二度訊いた。殺人の疑いがあると聞いて、今度は、あの人が、と言った。
「ご主人が被害に遭われた可能性があります」
「そうですよね。今、何かしたのかと思った。警察に連れていかれるんだって」
戸崎は手帳を開くのを遅らせた。恵はそれを見て、昨日は六時すぎに帰ってきたんです、と話し始めた。
汗を流して着替え、六時半か四十分ごろ、もう一度出た。仕事を頼んだ客の名を残してほしいと訊くと、いつもの管理屋さん、と言った。
「名前は言わなかった。私も、もう聞かなかった」
「御飯は」
「帰ってからでいいって。だから、そのまま」
恵は台所へ目を向けた。
零時を過ぎ、一度だけ電話した。出なかった。運転中かもしれないと思った。何度も掛けると危ないと怒る人だった。
「寝ちゃったんです。私」
成瀬は湯呑に触れずにいた。
「毎日、待ってたわけじゃないんです。帰ってくるから。朝になったらいるから」
恵は茶を一口飲んだ。少し顔をしかめ、冷めてますね、と二人へ謝った。
近くに住む姉を呼ぶ電話は、自分で掛けた。途中で声が出なくなり、成瀬が代わってよいか訊くと頷いた。娘へ知らせるのは、姉が着いてからにしたいという。
待つ間、恵は蓋つきの箱を持ってきた。
「仕事、これなんです。まだ今日のもある。私、どこへ掛ければいいのか」
上に料金表があった。〈小さな荷物、三千円から〉。下に〈相談して下さい〉と書き加えてある。
「箱一つでもいいって、そんなの、車出したら赤字でしょう。でも、そういう名前にしちゃったから」
恵が少し笑った。
「相談だけで終わる電話もあるの。私が代わりに取ると、健さんいますかって。お客がみんな友達みたいで」
「よくお話を聞く方だったんですね」
「私のは聞かない。途中でテレビ見ます」
笑った顔のまま、恵は唇を閉じた。
箱を渡す時、持っていかないで、と言った。未収の代金がある。今日と明日の約束もある。戸崎は必要な分を写す許可をもらい、恵と一緒に上から確かめた。
古川さん、毛布。椅子、四階。川瀬、代走分。人の名字と物の名前ばかりだった。
「こちらの川瀬さんには、事情を確認しても?」
「車が動かなくなった時、代わりに運んだんです。向こうも配送の人。女の人です」
恵の姉が着くと、玄関で名前を呼ぶ声がした。恵はその声に返事をしなかった。姉が居間へ入り、肩へ手を置くと、ようやくこちらを向いた。
戸崎たちは、箱を食卓へ戻して家を出た。
午後、捜査本部で新見の報告を聞いた。
頸部圧迫による窒息が疑われる。手と口の処置は死後の可能性が高く、詳しくは解剖と組織の所見を待つ。黒い糸は市販の化学繊維だった。
新見が手の写真を出すと、広瀬は室内を見渡した。
「これを外へ出すな。場所と身元以外、今は出さない。手口を聞かれても担当へ回せ」
小指の一本が、写真でははっきり見えた。戸崎は配られた用紙へ目を戻した。
宇津木の私用携帯は軽トラックにあった。仕事用にしていた古い端末が見つかっていない。料金表の番号はそちらのものだという。別班が契約と通信の照会を進めていた。
北原仁への本格的な聴取は翌朝、戸崎たちが入ることになった。ほかの仕事関係も二人で続ける。恵への窓口を変えず、同じことを繰り返し聞かないようにと広瀬が言った。
成瀬が電話を掛けた先で、女の声が大きくなった。
『五時半までなら、ここ。待って、そこ置かないで! あ、ごめんなさい。警察の人にじゃないです』
川瀬真知だった。
配送会社の脇へ車を入れると、真知は道路からこちらへ手を振った。反射材のついた上着を腰へ巻き、片手で空の台車を押している。
「そこは戻ってくる車が入るから。こっち、一台分空けたんで」
名乗る暇もなく場所を指示され、戸崎は車を入れ直した。成瀬が降りると、真知は台車を壁へ寄せた。
「健さんの荷物、何か残ってました?」
「まず、お伝えすることがあります」
戸崎の声で、真知の顔が変わった。
宇津木の死を聞くと、彼女は台車の取っ手から手を離した。後ろの車がクラクションを鳴らす。真知は振り向き、車の進路から二人をどけた。
「事故?」
「事件として調べています」
「今朝、ですよね」
「今朝、発見されました」
「今日、まだ会社にいたんじゃないの、昨日……」
真知は言いかけて、いや違う、と首を振った。今週初めに伝票のことで電話をしたのだという。昨日ではなかった。
裏口から男が出てきて、真知へ伝票を差し出した。
「寺田さん、それ私の便じゃない」
「戻ってきてるんだよ」
「誰の? 下に書いてあるでしょう。ほら」
真知は指で示した。男は警察手帳に気づき、何か訊きかけてやめた。
彼が離れると、真知は胸ポケットから自分の伝票を出した。
「すみません。こういう所だから」
「こちらの都合で来たんです。代走分の確認だけ、できますか」
恵から写した紙を見せると、真知はすぐ日付を見つけた。車が止まった時、宇津木が荷物を受けた。その分は精算済みで、振込の控えは事務所にある。
「ちょっと、あの人、奥さんに言ってなかったの?」
真知は携帯を出し、宇津木の名を呼び出した。画面に触れる前に手が止まった。
「……奥さんの番号、教えてもらえますか」
「今はお姉さんが付き添っています。こちらから伝えましょうか」
「じゃ、それだけ。払ってますからって。余計なこと考えなくていいって」
真知は画面を消した。
戸崎は、事件の前夜の予定について何か聞いていなかったか尋ねた。仕事の約束はなかったし、最近会ってもいないという。荷物のことならあとで帳面を見る。そう答える間も、彼女は出入りする車を目で追っていた。
「明日以降、また伺うことがあります」
「朝は無理です。四時から出ます。昼も道だから。夜なら家にいます」
言ってから、真知は少し声を落とした。
「あの人が何か、悪いことしたんじゃないんですよね」
戸崎は、被害に遭われた方です、と答えた。朝にも同じことを言ったばかりだった。
真知が名刺を受け取ると、寺田がまた裏口から顔を出した。真知は今行く、と声を上げたが、すぐには戻らなかった。
「奥さんに、伝えてください。お金のことだけでも」
「はい」
車が出る時には、真知は荷台へ片足を掛けていた。片方の扉が閉まり切らず、誰かへ、そっち持って、と言っている。バックミラーから見えなくなるまで、その扉は開いたままだった。
署へ戻る頃には、夕食を売る店が少なくなっていた。戸崎は唐揚げ弁当を二つ買い、成瀬は焼き魚を選んだ。
「二個、食べるんですか」
「今と、あとで」
「もう夜ですけど」
「夜には段階があるんです」
成瀬は二つの弁当を見比べた。
「二回とも、唐揚げでいいんですか」
「違うと迷うでしょう。あとでこっち食べたかったって」
「そこは迷わないんですね」
戸崎は一つを机の奥へ置き、もう一つの蓋を開けた。
恵の箱から写した紙を机へ広げた。字の癖を覚える頃に、去年十一月の控えが出てきた。
箱二つ、ミシン一台。〈きたはら〉。
五千円を消して三千円にしてある。届先は小さなアパートだった。同じ姓でも会社の荷物には〈北原工業〉と書いてある。
「ここだけ、違いますね」
成瀬が言った。戸崎は電話番号を確認へ回した。
その時、恵から電話が来た。
『川瀬さんの分、姉が通帳見てくれました。入ってました。ありがとうございます』
「よかったです」
『よくはないんですけどね』
自分で言ってから、恵は、すみません、と続けた。
『それと、ミシンの女の子。お金を返したいって電話を、一度もらったんです』
戸崎は手元の紙を成瀬へ寄せた。
宇津木が留守の時、若い女が掛けてきた。働いてお金ができたから、足りなかった分を返したい。恵は折返しがあったとは伝えたが、金の話まで言ったか覚えていない。
『急いでたんです。電話、あとにしてって言われたのかもしれない。そんなの、いちいち覚えてませんよね』
「女の方のお名前、分かりますか」
『北原さん。下は……しの、だったかな。そこは確かじゃないです』
電話を切ると、成瀬が調べかけの資料を出した。
北原仁の娘は詩乃。前年十一月、父親から行方不明者届が出ていた。
「同じ人かどうか、運んだ先から確認します」
成瀬の箸がまだ魚の端に置かれていた。戸崎は余分の唐揚げを二人の間へ置いた。
料金の横に箱の寸法まで書いてあった。こんなことは細かく残すのに、家では客の名前を言わない。恵が今、何度でも思い出そうとしている夕方を、戸崎は紙から探した。