迎えのない朝

最新版第十改稿版版を確認する →

CHAPTER 05 / 28

第四章 今日の配達

宇津木恵は玄関で、相手の方は、と訊いた。

 戸崎が答える前に、怪我をされたんですか、と続いた。夫が仕事中に事故を起こしたと思ったらしい。居間のテレビが天気予報を流し、台所から湯の沸く音がした。

「ご主人のことで、お伝えしなければならないことがあります」

 成瀬が静かに言った。恵はもう一度、二人の手帳を見た。

 戸崎が死亡を伝えると、彼女は後ずさりして上がり框へ踵をぶつけた。危ない、と手を出すより先に、テレビを消してきますと言って奥へ行った。

 音が消えた。湯の沸く音だけになった。

 恵は戻ってきて、スリッパを出した。片方の踵がちぎれかけていたので、棚の中へ手を伸ばしかける。

「それで大丈夫です」

 恵は右のスリッパを置いた。もう片方は手に持ったままだった。戸崎は片足を入れて待った。

 食卓には朝食の皿があった。四脚の椅子の一つを、熊のぬいぐるみが占めている。恵はそれを抱き上げ、戸崎の目に気づいて、娘の、と言った。

「置いていったんです。捨てたら怒るの」

 どこへ置くか迷うように抱えたままでいたので、成瀬が別の椅子を指した。

「こちらに座ってもよろしいですか」

「ええ、そちらで」

 恵は熊を元の椅子へ戻した。

 お茶は結構ですと戸崎が言っても、彼女は湯呑を出した。

「何かしてないと、ちょっと」

 急須を持って戻り、注ごうとしてから、空であることに気づいた。あら、と声がした。台所へ戻る。二人は黙って待った。

 身元の確認に必要な手順を説明すると、恵は病院で会えるのかを二度訊いた。殺人の疑いがあると聞いて、今度は、あの人が、と言った。

「ご主人が被害に遭われた可能性があります」

「そうですよね。今、何かしたのかと思った。警察に連れていかれるんだって」

 戸崎は手帳を開くのを遅らせた。恵はそれを見て、昨日は六時すぎに帰ってきたんです、と話し始めた。

 汗を流して着替え、六時半か四十分ごろ、もう一度出た。仕事を頼んだ客の名を残してほしいと訊くと、いつもの管理屋さん、と言った。

「名前は言わなかった。私も、もう聞かなかった」

「御飯は」

「帰ってからでいいって。だから、そのまま」

 恵は台所へ目を向けた。

 零時を過ぎ、一度だけ電話した。出なかった。運転中かもしれないと思った。何度も掛けると危ないと怒る人だった。

「寝ちゃったんです。私」

 成瀬は湯呑に触れずにいた。

「毎日、待ってたわけじゃないんです。帰ってくるから。朝になったらいるから」

 恵は茶を一口飲んだ。少し顔をしかめ、冷めてますね、と二人へ謝った。

 近くに住む姉を呼ぶ電話は、自分で掛けた。途中で声が出なくなり、成瀬が代わってよいか訊くと頷いた。娘へ知らせるのは、姉が着いてからにしたいという。

 待つ間、恵は蓋つきの箱を持ってきた。

「仕事、これなんです。まだ今日のもある。私、どこへ掛ければいいのか」

 上に料金表があった。〈小さな荷物、三千円から〉。下に〈相談して下さい〉と書き加えてある。

「箱一つでもいいって、そんなの、車出したら赤字でしょう。でも、そういう名前にしちゃったから」

 恵が少し笑った。

「相談だけで終わる電話もあるの。私が代わりに取ると、健さんいますかって。お客がみんな友達みたいで」

「よくお話を聞く方だったんですね」

「私のは聞かない。途中でテレビ見ます」

 笑った顔のまま、恵は唇を閉じた。

 箱を渡す時、持っていかないで、と言った。未収の代金がある。今日と明日の約束もある。戸崎は必要な分を写す許可をもらい、恵と一緒に上から確かめた。

 古川さん、毛布。椅子、四階。川瀬、代走分。人の名字と物の名前ばかりだった。

「こちらの川瀬さんには、事情を確認しても?」

「車が動かなくなった時、代わりに運んだんです。向こうも配送の人。女の人です」

 恵の姉が着くと、玄関で名前を呼ぶ声がした。恵はその声に返事をしなかった。姉が居間へ入り、肩へ手を置くと、ようやくこちらを向いた。

 戸崎たちは、箱を食卓へ戻して家を出た。

 午後、捜査本部で新見の報告を聞いた。

 頸部圧迫による窒息が疑われる。手と口の処置は死後の可能性が高く、詳しくは解剖と組織の所見を待つ。黒い糸は市販の化学繊維だった。

 新見が手の写真を出すと、広瀬は室内を見渡した。

「これを外へ出すな。場所と身元以外、今は出さない。手口を聞かれても担当へ回せ」

 小指の一本が、写真でははっきり見えた。戸崎は配られた用紙へ目を戻した。

 宇津木の私用携帯は軽トラックにあった。仕事用にしていた古い端末が見つかっていない。料金表の番号はそちらのものだという。別班が契約と通信の照会を進めていた。

 北原仁への本格的な聴取は翌朝、戸崎たちが入ることになった。ほかの仕事関係も二人で続ける。恵への窓口を変えず、同じことを繰り返し聞かないようにと広瀬が言った。

 成瀬が電話を掛けた先で、女の声が大きくなった。

『五時半までなら、ここ。待って、そこ置かないで! あ、ごめんなさい。警察の人にじゃないです』

 川瀬真知だった。

 配送会社の脇へ車を入れると、真知は道路からこちらへ手を振った。反射材のついた上着を腰へ巻き、片手で空の台車を押している。

「そこは戻ってくる車が入るから。こっち、一台分空けたんで」

 名乗る暇もなく場所を指示され、戸崎は車を入れ直した。成瀬が降りると、真知は台車を壁へ寄せた。

「健さんの荷物、何か残ってました?」

「まず、お伝えすることがあります」

 戸崎の声で、真知の顔が変わった。

 宇津木の死を聞くと、彼女は台車の取っ手から手を離した。後ろの車がクラクションを鳴らす。真知は振り向き、車の進路から二人をどけた。

「事故?」

「事件として調べています」

「今朝、ですよね」

「今朝、発見されました」

「今日、まだ会社にいたんじゃないの、昨日……」

 真知は言いかけて、いや違う、と首を振った。今週初めに伝票のことで電話をしたのだという。昨日ではなかった。

 裏口から男が出てきて、真知へ伝票を差し出した。

「寺田さん、それ私の便じゃない」

「戻ってきてるんだよ」

「誰の? 下に書いてあるでしょう。ほら」

 真知は指で示した。男は警察手帳に気づき、何か訊きかけてやめた。

 彼が離れると、真知は胸ポケットから自分の伝票を出した。

「すみません。こういう所だから」

「こちらの都合で来たんです。代走分の確認だけ、できますか」

 恵から写した紙を見せると、真知はすぐ日付を見つけた。車が止まった時、宇津木が荷物を受けた。その分は精算済みで、振込の控えは事務所にある。

「ちょっと、あの人、奥さんに言ってなかったの?」

 真知は携帯を出し、宇津木の名を呼び出した。画面に触れる前に手が止まった。

「……奥さんの番号、教えてもらえますか」

「今はお姉さんが付き添っています。こちらから伝えましょうか」

「じゃ、それだけ。払ってますからって。余計なこと考えなくていいって」

 真知は画面を消した。

 戸崎は、事件の前夜の予定について何か聞いていなかったか尋ねた。仕事の約束はなかったし、最近会ってもいないという。荷物のことならあとで帳面を見る。そう答える間も、彼女は出入りする車を目で追っていた。

「明日以降、また伺うことがあります」

「朝は無理です。四時から出ます。昼も道だから。夜なら家にいます」

 言ってから、真知は少し声を落とした。

「あの人が何か、悪いことしたんじゃないんですよね」

 戸崎は、被害に遭われた方です、と答えた。朝にも同じことを言ったばかりだった。

 真知が名刺を受け取ると、寺田がまた裏口から顔を出した。真知は今行く、と声を上げたが、すぐには戻らなかった。

「奥さんに、伝えてください。お金のことだけでも」

「はい」

 車が出る時には、真知は荷台へ片足を掛けていた。片方の扉が閉まり切らず、誰かへ、そっち持って、と言っている。バックミラーから見えなくなるまで、その扉は開いたままだった。

 署へ戻る頃には、夕食を売る店が少なくなっていた。戸崎は唐揚げ弁当を二つ買い、成瀬は焼き魚を選んだ。

「二個、食べるんですか」

「今と、あとで」

「もう夜ですけど」

「夜には段階があるんです」

 成瀬は二つの弁当を見比べた。

「二回とも、唐揚げでいいんですか」

「違うと迷うでしょう。あとでこっち食べたかったって」

「そこは迷わないんですね」

 戸崎は一つを机の奥へ置き、もう一つの蓋を開けた。

 恵の箱から写した紙を机へ広げた。字の癖を覚える頃に、去年十一月の控えが出てきた。

 箱二つ、ミシン一台。〈きたはら〉。

 五千円を消して三千円にしてある。届先は小さなアパートだった。同じ姓でも会社の荷物には〈北原工業〉と書いてある。

「ここだけ、違いますね」

 成瀬が言った。戸崎は電話番号を確認へ回した。

 その時、恵から電話が来た。

『川瀬さんの分、姉が通帳見てくれました。入ってました。ありがとうございます』

「よかったです」

『よくはないんですけどね』

 自分で言ってから、恵は、すみません、と続けた。

『それと、ミシンの女の子。お金を返したいって電話を、一度もらったんです』

 戸崎は手元の紙を成瀬へ寄せた。

 宇津木が留守の時、若い女が掛けてきた。働いてお金ができたから、足りなかった分を返したい。恵は折返しがあったとは伝えたが、金の話まで言ったか覚えていない。

『急いでたんです。電話、あとにしてって言われたのかもしれない。そんなの、いちいち覚えてませんよね』

「女の方のお名前、分かりますか」

『北原さん。下は……しの、だったかな。そこは確かじゃないです』

 電話を切ると、成瀬が調べかけの資料を出した。

 北原仁の娘は詩乃。前年十一月、父親から行方不明者届が出ていた。

「同じ人かどうか、運んだ先から確認します」

 成瀬の箸がまだ魚の端に置かれていた。戸崎は余分の唐揚げを二人の間へ置いた。

 料金の横に箱の寸法まで書いてあった。こんなことは細かく残すのに、家では客の名前を言わない。恵が今、何度でも思い出そうとしている夕方を、戸崎は紙から探した。

読んだ位置は、このブラウザに自動で保存されます。

目次

迎えのない朝

  1. 01序章
  2. 02屋根のない駅
  3. 03名前を知っている
  4. 04撮影室
  5. 05今日の配達読書中
  6. 06冬を越した箱
  7. 07店を開ける人
  8. 08鍵を渡すまで
  9. 09部屋へ戻る服
  10. 10使わない鍋
  11. 11二人目
  12. 12青い丸
  13. 13三つの現場
  14. 14紺の半袖
  15. 15片方の補助輪
  16. 16店の中
  17. 17返す服
  18. 18店じまい
  19. 19積込口
  20. 20一人分
  21. 21手を貸す
  22. 22言い分
  23. 23返す日
  24. 24丸を消す
  25. 25迎えに来る人
  26. 26あと一歩
  27. 27向かいの席
  28. 28終章 迎えのない朝

読みやすく整える

文字の大きさ
背景の色

設定と読んだ位置はこのブラウザだけに保存されます。別の端末には同期されません。