迎えのない朝

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CHAPTER 11 / 28

第十章 二人目

靴下が片方、見つからなかった。

 戸崎はベッドの下へ手を入れ、埃のついた黒い靴下を引っぱり出した。携帯を肩と耳で挟んだまま履こうとすると、裏返しだった。成瀬が何か言っている。

「すみません。もう一回」

『安否確認に入ったのは、四時半すぎです』

「誰が見つけたんです」

『地域の警察官です。勤務先から通報があって』

 通話画面の時刻は五時十一分だった。昨日、玄関で見送られた時には、八時十八分。戸崎は靴下を直さず足を突っ込んだ。

「北原は」

『まだ身柄があります』

「外へ出てないんですね」

『出ていません』

 立ち上がると、膝へ携帯が当たった。床へ落とす前に掴んだ。

「今行きます」

 何かの間違いだとは言えなかった。成瀬は川瀬真知が死んでいると、最初に言っていた。

 アパートの階段で靴カバーを渡された。戸崎は壁に手をついて片足ずつ履き、部屋の中を見ないようにした。視線を落とした先で、自分の靴下の縫い目が外へ出ていた。

 昨日借りたタオルを、上着のポケットに入れたままだった。家で洗って、あとで届けるつもりだった。そのままのタオルを、今は出せなかった。

「そこから壁沿いに」

 鑑識員が通れる場所を示した。

 水切り籠に二つの茶碗が伏せてある。大きい方は悟が使っていた。昨日は流しに残っていたのに、今は隣の小さい茶碗と同じ角度で立ててある。

 真知は食卓に座っていた。

 首が右へ落ち、顎を引いた形になっている。両手を腹の前へ揃えられ、指から指へ黒い糸が渡っていた。口を縫った糸が片側へ引かれ、唇の間にわずかな暗がりがあった。

 戸崎は顔を上げかけた。いつものように相手の顔を見ると、返事を待ってしまいそうだった。

「死因は、まだだよ」

 新見が先に言った。

「俺、まだ訊いてません」

「顔に書いてある」

 新見は手袋を直し、記録係へ場所を譲った。立ち上がった分だけ真知の手がよく見えた。左右の小指の間に、ほかへ続かない短い一本がある。

 戸崎の喉が鳴った。

「同じですね」

「写真がそろうまで待って」

「でも、見えてる」

「分かってる。今、撮るから」

 フラッシュが光った。戸崎は一歩退き、壁に背を当てた。北原仁は署にいた。小指の糸は報道には出ていない。写真が流れても、あそこまでは写らない。ここへ来る途中、自分で確かめた身柄の記録が、頭の中で何度も同じ行へ戻った。

 向かいの椅子から成瀬が離れた。

「宇津木さんの端末です」

 黒い携帯が座面に置かれていた。背面の白い管理シール。恵が番号を控えていた、仕事用の端末だった。

「本人のは」

「台所です。充電中でした」

 成瀬は二台を取り違えないよう、それぞれの位置を指した。椅子の携帯は電源が入らず、SIMも抜かれているという。

「北原じゃなかったんだ」

 言ってから、戸崎は成瀬を見た。

「私には、まだ言えません」

「署にいるんですよ」

「昨夜、ここへ来たのは別の人です」

 戸崎は返事をせず、真知の前の携帯を見た。自分たちへ見せるために置いたのだとしたら、今、言わされたのではないか。その考えにも腹が立った。

 成瀬が玄関で待つ警察官たちに声を掛けた。鍵は掛かっておらず、こじ開けた痕もないという。管理会社が渡した鍵は三本。室内では、キーホルダーの一本と予備の一本しか見つかっていなかった。戸崎は話を聞きながら、食卓のそばに残った。

 新見の道具が小さく鳴った。

「昨日、ここへ来てたんだって?」

「八時十八分まで」

「その間に見たこと、別の人に聞いてもらって。自分で書くだけにしないで」

 戸崎は頷いた。昨日の座席からここまで、三歩もなかった。

 配送会社の寺田は、道端の折り畳み椅子に座ろうとしなかった。片手に鍵を持ち、もう一方の手で携帯を握り、警察官が勧めるたびに、大丈夫です、と首を振った。

「車、置いてきちゃって。冷蔵のやつ、そのままなんです」

「会社の方へ、代わりを頼めますか」

「頼みました。いや、頼んだと思う。電話して」

 寺田は履歴を開いた。戸崎はそばに立って待った。

 朝四時、真知は来なかった。十五分待って電話を掛け、応答がなく、本人の家へ行こうとして別の社員に止められた。事故かもしれないから先に通報しろ、と。

「俺、遅刻かと思ったんですよ。あの人だって一回くらいするだろって」

 寺田は鍵をポケットへ入れた。

「昨日の夜、積む順番でもめて。だから意地になって遅く来てるとか。そんなわけ、ないのに」

「昨夜の連絡、見せてもらえますか」

 寺田が画面を差し出す。二十時四十二分の短い文が残っていた。

 明日、二便目から順番変えます。冷蔵先で

「これ、真知さんの書き方に見えます?」

「見えますけど……違う人なんですか」

「そこも調べます」

 戸崎が時刻を記す間に、寺田は一つ前の画像へ戻した。段ボールに冷蔵の札を貼った写真だった。

「こっちは俺が送ったんです。ちゃんとやったから。それには、ありがとうって来た。明日楽、って」

 戸崎は昨夜の食卓を思い出した。悟が横から口を出し、真知がそのまま寺田へ伝えた。明日の朝の面倒を、今のうちに済ませる話だった。

「あと、見つかった子のこと、よかったって。小暮って人に、今度こそちゃんと話させるって言ってたんです。本人の服を勝手に作って売ってるとか。俺には、詳しくは」

 寺田はそこで言葉を止めた。

 規制線の向こうで声がした。悟だった。作業着にジャケットを引っ掛け、立っている警察官の肩越しに戸崎を呼んでいた。

「昨日、いましたよね」

 戸崎が近づくと、悟は先にそれを言った。

「はい」

「姉ちゃん、何か言ってました? 帰れとか、来るなとか、誰かに」

「こちらでお話を」

 成瀬が示した場所へ、悟は視線だけ向けた。

「あそこへ行くと、分かるんですか」

「ここは通りです」

「知ってますよ。何回も来てるんで」

 通行人が一人、歩調を緩めた。悟はその人へ顔を向け、すぐ戸崎へ戻した。

「俺が昨日、いたから聞いてるんです。八時すぎまで。そのあと何があったか、聞いてるだけでしょう」

 戸崎は持っていた手帳を閉じた。時刻を並べて説明し始めれば、ここで全部話してしまいそうだった。

「昨日、俺らが帰る時は元気でした」

「だったら」

「そのあとを、調べています。あなたが帰ってからのことも、聞かせてください」

 悟は口を開いたまま、戸崎を見ていた。

 寺田が鍵を落とした。膝へ当たって、排水溝の手前で止まった。悟が先に拾い、寺田へ渡した。

「座ってください。顔、真っ白ですよ」

 誰に何度勧められても座らなかった寺田が、腰を下ろした。悟は隣の縁石にしゃがみ、そのまま戸崎を見上げた。

「ここならいいですか」

 成瀬が周りの人を少し遠ざけた。戸崎もしゃがんだ。

 悟の昨夜の話は、買物と帰宅だった。最後に姉と連絡した時刻を聞かれると、別に用事がないから、と携帯を出した。合鍵は昔預かっていたが返した、いつかは覚えていない。室内に見つからない一本について訊くと、肩がわずかに上がった。

「また姉ちゃんに聞けって、言うとこだった」

 そのあと、しばらく画面を動かさなかった。

 昼の本部で、戸崎は別の刑事から昨夜のことを聞かれた。

 真知が何を食べていたか。悟が立ち上がった順番。玄関の鍵。退出後に聞こえた水音。タオルも袋へ入れて渡した。

「八時十八分は確か?」

「手帳に、その場で書きました」

「時計、どれ見た」

「携帯です」

 自分にも同じことを訊くのだ、と戸崎は思った。写真館の時計を調べていた時には、当然の確認だった。

 新見から、頸部に圧迫痕があり、糸を通したのは死後とみられると連絡が入った。糸そのものの結果は、まだだった。

 広瀬は北原仁の名を消さず、下に空欄を作った。

「一人ではできない。そこから先を、勝手に埋めるな。外部との連絡、物の行き来、全部当たる。匿名フォームの送り主もだ」

 戸崎は頷いたが、ペンを持つまでに時間が掛かった。自分の供述に使った一時間のあいだ、誰かが小暮や遠山へ行っていた。どこかの班が、知らない名前を増やしていた。

 午後、仁について別の連絡が来た。

 監禁容疑の勾留請求が認められなかった。

 旧工場は捜索され、外鍵や携帯などは押さえてある。詩乃の居場所は伝えていない。瀬尾は関係者へ接触しないという書面を出し、殺人の疑いで監禁の身柄を引き延ばさないよう意見を述べていた。

 広瀬は担当者の説明を最後まで聞いた。

「詩乃さん側への連絡を先に。テレビから知ることにするな」

 成瀬が席を立った。戸崎は名乗りかけて、座り直した。今日は自分が何を言い始めるか分からなかった。

 夕方、仁は瀬尾とともに署の玄関へ現れた。

 外には記者が待っていた。誰かが見つけ、呼び掛けると、ほかの記者も集まってくる。戸崎は扉の内側で足を止めた。

 仁も一度止まった。

「娘は」

「北原さん。今は車へ」

 瀬尾が腕に触れた。仁はその手を見てから、戸崎の方を見た。

「何か必要な物があったら、私へ」

「担当から連絡します」

 戸崎の返事を待たず、仁は袖口を下ろした。

 扉が開いた途端に、娘さんとは会えていますか、と声が飛んだ。

「心配しています。それだけです」

 仁はまっすぐカメラを見て答えた。宇津木の名を出されると、今度は瀬尾と一緒に歩いた。

 工場の鍵を渡す前にあの男が何を言ったか、戸崎はまだ覚えていた。カメラが回っているのは、今日のこの数歩だけだった。

 携帯に寺田から着信があった。今朝の聞き取りで渡した番号だった。

「明日、四時より前に来てみます。あいつの分、誰がやるか決まったんで」

 寺田は名乗ったあと、それを報告した。戸崎が返事をすると、すみません、こんなことまで、と向こうから謝られた。

「いえ。明日、俺も電話します」

 いつにするかを二人で決め、戸崎は手帳に書いた。

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目次

迎えのない朝

  1. 01序章
  2. 02屋根のない駅
  3. 03名前を知っている
  4. 04撮影室
  5. 05今日の配達
  6. 06冬を越した箱
  7. 07店を開ける人
  8. 08鍵を渡すまで
  9. 09部屋へ戻る服
  10. 10使わない鍋
  11. 11二人目読書中
  12. 12青い丸
  13. 13三つの現場
  14. 14紺の半袖
  15. 15片方の補助輪
  16. 16店の中
  17. 17返す服
  18. 18店じまい
  19. 19積込口
  20. 20一人分
  21. 21手を貸す
  22. 22言い分
  23. 23返す日
  24. 24丸を消す
  25. 25迎えに来る人
  26. 26あと一歩
  27. 27向かいの席
  28. 28終章 迎えのない朝

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