靴下が片方、見つからなかった。
戸崎はベッドの下へ手を入れ、埃のついた黒い靴下を引っぱり出した。携帯を肩と耳で挟んだまま履こうとすると、裏返しだった。成瀬が何か言っている。
「すみません。もう一回」
『安否確認に入ったのは、四時半すぎです』
「誰が見つけたんです」
『地域の警察官です。勤務先から通報があって』
通話画面の時刻は五時十一分だった。昨日、玄関で見送られた時には、八時十八分。戸崎は靴下を直さず足を突っ込んだ。
「北原は」
『まだ身柄があります』
「外へ出てないんですね」
『出ていません』
立ち上がると、膝へ携帯が当たった。床へ落とす前に掴んだ。
「今行きます」
何かの間違いだとは言えなかった。成瀬は川瀬真知が死んでいると、最初に言っていた。
アパートの階段で靴カバーを渡された。戸崎は壁に手をついて片足ずつ履き、部屋の中を見ないようにした。視線を落とした先で、自分の靴下の縫い目が外へ出ていた。
昨日借りたタオルを、上着のポケットに入れたままだった。家で洗って、あとで届けるつもりだった。そのままのタオルを、今は出せなかった。
「そこから壁沿いに」
鑑識員が通れる場所を示した。
水切り籠に二つの茶碗が伏せてある。大きい方は悟が使っていた。昨日は流しに残っていたのに、今は隣の小さい茶碗と同じ角度で立ててある。
真知は食卓に座っていた。
首が右へ落ち、顎を引いた形になっている。両手を腹の前へ揃えられ、指から指へ黒い糸が渡っていた。口を縫った糸が片側へ引かれ、唇の間にわずかな暗がりがあった。
戸崎は顔を上げかけた。いつものように相手の顔を見ると、返事を待ってしまいそうだった。
「死因は、まだだよ」
新見が先に言った。
「俺、まだ訊いてません」
「顔に書いてある」
新見は手袋を直し、記録係へ場所を譲った。立ち上がった分だけ真知の手がよく見えた。左右の小指の間に、ほかへ続かない短い一本がある。
戸崎の喉が鳴った。
「同じですね」
「写真がそろうまで待って」
「でも、見えてる」
「分かってる。今、撮るから」
フラッシュが光った。戸崎は一歩退き、壁に背を当てた。北原仁は署にいた。小指の糸は報道には出ていない。写真が流れても、あそこまでは写らない。ここへ来る途中、自分で確かめた身柄の記録が、頭の中で何度も同じ行へ戻った。
向かいの椅子から成瀬が離れた。
「宇津木さんの端末です」
黒い携帯が座面に置かれていた。背面の白い管理シール。恵が番号を控えていた、仕事用の端末だった。
「本人のは」
「台所です。充電中でした」
成瀬は二台を取り違えないよう、それぞれの位置を指した。椅子の携帯は電源が入らず、SIMも抜かれているという。
「北原じゃなかったんだ」
言ってから、戸崎は成瀬を見た。
「私には、まだ言えません」
「署にいるんですよ」
「昨夜、ここへ来たのは別の人です」
戸崎は返事をせず、真知の前の携帯を見た。自分たちへ見せるために置いたのだとしたら、今、言わされたのではないか。その考えにも腹が立った。
成瀬が玄関で待つ警察官たちに声を掛けた。鍵は掛かっておらず、こじ開けた痕もないという。管理会社が渡した鍵は三本。室内では、キーホルダーの一本と予備の一本しか見つかっていなかった。戸崎は話を聞きながら、食卓のそばに残った。
新見の道具が小さく鳴った。
「昨日、ここへ来てたんだって?」
「八時十八分まで」
「その間に見たこと、別の人に聞いてもらって。自分で書くだけにしないで」
戸崎は頷いた。昨日の座席からここまで、三歩もなかった。
配送会社の寺田は、道端の折り畳み椅子に座ろうとしなかった。片手に鍵を持ち、もう一方の手で携帯を握り、警察官が勧めるたびに、大丈夫です、と首を振った。
「車、置いてきちゃって。冷蔵のやつ、そのままなんです」
「会社の方へ、代わりを頼めますか」
「頼みました。いや、頼んだと思う。電話して」
寺田は履歴を開いた。戸崎はそばに立って待った。
朝四時、真知は来なかった。十五分待って電話を掛け、応答がなく、本人の家へ行こうとして別の社員に止められた。事故かもしれないから先に通報しろ、と。
「俺、遅刻かと思ったんですよ。あの人だって一回くらいするだろって」
寺田は鍵をポケットへ入れた。
「昨日の夜、積む順番でもめて。だから意地になって遅く来てるとか。そんなわけ、ないのに」
「昨夜の連絡、見せてもらえますか」
寺田が画面を差し出す。二十時四十二分の短い文が残っていた。
明日、二便目から順番変えます。冷蔵先で
「これ、真知さんの書き方に見えます?」
「見えますけど……違う人なんですか」
「そこも調べます」
戸崎が時刻を記す間に、寺田は一つ前の画像へ戻した。段ボールに冷蔵の札を貼った写真だった。
「こっちは俺が送ったんです。ちゃんとやったから。それには、ありがとうって来た。明日楽、って」
戸崎は昨夜の食卓を思い出した。悟が横から口を出し、真知がそのまま寺田へ伝えた。明日の朝の面倒を、今のうちに済ませる話だった。
「あと、見つかった子のこと、よかったって。小暮って人に、今度こそちゃんと話させるって言ってたんです。本人の服を勝手に作って売ってるとか。俺には、詳しくは」
寺田はそこで言葉を止めた。
規制線の向こうで声がした。悟だった。作業着にジャケットを引っ掛け、立っている警察官の肩越しに戸崎を呼んでいた。
「昨日、いましたよね」
戸崎が近づくと、悟は先にそれを言った。
「はい」
「姉ちゃん、何か言ってました? 帰れとか、来るなとか、誰かに」
「こちらでお話を」
成瀬が示した場所へ、悟は視線だけ向けた。
「あそこへ行くと、分かるんですか」
「ここは通りです」
「知ってますよ。何回も来てるんで」
通行人が一人、歩調を緩めた。悟はその人へ顔を向け、すぐ戸崎へ戻した。
「俺が昨日、いたから聞いてるんです。八時すぎまで。そのあと何があったか、聞いてるだけでしょう」
戸崎は持っていた手帳を閉じた。時刻を並べて説明し始めれば、ここで全部話してしまいそうだった。
「昨日、俺らが帰る時は元気でした」
「だったら」
「そのあとを、調べています。あなたが帰ってからのことも、聞かせてください」
悟は口を開いたまま、戸崎を見ていた。
寺田が鍵を落とした。膝へ当たって、排水溝の手前で止まった。悟が先に拾い、寺田へ渡した。
「座ってください。顔、真っ白ですよ」
誰に何度勧められても座らなかった寺田が、腰を下ろした。悟は隣の縁石にしゃがみ、そのまま戸崎を見上げた。
「ここならいいですか」
成瀬が周りの人を少し遠ざけた。戸崎もしゃがんだ。
悟の昨夜の話は、買物と帰宅だった。最後に姉と連絡した時刻を聞かれると、別に用事がないから、と携帯を出した。合鍵は昔預かっていたが返した、いつかは覚えていない。室内に見つからない一本について訊くと、肩がわずかに上がった。
「また姉ちゃんに聞けって、言うとこだった」
そのあと、しばらく画面を動かさなかった。
昼の本部で、戸崎は別の刑事から昨夜のことを聞かれた。
真知が何を食べていたか。悟が立ち上がった順番。玄関の鍵。退出後に聞こえた水音。タオルも袋へ入れて渡した。
「八時十八分は確か?」
「手帳に、その場で書きました」
「時計、どれ見た」
「携帯です」
自分にも同じことを訊くのだ、と戸崎は思った。写真館の時計を調べていた時には、当然の確認だった。
新見から、頸部に圧迫痕があり、糸を通したのは死後とみられると連絡が入った。糸そのものの結果は、まだだった。
広瀬は北原仁の名を消さず、下に空欄を作った。
「一人ではできない。そこから先を、勝手に埋めるな。外部との連絡、物の行き来、全部当たる。匿名フォームの送り主もだ」
戸崎は頷いたが、ペンを持つまでに時間が掛かった。自分の供述に使った一時間のあいだ、誰かが小暮や遠山へ行っていた。どこかの班が、知らない名前を増やしていた。
午後、仁について別の連絡が来た。
監禁容疑の勾留請求が認められなかった。
旧工場は捜索され、外鍵や携帯などは押さえてある。詩乃の居場所は伝えていない。瀬尾は関係者へ接触しないという書面を出し、殺人の疑いで監禁の身柄を引き延ばさないよう意見を述べていた。
広瀬は担当者の説明を最後まで聞いた。
「詩乃さん側への連絡を先に。テレビから知ることにするな」
成瀬が席を立った。戸崎は名乗りかけて、座り直した。今日は自分が何を言い始めるか分からなかった。
夕方、仁は瀬尾とともに署の玄関へ現れた。
外には記者が待っていた。誰かが見つけ、呼び掛けると、ほかの記者も集まってくる。戸崎は扉の内側で足を止めた。
仁も一度止まった。
「娘は」
「北原さん。今は車へ」
瀬尾が腕に触れた。仁はその手を見てから、戸崎の方を見た。
「何か必要な物があったら、私へ」
「担当から連絡します」
戸崎の返事を待たず、仁は袖口を下ろした。
扉が開いた途端に、娘さんとは会えていますか、と声が飛んだ。
「心配しています。それだけです」
仁はまっすぐカメラを見て答えた。宇津木の名を出されると、今度は瀬尾と一緒に歩いた。
工場の鍵を渡す前にあの男が何を言ったか、戸崎はまだ覚えていた。カメラが回っているのは、今日のこの数歩だけだった。
携帯に寺田から着信があった。今朝の聞き取りで渡した番号だった。
「明日、四時より前に来てみます。あいつの分、誰がやるか決まったんで」
寺田は名乗ったあと、それを報告した。戸崎が返事をすると、すみません、こんなことまで、と向こうから謝られた。
「いえ。明日、俺も電話します」
いつにするかを二人で決め、戸崎は手帳に書いた。