月曜の朝、小暮の店の従業員から、客が怒っていると電話が来た。
『警察へ預けたなら、警察へ電話するって。番号、お伝えしていいですか』
戸崎は担当の窓口を教えた。女は番号を読み返してから、黙った。
「何か、ほかにも?」
『怒ってるの、お客さんだけじゃないです』
戸崎は受話器を持ち直した。
『昨日、小暮さんから電話来て。別の上着を貸せばって。あれ、お母さんのだったそうなんです。今まで大きすぎて着てなかったけど、仕事へ着ていけるようにって、袖だけ直すことになって』
「そうでしたか」
『貸せばって、そういう話を、私がするんですか』
向こうで息を吸う音がした。戸崎は店長とのことには答えられず、確認が済んだら返却について担当から連絡すると伝えた。
『昨日の写真、送ります。返す時、形、見たいでしょうから』
「昨日?」
『小暮さんから来たやつです。袖を上げたので、これでいいかって。電話でも言いました』
戸崎は手帳を開いた。九時すぎにも寸法の写真、と自分で書いていた。あの上着と同じだとは、そこで確かめていなかった。
届いた画像の前には、小暮からの短い文があった。
このくらいで合ってる? 左右そろえた。
九時七分。グレーの上着がハンガーに掛かり、左右の袖は離れている。
戸崎は電話を切らず、写真を撮った時刻か、送った時刻かも確認させてほしいと頼んだ。女は自分には送られた時しか分からないと答えた。
「そうですね。まず、やり取りをそのまま残してください」
小暮は八時半に、糸で繋がれた上着を入口で見つけたと言った。
戸崎が画像を見ていると、成瀬が面談の時刻を告げた。彼は写真を担当へ転送し、上着をほどいてから縫い直した可能性も確認してほしいと添えた。
「本人へ、今訊きますか」
「帰ってから。詩乃さんを待たせたくないです」
戸崎は鞄を取った。携帯にはまだ上着の写真が出ていた。画像を閉じ、従業員の電話番号を手帳に控えた。
詩乃は紺の半袖を着ていた。
机には紙包みがあり、袖の形をした布が載っていた。片方を表へ返し、また裏返している。二人が入ると、それをまとめようとした。
「そのままで」
戸崎が言った。
「先週頼まれた物ですね」
「はい。でも、どっちからほどいたか、分からなくなって」
白い点々が布の端へ並んでいる。戸崎には両方とも縫い跡に見えた。
「前の写真は」
「撮ってないです。自分のなので」
詩乃は布を広げたまま、椅子を引いた。支援担当者も座った。今日は医療機関の職員は同席していない。
成瀬が時間を確かめ、工場から助けを求めたか、短く確認した。
八月十六日の休業連絡は本人が送っていた。父が横にいた。その後の無事を伝える文は、自分で書いたとは言えない。宇津木、真知、遠山へ、来てほしいという送信はなかった。父の電話や、ほかの人を通じて頼んだこともない。
「真知さんへ言ったら、来ると思っていたんですね」
「父が、調べるから。来た人の家も、会社も」
詩乃が指で布の端を折った。
成瀬が次の紙へ手を掛けた。戸崎は先に口を開いた。
「前に迎えに行く、手伝うと言ってくれた時、誰が聞いていたかを教えてください。一人ずつでいいです」
「何を、調べるんですか」
詩乃は布から手を離した。
「約束したのに、工場へ来なかった。そのことを、犯人が――」
「真知さんは、来ましたよ」
戸崎は言葉を止めた。
「駅まで。道、分からなくて。車で来てくれました。電話したら」
「ええ。それは」
「宇津木さんも。あの人が運ばなかったら、ミシン、持って出られなかったです。遠山さんは、私、頼む言い方も分からなかったけど」
詩乃の声が途切れた。支援担当者は水を寄せたが、彼女は取らなかった。
「その話、もうしたと思うんですけど」
成瀬が記録の前の頁を開いた。引越しの日、泊めてもらった夜、ミシンを直した時。それぞれの欄を、詩乃の方へ向けた。
「残っています」
詩乃は読んだ。
「あったら、何で、来なかったって」
成瀬の指が紙の上で止まった。
「そのつもりで言ったんじゃ――」
詩乃は戸崎を見た。
「じゃあ、何を知りたいんですか」
「すみません。助けてもらった話を、ほかに誰が聞いていたかです。電話でも、文章でも」
「相談の人には、書きました。誰に何をしてもらったか。あの人たちには、送らなかった。工場のことは」
戸崎は記録した。詩乃はその手元を見ていた。
いくつか、同席していた人の名も出た。三人が一度に約束した日はなかった。ばらばらの用事の途中で、困ったら言いな、と言われた。詩乃は思い出せない箇所を、思い出せないと言った。
戸崎はそこを空けた。
「あの袋は」
詩乃が自分から言った。
「持ってきてもらえましたか」
青い鳥の巾着は、支援担当者の前にあった。
小暮の別の取引先から提供された品だった。詩乃は受け取ると、表の刺繍を一度見ただけで裏返した。口へ指を差し入れ、縫い代を引き出す。さっき自分の袖を見ていた時とは、手が違った。
「これ、私が縫ったのじゃないです」
「どこで分かりますか」
「ここ。端、こうするとほどけるので、私はもう一回折ります。説明、したんですけど」
詩乃は紐を引き、また緩めた。
「誰に?」
「小暮さん。見本を渡す時。これだと面倒だから、数はそんなに作れないって」
「ほかの方に作ってもらう話は」
「聞いてません。置いてくれる店を探すって。だったら見せてもいいって言いました」
詩乃は袋を机へ置いた。青い鳥の羽の先が丸い。戸崎が手を出すと、その前に彼女が引き寄せた。
「返すんですよね」
「確認が済んだら、担当へ」
「じゃあ、もう少し」
誰も取らなかった。
詩乃は紙を一枚欲しいと言い、支援担当者から受け取った。ペンを持つと、何て書けば、と口にし、その先をやめた。
「今、売るのを止めてほしいです」
「そう伝えるんですね」
支援担当者が答えた。
「はい。お金のこと、まだ分からないので。まず、これを」
詩乃は小暮の名を書き、二行で止まり、読むために少し紙を離した。自分で一語を書き直した。
「直接渡すのは、今日は無理です」
「お預かりできます」
成瀬が答えると、詩乃は紙を自分の側へ寄せた。
「写し、もらえますか」
「もちろんです」
その返事で、ようやく手が離れた。
机を片付ける時、戸崎は自分の手帳に一行書いた。約束じゃない、頼んだら来た。書いてから、前に書いた〈来なかった〉へ線を引いた。
詩乃は袖の包みを抱え、部屋を出た。帰ってから続きをほどくのかどうかは、聞かなかった。
小暮は避難先から電話で、上着の写真は昨日撮ったと答えた。
「九時七分に、送ってますね」
戸崎は車を停めてもらい、時刻を読み上げた。
『そうです。写真は、それです』
「脅しを見つけたのは、八時半と聞いています」
『何時かまでは、はっきりしないです。昨日あんなことになって』
「昨日は、店を開けた時、と」
小暮が黙った。
「糸を一度切りましたか。それから、写真を撮った?」
『明日、戻れるんですよね』
戸崎は助手席の膝へ資料を置いた。
「店の中を、一緒に確かめます。糸は」
『俺が縫ったんです』
戸崎は携帯を耳へ押し当てた。運転席の成瀬がこちらを見た。
『あれは、俺が。だから、誰も店へ入ってないんです。鍵も盗られてない。だったら、あそこで仕事しても』
「紙も、小暮さんが?」
『はい』
その先を待つと、小暮は、警察にいてほしかったんです、と言った。
『表に人が見えない時があるでしょう。交代なのか、もう帰っちゃったのか、俺には分からない。遠山さんのところだって……ずっと店にいてもらえたら、閉めなくてよかったから』
戸崎はペンを取った。写真を送ってから糸を通したのかと尋ねると、そうです、と返った。従業員を呼んだのも、自分では通報しにくかったからだという。
『テレビで見たのを。それだけです。人に何かしたとか、そういうんじゃ』
「今伺ったことは、担当にも伝えます」
『待ってください。ここにも来なくなりますか』
今度の声は小さかった。
「今の警戒を、この電話でやめる話はしていません」
『でも、店は』
「明日、決めた時刻に伺います。今日、このあとどうするかは、そちらの担当と話してください」
成瀬が携帯を受け取った。小暮が一人で帰らないよう、そばにいる担当者へ代わってもらい、今の話と明日の予定を伝えた。
再び小暮に代わると、彼女は倉庫にも行きたいと言った。
『誰に聞いたんです』
「詩乃さんから。見本の件で、ご本人から預かった文もあります」
長く返事がなかった。
『あの人には、俺から言います。上着のこと。従業員に』
「いつですか」
『明日、店で。電話だと、切られるかもしれないから』
成瀬は従業員にも来てもらえるか確かめると答えた。電話を切ったあと、戸崎へ携帯を返した。
画面にはまだ、袖の離れた上着が出ていた。戸崎は画像を閉じ、朝に教えた返却窓口へ電話を掛けた。先に伝えなければ、客はまた、何も知らない者に同じ話をさせられる。