電話を掛ける用事を、成瀬は手帳から探していた。
「明日の八時です。飯島さん。帳簿を見る約束が」
午前三時だった。署で電話を取った捜査員が、明日というのは今日か、と訊いた。
「木曜日です。すみません、十七日です」
『分かりました。戸崎さんの手帳にもありますか』
「私が取りました」
『じゃあ、そっちを回してください』
通話を終えると、手術中の表示がまだ赤かった。時刻を書き送った。送信済みになったあとも、文章の頭にある木曜日を見ていた。さっきから、日にちがうまく数えられない。
廊下の向こうに戸崎の家族がいた。成瀬は挨拶した時の姿勢のまま、そこから離れた椅子に座っている。娘には何と伝えたのだろう。訊いてよいことなのか分からず、訊かないまま何時間も経った。
海側へ行ってください。自分の声だけは、何度思い出しても同じだった。そのあとに付けた、誰かと一緒に、も。
二人います、と戸崎は言った。
成瀬は膝の鞄から携帯を出した。今しがた送った文が開いていた。ほかにしておくことはないだろうか。何か一つ思いつけば、その間だけ表示を見ずに済む。
広瀬が自販機から戻り、隣の椅子へ缶を置いた。
「飲め」
「ありがとうございます」
「帰ったら三時間寝ろ。午前の確認は俺が振る」
「仁には私が」
「今、決めるな」
成瀬は缶を取った。熱くて、膝へ戻した。
三時十二分、赤い表示が消えた。
医師の説明を、成瀬は家族の後ろで聞いた。出血は止まった。命に関わる状態は、ひとまず越えた。左脚と骨盤周辺には損傷があり、今の段階で回復の程度は言えない。
ひとまず、というところをもう一度訊きたかった。前に立っている家族が質問をし、医師が答えた。成瀬はそのやり取りを聞く側へ戻った。
椅子の鞄を取る時、持ち手が切れた。
片方だけ手に残り、本体が床へ落ちた。音が大きかった。ファイルが半分飛び出している。成瀬はすぐしゃがみ、紙を押し戻した。表紙の角がファスナーへ引っ掛かった。
「持つから」
広瀬の手が伸びた。
「待ってください」
切れたところを合わせた。毛羽立った布が重なる。指を離すと、持ち手はファイルの上へ垂れた。
「成瀬」
「分かっています」
自分でも驚く声だった。広瀬の手が止まった。
分かっている。直らない。この場で押さえていても。口を閉めようとするとまた布が挟まり、成瀬はそれを引っぱった。余計に裂けそうで手が止まる。
「……少しだけ」
広瀬は何も言わず、鞄の口を持ち上げた。成瀬が布を中へ入れる間、支えていた。
車へ乗る時は、底を抱えた。助手席の足元へ置く場所があるのに、膝から下ろせなかった。
休憩室のソファで目を閉じたはずだった。呼ばれて起きると、成瀬の携帯には六時十九分と出ていた。
仁の車内から押収した封筒が開けられていた。
写真の中に、黒い糸と鍵がある。
「真知さんの部屋ですか」
「確認が取れた」
広瀬は封筒自体の写真も出した。押収時には封が閉じている。開封の痕跡については引き続き確認するという。
仁が持っていた。車の中に。昨夜、娘に会うと言って突っ込んできた車に。
成瀬は写真を机へ置いた。
「この鍵で入った人が、仁とは限りません」
「分かってる」
「真知さんの時は署にいます。遠山さんの時は瀬尾先生の――」
「成瀬」
広瀬が彼女の椅子を引いた。
「誰に言ってる」
成瀬は立ったまま、ホワイトボードを見た。仁の名前があり、その下へ昨夜の日付が追加されている。
「本人に聞きます」
「途中で代わる。そう言ったら代われ」
成瀬は頷き、用意されていたパンを取った。袋を開けると、思ったより口が乾いていた。
仁は鍵の写真を見て、先に封筒の方へ手を伸ばした。
「これ、開けたんですか」
「あなたの車から押収した物です。中は、これでした」
「そうですか」
仁が写真を押し返した。
「瀬尾先生は」
「接見の申入れが来ています」
「先に会わせてください」
成瀬は記録係へ目を向け、確認を頼んだ。戸口が閉まるまで仁は黙っていた。そのあとで、封筒へ視線を戻した。
「手紙かと思ってたんです」
「誰の」
「娘です。俺には言えないことを、書いたのかって」
「どこで受け取りました」
「会社。先週です」
問いを重ねると、仁は携帯を見れば分かる、と何度も言った。送り主のアドレスはその都度違った。以前、娘の写真を送ってきた者と同じだと思った。封筒はそのまま持っておけと言われ、昨日は持参するよう求められた。
「開けなかったんですか」
「開けるなって書いてあった」
「その人に言われたから」
「詩乃が説明するって。本人が」
仁はそこだけ顔を上げた。
「鍵だったんですね」
「川瀬真知さんの部屋の鍵です」
「俺、あの人の部屋、知りませんよ」
仁の手が机を離れた。膝の上で何かを握り、そのまま黙った。
成瀬は次の紙へ移ろうとした。
「昨日の人」
仁が言った。
「どうなりました」
「手術を終えました」
「生きてるんですね」
「はい」
仁が長く息を吐いた。肩が下がる。それを見た途端、成瀬は紙をめくる手を止めた。
「止まってくださいと言われていましたね」
「止まったら詩乃が帰るって――」
「止まれと言われた声は、聞こえていましたね」
「聞こえてました」
「それで進めた」
「前に出てくるから。あの人たちが。下がればよかったんです」
写真を重ねようとした手が止まった。成瀬は仁を見た。下がれば。戸崎は今も、寝返り一つ自分で打てないかもしれないのに。
机の隅に置いたコップへ、手を伸ばした。水を飲んでも言葉が変わる気はしなかった。
今のところを、もう一度。その問いを出す前に、広瀬が戸を開けた。
成瀬は廊下へ出た。
「代わる」
「続けられます」
「そういう話をしたか」
成瀬は手元を見た。写真の角を折っていた。伸ばすと、爪の形の白い線が残った。
「止めろと聞こえていたか、二度聞きました。記録は前から全部残してください」
「分かった」
戸が閉まり、成瀬は椅子に座った。写真を持ったままだったので、戻して渡した。仁の顔を見なかった。
午前の確認を終えた捜査員が、仁の答えを持ってきた。
写真館では、宇津木は立ち上がり、娘を出せと怒鳴った。仁は出入口を閉め、車に乗った。以前の話と変わっていない。
「最後に、自分が娘を出していたら、あの人たちは死ななかったかもしれない、と」
成瀬はその前後を読んだ。
仁は殺したとは言っていなかった。どこまで自分のせいなのか分からない、と言い、弁護士はまだかと訊いている。
「そこだけ、まとめないでください」
「このままですね」
「はい」
返した紙の下に、戸崎の手帳があった。病院から届いた所持品の一つだった。
成瀬は必要な頁を開いた。物流センターのところは時刻欄が空いている。矢印の先に、行く、と走り書きがあった。
人かもしれない、の次に。
手帳を閉じると、もう読むところがない気がしてしまった。成瀬は開き直した。手前に、恵から仕事の控えを借りる予定があった。自分の手帳にはない。
恵へ掛けると、金額のことですか、と疲れた声が返った。
「ご主人が、仕事の途中でどこへ行こうとしたかを。控えも、もう一度見せていただきたいんです」
『明日なら。午前は、こちらから電話するところがあって』
「午後に伺います」
戸崎の机へ入れておくつもりだった紙を、自分の手帳へ挟んだ。明日の飯島の分もある。成瀬は両方の住所を確かめ、移動に要る時間を書き込んだ。