九月二日の昼すぎ、中古工具店の棚の前で、戸崎岳は電話を掛けた。
安田という名の男は、南浦署と聞いただけで、俺じゃない、と言った。
「まだ何も聞いてないですよ」
『野本に言われたんでしょ』
電話の向こうで機械が鳴り、声が消えた。戸崎は耳へ携帯を押しつけた。店主がカウンターからこちらを見ている。今朝から三軒、盗まれた工具の写真を見せて回った。その三軒目で、ようやく持主ではない男へ電話をしていた。
「昨日、どちらにいました?」
『だから俺じゃないんですよ。あんた聞いてます?』
「聞いてます。今、仕事ですか」
『そうだよ』
「何分なら話せます」
『終わってから』
「何時ですか」
『知らねえよ、まだ終わってないんだから。俺の腰袋は捨てたくせに、自分の道具なくなったら警察かよ』
通話は切れた。
店主が眼鏡を外した。
「忙しいって?」
「ええ。俺以外みんな」
「あんたも忙しいじゃない。朝からこんなの追っかけて」
「こんなのって、被害者に言わないでくださいよ」
「言わないよ。買いに来るんだから」
戸崎は棚へ戻した工具の向きを直した。持ち手のゴムが擦れ、消した会社名の上から別の名前が書いてある。盗まれたインパクトドライバーと同じ青色だったが、製造番号が違う。写真の方はまだ傷も少なかった。
南浦駅東口で、元学習塾を診療所と薬局に変える工事が進んでいる。資材置場から工具とバッテリーがなくなった。先週現場を辞めた安田が怪しい、と監督は言った。金のことで揉めた。鍵の番号を知っている。道具への執着がある。
筋の通る話だった。朝は。
「番号の合うのが来たら、夜でも電話ください」
「寝てたら?」
「起きてからで」
「名刺、三枚あるよ」
戸崎は出しかけた四枚目を戻した。
現場監督の野本は、資材置場の前で携帯を二台持っていた。片方の通話を終えて、もう片方で届いた写真を開く。
「違うんですよ、これじゃ。バッテリーが使えない。ああ、もう。店の人に代わって」
戸崎は壁に沿って待った。廊下を石膏ボードが通り、野本の背に当たりそうになった。野本は避けながら、もう一本の電話を耳へ当てた。
「安田、つかまりました?」
通話の切れた方を胸ポケットへ入れてから言った。
「話の途中です。今、工具買いに?」
「一本を三人で使ってるんです。借りたの返せって言われてるし。仕事にならない」
「鍵の番号、ここへ入った業者はみんな知ってます?」
野本の目が番号錠へ動いた。
「そりゃ、出し入れするから」
「昨日の最後は」
「俺。七時前です」
「そのあとに残った人は?」
「上に電気屋が二人。でも、あの人らは」
「その二人だけ飛ばす理由あります?」
野本は戸崎を見た。胸の電話が振動していたが、今度は取らなかった。
「今、まともに来てくれてる連中を、疑えっていうんですか」
「来なくなった人だけで済ませると、また朝から三軒回るんで」
戸崎が言うと、野本は少し顔をしかめた。
「俺が行かせたみたいな」
「行ったのは俺です。名簿、全員分ください」
野本が事務室へ向かう間に、戸崎は資材置場をもう一度見た。延長コード、脚立、箱に入った丸ノコ。盗まれた工具の充電器がコンセント脇に残っていた。バッテリーを使い回せる人間なのか、充電器までは要らなかったのか。朝も同じことを考えた。その時にはどちらを考えても安田へ行き着いていた。
野本が名簿を持って戻った。退職者の名も残っている。
「辞めた人の連絡先、今も使えます?」
「先週までは。俺は掛けてない」
「腰袋を置いていった人、いませんか」
「ありますよ。誰のだか分からないのが」
「捨てたんじゃなく?」
「捨てませんよ、道具は。ほら」
野本は棚の下から汚れた袋を出した。戸崎は写真を撮った。安田のものか、まだ分からない。持主を確かめる前に、見つかりましたとは言えなかった。
玄関の上には薬局が付けた小さなカメラがあった。工事中も録画しているという。夕方から今朝までの映像を保存するよう、管理者へ連絡を頼んだ。
「映ってたら、言いましたよねって言っていいですか」
野本が言った。
「映ってから言いましょう」
「言いますよ」
「はい」
野本はようやく電話を取った。戻ってくる車の誘導をしながら、もう戸崎の方は見なかった。
安田から折返しが来たのは、午後三時を回ってからだった。
『何分って、何分掛かるんです』
「昨日いた所が分かれば、そっちへ確認します」
『戸田。夜間工事です。十一時まで。会社の名前言いますよ』
戸崎は車のボンネットに手帳を置いた。安田は会社名を言い、元請けの担当者まで教えた。番号錠はまだ覚えている。同じメーカーの道具は使っているが、自分の分を持っている。
『あの番号、みんな知ってますからね』
「聞きました」
『最初に俺の所来たんだ』
「そこ、早かったです。すみません」
謝ると、向こうが静かになった。
戸崎は腰袋の写真を送ってよいか訊いた。届いた音がしてから、長い沈黙があった。
『それ、どこにあったんですか』
「棚の下です」
『ないって言ったんだ、あいつ』
安田の声がひっくり返った。機械を避けて外へ出たのか、背後に風の音がした。
『俺、名前書いてないのが悪いって。名前なんか、こんなの、見りゃ分かるじゃないですか。毎日つけてて』
戸崎はペンを止めた。
『捨てたんだろって俺が言ったんです。そしたら、勝手にしろって』
「中を確かめますか」
『買いましたよ。もう。ないと働けないから』
「それでも、残しておいてもらいます」
『……俺が頼んだって言わないでください』
それは約束できるともできないとも言わず、戸崎は、引取の話はまたこちらから、と答えた。電話を切ってから野本へ連絡した。ああ安田のか、と野本は言った。あんな所へ置くから。
そこから先を、戸崎は聞かなかった。
元請けの担当者が安田の昨夜の勤務を確かめた。作業日報も送れるという。戸崎は礼を言って、ようやく昼を買いに行った。
娘から写真が届いていた。
菓子箱と色紙で作った駅だった。屋根のないホームに、紙の人形が三つ立っている。
日曜、箱もってきて。
何の箱、と返すと、細長いの、と来た。ティッシュの箱を撮って送ると、違う。菓子棚の箱でも、小さい。
戸崎は商品を戻した。工具には番号があった。
夜、元妻から電話が来た時、戸崎は空のラップの箱を靴に並べていた。娘から追加で〈お父さんの足くらい〉と届いていたのだ。
「今、大丈夫?」
「箱、縦と横どっちなの」
「知らない。本人に聞いて」
向こうで娘を呼ぶ声がした。歯ブラシを持ってどこかへ行ったらしい。前もそうだった、と戸崎が言いかけると、もう磨いたでしょ、と母親が言った。終わったのに持って歩いているのか。
「見に来れば分かる」
電話へ出た娘はそう言った。
「日曜に持っていく箱を、今知りたいんだよ」
「二個あれば」
「大きいのと小さいの?」
「大きいの二個。切る」
「そっか」
戸崎は流しの下の段ボールを引き出した。日曜は八時半に迎えに行く。そう約束すると、娘はもう別の話をしていた。駅の前に池を作るかもしれない。池があれば車が入れない。それでは困るのだという。
電話が母親へ戻った。
「休み、大丈夫なの?」
「取ってある」
「取ったのは聞いたよ」
戸崎は黙った。
「駄目になったら、まず私に言ってね。あの子にまた今度って言って終わりにしないで」
「分かった」
通話を終え、箱を玄関へ置いた。縦横がまだ分からないので、二つとも畳まずに残した。靴を脱ぎ直すだけの場所が狭くなった。
娘へ駅の写真をもう一枚頼もうとして、やめた。
仕事の画面を開く。工具はまだ出ていなかった。明日はカメラと、電気工事の二人に会う。安田の腰袋も、誰が持っていくのか決まっていない。