迎えのない朝

最新版第十改稿版版を確認する →

CHAPTER 04 / 28

第三章 撮影室

五時五十七分の電話で起こされ、戸崎は玄関の箱を蹴った。

 大きな方を壁へ寄せ、小さい方をまたぐ。携帯の向こうで当直が写真館の場所を言っていた。川沿いの、もう営業していない店だ。

『宮下って内装屋が見つけた。免許証は宇津木健、五十二。手に糸が通ってるそうだ』

「糸って、縛られてる?」

『そこまでは聞いてない。地域が先着してる』

 戸崎は顔を洗って車へ乗った。工具窃盗の資料を助手席から後ろへ移し、エンジンを掛ける。朝の道は、いつもの出勤よりまだ空いていた。

 写真館へ近づくと、道が一台のワゴンで塞がれていた。運転手が窓から、どこへ停めればいいのだと警察官に訊いている。もう一人の警察官が敷地内の車を寄せ、救急隊員が空の担架を運び出してきた。

 戸崎は近くへ車を置いて歩いた。規制線の外で隣人がゴミ袋を抱え、今日はここへ出してよいのかと待っていた。警察官の一人が収集場所までついていった。

 現場に入った人間の名簿へ名前を書く間、奥からシャッター音が聞こえた。

 撮影室の床で、男が横を向いていた。

 低い椅子から落ちたような姿勢だった。向かいに丸椅子があり、照明の脚の間には、使い終わった背景紙が巻かれている。男の作業着の膝は白く擦れ、ほどけた左の靴紐が床へ伸びていた。

 腹の前の両手に、黒い糸が渡っている。

 戸崎は近づきかけ、床に引かれた線を見て止まった。縛るというには指の間が空きすぎていた。皮膚から糸が出て、別の指へ潜っている。掌は少し上へ向き、左右の小指の間だけ短くまっすぐつながっていた。

 顔を見た途端、戸崎は自分の唇を舌で触った。

 上下の唇にも、黒い糸が通っていた。

「新見さん」

 しゃがんでいた新見郁子が顔を上げた。ライトを持ったまま、戸崎の足元を見る。

「そこなら大丈夫。何?」

「生きてる時に、これを?」

「まだ言えない。解剖で確認する」

「首も見てもらえますか」

「見てます。痕はある。もう一歩後ろへ下がって」

 戸崎が動くと、照明の影が消えた。新見は記録係を呼び、ライトを寝かせた。

「右手から。小指は別に寄って撮って」

「そこ、やっぱり違うんですか」

「うん。ほかの指とは別になってる」

 戸崎は手帳へ書こうとした。合掌、と浮かんだ言葉を、そのまま書く気にはなれなかった。両手は合っていない。男の向かいの椅子は空いていた。

 部屋の形を描いた。

 宮下は自分のワゴン車で、コーヒーを両手に包んでいた。六十二歳。今日から始まる内装工事のため、五時半すぎに来たという。

 戸崎が身分を示すと、宮下は先に言った。

「仕事、いつになったら」

「今日は入れません」

「そうですよね」

 承知していたように頷き、紙コップを足元へ置こうとした。膝から遠すぎたので、戸崎が受け取ってステップへ載せた。

「声掛けて、肩触って、倒れちゃったんです。それは言いました。俺から倒したみたいになってません?」

「動かした所を教えてもらえれば、その前と分けて調べます。何度もですみません。入った時から、もう一度いいですか」

 宮下は戸口の向こうを見た。

 正面の鍵は閉まっていた。昨日、管理者から預かった鍵で開けた。室内に明かりはついていなかった。窓からの光で、奥に座っている男が見えた。寝ているか、勝手に入った人かと思った。会社へ作業に入れないと連絡して、近づいた。

「丸い椅子は動かしました?」

「触ってないです」

「男の方の肩は、どちらでした?」

 宮下は右手を上げ、自分の肩へ触れかけた。

「こっち。右です。俺が、こう」

「右肩ですね」

「ちゃんと寝かせてやればよかったのかな。首、変なふうに」

「一一九番は、そのあと?」

 宮下が頷いた。住所を間違えたことまで言い、途中で息をついた。

 鍵を渡したのは北原仁。建物の管理をしている北原工業の人で、昨日の夕方、写真館の外で受け取った。宮下が来る前に仁が中へ入ったかどうかは知らない。

 名刺を探すため、宮下が身体を捻った。そこで顔色が変わり、戸崎は鞄を後ろの席から取った。

「休みましょう。中を見るのも、今はやめておいて」

「目、閉じる方が駄目なんです」

 宮下は窓の外の一点を見た。

 そこへ黒い車が入り、女が降りてきた。肩の黒い鞄がドアに挟まり、一度開け直す。紺のパンツスーツで、戸崎より幾つか若い。迷わず手帳を示して近づいた。

「県警本部の成瀬です」

「南浦署、戸崎です。こちらは宮下さん。今は少し休んでもらってます」

 成瀬は宮下へ会釈した。

「鍵について、一点だけ伺えますか」

 宮下が戸崎を見た。答えなければならないのかと訊く顔だった。

「それは俺から伝えます」

「ご本人の言葉で確認したいんです」

「休んだあとに。今聞いたばかりです」

 成瀬の手が、鞄の口で止まった。

「……分かりました」

 二人は車を離れた。戸崎は鍵の受け渡しを伝え、仁の名刺を見せた。成瀬が聞きたかったのも、昨日仁が建物へ入ったかどうかだった。

「会社へ連絡した時刻も、こちらで確認します。休憩が終わったら声を掛けていただけますか」

「宮下さんが話せそうなら」

「はい」

 成瀬は名刺の住所を書き、現場の方へ向いた。戸崎は名刺をしまい、車内を振り返った。

 宮下はまだ同じ所へ顔を向けていた。

 成瀬は撮影室へ入ると、遺体を見る前に裏へ続く扉を確かめた。先着の署員が、裏口は無施錠だった、と説明する。

「外から壊した跡は?」

「今のところありません」

 手元まで来ると、成瀬は戸崎と同じ所で足を止めた。

「小指の糸だけ、ほかと違いません?」

 新見はカメラの画面を確かめながら頷いた。

「寄りも撮った」

「お願いします」

 成瀬はそれ以上近づかなかった。戸崎が横へずれると、新見から空の小袋を渡された。

「予備の電池。外の箱にあるから。単三を四本」

「四本ですね」

「袋は戻してね。中にあんパン入れなくていいから」

 成瀬が戸崎を見た。

「前に借りたの返したんです。お礼も一緒に」

「賞味期限の日だった」

 新見はもう手元へ戻っていた。戸崎が外へ出ると、鑑識の車の横では、二人の警察官が次の撮影機材を下ろしていた。一人が電池の箱を出してくれた。

 建物脇の軽トラックの運転席に、丸めた軍手が見えた。ドアに小さく〈ひと箱便〉と書いてある。宇津木名義で、荷台は空だった。

 成瀬が遅れて外へ出てきた。携帯の相手へ、身元が取れたことと、これから家族への連絡を進めることを答えている。

「広瀬さんから、当面戸崎さんと組むように言われました」

 電話を切ってから、成瀬が頭を下げた。

 戸崎も会釈をした。

「北原に先に行きます?」

「奥さんは、まだ御存じないんですよね」

「まだです」

「そちらを先に。知らない方から伝わる前に伺いたいです」

 戸崎は軽トラックへ目を戻した。この小さい車が、昨日は家の前を出ていった。待っていた人は、工事現場で夜を明かしたのだと思っているのかもしれない。

「行きましょう」

 成瀬が鞄を持ち直した。持ち手の根元に、白い繊維が出ている。

「その鞄、切れません?」

「下を持っています」

「そうだけど」

 成瀬は鞄を抱えたまま、車まで歩いた。戸崎は電池をまだ渡していなかったことに気づき、写真館へ引き返した。

読んだ位置は、このブラウザに自動で保存されます。

目次

迎えのない朝

  1. 01序章
  2. 02屋根のない駅
  3. 03名前を知っている
  4. 04撮影室読書中
  5. 05今日の配達
  6. 06冬を越した箱
  7. 07店を開ける人
  8. 08鍵を渡すまで
  9. 09部屋へ戻る服
  10. 10使わない鍋
  11. 11二人目
  12. 12青い丸
  13. 13三つの現場
  14. 14紺の半袖
  15. 15片方の補助輪
  16. 16店の中
  17. 17返す服
  18. 18店じまい
  19. 19積込口
  20. 20一人分
  21. 21手を貸す
  22. 22言い分
  23. 23返す日
  24. 24丸を消す
  25. 25迎えに来る人
  26. 26あと一歩
  27. 27向かいの席
  28. 28終章 迎えのない朝

読みやすく整える

文字の大きさ
背景の色

設定と読んだ位置はこのブラウザだけに保存されます。別の端末には同期されません。