五時五十七分の電話で起こされ、戸崎は玄関の箱を蹴った。
大きな方を壁へ寄せ、小さい方をまたぐ。携帯の向こうで当直が写真館の場所を言っていた。川沿いの、もう営業していない店だ。
『宮下って内装屋が見つけた。免許証は宇津木健、五十二。手に糸が通ってるそうだ』
「糸って、縛られてる?」
『そこまでは聞いてない。地域が先着してる』
戸崎は顔を洗って車へ乗った。工具窃盗の資料を助手席から後ろへ移し、エンジンを掛ける。朝の道は、いつもの出勤よりまだ空いていた。
写真館へ近づくと、道が一台のワゴンで塞がれていた。運転手が窓から、どこへ停めればいいのだと警察官に訊いている。もう一人の警察官が敷地内の車を寄せ、救急隊員が空の担架を運び出してきた。
戸崎は近くへ車を置いて歩いた。規制線の外で隣人がゴミ袋を抱え、今日はここへ出してよいのかと待っていた。警察官の一人が収集場所までついていった。
現場に入った人間の名簿へ名前を書く間、奥からシャッター音が聞こえた。
撮影室の床で、男が横を向いていた。
低い椅子から落ちたような姿勢だった。向かいに丸椅子があり、照明の脚の間には、使い終わった背景紙が巻かれている。男の作業着の膝は白く擦れ、ほどけた左の靴紐が床へ伸びていた。
腹の前の両手に、黒い糸が渡っている。
戸崎は近づきかけ、床に引かれた線を見て止まった。縛るというには指の間が空きすぎていた。皮膚から糸が出て、別の指へ潜っている。掌は少し上へ向き、左右の小指の間だけ短くまっすぐつながっていた。
顔を見た途端、戸崎は自分の唇を舌で触った。
上下の唇にも、黒い糸が通っていた。
「新見さん」
しゃがんでいた新見郁子が顔を上げた。ライトを持ったまま、戸崎の足元を見る。
「そこなら大丈夫。何?」
「生きてる時に、これを?」
「まだ言えない。解剖で確認する」
「首も見てもらえますか」
「見てます。痕はある。もう一歩後ろへ下がって」
戸崎が動くと、照明の影が消えた。新見は記録係を呼び、ライトを寝かせた。
「右手から。小指は別に寄って撮って」
「そこ、やっぱり違うんですか」
「うん。ほかの指とは別になってる」
戸崎は手帳へ書こうとした。合掌、と浮かんだ言葉を、そのまま書く気にはなれなかった。両手は合っていない。男の向かいの椅子は空いていた。
部屋の形を描いた。
宮下は自分のワゴン車で、コーヒーを両手に包んでいた。六十二歳。今日から始まる内装工事のため、五時半すぎに来たという。
戸崎が身分を示すと、宮下は先に言った。
「仕事、いつになったら」
「今日は入れません」
「そうですよね」
承知していたように頷き、紙コップを足元へ置こうとした。膝から遠すぎたので、戸崎が受け取ってステップへ載せた。
「声掛けて、肩触って、倒れちゃったんです。それは言いました。俺から倒したみたいになってません?」
「動かした所を教えてもらえれば、その前と分けて調べます。何度もですみません。入った時から、もう一度いいですか」
宮下は戸口の向こうを見た。
正面の鍵は閉まっていた。昨日、管理者から預かった鍵で開けた。室内に明かりはついていなかった。窓からの光で、奥に座っている男が見えた。寝ているか、勝手に入った人かと思った。会社へ作業に入れないと連絡して、近づいた。
「丸い椅子は動かしました?」
「触ってないです」
「男の方の肩は、どちらでした?」
宮下は右手を上げ、自分の肩へ触れかけた。
「こっち。右です。俺が、こう」
「右肩ですね」
「ちゃんと寝かせてやればよかったのかな。首、変なふうに」
「一一九番は、そのあと?」
宮下が頷いた。住所を間違えたことまで言い、途中で息をついた。
鍵を渡したのは北原仁。建物の管理をしている北原工業の人で、昨日の夕方、写真館の外で受け取った。宮下が来る前に仁が中へ入ったかどうかは知らない。
名刺を探すため、宮下が身体を捻った。そこで顔色が変わり、戸崎は鞄を後ろの席から取った。
「休みましょう。中を見るのも、今はやめておいて」
「目、閉じる方が駄目なんです」
宮下は窓の外の一点を見た。
そこへ黒い車が入り、女が降りてきた。肩の黒い鞄がドアに挟まり、一度開け直す。紺のパンツスーツで、戸崎より幾つか若い。迷わず手帳を示して近づいた。
「県警本部の成瀬です」
「南浦署、戸崎です。こちらは宮下さん。今は少し休んでもらってます」
成瀬は宮下へ会釈した。
「鍵について、一点だけ伺えますか」
宮下が戸崎を見た。答えなければならないのかと訊く顔だった。
「それは俺から伝えます」
「ご本人の言葉で確認したいんです」
「休んだあとに。今聞いたばかりです」
成瀬の手が、鞄の口で止まった。
「……分かりました」
二人は車を離れた。戸崎は鍵の受け渡しを伝え、仁の名刺を見せた。成瀬が聞きたかったのも、昨日仁が建物へ入ったかどうかだった。
「会社へ連絡した時刻も、こちらで確認します。休憩が終わったら声を掛けていただけますか」
「宮下さんが話せそうなら」
「はい」
成瀬は名刺の住所を書き、現場の方へ向いた。戸崎は名刺をしまい、車内を振り返った。
宮下はまだ同じ所へ顔を向けていた。
成瀬は撮影室へ入ると、遺体を見る前に裏へ続く扉を確かめた。先着の署員が、裏口は無施錠だった、と説明する。
「外から壊した跡は?」
「今のところありません」
手元まで来ると、成瀬は戸崎と同じ所で足を止めた。
「小指の糸だけ、ほかと違いません?」
新見はカメラの画面を確かめながら頷いた。
「寄りも撮った」
「お願いします」
成瀬はそれ以上近づかなかった。戸崎が横へずれると、新見から空の小袋を渡された。
「予備の電池。外の箱にあるから。単三を四本」
「四本ですね」
「袋は戻してね。中にあんパン入れなくていいから」
成瀬が戸崎を見た。
「前に借りたの返したんです。お礼も一緒に」
「賞味期限の日だった」
新見はもう手元へ戻っていた。戸崎が外へ出ると、鑑識の車の横では、二人の警察官が次の撮影機材を下ろしていた。一人が電池の箱を出してくれた。
建物脇の軽トラックの運転席に、丸めた軍手が見えた。ドアに小さく〈ひと箱便〉と書いてある。宇津木名義で、荷台は空だった。
成瀬が遅れて外へ出てきた。携帯の相手へ、身元が取れたことと、これから家族への連絡を進めることを答えている。
「広瀬さんから、当面戸崎さんと組むように言われました」
電話を切ってから、成瀬が頭を下げた。
戸崎も会釈をした。
「北原に先に行きます?」
「奥さんは、まだ御存じないんですよね」
「まだです」
「そちらを先に。知らない方から伝わる前に伺いたいです」
戸崎は軽トラックへ目を戻した。この小さい車が、昨日は家の前を出ていった。待っていた人は、工事現場で夜を明かしたのだと思っているのかもしれない。
「行きましょう」
成瀬が鞄を持ち直した。持ち手の根元に、白い繊維が出ている。
「その鞄、切れません?」
「下を持っています」
「そうだけど」
成瀬は鞄を抱えたまま、車まで歩いた。戸崎は電池をまだ渡していなかったことに気づき、写真館へ引き返した。