月曜日、病院へ向かう車の中で、仁が供述を変えたと連絡が来た。
戸崎はハンズフリーにせず、路肩へ停めて電話を取った。弁護士と接見したあと、宇津木の胸を押したと言い始めたのだという。
『よろけて椅子を倒した。自分で立ち上がった。そこからまた言い合いになった、と』
「手は出してないと言ってました」
『殺したことにされると思って隠したそうだ。戻ったら続きをやる』
広瀬からの電話を切ると、成瀬が手帳を閉じた。
「立ったというのも、本人の話なんですね」
「何回聞けば、全部出てくるんでしょうね」
「こちらが確かめます」
戸崎は車を出した。昨日の工場の鍵を握っていた手が、宇津木を押した。別のことを考えようとしても同じ手になる。
病室では、詩乃が膝へ薄い毛布を掛けていた。
医師の許可した短い面談で、支援担当者が同席した。成瀬が椅子へ座る前に、詩乃は服を取りに行けるのかと訊いた。
「借りている部屋に、あるんです」
「必要な物を書いて、担当の方と相談しましょうか」
成瀬が答えた。戸崎は仁の家にあった箱を思い出した。
「父の所のは、いらないです」
詩乃が先に言った。
「ええ。御自分の部屋の物ですね」
成瀬は紙を一枚もらい、枕元へ置いた。詩乃はペンを取ろうとして、やめた。
「あとでも?」
「あとで大丈夫です」
紙だけを二つに折り、詩乃は膝の上へ置いた。
八月十四日、父親から連絡があった。小暮の店とは別に使っている作業場所を知っている、と。翌十五日、その倉庫の前で会った。部屋までは知られたくなかったので、そこならと思ったという。
「お母さんの布を、捨てる前に見てほしいって」
詩乃の指が紙の折り目を押した。
「それで工場へ?」
「布を見たら、帰るって言いました」
「何の布ですか」
戸崎が訊くと、詩乃は少し顔を上げた。
「母が、使わなかったの。服にするって買って、そのまま。型紙も」
父親の車で、住んでいる所や会っている人を訊かれた。答えずにいると、仕事の話になった。小暮のことだった。工場で携帯を出すように言われ、渡した。話せば返してもらえると思った。
最初の日には、扉に鍵はなかった。外へ出ようとすると止められ、次には金具がついていた。
「前からあった金具ですか」
「なかったです。昔、みんな御飯食べてた部屋なので」
成瀬がペンを止めた。
「残って話をすることには、同意していなかった、でいいですね」
詩乃の顔が上がった。
「父が、そう言ったんですか」
「約束した、と話しています」
「してません。布を見たら帰るって。言いました、さっきも」
「はい」
「じゃあ、なんで」
支援担当者が身体を少し寄せた。詩乃はそちらを見ず、紙を膝から持ち上げた。折り目が潰れていた。
「父に聞いてください。私が何て言ったか。どうせ聞かないから、私に何回も」
成瀬はペンを置いた。
戸崎は、布を見たら帰ると伝えたんですね、と訊いた。詩乃は頷いた。
「それを記録します」
成瀬は同じ文を書き直さず、書いてある行の下へ線を引いた。紙を取ろうとしていた詩乃の手が膝へ戻った。
十六日夜の休業連絡は、父親が隣にいて書かせたものだった。家のことなら嘘ではないと、文まで決めた。二十日ごろの体調を伝える返信には触っていない。その日は携帯を持たせてもらえなかったという。
「助けてほしいと、誰かへ送れたことは」
「書いたことなら。一回だけ」
詩乃はそこで止まった。父親の目の前で、書いたものを消した。それからは触る時も横に立たれた。
戸崎は手帳に予定した問いを、一つ飛ばした。
九月二日の夜のことを訊くと、詩乃は夕飯より前に父が出た、と答えた。部屋に時計はなかった。戻った時は暗く、弁当を二つ持っていた。
「お父さんは、何か話しましたか」
「怒ってました。あいつも同じだって」
「誰のことかは?」
「訊くと、私に怒るから」
戸崎はペンを止めた。
「でも、あとで。宇津木なんかに頼っても、最後は何もしないって」
名前を聞き違えていないか確かめると、詩乃は、宇津木さんです、と言った。去年家を出た時、荷物を運んでもらった人だった。以前にも父親がその名を出したことがある。
それ以上を急いで訊きたくなり、戸崎は一度、手帳から目を上げた。詩乃の指が毛布を引いていた。
「休みますか」
成瀬が言った。
詩乃は首を振った。
「まだ、私が聞いてないので」
二人が待つと、彼女は戸崎を見た。
「父に、どこまで言いましたか」
「安全が確認できたことだけです。居場所は伝えていません」
「病院も?」
「はい」
長く黙ってから、迎えはいらないです、と言った。
「分かりました」
「……今は」
成瀬が手帳を閉じた。支援担当者が水を勧めると、詩乃はコップの底を見た。
「冷たいの、ありますか」
「持ってきますね」
「あ、これでも」
詩乃の声が小さくなった。支援担当者は、自分も冷たいものを飲むので、と言って出ていった。戻ってきた水を、詩乃は両手で受け取った。
宇津木の死については、面談を終えてから支援担当者が伝えることになっていた。
戸崎は廊下でその確認をし、病室の扉が閉まるのを見た。成瀬は持物の紙を預けるため、もう一度担当者を呼んだ。
署へ戻ると、面会室の前に紺のスーツの男がいた。膝に薄い鞄を載せ、携帯へ、自分が戻ってから聞く、と言っている。
「事務員に決めさせないでください。予約は私抜きで始めて。……はい」
電話を切り、瀬尾直人ですと名刺を出した。北原の弁護人だという。
「供述の訂正は、先生から?」
戸崎が訊いた。
「接見の内容には、お答えしません」
瀬尾の声は硬くなかった。
「ただ、本人が訂正したのは承知しています。監禁の件とは分けて、調べていただきたい」
「監禁については、引き続き捜査します」
成瀬が言うと、瀬尾は頷いた。
「それはもちろん。行為が軽いとは思っていません。身柄を拘束する必要については、こちらからも意見を出します」
戸崎は名刺をしまった。話はそこで終わった。
瀬尾の携帯がまた鳴った。食べました、と答えながら歩いていく。長椅子の上には、開けていないサンドイッチが残っていた。戸崎が呼び止めると、瀬尾は電話を肩へ挟んで取りに戻った。
仁は、押した時の話をするより先に、娘は何を言ったのかと訊いた。
「ここでは宇津木さんの話を聞きます」
戸崎が答えた。仁の目が成瀬へ動いた。
「胸を押したのは、何を言われた時ですか」
「娘を出せって、しつこく」
「押したあとにも?」
「言いましたよ。だから、帰ったんです。弁当も買わないといけなかった」
戸崎は机へ手を置いた。
「工場へ来るとは思いませんでしたか」
「来るなら来ればいい。そこで話します」
「昨日、俺たちには鍵を渡さなかったでしょう」
「渡したじゃないですか」
「最後には」
仁は唇を結んだ。戸崎は昨日の時間を取り戻すように、言葉を足した。
「宇津木さんにも、あそこで娘が弱ってる、親がいないと分からないと言うつもりだった?」
「分からないでしょう。あなたも、この間まで」
「今は俺の話をしてません」
声が大きくなった。仁は椅子へ背をつけた。
「来られたら、困ったんじゃありませんか」
「来なかったですよ」
「来られなかったんです」
仁が戸崎を見た。
「それ、俺に言うんですか」
紙コップの脇の手が動かなくなった。戸崎が待っても、仁は続きを話さなかった。
成瀬が略図を机へ出した。
「写真館を出る時のことを伺います。宇津木さんは、どこにいましたか」
「撮影室」
「立っていましたか」
「立ってました」
「こちら側ですか。それとも」
成瀬はペンを渡した。仁が自分で位置を示すと、図を戻し、その時の言葉を訊いた。戸崎は両手を机から離した。昨日鍵をもらった掌が、汗ばんでいた。
新見の部屋で写真を見る時には、夕方になっていた。
左右の小指の間の糸は、そこで結ばれ、切られていた。ほかの指へ渡る糸とは別だった。
「一本だけ、わざわざ別に?」
成瀬が訊いた。
「全部を固定するだけなら、これはなくてもいい」
新見が結び目を順に示した。
「手も、唇も、糸を通したのは死後と考えていい。布を縫うのとは違うから、縫製の腕をここへ結びつけないでね」
「工場の糸は」
「比べるよ。小暮の店のも、持ってきて」
成瀬が流出した画像を隣へ出した。拡大しても指の輪郭が崩れる。短い一本は皮膚の影に溶け、結び目まで見えなかった。
「この寄りの写真を見せた相手は、必ず残してください」
成瀬が言った。配付先の確認が済み、写真が伏せられた。
戸崎は自分の小指を曲げた。昔、娘に何を約束させられたのかを思い出しかけたが、やめた。
廊下ではコピー機が紙を噛み、記録係の警察官が腰を落としていた。戸崎もしゃがみ、見えている切れ端を引いた。破れたので、もう一度奥へ手を入れた。
仁への匿名連絡は、会社の問い合わせフォームに残っていた。
八月十三日の午前零時を少し回った時刻。名前欄は空白、返信先のアドレスはその後使われていない。本文に、小暮の店とは別の場所に娘らしい人が出入りしている、とあり、写真が一枚添えられていた。
窓と庇。ガラスの向こうの作業台。そこへ向いた女の後ろ姿。
戸崎は昨日救出した詩乃と、写真の女を見比べた。背筋を少し曲げ、手元を見ている。あの部屋で袖を握っていた姿とは違う。
「撮った人は?」
「まだ。フォームを通った画像なので、元の撮影情報はほとんど残っていません。送信元の照会は続けています」
担当者が答えた。
「これを送ったら、父親が行くだろうとは思わなかったのか」
戸崎は言い、成瀬を見た。
「行ってほしくて送ったのかもしれません」
彼女は画面を自分へ向けず、窓の外側を指した。
「撮影した人には、この女の人の仕事が見えています」
戸崎は枠の外へ目を移した。写真を撮れる場所がある。仁より前から、この倉庫を知っていた人がいる。
名前のない欄は、そのままだった。
火曜日になっても、工場から出た衣類の鑑定は揃わなかった。
仁は監禁の件で検察へ送られ、瀬尾は身柄拘束を続ける必要がないとの意見を出していた。工場は捜索され、詩乃の安全は確保されているという。戸崎はそれを聞き、写真館の事件はどうなるのかと訊いた。
「別に必要な材料を出す。弁護人が釈放を求めるのは当然だ」
広瀬が答えた。
「出て、詩乃さんへ行ったら」
「それも考えている。気になったことを、気になったまま持ってくるな。今日確認できることをやれ」
成瀬は支援担当の連絡先を開いた。詩乃への窓口と、誰がどこまで父親へ話すのかをもう一度確かめるという。戸崎は恵へ掛け直した。
十月の引越し予約が一枚、箱に残っていた。
『この人には、私から言っていいんですよね。行けないって』
「はい。伺った時に、一緒に確認しましょう」
『何て言えばいいんでしょう。急な事情でって。別の人が電話してきて、そんなの信じます?』
戸崎は壁の宇津木の写真を見た。
『私がやることなのは、分かってるんです。すみません』
「一緒にいる時に掛けましょうか」
返事が来るまで、戸崎は予定表へペンを置いて待った。
『じゃあ、置いておきます。紙』
「こちらからお話しできることも、もう少し増えると思います」
恵は、お願いします、とだけ言った。
電話を切ると、今夜は川瀬真知の家へ伺う予定が入っていた。詩乃と宇津木の運搬先をたどった班から、前年十一月の一晩について真知へ確認が取れていた。戸崎は先日の代走伝票を仕舞い、別の紙を鞄へ入れた。