日曜日の朝、娘は電話に出るなり、お仕事、と言った。
戸崎は玄関の二つの箱を見た。六時二十分だった。七時まで待つつもりでいたのに、目が覚めたら掛けていた。
「うん。今日は行けない。ごめん」
「うん」
紙を切る音がした。
「屋根、作ってる?」
「まだ」
「箱はあるんだよ。二個。今度――」
そこで止めた。
「取っておくから」
「分かった」
「ごめんね」
「さっき聞いた」
電話の向こうで母親が何か訊き、娘が、そうだって、と答えた。それから、じゃあね、と言った。
玄関を出る時には、箱へ当たらなかった。
署の机には、弁当二個の記録が広がっていた。成瀬の足元に紙袋がある。黒い鞄は椅子の背にあった。
「そっちは?」
「軍手です。妹の所へ持っていく予定で」
「物置、今日でしたか」
「手前だけ進めておく、と返事が来ました」
成瀬は袋を机の下へ押した。電力会社からの回答は七時半の予定だという。
戸崎は弁当店の名前を見た。
「店、行きませんか」
「記録は取れています」
「買い方、覚えてるかもしれない」
成瀬が時計を見た。
「近いですよね」
「七時二十分には戻れますか」
「戻ります」
戸崎が鍵を取ると、彼女も立った。
二十四時間営業の店には、二日の夜のレジ担当がいた。警察手帳を見せると、また、と口が動いた。
「すみません。買ったことより、普段どう買う人かを伺いたくて」
戸崎が仁の写真を示した。女は時計を見た。奥でフライヤーの音がしていた。
「よく来ますよ」
「二つ買うことは?」
「この頃は。前は一個でした」
成瀬のペンが動いた。
「いつからでしょう」
「八月の半ばくらいかな。箸いらないって言う人だったんです。家の使うからって。なのに二膳になったんで」
女は奥へ返事をし、少し待ってと手を上げた。
「片方、梅干しないやつにしてくれって。ない日もあるんですよ。全部に入ってる日。抜きますかって訊くと、それはどうも嫌みたいで」
「誰と食べるとか、話しました?」
「そこは。温めますかって訊いた時、工場へ戻るからいいって。一回だけ」
「工場という言葉でしたか」
「仕事場だったかも。そこ、そんな正確には」
成瀬は言い直した方も書いた。戸崎は礼を言った。女はすぐ調理場へ戻り、店の奥から、揚がりすぎた、と声がした。
外へ出ると、成瀬の携帯に回答が来ていた。工場の電気は八月十五日を境に夜間の使用が増え、水道も同じ頃から動いている。ほとんど使っていないという仁の説明とは合わなかった。
成瀬はその場で広瀬へ報告した。
戸崎は川へ向かう道に足を向け、止まった。車は反対側だった。成瀬が電話を切るまで待って、鍵を出した。
「梅干しの話も?」
「しました」
彼女は携帯をしまった。
工場を捜索する令状が出た。別班の調べでは、詩乃の最後の出勤日は八月十四日。翌日は休みで、その次の夜に休業の連絡が入った。直接会った人は、その後見つかっていない。借りていた部屋には歯科の予約票が残り、大きな荷造りの跡もなかった。
広瀬は担当を分け、最後に戸崎と成瀬を見た。
「娘さんがいたら、父親をそばへ置くな。本人と話せるようにする。令状は写真館の事件だ。そっちも止めるな」
車の列が署を出た。
九時を過ぎた工場の門に、仁の白いバンがあった。古い看板の下で、戸崎は呼び鈴を押した。返事はない。もう一度押すと、横の扉で金属の音がした。
「こちらから連絡すると、言ったでしょう」
仁が細く扉を開けた。捜索差押許可状が示されると、紙に目を落とし、昨日とは違う数の人間を見た。
「殺人?」
「宇津木健さんの事件について、捜索します」
仁は紙をもう一度読んだ。手が扉の縁を離れた。
「靴、汚れてませんか」
誰もすぐには答えなかった。
「商品があるんです。そこだけ、気をつけて」
仁は中へ入り、ロッカーを開けた。仕事着が吊ってある。洗濯した分と、まだの分を説明する。一人が記録を始めると、仁は隣の棚まで開けた。
「伝票もあります。宇津木さんの、ここ。探してるの、それじゃないんですか」
戸崎の胸元へ帳面を押し出してきた。戸崎は受け取る前に、裁断台へ置くよう頼んだ。
奥で成瀬が足を止めた。流しに箸が二膳、乾かしてあった。ごみ袋には同じ店の弁当容器が重なっている。
「泊まっている方がいますか」
「私が、たまには。疲れたら寝ますよ」
「ほかには」
仁は成瀬の前へ回った。
「こっち見てください。資料があるんだから」
その背に内階段があった。
別の捜査員が二階を示すと、仁は、休憩室です、と即座に言った。
「仕事の物はないです。ここだけでも、まだこれだけ」
「上も確認します」
「何が要るんです。私が出します」
声が急に大きくなった。成瀬が階段へ近づくと、仁が横へ出た。そばの警察官が肩を止め、仁の手から帳面が落ちた。
上で、重いものを引く音がした。
戸崎は顔を上げた。動いていた全員の手が、少しずつ止まった。
「どなたか、いるんですね」
「寝てるんです。具合が悪くて」
「どなたが」
「娘です」
仁が戸崎を見た。
「やっと寝たんです。大勢で押しかけて、また悪くなったら、どうするんですか」
成瀬が無線で連絡した。先頭の捜査員が階段を上がり、仁はその後ろへ行こうとした。戸崎が間へ入った。
「こちらにいてください」
「私が呼ぶんです。あの子は、私じゃないと」
「成瀬さん、お願いします」
成瀬は一度だけ戸崎を見て上がった。仁の身体が、戸崎へ近づいた。
「お父さんでしょう」
冬物の箱の前で聞いた声だった。
「帰れるといいって、言ってくれたじゃないですか。娘がようやくここへ来たんですよ。知らない人に囲まれたら、また私のせいにする。私が先に話せば、落ち着くんです」
戸崎は階段を見た。一度下りてもらうだけなら、と頭に浮かんだ。
「外から鍵が掛かっています」
成瀬の声がした。
「鍵をお願いします」
仁は目を閉じた。
「夜だけです。勝手に出ていくから」
「今、開けます。どこにありますか」
「だから、少し落ち着けば分かることを」
戸崎は仁の右のポケットを見た。指が布を押さえている。
「出してください」
小さな鍵が出た。仁は握ったまま階段へ向いた。
「私が開ける」
「こちらへ」
「一緒に行けばいいでしょう」
「渡してください」
上で、詩乃さん、と呼ぶ声がした。返事は聞こえない。仁はその声に眉を寄せた。
「開けたら帰ると言います。あなた、止めてくれるんですか」
「止めません」
仁が黙った。鍵を握った手が下がる。戸崎が掌を出すと、仁はまた胸へ引いた。
「そのあと、どこへ行くかも分からないんですよ。この先、夜中に電話してきて、お金もないって言ったら。あの男たちは、その時、誰が来るんです」
階段で足音がした。錠を切る準備をする、と別の警察官が告げた。仁は顔を上げた。
「壊す必要ないでしょう。ここにあるんだから」
「じゃあ、ください」
戸崎は手を出したまま待った。
長い間、仁は鍵を見ていた。指が開き、掌に金属が落ちた。戸崎は受け取るとすぐに、階段の捜査員へ渡した。
仁の顔を、もう見なかった。
成瀬は部屋の内側から聞こえる音を待った。
古い扉には新しいねじで金具が取り付けられ、南京錠が下がっていた。踊り場の反対側に流しと便所がある。部屋の中から水を使うには、この扉を通らなければならなかった。
「詩乃さん。警察です。扉から離れていてください。開けます」
鍵が回った。成瀬は扉を少しずつ押した。
カーテンの下に光があり、布団と低い机が見えた。空の容器とペットボトルが部屋の隅へ寄せてある。机の向こうに女が座っていた。
写真より髪が短い。顔の左に薄い痣があった。
「北原詩乃さんですか」
成瀬は敷居の手前にしゃがんだ。女は成瀬の肩越しを見た。
「県警の成瀬です。お父さんは一階にいます。警察官がついています」
戸崎が踊り場へ来たので、救急の手配を頼んだ。彼が下へ向き直る間も、詩乃は戸の外を見ていた。
「ここから、出たいですか」
返事がない。
成瀬は手帳を鞄へ戻した。詩乃の目が錠に戻る。扉を壁まで押し開き、床に物がないことを確かめた。
「開けておきます」
女の唇が動いた。
「名前」
「はい」
「あの人に、呼ばせないで」
成瀬は頷き、戸崎へ父親を声の届かない所へ移すよう頼んだ。振り向いた時、詩乃は机へ手をついていた。立ちかけた膝が崩れ、壁で身体を支えた。
「腕へ触ってもいいですか」
僅かに頷いたので支えた。その瞬間、一階から声がした。
「詩乃、ちゃんと――」
「はい」
顔を上げずに、返事だけが出た。
成瀬の腕に掛かっていた重さが消えた。詩乃は自分で立ち直ろうとし、足を部屋へ戻した。
「呼ばないでください」
戸崎の声が響いた。ほかの声が重なり、下で扉が開いた。
成瀬は詩乃を引かなかった。触れている腕へ少し力を込め、それから緩めた。
「下に、いますか」
「別の出口へ行ってもらっています」
「戻ってきませんか」
成瀬は階段を見た。戸崎が下を確かめて頷く。
「ここへ上がってはきません。私も一緒にいます」
詩乃の手が扉の縁をつかんだ。開いた戸を押さえるようにして、片足を廊下へ出す。もう片方が敷居に引っ掛かった。成瀬が足元を見ようと屈むと、腕を握る指が強くなった。
「動きません。ここにいます」
成瀬は姿勢を戻した。
椅子を廊下へ出してもらった。詩乃が座ると、袖をつかまれたまま隣へしゃがんだ。階段を下りるのは、救急隊が来てからでよかった。
詩乃は開いた扉を見た。布団の横の小さな引出しを指した。
「携帯、最初はそこに」
「今は?」
「下」
「お父さんが持っていますか」
頷いた。それ以上は訊かず、成瀬は来た隊員へ様子を伝えた。自分の袖が少しずつ詩乃の指から離れた。最後の指が離れるまで、立たなかった。
救急車が門を出る時、配達先を間違えたトラックが敷地へ入ろうとした。
戸崎は止めて、向かいの看板を示した。運転手は伝票を裏返し、会社の名を読み直した。
「こっちじゃないのか。すみません」
車が下がり、救急車が角を曲がった。詩乃は乗る前に二階の窓を見た。戸崎のいる入口には目を向けなかった。
成瀬が隣へ来た。鞄から手帳が斜めに飛び出している。
「乗れました」
「見てました」
戸崎は言ってから、少し違う返事をすればよかったと思った。成瀬は鞄の中を直した。
捜索は続いた。詩乃の携帯が一階の事務机から見つかり、二階の生活用品や八月中旬以降のレシートも確認された。写真館の事件を調べる班とは別に、監禁の事情を調べる捜査員が加わった。
仁は作業場で立会いを続けていた。戸崎が近づくと、本人も約束した、と話し始めた。
「落ち着くまでここで話そうって。自分で言ったんです」
「出ていこうとしたから、鍵を掛けたんですよね」
「それが、落ち着いてないってことでしょう」
戸崎は階段へ目を向けなかった。
「二日に、宇津木さんにもそう言いましたか」
仁の口が止まった。
「詩乃さんが、ここにいると知っていたんですか」
「工場へ戻るって、言ったんです。娘が待ってるから」
「それで?」
「何で工場なんだ、会わせろって。関係ないでしょう。荷物を運んだだけだって、自分で言ったんですよ。だったら、そのあとのことも、関係ない」
仁は帳面をめくりかけ、やめた。
「他人が迎えに来る必要が、どこにあるんですか」
戸崎には、宇津木がこの階段へ足を掛ける姿が浮かんだ。仁がその前へ出る。鍵は渡さない。
「そこで手は出していませんか」
「出してません」
「宇津木さんを残して帰った?」
「娘が食べてないから。弁当を買わないと」
仁は指を上げた。
「梅干し、入ってないやつにしたんです。あの子、嫌いだから。帰るのが遅くなったら冷めるし、ちゃんと」
「店で聞きました」
「食べたんですよ。その晩も」
戸崎は返事をしなかった。
「食べたんです」
もう一度、仁は言った。
仁は署で話を続けることに応じた。詩乃の話と外鍵の状況をもとに監禁容疑の逮捕状が請求され、その日のうちに身柄を拘束された。
戸崎と成瀬は工場に残り、物の置かれていた位置と押収記録を照合した。二階の扉は開いたままだった。刑事たちが一階を歩き、隣の建物では日曜出勤の機械が動き始めた。
戸崎は明日の予定へ宇津木家と書いた。恵に話せることが、ようやくできた気がした。電話するのは、仁の取調べがもう少し進んでからだ。
帰りの車で娘から電話が来た。
「箱、切ったよ」
「誰が?」
「お母さん」
「俺も、二個持ってくはずだったんだけど」
「知ってる」
娘は、まだ屋根をつけていない、と言った。戸崎は助手席の窓へ顔を向けた。
「そっか」
切れたあと、成瀬は前を見たまま、物置が半分終わったそうです、と言った。
「手前だけじゃなかった?」
「妹は、そこまでが手前だと言っています」
戸崎は少し笑った。川を渡る間に、何度も冷房の風を首元へ当てた。あの父親へ、帰れるといいと言った。今日は成瀬から、そのことを一度も言われなかった。
私は、これでようやく落ち着くと思っていた。
あとは報告をまとめて、今日を終えるだけだった。
その先のことは、考えていなかった。