迎えのない朝

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CHAPTER 08 / 28

第七章 鍵を渡すまで

日曜日の朝、娘は電話に出るなり、お仕事、と言った。

 戸崎は玄関の二つの箱を見た。六時二十分だった。七時まで待つつもりでいたのに、目が覚めたら掛けていた。

「うん。今日は行けない。ごめん」

「うん」

 紙を切る音がした。

「屋根、作ってる?」

「まだ」

「箱はあるんだよ。二個。今度――」

 そこで止めた。

「取っておくから」

「分かった」

「ごめんね」

「さっき聞いた」

 電話の向こうで母親が何か訊き、娘が、そうだって、と答えた。それから、じゃあね、と言った。

 玄関を出る時には、箱へ当たらなかった。

 署の机には、弁当二個の記録が広がっていた。成瀬の足元に紙袋がある。黒い鞄は椅子の背にあった。

「そっちは?」

「軍手です。妹の所へ持っていく予定で」

「物置、今日でしたか」

「手前だけ進めておく、と返事が来ました」

 成瀬は袋を机の下へ押した。電力会社からの回答は七時半の予定だという。

 戸崎は弁当店の名前を見た。

「店、行きませんか」

「記録は取れています」

「買い方、覚えてるかもしれない」

 成瀬が時計を見た。

「近いですよね」

「七時二十分には戻れますか」

「戻ります」

 戸崎が鍵を取ると、彼女も立った。

 二十四時間営業の店には、二日の夜のレジ担当がいた。警察手帳を見せると、また、と口が動いた。

「すみません。買ったことより、普段どう買う人かを伺いたくて」

 戸崎が仁の写真を示した。女は時計を見た。奥でフライヤーの音がしていた。

「よく来ますよ」

「二つ買うことは?」

「この頃は。前は一個でした」

 成瀬のペンが動いた。

「いつからでしょう」

「八月の半ばくらいかな。箸いらないって言う人だったんです。家の使うからって。なのに二膳になったんで」

 女は奥へ返事をし、少し待ってと手を上げた。

「片方、梅干しないやつにしてくれって。ない日もあるんですよ。全部に入ってる日。抜きますかって訊くと、それはどうも嫌みたいで」

「誰と食べるとか、話しました?」

「そこは。温めますかって訊いた時、工場へ戻るからいいって。一回だけ」

「工場という言葉でしたか」

「仕事場だったかも。そこ、そんな正確には」

 成瀬は言い直した方も書いた。戸崎は礼を言った。女はすぐ調理場へ戻り、店の奥から、揚がりすぎた、と声がした。

 外へ出ると、成瀬の携帯に回答が来ていた。工場の電気は八月十五日を境に夜間の使用が増え、水道も同じ頃から動いている。ほとんど使っていないという仁の説明とは合わなかった。

 成瀬はその場で広瀬へ報告した。

 戸崎は川へ向かう道に足を向け、止まった。車は反対側だった。成瀬が電話を切るまで待って、鍵を出した。

「梅干しの話も?」

「しました」

 彼女は携帯をしまった。

 工場を捜索する令状が出た。別班の調べでは、詩乃の最後の出勤日は八月十四日。翌日は休みで、その次の夜に休業の連絡が入った。直接会った人は、その後見つかっていない。借りていた部屋には歯科の予約票が残り、大きな荷造りの跡もなかった。

 広瀬は担当を分け、最後に戸崎と成瀬を見た。

「娘さんがいたら、父親をそばへ置くな。本人と話せるようにする。令状は写真館の事件だ。そっちも止めるな」

 車の列が署を出た。

 九時を過ぎた工場の門に、仁の白いバンがあった。古い看板の下で、戸崎は呼び鈴を押した。返事はない。もう一度押すと、横の扉で金属の音がした。

「こちらから連絡すると、言ったでしょう」

 仁が細く扉を開けた。捜索差押許可状が示されると、紙に目を落とし、昨日とは違う数の人間を見た。

「殺人?」

「宇津木健さんの事件について、捜索します」

 仁は紙をもう一度読んだ。手が扉の縁を離れた。

「靴、汚れてませんか」

 誰もすぐには答えなかった。

「商品があるんです。そこだけ、気をつけて」

 仁は中へ入り、ロッカーを開けた。仕事着が吊ってある。洗濯した分と、まだの分を説明する。一人が記録を始めると、仁は隣の棚まで開けた。

「伝票もあります。宇津木さんの、ここ。探してるの、それじゃないんですか」

 戸崎の胸元へ帳面を押し出してきた。戸崎は受け取る前に、裁断台へ置くよう頼んだ。

 奥で成瀬が足を止めた。流しに箸が二膳、乾かしてあった。ごみ袋には同じ店の弁当容器が重なっている。

「泊まっている方がいますか」

「私が、たまには。疲れたら寝ますよ」

「ほかには」

 仁は成瀬の前へ回った。

「こっち見てください。資料があるんだから」

 その背に内階段があった。

 別の捜査員が二階を示すと、仁は、休憩室です、と即座に言った。

「仕事の物はないです。ここだけでも、まだこれだけ」

「上も確認します」

「何が要るんです。私が出します」

 声が急に大きくなった。成瀬が階段へ近づくと、仁が横へ出た。そばの警察官が肩を止め、仁の手から帳面が落ちた。

 上で、重いものを引く音がした。

 戸崎は顔を上げた。動いていた全員の手が、少しずつ止まった。

「どなたか、いるんですね」

「寝てるんです。具合が悪くて」

「どなたが」

「娘です」

 仁が戸崎を見た。

「やっと寝たんです。大勢で押しかけて、また悪くなったら、どうするんですか」

 成瀬が無線で連絡した。先頭の捜査員が階段を上がり、仁はその後ろへ行こうとした。戸崎が間へ入った。

「こちらにいてください」

「私が呼ぶんです。あの子は、私じゃないと」

「成瀬さん、お願いします」

 成瀬は一度だけ戸崎を見て上がった。仁の身体が、戸崎へ近づいた。

「お父さんでしょう」

 冬物の箱の前で聞いた声だった。

「帰れるといいって、言ってくれたじゃないですか。娘がようやくここへ来たんですよ。知らない人に囲まれたら、また私のせいにする。私が先に話せば、落ち着くんです」

 戸崎は階段を見た。一度下りてもらうだけなら、と頭に浮かんだ。

「外から鍵が掛かっています」

 成瀬の声がした。

「鍵をお願いします」

 仁は目を閉じた。

「夜だけです。勝手に出ていくから」

「今、開けます。どこにありますか」

「だから、少し落ち着けば分かることを」

 戸崎は仁の右のポケットを見た。指が布を押さえている。

「出してください」

 小さな鍵が出た。仁は握ったまま階段へ向いた。

「私が開ける」

「こちらへ」

「一緒に行けばいいでしょう」

「渡してください」

 上で、詩乃さん、と呼ぶ声がした。返事は聞こえない。仁はその声に眉を寄せた。

「開けたら帰ると言います。あなた、止めてくれるんですか」

「止めません」

 仁が黙った。鍵を握った手が下がる。戸崎が掌を出すと、仁はまた胸へ引いた。

「そのあと、どこへ行くかも分からないんですよ。この先、夜中に電話してきて、お金もないって言ったら。あの男たちは、その時、誰が来るんです」

 階段で足音がした。錠を切る準備をする、と別の警察官が告げた。仁は顔を上げた。

「壊す必要ないでしょう。ここにあるんだから」

「じゃあ、ください」

 戸崎は手を出したまま待った。

 長い間、仁は鍵を見ていた。指が開き、掌に金属が落ちた。戸崎は受け取るとすぐに、階段の捜査員へ渡した。

 仁の顔を、もう見なかった。

 成瀬は部屋の内側から聞こえる音を待った。

 古い扉には新しいねじで金具が取り付けられ、南京錠が下がっていた。踊り場の反対側に流しと便所がある。部屋の中から水を使うには、この扉を通らなければならなかった。

「詩乃さん。警察です。扉から離れていてください。開けます」

 鍵が回った。成瀬は扉を少しずつ押した。

 カーテンの下に光があり、布団と低い机が見えた。空の容器とペットボトルが部屋の隅へ寄せてある。机の向こうに女が座っていた。

 写真より髪が短い。顔の左に薄い痣があった。

「北原詩乃さんですか」

 成瀬は敷居の手前にしゃがんだ。女は成瀬の肩越しを見た。

「県警の成瀬です。お父さんは一階にいます。警察官がついています」

 戸崎が踊り場へ来たので、救急の手配を頼んだ。彼が下へ向き直る間も、詩乃は戸の外を見ていた。

「ここから、出たいですか」

 返事がない。

 成瀬は手帳を鞄へ戻した。詩乃の目が錠に戻る。扉を壁まで押し開き、床に物がないことを確かめた。

「開けておきます」

 女の唇が動いた。

「名前」

「はい」

「あの人に、呼ばせないで」

 成瀬は頷き、戸崎へ父親を声の届かない所へ移すよう頼んだ。振り向いた時、詩乃は机へ手をついていた。立ちかけた膝が崩れ、壁で身体を支えた。

「腕へ触ってもいいですか」

 僅かに頷いたので支えた。その瞬間、一階から声がした。

「詩乃、ちゃんと――」

「はい」

 顔を上げずに、返事だけが出た。

 成瀬の腕に掛かっていた重さが消えた。詩乃は自分で立ち直ろうとし、足を部屋へ戻した。

「呼ばないでください」

 戸崎の声が響いた。ほかの声が重なり、下で扉が開いた。

 成瀬は詩乃を引かなかった。触れている腕へ少し力を込め、それから緩めた。

「下に、いますか」

「別の出口へ行ってもらっています」

「戻ってきませんか」

 成瀬は階段を見た。戸崎が下を確かめて頷く。

「ここへ上がってはきません。私も一緒にいます」

 詩乃の手が扉の縁をつかんだ。開いた戸を押さえるようにして、片足を廊下へ出す。もう片方が敷居に引っ掛かった。成瀬が足元を見ようと屈むと、腕を握る指が強くなった。

「動きません。ここにいます」

 成瀬は姿勢を戻した。

 椅子を廊下へ出してもらった。詩乃が座ると、袖をつかまれたまま隣へしゃがんだ。階段を下りるのは、救急隊が来てからでよかった。

 詩乃は開いた扉を見た。布団の横の小さな引出しを指した。

「携帯、最初はそこに」

「今は?」

「下」

「お父さんが持っていますか」

 頷いた。それ以上は訊かず、成瀬は来た隊員へ様子を伝えた。自分の袖が少しずつ詩乃の指から離れた。最後の指が離れるまで、立たなかった。

 救急車が門を出る時、配達先を間違えたトラックが敷地へ入ろうとした。

 戸崎は止めて、向かいの看板を示した。運転手は伝票を裏返し、会社の名を読み直した。

「こっちじゃないのか。すみません」

 車が下がり、救急車が角を曲がった。詩乃は乗る前に二階の窓を見た。戸崎のいる入口には目を向けなかった。

 成瀬が隣へ来た。鞄から手帳が斜めに飛び出している。

「乗れました」

「見てました」

 戸崎は言ってから、少し違う返事をすればよかったと思った。成瀬は鞄の中を直した。

 捜索は続いた。詩乃の携帯が一階の事務机から見つかり、二階の生活用品や八月中旬以降のレシートも確認された。写真館の事件を調べる班とは別に、監禁の事情を調べる捜査員が加わった。

 仁は作業場で立会いを続けていた。戸崎が近づくと、本人も約束した、と話し始めた。

「落ち着くまでここで話そうって。自分で言ったんです」

「出ていこうとしたから、鍵を掛けたんですよね」

「それが、落ち着いてないってことでしょう」

 戸崎は階段へ目を向けなかった。

「二日に、宇津木さんにもそう言いましたか」

 仁の口が止まった。

「詩乃さんが、ここにいると知っていたんですか」

「工場へ戻るって、言ったんです。娘が待ってるから」

「それで?」

「何で工場なんだ、会わせろって。関係ないでしょう。荷物を運んだだけだって、自分で言ったんですよ。だったら、そのあとのことも、関係ない」

 仁は帳面をめくりかけ、やめた。

「他人が迎えに来る必要が、どこにあるんですか」

 戸崎には、宇津木がこの階段へ足を掛ける姿が浮かんだ。仁がその前へ出る。鍵は渡さない。

「そこで手は出していませんか」

「出してません」

「宇津木さんを残して帰った?」

「娘が食べてないから。弁当を買わないと」

 仁は指を上げた。

「梅干し、入ってないやつにしたんです。あの子、嫌いだから。帰るのが遅くなったら冷めるし、ちゃんと」

「店で聞きました」

「食べたんですよ。その晩も」

 戸崎は返事をしなかった。

「食べたんです」

 もう一度、仁は言った。

 仁は署で話を続けることに応じた。詩乃の話と外鍵の状況をもとに監禁容疑の逮捕状が請求され、その日のうちに身柄を拘束された。

 戸崎と成瀬は工場に残り、物の置かれていた位置と押収記録を照合した。二階の扉は開いたままだった。刑事たちが一階を歩き、隣の建物では日曜出勤の機械が動き始めた。

 戸崎は明日の予定へ宇津木家と書いた。恵に話せることが、ようやくできた気がした。電話するのは、仁の取調べがもう少し進んでからだ。

 帰りの車で娘から電話が来た。

「箱、切ったよ」

「誰が?」

「お母さん」

「俺も、二個持ってくはずだったんだけど」

「知ってる」

 娘は、まだ屋根をつけていない、と言った。戸崎は助手席の窓へ顔を向けた。

「そっか」

 切れたあと、成瀬は前を見たまま、物置が半分終わったそうです、と言った。

「手前だけじゃなかった?」

「妹は、そこまでが手前だと言っています」

 戸崎は少し笑った。川を渡る間に、何度も冷房の風を首元へ当てた。あの父親へ、帰れるといいと言った。今日は成瀬から、そのことを一度も言われなかった。

 私は、これでようやく落ち着くと思っていた。
 あとは報告をまとめて、今日を終えるだけだった。
 その先のことは、考えていなかった。

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目次

迎えのない朝

  1. 01序章
  2. 02屋根のない駅
  3. 03名前を知っている
  4. 04撮影室
  5. 05今日の配達
  6. 06冬を越した箱
  7. 07店を開ける人
  8. 08鍵を渡すまで読書中
  9. 09部屋へ戻る服
  10. 10使わない鍋
  11. 11二人目
  12. 12青い丸
  13. 13三つの現場
  14. 14紺の半袖
  15. 15片方の補助輪
  16. 16店の中
  17. 17返す服
  18. 18店じまい
  19. 19積込口
  20. 20一人分
  21. 21手を貸す
  22. 22言い分
  23. 23返す日
  24. 24丸を消す
  25. 25迎えに来る人
  26. 26あと一歩
  27. 27向かいの席
  28. 28終章 迎えのない朝

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