遠山修理店へ入ると、靴を履いたまま、と言われた。
戸崎は上がり框に見えた木の段から足を戻した。そこは作業台を置くために床を高くしただけで、土足で構わないらしい。革の匂いの奥で接着剤の匂いがした。
「何の修理?」
眼鏡を額へ上げた男が、戸崎の靴から成瀬の鞄へ視線を動かした。
「その持ち手なら、先に中身出して」
成瀬は鞄を抱え直した。
「警察です。遠山隆一さんですね」
「直しに来たんじゃないの」
「今日は、違います」
「今日はって。明日直すか」
成瀬が答えずにいると、戸崎が横から鞄を見た。
「俺もずっと言ってるんです」
「あんたのじゃねえだろ」
戸崎は口を閉じた。遠山は差し出された名刺を受け取り、そこにある名字を読んだ。
「真知に聞いた?」
「はい。川瀬さんから、お名前を」
「あいつ、何でも直すって言ったろ。車まではやらねえからな。荷台の留め具くらいだよ」
遠山は笑い、持っていた革靴を棚へ置いた。
戸崎は名刺の端を見ている遠山へ、昨日のことを告げた。言葉を長くしないようにした。川瀬真知さんが自宅で亡くなっていた。事件として調べている。
「いや」
遠山はすぐ言った。
「一昨日、電話したよ」
「その電話を、確認させてください」
「電話したんだって」
遠山は名刺を作業台へ置き、携帯を出した。思うところが開かないらしく、何度も下の端を押す。成瀬が手を伸ばしかけ、戻した。
「これ。一昨日の夜。二十時二十七分。三分も喋ってる」
戸崎は時刻を書いた。自分たちが帰った九分後だった。
「どんなお話を?」
「詩乃ちゃん、見つかったって。生きてたって。それを、俺に言っとくって」
遠山は画面を戸崎へ向けたまま、こちらの返事を待った。電話があったという記録は、そこから先を何も変えてくれなかった。
「そうですか」
戸崎が言うと、遠山はようやく携帯を下ろした。
「健さんも真知もじゃ、誰に言えばいいんだよ」
戸崎は手帳から顔を上げた。
遠山は二脚ある椅子の片方から靴箱をどけ、もう片方を足で引き寄せた。
「長くなるなら座って。立ってられると、こっちまで立つ」
遠山は座らなかった。戸崎たちへ背を向け、濡れた布で靴底を拭き始めた。
「ペダル、返さなくていいって言ったんだ。詩乃ちゃんに貸してたの。新しいの買えたんなら、もうそれ使えって」
「真知さんに、そう伝えた」
「うん。本人に言っとくって。……俺から言えばよかったのか」
成瀬は通話の時刻の隣へ、ペダルの話、と書いた。真知だと確かめる質問を、ここでは重ねなかった。
靴を一足拭く間に、詩乃の話は仕事の話へ戻っていった。宇津木が歪んだミシンの足を持ち込んだこと。その後、真知を通じて、鞄の内袋などを頼むようになったこと。布を縫う部分は詩乃の方が早く、遠山は革や金具を受け持った。
「最初から、今の値段で頼んでたわけじゃないけどな」
何も訊かれないうちに、遠山は言った。
「安かったんですか」
「安かった。あの子が、これじゃ合わないって言って。じゃあいくらって聞いたら、紙出してきたよ。ほどく手間から全部」
「お父さんは?」
「春に来た。人の娘を安く使うなって。そこだけは合ってた」
遠山が布を裏返した。黒い汚れが内側になった。
「仕事回すなってのは、聞かなかったけど」
戸崎は工場の階段を思い出した。今ならすぐ間違いだと言えるものを、仁の話だけ聞いていた時には、もっとややこしく受け取っていた。
「小暮さんにも、似たような話が?」
「あっちは見本を勝手に増やしてるって。真知が言ってた。その電話で」
「一昨日」
「俺からも話せと。金の話は本人らでしろって返したんだけどさ」
遠山は奥の棚へ首を向けた。小暮の店の名を書いた箱がある。
「こっちも仕事もらってるから、言いづらかったのかもな。俺が」
成瀬は箱を見た。中身を尋ねると、直し待ちの衣類だと言われた。
「真知さんの弟さんも、ここを利用していますか」
「悟? 靴があるよ。もう終わってる」
作業台の下から台帳を引き出し、青い丸の行を爪で叩いた。川瀬、と書いてある。
「終わったのが青。赤は急ぎ。書かないと俺が忘れるから」
棚から紙袋を出すと、磨かれた革靴が入っていた。
「昨日か今日に来るって、真知が。本人からは、まだ」
成瀬は日付を確認した。昨日は水曜、九日。遠山はそのつもりで連絡を待っていた。
紙袋を戻す時、遠山の足元で金属が鳴った。車輪を外した台車の平台だった。
「踏むと滑るから気をつけて。俺が言うのも何だけど」
「これも直すんですか」
「車輪は換えるだけ。取っ手は、ここのピン。寺田んとこも一本抜けてるの使っててさ。貸した奴が持ってこないって」
戸崎は一昨日の食卓を思い出した。直して返せ、という真知の声が、ここでも普通に続いている。
「持って来れば直すんだよ。電話じゃ直せねえのに」
遠山は平台を壁へ立て、ようやく二人の方を向いた。
「それで、俺にほかに何聞く?」
戸崎は手帳を閉じた。
「今日は、店を早く閉められませんか」
遠山はすぐ断った。
「渡す物あるから」
「連絡して、別の日にできませんか」
「明日から履くんだって。こっちで金曜でどうだって言ったら、木曜じゃなきゃ困るって」
棚の靴箱を引き寄せる。さっきまで磨いていた一足だった。
「二人とも詩乃さんに関わっています。遠山さんにも、危険が及ぶ可能性を考えています」
「詩乃ちゃんに関わってるって、ミシン直しただけで?」
「それだけでは決められません。でも、何も起きないとも言えない」
遠山は箱の蓋を閉めなかった。
「今、あんたらにできることが、俺を休ませることなの」
「場所を移してもらうことです。御親族でも、知人でも」
「姉がいるけど。足、悪いよ」
「今のうちに連絡を」
「急に行ったら、布団干す。飯作る。あの人は」
戸崎は言葉を探し、先に成瀬が口を開いた。
「こちらから説明してもいいですか」
「警察から電話なんかしたら、それこそひっくり返る」
遠山は椅子へ腰を下ろした。電話を前にして、二人を見た。
「客が来るまで、ここにいてくれるのか」
戸崎は答えるまでに間を作ってしまった。
「俺たちは残れません。巡回を頼みます」
「じゃあ電話するしかねえじゃん」
遠山が受話器を取った。戸崎は台帳から目を逸らした。相手は仕事中らしく、夕方、もう少し早く来られないか、と遠山は二度頼んだ。
十八時には閉めることになった。片付けたら姉へ出発の電話をする。店へ立ち寄る巡回の時刻も決め、姉の連絡先を別の担当が控えた。
「誰か来ても、明日にしてください」
戸崎が頼むと、遠山は壁の鍵へ目をやった。
「うち、明日が要る人ばっかりなんだけどな」
それでも、白い紙を一枚出した。
本日十八時閉店。
ガラスに貼る手を、戸崎は外から見た。紙の端が浮き、遠山はもう一度テープを押さえた。
南口の弁当屋で、昼の唐揚げが売り切れたところだった。
店主は九月二日の名を聞くと、忙しい手を止めた。
「その日は休んだよ。床、水浸しだったから」
業者の控えはすぐ出てきた。戸崎が確認する横で、成瀬は悟の言った道を地図で辿った。混んでいて入らなかった店が、営業していない。
成瀬が電話を掛けると、悟は五分なら話せると言った。
「店へ、どちらから行きましたか」
『線路の方。言いましたよね』
「その日は、水漏れで休業しています」
受話口で何かが擦れた。
『隣かな。人がいたんで。弁当屋だと思ったんですよ』
「店の前までは、行きましたか」
『そこまで覚えてないです。行列見たら、別へ行くでしょう』
成瀬は次の質問へ移らず、返事を書き留めた。
『今日は何を調べてるんですか』
「二日の帰り道です」
『俺、今日も弁当買って帰るんです。どっちの店でも、別に』
成瀬が携帯を持つ手を変えた。
『あそこ寄っても、もう飯ないんで』
受話口の向こうで、遠くの人を呼ぶ声がした。悟は返事をせず、もう五分ですか、と訊いた。
「明朝、勤務先で地図を見せてください。何時ならお時間をいただけますか」
時刻を決めて切ると、隣の立ち飲み屋のシャッターが上がった。成瀬はそちらにも名刺を出した。
写真館の時計について、担当班から返事が来た。前日の写真を撮ってすぐ業務連絡へ送ったという社員の話と、送信記録が揃った。時計は十四分進んでいる。現物でも同じずれを確認していた。
「言った道を、もう一度なぞります」
戸崎が地図を折った。
「言わなかった道の方も」
成瀬が頷いた。今度は、二人とも食事の店を探さなかった。
夕方、広瀬の机では、仁の会社へ行く班と小暮の店へ行く班が同じ電話を待っていた。
仁は釈放された昨夜、瀬尾の事務所を出たあと、北原工業へ立ち寄っていた。二十一時五十六分ごろから約九分。経理の書類を取りに行ったと答えたが、持ち帰った物はまだ確認できていない。
「会社の端末も頼んでる」
広瀬は戸崎に紙を渡した。
「同じ匿名連絡が、もう一回入ってるかもしれん。瀬尾を通すと時間が掛かるが、順番飛ばすなよ」
隣の班から、小暮宛の宇津木の伝票が出たと声が上がった。八月十一日、別の倉庫へ運搬、三万六千円未収。会っていないという小暮の話と合わない。
戸崎は二つの紙を並べた。机の上では簡単に並ぶのに、今から二人で両方へ行くことはできなかった。
「小暮さん、一人ですか」
「スタッフがいる。一緒に帰ってもらう」
担当者が上着を取った。
「遠山は?」
広瀬が訊いた。
「十八時に閉めて、姉の家へ。地域にも頼んであります」
戸崎の答えに、広瀬は時計を見た。五時四十分だった。
「着いた連絡までな」
「はい」
戸崎は手帳へ、到着確認、と書き足した。その前に、遠山が教えてくれた店の電話番号がある。十八時の欄に線を引き、姉の家の番号と間違えないようにした。