三輪さんの机へ、写真が八枚並んでいた。
律と私が座ると、一枚だけ寄せる。縁側の二つの椅子に夫婦が座り、その奥で田辺さんが横になっていた。片手を額へ置き、顔をしかめている。
「寝てたんですか」
「起きた所。お茶が冷たいって。自分が寝てたんじゃないって、私、言ったの」
三輪さんが笑った。
律も顔を寄せた。田辺さんは小さく、三輪さんが手前へ大きく写っている。
写真は重ねて棚の方へ戻された。
「新しいの、こっちね」
「はい。家で聴く分です。前に返した全編も、そのまま」
二つのケースを並べてもらった。
三輪さんがプレーヤーを寄せ、先に蓋を開ける。私が手を出す必要はなかった。
「押すだけでしょう」
「はい」
車が走った。
私はつないだ所を待つ。車が止まり、ひと息の後、道を尋ねる声がした。戸が開き、食器が触れ合う。
「着いた」
三輪さんはリモコンを膝へ置いた。
私がどこを直したか話す前に、次の声へ聴き入る。私はケースの蓋を閉じた。
雨が強くなった。
金物へ一粒落ち、もう一粒が続く。
『何でそっちに置くの』
『そこに落ちるからでしょう』
夫婦の声だった。
『こっちの方が音がいいな』
『音はいいから、直してよ』
『雨やんだら』
『やんだら忘れるじゃない』
三輪さんが笑う。
「忘れるの。ほんとに」
物を引く音がした。底を擦らないで、と録音の中でも三輪さんが言う。少し離れて夫が答え、終わりは聞き取れなかった。
「直す道具じゃなく、また鍋を持ってくるの。数、増やせばどうにかなると思って」
律が笑い、私も笑った。
器が替わり、雨の音も変わった。
同じ紙へ三輪さんが短くしてほしい所を書き足す。今日は車のつなぎをもう一度聴くことになり、彼女が戻した。
大学の訂正文も本人へ届いていた。
あの言葉を言った時の話は載せ、家の音は家で聴く、と三輪さんが答えた。映像の再確認は担当者と日を決める。その場へ私のパソコンは出さなかった。
玄関で律へパンの袋が渡った。六つあった。
「冷凍しとけばよかった。昨日、焼いたの」
「今日、食べます」
律が答えると、バターが多いから何もつけなくてよいと言われた。
「灯さんにも、ね」
「半分、灯に渡します」
「そう。お願い」
私も半分いただきますと答えた。
もう一度謝ろうとした言葉は、その後へ置く所がなかった。
駅へ行く道で袋を開け、潰れていないか確かめる。律が私へ見せてから口を折った。
「川の方、行っていい? 撮りたいのがある」
少し遠回りして大岡川へ出た。
戸の閉まった店の前で、彼女は携帯を出す。ガラス越しに奥の丸椅子を撮っていた。
私は戻って、パン持つ、と手を出した。少し迷って渡された。
しゃがんだ膝へ緑の服の裾が掛かる。一緒に買った方だった。
「汚れるよ」
「もう、汚れてる」
立って自分の裾を見た。
私は木陰で母の文を開いた。荷物、届いた? とある。届いた、冷凍庫も空けた、と返す。
「こっち見て」
顔を上げるとシャッターが鳴った。
「待って。変だった」
「見てから言って」
画面が来る。
腹の前へ紙袋を抱え、腕が変に曲がっていた。口元だけ笑った顔だった。
「もう一枚」
「どこが嫌?」
「律も入って」
彼女は画面を見て、それから隣へ来た。
伸ばした腕の先に二人の顔が入る。私が袋を反対へ持つと、肩へぶつかった。
「あ、ごめん」
「いい。押して」
「どこ」
「ここ」
指を伸ばし、携帯が動いた。画面の二人がぶれた。
律がもう、と言う。笑っていたので私も笑った。今度は音がしない。
「押せてないじゃん」
「分かってる」
言い返した所で彼女が押した。
分室の搬出が再開したのは、しばらく後だった。
大学に残す物、持ち主へ返す物、引継ぎ先がまだ決まらない物。職員と一緒に、箱を少しずつ運んだ。
田辺さんの電話の記録が束で残っていた。返事待ちの下へ西崎さんの字があり、同じ箱の相手へ何度も二人で連絡している。
私は職員へ渡した。捨てる紙に混ぜなかった。
西崎さんには会っていない。
自分の研究原稿も本も、大学へ残す物とは別に袋へ入れていた。もうその袋はなかった。
縫い直した上着は、まだ私物へ戻っていない。服の状態を確かめるため、預けられていた。私は返る日を訊きかけ、誰の用件か聞かれた。
「私の物じゃ、ないです」
担当者は次に運ぶ箱を指した。
私はそちらの番号を読む。
床を拭くと、窓際に机の跡が濃く残った。
久住くんがバケツを持って行き、戻った手で額を拭く。
「水、止まらなくて」
「蛇口?」
「ぎゅっと回すと、また出るんです」
沙帆が流しへ行った。水音が止まり、久住くんが見に行く。私は雑巾を畳んだ。
沙帆の録音機は返っていた。今日は持ってきていない。劇場で会った人が、長い素材の方も聴きたいと言ったという。
「どこまで?」
「応募の雨。あっちじゃない。今度、部屋の音も入れた方」
私は頷いた。
律は掲示を剥がしていた。一枚の端を破り、指で合わせる。テープを差し出すと、裏からねと言われた。
「分かってるよ」
彼女は笑わず、テープを取った。
前の日曜、写真の写しを二人で見た。航の肩が端へ写る一枚を、律は捨てなかった。私は口を半分開け、何か説明している。
ひどい顔と言ったら、別のにするかと訊かれた。その一枚を受け取った。
机に立てる写真と同じ所には、まだ置いていない。
空いた部屋を四人で見た。
久住くんが何か言いかけ、やめる。沙帆は先に廊下へ出て、もう帰ってよいかを職員へ訊いた。
鍵が掛かるのを玄関で待ち、外へ出てから私が訊く。
「土曜、空いてる?」
「仕事。何?」
「遊びに行きたい。駅の向こうの」
「ゲーセン?」
久住くんが顔を上げた。
律は夜ならと言う。私は夕方でと返しかけ、母へ電話する約束を思い出した。
「夜、駄目だった。日曜は」
「昼なら」
沙帆が携帯を出す。律も行けるという。
「今度、卓球ある所でもいいですか」
久住くんが訊いた。
「できるの?」
「少し。中学でやってただけで」
「ほら、できる人の言い方じゃん」
沙帆が笑った。律が店を調べ、私は日曜は雨らしいと話した。
「屋内でしょ」
沙帆が返す。
夜、くらげは開始早々に崖から落ちた。
『今のなし』
「見た」
私は端へ寄って引き上げる。伸びてきた手を掴むと、二人とも落ちた。
しばらく声がなく、回線が切れたかと思う。
『そっちも落ちると思わないじゃん』
「重い」
『同じ重さです』
声を出して笑い、隣の部屋を思い出して口を押さえた。
あと十分で抜けると、くらげが言う。
「早いね」
『明日早い』
「何時」
『知ったら起こしてくれる?』
「無理」
『じゃ寝ます』
まだ十分あると抗議した。戻ってきたので、今度は私が先に橋を渡る。
窓へ雨が当たり始めた。
ヘッドホンを片方ずらすと、雨樋の水が聞こえる。開けた窓から写真立てへ細かい水が跳ねた。
私は立って窓を閉める。
二人の写真が少し斜めに入っていた。直す間、画面でくらげが跳ぶ。
『おいてくよ』
椅子を引き寄せた。
「待って」
返して、橋の向こうへ走った。
了