田辺さんから、受領の欄だけ見て、と来た。
案内は持ち帰れない、と返すと、じゃ今ここで、と続いた。
水曜の午前は署へ行った。瀬川さんが確かめたかったのは、私が仕事先へ送った字幕だった。
机に三輪さんの見本を置かれ、長い方を削り、短い方も削った行を読んだ。
「ご本人に見てもらいましたか」
「音は。私の作った方は、まだ」
まだ、と言って、紙へ指を置いた。
「出す前には、見てもらってません」
瀬川さんは私が送った元のファイルを開いた。どこを切り、どこをつないだか、行の順に答えた。
帰る前に、木曜に先生へ送った一覧の話になった。持ち帰った物の中に、二枚ともあったという。
「航さんが、澪さんのと一緒に」
「ご覧になりますか」
机へ出された二枚目には、写真の八番の線があった。裏へ返されると、会場の名と鉛筆の番号がある。
十六時十八分、先生はこの裏を使うと言った。番号を写していたところ、と。
その時にはもう、昼に汚した田辺さんの案内とは別の紙だった。
「先生、先に会場へ連絡するって言ってました。秋の方を」
私は電話の続きを話した。田辺さんは北町にいて、西崎さんは私と送り状を合わせていた。航は澪さんの控えを読んでいた。
この番号も航が持ち帰った。先生の了承を作るつもりで持った紙が、会を止めようとした先生の用事まで机から消していた。
瀬川さんへ午後の訪問を伝えた。田辺さんから来た文も見せた。
「受領の欄だけ、と言われました」
訪問の後にも、連絡すると言って署を出た。
近くの店でお蕎麦を食べる。携帯へ、食べた、と来たので、お蕎麦を、と返した。
玄関で焼き菓子の袋を見られた。
「姪が来るから、買うって言ってた。もう渡してくれたの」
「一つ、いただきました」
「座って。お茶にしよう」
机には秋の案内が広がっていた。眼鏡のケースで端を押さえている。鍋の蓋が鳴り、田辺さんは火を弱めた。
玄関に近い椅子へ座る。鞄は隣へ載せた。
小鉢には大根とにんじんがあった。
「お蕎麦、食べたので、少しだけ」
「はいはい。少し」
一つ食べると熱かった。おいしいです、と答えた。
田辺さんが笑う。
「一本、やっと終わるわ」
私も笑いかけた。火曜、三輪さんの机にあった大根と同じだった。
案内の受領の所を読む。返事待ちの下に三輪さんの名がある。
「去年、カセットを受け取った時、先生は箱ごと返したんですか」
「私へ。持って帰る物を出して、ここで預かる物は残した。置く所がないから」
「妹さんのカセットも、残したんですよね」
「音を移してから渡すつもりだったの。返すのは返すって、何度も言ったわ」
「それで、返却済みって」
「私が受け取ったでしょう。名前、書いたんだから」
田辺さんは眼鏡を外し、耳の後ろへ指を入れた。
「灯ちゃんも、カセット持って来て、また持って帰ったでしょう。音を移してって言われたら。それ、同じじゃない」
金曜にもう一度行く、と私は三輪さんへ言った。あの時、金曜までにできるかも知らなかった。
「土曜、鋏を鞄へ入れた時、帰るつもりだったんですか」
田辺さんは缶の蓋へ手を置いた。
「そこも、話しました。警察には」
「鞄、ずっと持ってましたね」
「離したら、見られるでしょう」
蓋が缶に入らず、角を替えた。
「布だけ洗って返せばいいと思ったの。先生の時みたいに、また何を持ったか訊かれたくなくて」
「鋏も、洗うつもりで?」
「そこまで考えてなかった」
手が止まった。
「航君の顔、見たの。私、何してるんだろうって」
私が胸を押す間、田辺さんは入口へ寄っていた。携帯だけを西崎さんへ渡し、鞄は渡さなかった。
「電話で、年を訊かれたのよ。知らないの。何年も、学生さん、航君って」
彼女は蓋を缶の脇へ置いた。
「妹からもかかってきた。出たら帰れなくなると思った。もう帰るつもりはなかったのに」
去年の欄には田辺さんの名前だけがあった。三輪さんはそのあとも待ち、私へ電話した。
「いつ戻すのか、聞きたかったんだと思います」
「先生へ聞いてくれたら、私へ言ってくださったのに」
先生へ届く用事に、自分も入っていたい声だった。私は机の上で、妹の名前が印刷された案内を見た。
「会の映像、航さんの仕事でしたか」
「最初は手伝うって。こちらで頼むなら、ただではいけないから」
「先に、払って」
「半分。残りは出してから。先生が間に入るから安心してって、会場へも言ったの」
田辺さんが眼鏡を掛けた。細い紙を束から取り、自分の名の所を押さえる。
貸した、とも預けた、とも書いていなかった。
「妹の家も、私が頼んで入ってもらったでしょう。その分が、会へ来る人の見本になると思って」
「三輪さんは、見本には」
「家の音は家だけでいいって。昨日、直接言われた」
彼女は紙を束の下へ戻した。
「私が病院へ泊まったのも本当よ。和夫さんが亡くなってから、家へ一人で入れなくなったの。灯ちゃん、あの時の幸枝は知らないでしょう」
「はい」
「お店もお医者さんも。電話すると、本人へって言われるから、出られないって、また説明して」
携帯を取る。画面は起きなかった。
「あの人が出られるようになったら、私がしたこと、いらなくなるわけじゃないでしょう」
私は箸を小鉢へ置いた。
「先生、先に会場へ電話するって、私にも言ってました」
「電話しようとしたのよ。木曜に。その場で」
「会場へ?」
「先に、こちらで取り下げますって。お金のことは後でって」
田辺さんは卓上の缶を開けた。会場へ払った控えを一枚、指の腹で伸ばす。
「私の貯金から。先生に、半分でいいから今決めてって、頼んだの。妹が来る車も、私が先に頼んだから」
「返してもらう方を、先に」
「先に電話されたら、みんな私に聞くでしょう。私がやる会なんだから。電話を置いて、お金の所を見てって」
控えを缶へ戻した。蓋は閉めなかった。
会場の番号を今日の一覧へ写したのは、後で相談するためではなかった。
先生が手を切っただけならいいと、私は思っていた。田辺さんの赤い紙をその方へ寄せていた。
火の弱い鍋がまた鳴った。
田辺さんは立ち、蓋を持ち上げる。私も立とうとすると、まだ熱いお茶、と呼ばれた。
机の案内へ小さい円を一つ描いた。
「ここ、見やすくして。今ならまだ出せるから」
私がその紙へ手を出さずにいると、彼女は束を持ち上げた。二枚を重ね、こちらへ向ける。
「ここだけ。目の前へ出せば、分かるでしょう」
小鉢の上を紙が通った。先生も昼、次の用事へ移ろうとしたところを、同じように呼び止められた。
「机へ置いてください」
「持って。そこへ字を足してもらいたいの」
紙が胸の前まで来た。私は椅子を少し引いた。
「木曜、二枚とも、同じ所が切れてましたね」
田辺さんは下の紙を戻しかけた。
「取られたの。さっき言ったでしょう」
「先生の指の血は、端の点でした。昼、折らずに挟んでました。帰ってきた時、字の所まで切れて、そこが赤かった」
「手を汚したのは、私。先生が、もう電話するって」
案内が机へ戻った。私の前ではなく、彼女の小鉢の横だった。
「先生へも、こうして見せたんですか。電話を置いて、こっちを見てって」
火が小さく鳴った。
「私がいたのに。私に頼んだ会なんだから」
紙を重ねたまま、人の胸の前へ戻す。昼の点とは別に、二枚へ同じ切れ目が入る。私が金曜に見た包丁は流しにはなかった。先生の身体のそばの床にあった。
「先生の前に、その紙があったんですね」
田辺さんは返事をせず、鍋の方へ戻った。
にんじんの長い方を、流しの板へ載せる。包丁が同じ幅で下りた。
「今夜、幸枝に全部聞くって言われたの。灯ちゃん、そこだけいてくれない?」
「帰ります。まだ作る音も、決まってなくて」
「ちょっと、電話するだけだから」
「私が説明するのは、作った字幕の所です」
言ってから、また説明の話をしていると思った。鞄の紐を肩へ掛けた。
「秋は、私、手伝えません」
包丁が止まった。
田辺さんは片方の手からにんじんを置き、包丁は持っていた。
「先生がいたら、先生へ聞けたんでしょう」
「先生にも、訊くことはありました」
「私がいなかったら、あの家へ入れなかったのに」
彼女が机へ来る。包丁の先は下を向いていた。流しからここまで、持ってくる物ではなかった。
私の携帯が机で震えた。
「大学から来たので、帰る時刻を」
「ちょっと待って。今、そんな連絡しなくていいでしょう」
田辺さんの空いた手が画面へ出た。
私は一歩引いた。携帯は机に残った。
包丁の柄が、机の縁へ触れた。先は私の方へ起きる。
「置いてください」
声が細かった。彼女は案内を見る。
「ここ、時間の所だけなのに」
「包丁です」
田辺さんが、あ、と言った。
包丁を板へ戻すために向きを変えかけた。机の携帯がもう一度鳴ると、また私を見た。
私は玄関まで退いた。靴を履く間も、彼女の右手を見ていた。
「灯ちゃん」
「私、今、帰ります」
同じことしか言えなかった。
田辺さんは流しへ行く。包丁の背を板へ載せ、手を離した。妹の名が出た携帯を取った。
「幸枝? いま、灯ちゃんも」
私は戸を開けた。自分の携帯を机へ忘れていた。
道で息をついた。
焼き菓子も携帯も家の中だった。二つのために引き返すと、今度は本当に待つことになる。
近くの店へ戻り、電話を借りられないか訊いた。店の人はどこへ、と訊く。
警察へ、と言うと席を示された。
瀬川さんへ、今見た動きを話した。包丁を持って近づき、置くよう言うと戻しかけ、携帯が鳴ってまたこちらへ向いた。私は玄関へ退いた。置いたのはその後だった。
その後に、木曜の話をした。先生がその場で取り下げの電話をしようとした。田辺さんが今日、自分でそう言った。
言いかけて、木曜の二枚の紙の話へ戻った。昼は隅に小さい点。夕方には名前の上が二枚とも切れ、その内側が赤かった。
「私、いま、机に置かないで持たされたんです。田辺さんに。先生も、見てって、その紙を」
言葉が続かなかった。瀬川さんが、こちらへ来られますか、と訊いた。
「携帯も、取りに行けません」
店の人が水を置いた。私は右手で受け取り、電話を持つ手を替えた。
電話を切ると、私は店の人へ頭を下げた。
「携帯、ないんですか」
「置いてきてしまって」
「家ですか」
「人の家です」
それ以上訊かれなかった。お蕎麦の代金は払っているのに、何か注文しなければと思った。
お茶を頼んだ。まだ熱かった。