雨を閉じこめる

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CHAPTER 01 / 24

第一章 返却済み

「返却済みって、どなたに返したんですか」

 箱へ書かれた赤い字を、私はもう一度見た。
 受話器を肩へ挟んで蓋を開けると、写真立てが二つと、厚い封筒があった。探しているカセットは見えない。私は椅子を引き、机の下へ潜った。

「少々お待ちください」
「待ってますよ」

 律が隣の椅子も引いた。膝をつく場所が広くなったので、私は奥へ手を伸ばした。電話のコードが首へ掛かる。

「灯、動かないで」

 襟を掴まれた。律の指がコードを外す間、私は封筒の底を持っていた。その下から、〈三輪和夫 八月〉と書かれた背が出てきた。

「ありました。ご主人のお名前の、八月と書かれたものです」
「それです。ですから、返してほしくて」
「すみません。こちらにありました」

 六月最後の月曜日だった。
 石川町駅から坂を上った所に、大学が借りている古い家がある。来週、ここに残った資料を図書館へ運び、分室を空にする。私は今月から、その前に借り物を持ち主へ返すアルバイトに来ていた。
 電話の相手は三輪幸枝さんだった。夫の声が入ったカセットを、去年から待っている。

「お返しする前に、再生できるかだけ確かめて――」
「聞くんですか」
「もしテープが切れていたら」
「切れていても返してください。直せる人、探しますので」

 私はケースを水平に戻した。持ち主へ返したあとにも、このカセットには行く先があった。
 律が受領簿を開いた。去年の十一月、田辺依子、という署名がある。三輪さんのお姉さんだった。

「お姉さんへお渡しした記録があるんです。それで、箱にも」
「姉が持ってても、私はもらってませんから」

 返事を考えているうちに、取りに行けばいいですか、と訊かれた。

「いえ、お送りします」
「今日?」

 引き出しに封筒も切手もある。足りなければ自分で出せばいいと思った所で、西崎さんの声がした。

「宮原。送料、先に聞いて」

 入口で弁当袋を持っていた。私の手元へ目を向け、首を横に振る。

「発送できる日を調べて、お電話してもよろしいですか。宮原といいます」
「灯さん? 字幕をつけた」
「はい」
「では、お願いします」

 切ると、律がウェットティッシュを一枚差し出した。私の両膝に埃がついていた。

「そこまで取りに行ったんだ」
「見てたじゃん」
「だから」

 律は四年生で、私より一学年上だった。図書館でも働き、写真を頼まれると人の集まる所へ来る。今日はカメラを持たず、受領簿の頁を一枚ずつ戻していた。
 西崎さんは箱を回した。

「田辺さんが引き取った箱。置く所がないから、ここで預かった」
「中にあるのに、返却済みって」
「消して。その物、まだ戻ってないんだから」

 律がマジックを取った。赤い字へ線を引き、別の面に田辺さん預かり、と書く。

「箱を返すんじゃなくて、物ごとに見て。持ち主へ返す。大学へ残す。決まってない。この三つ」

 西崎さんは紙を三枚置いた。二十六歳で、院に残りながらこの事業の事務をしている。電話番号はほとんど携帯に入っていて、私が机の控えを探すより先に出てくる。

「自分で送料出さなくていい。事業から出る」
「いくらまでですか」
「まず俺へ言って」

 私は切手の引き出しを閉じた。

「今日、五時には抜けるから。困ったら、こっちの番号」
「先生じゃなくて?」
「大学の事務。先生はつながらない日、ある」

 西崎さんが紙へ番号を書いた。携帯が鳴り、画面を見る。

「映画、三人で?」
 私が訊くと顔を上げた。
「何で」
「通知、見えちゃって」
「ああ。研究室の。俺が取らないと、みんな取らないんだよ」

 返事を打ちながら笑った。

「宮原、映画、見る?」
「見るのもあります」
「そりゃそうか。夜の回、安いから。今度、来れば」

 律が受領簿から目を上げた。

「何を見るかが先じゃないですか」
「そっち、まだ決まってない」

 二人とも笑った。私も、何を見るか分かってからと言った。西崎さんは別の画面を開き、候補を二つ送っていた。片方は、私がもう見たものだった。
 空いた箱の底に、写真を借りた時の紙もあった。和夫さんの名の下に、依子さんが連絡し、本人へ確認したと書かれている。写真八枚。さっき見つけた封筒には七枚しかなかった。
 西崎さんへ見せると、最後の展示先から戻る分だと言った。

「木曜。箱が来たら、枚数合わせる」
「これも三輪さんへ?」
「原票は先生に見てもらう。写真と混ぜないで」

 私は二つの封筒を用意した。同じ家の物を別々にするので、片方だけ間違えて返しそうだった。
 返却済みを消した面がまだ乾いていなかった。去年の十一月には田辺さんへ渡し、今日は同じ箱から出てきた。その間、誰が何を返したことにしたのだろう。

「去年、これを返した時の紙も、見たいです」
「先生の所。木曜に聞いて」

 西崎さんは弁当袋を机へ載せた。
 私は木曜の欄へ、写真八枚の下にその用事も書いた。三輪さんへ戻る物が全部揃っても、赤い字をつけた理由は戻ってこない。
 受領簿を持って窓際へ行くと、沙帆がヘッドホンを首へ落とした。

「そこ、載せないで」
「空いてると思った」
「空けたんだよ。午後、取りに来る人の」

 小野寺沙帆は私と同い年で、音楽系の学部にいる。机の横へコードが束ねてある。私はその隣へ置こうとして、彼女に同じ顔をされた。

「三輪さんのは、触らないで返してって」
「じゃ、触らない」

 沙帆は画面へ戻った。
 二年前、五分の映像を作った。彼女が音を切り、私は字幕を短くした。先生に五分に収めるよう言われ、その通り収めた。
 三輪さんがほっとしたのは、姉が病院へ泊まってくれ、自分が家へ戻れた時のことだった。私が削ったのは〈病院から〉。前の画で分かると先生に言われた。前の画には、水害で壊れた家が映っていた。三輪さんの夫は、その水害で亡くなっている。
 出来上がった物を見た人の何人かは、夫の死にほっとしたのだと受け取った。
 私は字幕のファイル名より、七枚の写真の番号を長く見た。どちらも、自分の仕事で使った物だった。

 田辺さんへ電話がつながったのは昼過ぎだった。

『音を移してから渡そうと思って。妹の機械、動かなかったの。そのままになってたのね』
「聞けなくてもいいと、おっしゃってます」
『そう。急に言うから、あの人』

 向こうでレジの音がした。田辺さんが、袋はいりません、と答えた。

『明日、午前は? 私も顔を出すから、一緒に持っていきましょうか。ほかに写真もあるし』
「カセットも、そのまま持っていっていいんですね」
『ええ。その方が早いわね』

 三輪さんへ折り返すと、十時なら、と言った。十一時半には出るので、という。
 手帳へ時刻を書く。律がこちらを見た。

「明日、一緒に行っていい?」
「助かる。写真、分からないのあるから」
「番号、合えば分かるよ」
「うん」
「そのあと、元町へ寄りたいんだけど」

 私はペンを持ったまま待った。

「服。見てほしい」
「私でいいの」
「よくなかったら、別の日にする」
「いい。悪いって言ってもいい?」
「そこは言い方、あるじゃん」

 十時の下へ、元町、と書いた。
 西崎さんへ勤怠の紙を出すと、電話を始めた時刻を訊かれた。つながるまでの十五分を消したと言うと、その間に何をしていたか訊いた。

「一覧、直してました」
「じゃ、入れといて」

 線を引き直す間、西崎さんは机から封筒を出した。大学の別の部署の宛名があった。出すのですか、と訊くと、先生に読んでもらってから、と答えた。
 彼は紙をしまう前に、印刷の見積を抜いた。

「これ、自分で払うんですか」
「研究会に出す冊子。配るぶん、先生が見る前に入稿するわけにいかない」
「高いですね」
「表紙、一色増やしたから」

 西崎さんは見積をこちらへ向けた。

「背に題が欲しくて。棚で見えなくなるの、嫌なんだよね」

 私は値段の上の小さな図を見た。細い本の背へ、西崎さんの名前があった。
 私は自分の紙を持ち帰った。十五分が戻っただけで、明日の服を見る時間まで長くなったような気がした。

 夜、冷凍のうどんを食べながらゲームを始めた。くらげはもう待っていて、画面の端で丸い兜が跳んでいた。

『二分もあったら、一回落ちれる』
「落ちるために待ってたの?」

 一年近く組んでいるのに、本名も住んでいる所も知らない。ときどき後ろに人の声がする。私へ紹介されたことはない。
 二人で荷車を押し、崖の所へ来た。右と言われて右へ動かす。もう一度右と言われたので、さらに押した。
 落ちた。

『右を止めて』
「そこまで言ってよ」
『止まると思った』
「思わないで」

 やり直しの画面でうどんをすする。冷めていた。

『今日、何かあった?』
「十五分、給料増えた」
『何したの』
「仕事」
『そりゃそうだ』

 明日、律と服を見に行く。名前を出さず話したら、デートみたいになる。そう思われるのも、違うと言うのも、嫌だった。
 今度は私が角で止まった。くらげが走り過ぎ、荷車の前へ回る。丸い兜が車輪の下へ見えて、私は声を出して笑った。

『いまの忘れて』
「嫌だね」

 手帳はうどんの横で開いていた。元町の字へ袖をかけ、コントローラーを持ち直した。

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目次

雨を閉じこめる

  1. 01返却済み読書中
  2. 02片方ずつ
  3. 03百円玉
  4. 04おかわり
  5. 05雨の間
  6. 06声の置き場所
  7. 07返す人
  8. 08帰らない夜
  9. 09名前を書くところ
  10. 10六時まで
  11. 11先に行って
  12. 12持ってくる方
  13. 13戻った部屋
  14. 14抜粋
  15. 15渡した写真
  16. 16誰と食べた
  17. 17家で聴く
  18. 18煮える間
  19. 19まだいる
  20. 20もう一杯
  21. 21行かない返事
  22. 22持って帰る
  23. 23白い画面
  24. 24雨漏り

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