「返却済みって、どなたに返したんですか」
箱へ書かれた赤い字を、私はもう一度見た。
受話器を肩へ挟んで蓋を開けると、写真立てが二つと、厚い封筒があった。探しているカセットは見えない。私は椅子を引き、机の下へ潜った。
「少々お待ちください」
「待ってますよ」
律が隣の椅子も引いた。膝をつく場所が広くなったので、私は奥へ手を伸ばした。電話のコードが首へ掛かる。
「灯、動かないで」
襟を掴まれた。律の指がコードを外す間、私は封筒の底を持っていた。その下から、〈三輪和夫 八月〉と書かれた背が出てきた。
「ありました。ご主人のお名前の、八月と書かれたものです」
「それです。ですから、返してほしくて」
「すみません。こちらにありました」
六月最後の月曜日だった。
石川町駅から坂を上った所に、大学が借りている古い家がある。来週、ここに残った資料を図書館へ運び、分室を空にする。私は今月から、その前に借り物を持ち主へ返すアルバイトに来ていた。
電話の相手は三輪幸枝さんだった。夫の声が入ったカセットを、去年から待っている。
「お返しする前に、再生できるかだけ確かめて――」
「聞くんですか」
「もしテープが切れていたら」
「切れていても返してください。直せる人、探しますので」
私はケースを水平に戻した。持ち主へ返したあとにも、このカセットには行く先があった。
律が受領簿を開いた。去年の十一月、田辺依子、という署名がある。三輪さんのお姉さんだった。
「お姉さんへお渡しした記録があるんです。それで、箱にも」
「姉が持ってても、私はもらってませんから」
返事を考えているうちに、取りに行けばいいですか、と訊かれた。
「いえ、お送りします」
「今日?」
引き出しに封筒も切手もある。足りなければ自分で出せばいいと思った所で、西崎さんの声がした。
「宮原。送料、先に聞いて」
入口で弁当袋を持っていた。私の手元へ目を向け、首を横に振る。
「発送できる日を調べて、お電話してもよろしいですか。宮原といいます」
「灯さん? 字幕をつけた」
「はい」
「では、お願いします」
切ると、律がウェットティッシュを一枚差し出した。私の両膝に埃がついていた。
「そこまで取りに行ったんだ」
「見てたじゃん」
「だから」
律は四年生で、私より一学年上だった。図書館でも働き、写真を頼まれると人の集まる所へ来る。今日はカメラを持たず、受領簿の頁を一枚ずつ戻していた。
西崎さんは箱を回した。
「田辺さんが引き取った箱。置く所がないから、ここで預かった」
「中にあるのに、返却済みって」
「消して。その物、まだ戻ってないんだから」
律がマジックを取った。赤い字へ線を引き、別の面に田辺さん預かり、と書く。
「箱を返すんじゃなくて、物ごとに見て。持ち主へ返す。大学へ残す。決まってない。この三つ」
西崎さんは紙を三枚置いた。二十六歳で、院に残りながらこの事業の事務をしている。電話番号はほとんど携帯に入っていて、私が机の控えを探すより先に出てくる。
「自分で送料出さなくていい。事業から出る」
「いくらまでですか」
「まず俺へ言って」
私は切手の引き出しを閉じた。
「今日、五時には抜けるから。困ったら、こっちの番号」
「先生じゃなくて?」
「大学の事務。先生はつながらない日、ある」
西崎さんが紙へ番号を書いた。携帯が鳴り、画面を見る。
「映画、三人で?」
私が訊くと顔を上げた。
「何で」
「通知、見えちゃって」
「ああ。研究室の。俺が取らないと、みんな取らないんだよ」
返事を打ちながら笑った。
「宮原、映画、見る?」
「見るのもあります」
「そりゃそうか。夜の回、安いから。今度、来れば」
律が受領簿から目を上げた。
「何を見るかが先じゃないですか」
「そっち、まだ決まってない」
二人とも笑った。私も、何を見るか分かってからと言った。西崎さんは別の画面を開き、候補を二つ送っていた。片方は、私がもう見たものだった。
空いた箱の底に、写真を借りた時の紙もあった。和夫さんの名の下に、依子さんが連絡し、本人へ確認したと書かれている。写真八枚。さっき見つけた封筒には七枚しかなかった。
西崎さんへ見せると、最後の展示先から戻る分だと言った。
「木曜。箱が来たら、枚数合わせる」
「これも三輪さんへ?」
「原票は先生に見てもらう。写真と混ぜないで」
私は二つの封筒を用意した。同じ家の物を別々にするので、片方だけ間違えて返しそうだった。
返却済みを消した面がまだ乾いていなかった。去年の十一月には田辺さんへ渡し、今日は同じ箱から出てきた。その間、誰が何を返したことにしたのだろう。
「去年、これを返した時の紙も、見たいです」
「先生の所。木曜に聞いて」
西崎さんは弁当袋を机へ載せた。
私は木曜の欄へ、写真八枚の下にその用事も書いた。三輪さんへ戻る物が全部揃っても、赤い字をつけた理由は戻ってこない。
受領簿を持って窓際へ行くと、沙帆がヘッドホンを首へ落とした。
「そこ、載せないで」
「空いてると思った」
「空けたんだよ。午後、取りに来る人の」
小野寺沙帆は私と同い年で、音楽系の学部にいる。机の横へコードが束ねてある。私はその隣へ置こうとして、彼女に同じ顔をされた。
「三輪さんのは、触らないで返してって」
「じゃ、触らない」
沙帆は画面へ戻った。
二年前、五分の映像を作った。彼女が音を切り、私は字幕を短くした。先生に五分に収めるよう言われ、その通り収めた。
三輪さんがほっとしたのは、姉が病院へ泊まってくれ、自分が家へ戻れた時のことだった。私が削ったのは〈病院から〉。前の画で分かると先生に言われた。前の画には、水害で壊れた家が映っていた。三輪さんの夫は、その水害で亡くなっている。
出来上がった物を見た人の何人かは、夫の死にほっとしたのだと受け取った。
私は字幕のファイル名より、七枚の写真の番号を長く見た。どちらも、自分の仕事で使った物だった。
田辺さんへ電話がつながったのは昼過ぎだった。
『音を移してから渡そうと思って。妹の機械、動かなかったの。そのままになってたのね』
「聞けなくてもいいと、おっしゃってます」
『そう。急に言うから、あの人』
向こうでレジの音がした。田辺さんが、袋はいりません、と答えた。
『明日、午前は? 私も顔を出すから、一緒に持っていきましょうか。ほかに写真もあるし』
「カセットも、そのまま持っていっていいんですね」
『ええ。その方が早いわね』
三輪さんへ折り返すと、十時なら、と言った。十一時半には出るので、という。
手帳へ時刻を書く。律がこちらを見た。
「明日、一緒に行っていい?」
「助かる。写真、分からないのあるから」
「番号、合えば分かるよ」
「うん」
「そのあと、元町へ寄りたいんだけど」
私はペンを持ったまま待った。
「服。見てほしい」
「私でいいの」
「よくなかったら、別の日にする」
「いい。悪いって言ってもいい?」
「そこは言い方、あるじゃん」
十時の下へ、元町、と書いた。
西崎さんへ勤怠の紙を出すと、電話を始めた時刻を訊かれた。つながるまでの十五分を消したと言うと、その間に何をしていたか訊いた。
「一覧、直してました」
「じゃ、入れといて」
線を引き直す間、西崎さんは机から封筒を出した。大学の別の部署の宛名があった。出すのですか、と訊くと、先生に読んでもらってから、と答えた。
彼は紙をしまう前に、印刷の見積を抜いた。
「これ、自分で払うんですか」
「研究会に出す冊子。配るぶん、先生が見る前に入稿するわけにいかない」
「高いですね」
「表紙、一色増やしたから」
西崎さんは見積をこちらへ向けた。
「背に題が欲しくて。棚で見えなくなるの、嫌なんだよね」
私は値段の上の小さな図を見た。細い本の背へ、西崎さんの名前があった。
私は自分の紙を持ち帰った。十五分が戻っただけで、明日の服を見る時間まで長くなったような気がした。
夜、冷凍のうどんを食べながらゲームを始めた。くらげはもう待っていて、画面の端で丸い兜が跳んでいた。
『二分もあったら、一回落ちれる』
「落ちるために待ってたの?」
一年近く組んでいるのに、本名も住んでいる所も知らない。ときどき後ろに人の声がする。私へ紹介されたことはない。
二人で荷車を押し、崖の所へ来た。右と言われて右へ動かす。もう一度右と言われたので、さらに押した。
落ちた。
『右を止めて』
「そこまで言ってよ」
『止まると思った』
「思わないで」
やり直しの画面でうどんをすする。冷めていた。
『今日、何かあった?』
「十五分、給料増えた」
『何したの』
「仕事」
『そりゃそうだ』
明日、律と服を見に行く。名前を出さず話したら、デートみたいになる。そう思われるのも、違うと言うのも、嫌だった。
今度は私が角で止まった。くらげが走り過ぎ、荷車の前へ回る。丸い兜が車輪の下へ見えて、私は声を出して笑った。
『いまの忘れて』
「嫌だね」
手帳はうどんの横で開いていた。元町の字へ袖をかけ、コントローラーを持ち直した。