箱を机の脇へ下ろした。
新聞紙と、底へ敷かれたタオルが残っていた。タオルを持ち上げると一円がある。航が何円、と覗いた。
「一円」
「一円か」
端へ置くと、彼は紙へ戻った。
西崎さんの携帯が鳴った。大学の人へ、北町の物は動かしていない、ここにある分だけ、と答えた。流しの横の小部屋へ入る。戸は閉まらず、航がペンを持って後ろへ行った。
はい、が何度か聞こえ、航は電話の終わるのを待っていた。
澪さんから、少しなら、と来た。
廊下で電話をかけると、洗濯機が止まる音がした。
『今、脱水。三分ぐらいなら』
「航さんの書いた方、送っていいですか」
『うん。読むのは後で。靴下が一枚、またない』
写真で送った。澪さんは受け取ったとだけ言い、別のことを訊いた。
『先生へ預けた控え、残ってる?』
「西崎さんへ渡した日のですか」
『そう。電話でまた説明するの疲れたから。見つかったら、そっちも』
机へ戻って探そうとすると、今はいい、と止められた。
『灯さん、今日、何時に食べるの』
「まだ決めてなくて」
『沙帆さん、麺を買って来たよ。あなたの分もある。仕事の電話だけにしないで、来るなら来るって言って』
航が小部屋の前でこちらを見ていた。私は携帯を口から少し離した。
「私、行きます。夕方」
『じゃ、閉めてもいる。紙、私が読むまで大学へ出さないでね。まだ中身、見てないんだから』
切ると航がどうだった、と訊いた。
「洗濯してた。私、沙帆の音、聴きに行く」
「俺の方は」
「届いた。読むのは後だって。控えも要るって」
航は机の紙を裏へ返した。私は沙帆へ、麺も食べたい、と送った。
律が来たのは四時過ぎだった。
大きな紙袋に、封筒と透明な写真袋が入っている。自分の写真を大学へ送る箱に混ぜたくないという。
「帰る時間、決めた?」
「もう少し。俺も片づける」
「何時」
「六時」
律が携帯を見る。久住くんがもう一度来て棚を見たいと言っていた。
「灯もいる?」
「澪さんに説明する方、まだ」
「じゃ、お茶買ってくる」
「私が行く」
航が俺行こうか、と言った。律は封筒を広げ、六時までに終わって、と返した。
私は外へ出た。北町の入口に人がいる。目が合い、手を上げかけて下ろした。
お茶を買った帰りに、田辺さんへ会った。
缶を両手で抱え、肩の袋を掛け直している。
「皆、まだ?」
「律と航さん、西崎さんが」
「よかった。これ、重いの」
缶へ手を出すと、袋お願い、と言われた。お茶を左へまとめ、肩の袋を受け取った。
「秋、大学から返事は」
「今は待ってって。先生がいなくなると、何を待つのか分からないわ」
抱え直した缶が、胸の所で鳴った。
「幸枝へ話すの、私に残った所もあるの。家で預かってた物、探したから」
袋は返却の書類より重かった。私は持ち替え、彼女の後ろを歩いた。
缶を開けると、菓子は入っていなかった。
領収書、手紙、折られたメモ。その下からCDのケースが出た。
「幸枝にも、これを聴いてもらおうと思って」
二年前の秋の日付が書かれていた。
「先生と話した音。私も返してって言ったのよ」
「妹さん、聴きたいと?」
「私から言った。今夜、持っていくからって。大学に渡す前に、何を出すか知らせないとね」
西崎さんが小部屋から出た。田辺さんはケースを私へ向けた。
「灯ちゃん、妹の方を作ったでしょう。私も止めた所があるの」
ノートパソコンへディスクを読む機器をつないだ。誰から受け取ったかを書く紙を取る。田辺依子。ケースの日付も写し、音声の録音日という欄へ入れた。
紙の音がした。後ろで車の音が一度強くなる。
『幸枝には私から話します』
『何を話すの』
私は手を止めた。家で聞いた声と同じ話し方だった。
原票を返してほしいと田辺さんが言う。先生は、名前も出る、と答える。私のはいいんです、本人に聞いたって君が言ったんだろう。
紙が動き、次のやり取りの途中で音が終わった。
「これ、去年の方も入ってるんだな」
西崎さんが画面を指した。
「木曜に、もう一度聴いた所じゃないですか」
西崎さんが言った。
田辺さんは私の紙へ眼鏡を寄せた。
「でも、返してって言ったのは私でしょう。妹には私からって」
「はい」
「そこは、その通りだから」
航が、俺が渡しました、と言った。
律が彼を見る。
「木曜に持って帰った方から?」
「去年のも、探して。短い所を」
私は日付の欄へ手を置いた。田辺さんは先に紙の上の名を指した。
「前にも会った日は本当なのよ。そのメモも、ここに」
缶から一枚取る。先生へ会う日と持っていく物が同じペンで書かれ、その下に洗剤の名があった。
「幸枝、全部は知らないから。私がどこまでやったか」
大学に音を預ける手順を訊くため、私は職員へ電話した。ケースを別へ置くよう頼まれ、田辺さんへ伝える。
彼女は携帯を出した。
「じゃ、妹にはあとで。紙の方でも分かるようにして」
机の端に置いたケースへ、缶の蓋は戻らなかった。
湯飲みが二度、小さく鳴った。三度目を待っている間に、航は携帯へ手を伸ばした。
「止めないで」
律の方が先に言った。
先生の、録音機、まだ止まってない、という声まで聴いた。去年の航が笑う。いまの航は笑わなかった。
木曜の方へ替えてもらった。先生は同じ所でためらい、同じ所で手を離してと言う。その間へ、今の航の返事があった。
「先生が倒れてる所で、これを鳴らしたの」
「うん」
「私にも、その日に話したって言ったよね」
律は画面より彼を見ていた。
西崎さんが小部屋から出てきた。机の缶は開いていて、田辺さんのCDのケースが横へ出ている。
「先にこっちを出す。航君も、自分の方、今日のうちに」
「一緒の文にしないでください」
「だから別にしてるだろ」
航が紙を取り、折った。私はその前に澪さんへ送りたいと言った。
「俺が送る」
「先に見せてって。ご本人が」
「分かってるよ」
彼は机へ戻し、折り目を伸ばした。
田辺さんがおにぎりを並べた。ちょっと先に食べて、と言って、私の前へも置く。
「幸枝へ持っていく分も、買ったの。今夜、姪もいるから」
「姪御さん、来週じゃないんですか」
「今日も寄れるって。急なのよ。それと、幸枝が印刷店へ行くって」
「澪さんの所ですか」
「音の方、自分で聞くって。私にも言ってくれたら、持って行けるのに」
容器を二つ袋へ戻した。蓋の白い煮物は、おにぎりと違う店の物に見えた。
航が携帯を取った。澪さんから、帰る前にもう一度送って、と来た。
「六時にする。店、閉めてから」
律が、六時は帰るんでしょ、と言った。
「帰る。送る方は、今やっておく」
先生の声を流したこと、澪さんが戻ると言ったこと。航は最後の一文を短くし、送る所の横を押した。日と時刻を選ぶ画面が出る。
「それ、今は来ないの?」
「六時。帰る前に、もう一回、直すから」
律が写真袋を持ち替えた。
「直したら、遅くなるじゃん」
「そのままなら届く。帰り道で、文の方、また触らないでいいから」
律が自分の紙袋を開けた。写真の封筒のうち一つだけ、机の端へ離す。
「それ、前の?」
航が訊いた。
「うん。取り直す方じゃないよ」
「見せて」
「あとで」
「何で」
「今、手、食べ物持ってるじゃん」
航が手を見た。おにぎりの包装しか持っていなかった。それを机へ置くと、律は封筒も紙袋へ戻した。
「六時までに、終わる?」
「終わらせる」
「帰るってこと?」
「うん」
久住くんが自分の鞄を引いた。大学へ返す袋に短い道具を移すと、西崎さんが、もう帰るの、と訊いた。
「六時に閉まります。これ、返さないと次の授業、借りられないので」
「まだ、奥の板があるだろ」
「月曜って言ってました」
西崎さんは携帯を見せた。集荷の受付だった。
「今日、家へ出す。大学の部屋、開かないって。あの箱、ここに残せない」
久住くんが茶色の箱を見た。木曜に一度取った前の板は壁にあり、もう一枚には釘の頭が四つ見える。
「僕、返すのは待てません。板、持ってもらう時間も要るので」
「分かった。道具、長い方だけ置いて。俺がやる」
彼はしゃがみ、自分の鞄を棚の下へ押した。
「板の真ん中、持っててください。端だけだと落ちます。戻す時も、誰か持ってる間に上から釘を入れるので」
西崎さんは半分聞いた所で台車を引いた。廊下へ出すと、輪の片方が浮く。
「一人じゃ、これも下ろせないな」
久住くんが手を出した。袋を床へ置くので、西崎さんがその先を引き取った。
「返す方、行って。鞄はそのままでいい」
長い釘抜きの紙を巻いた先が鞄の底へ入り、柄が口の内側へ残った。久住くんがファスナーを閉めた。
久住くんはおにぎりを持って靴を履こうとし、一度私の机へ置いた。私は立ちかけたが、もう持ち直していた。
「袋に入れたら、海苔、剥がれそうで」
そう言って出ていった。
西崎さんは上着を椅子へ戻した。先日直した袖とは反対側の袖口も、少し開いている。
航が小部屋へついて行った。
「俺の方も、見てください」
「いま、自分のをやってる」
「先に出されると、俺のが後からになるじゃないですか」
西崎さんが机の袋から薄い冊子を出した。表紙の端へ、校正用、と鉛筆で書いてある。
「こっち、読んで。俺にお前の文を読めって言うなら」
「今日ですか」
「今日じゃなくても。持って帰っていいから」
航は初めの頁を開いた。指で二本の線の間をたどる。
「この二つ、同じ日に行ったんですか」
「跨いでる。そこだけ見ると分かんないなら、次の図も」
航がめくりかけた。西崎さんは自分の携帯の予定を開いた。
「こっちは、再来週。向こうへ行く方。春に言ったの、覚えてる?」
「覚えてます。今日は、その返事までできません」
「読むのと、来るのと、同じ返事にしないで」
航は律を見た。律は封筒を数えていた。
「申請も、先生が見たって所から直さないと」
「そこは出す。それと、俺がもう一度行くのは別だろ」
「俺が行く方は、今、返事、できません」
「何で。帰る時間なら、決めてるだろ」
律が手を止めた。航は彼女を見ず、本の頁を閉じた。
西崎さんは画面を閉じず、机へ置いた。
「一人だと、また駅から電話して帰りそうで。お前、次は一緒にって言ったんだよ」
航は本を袋へ入れた。西崎さんが表紙の折れた所を押さえ、手を離す。
律が、六時、とだけ言った。航はそちらへうなずいた。
戸は閉まらなかった。律は写真袋を膝へ載せた。私が彼女を見ると、まだ枚数合わない、と言った。
机の私の携帯へ、澪さんから、次の方を先に送って、と来た。航へ画面を見せた。
「分かった。俺がした所、声でも残す。あとで、聞いて」
「澪さんにも送って」
「うん。長くしない」
航は携帯の録音を始めかけ、印刷店から来た電話へ出た。画面を二度押し、終わってから戻した。
「途中で電話すると、分かんなくなるから。メモは先に止める」
「今のは、録らないの?」
「うん。あとで自分のを続ける」
律が立った。
「灯、外、来て」
軒下で片方のイヤホンを渡された。
先生の去年の声がした。その次に西崎さんが、自分の分は先に出す、と言った。
航が俺の方も見てくださいと頼み、西崎さんが、お前も書けばいいだろ、と返す。そこで止まった。
「今度の、読んであげて」
「澪さんへ先に見せるんだよ」
「それは分かってる。航、何を書けばいいか、もう分かんなくなってる」
イヤホンを返した。律はすぐには巻かなかった。
「私も、今日中に終わらせてほしい」
「一緒に帰るから?」
「うん」
律の緑の袖が、手首へ落ちていた。折っていた所を戻したのだと、私はようやく気づいた。