印刷店のドアには本日の営業終了が掛かっていた。
横の通用口で沙帆が手を振る。私が袋を見せると、こっち、と机を指した。
「ご飯、まだ?」
「おにぎり、一個」
「こっち、今から」
澪さんが冷蔵庫から袋を出した。家で作るつもりだった麺を持ってきたと言う。
「鍋、小さいから、二回ね」
「私は食べたので」
「量だけ言って。食べたって言った後でも、お腹すいたら」
椅子を借り、袋を足の間へ置いた。
沙帆が自分の音を開く。三分、と言い、澪さんへ、さっきの方じゃない、と続けた。私はヘッドホンを受け取った。
雨は弱くなり、また大きくなる。店の向こうで電話が鳴った。
澪さんが取る。三輪さん、と言い、来るなら表じゃなくて横、と続けた。
「先生へ返してもらう方、自分でも聞きたいって。姪御さんと、ここまで来てる」
「田辺さんは?」
「一緒。さっき、幸枝の家で待ってるって、そっちにもかけたの」
沙帆が椅子を引いた。三輪さんが先に入り、田辺さんが傘をまとめた。姪御さんは夕方の仕事へ行くので、ここからは二人だけだという。
「お茶、お願いしてもいい?」
三輪さんが訊いた。澪さんは、まだお湯、ある、と鍋を見た。
「私も、少し」
田辺さんが隣へ座った。
鍋を流しへ下ろした。湯気が私の机まで来た。
「ここへ来たら、私にも訊いて。勝手に呼んであげるって返事しないでね」
「はい」
「あと、灯さん。六時に送るって、航から来てるけど」
澪さんは自分の携帯を差し出した。添付はなかった。
沙帆の音が止まる。終わりまで聴いたと思ったら、まだ少しあった。
「私、まだなの」
「あ、ごめん。もう一度」
「頭からにする?」
「いまの少し前から」
鍋の音が小さくなった。今度は画面を見ず、終わるところを待った。
麺を半分だけもらった。食べる間に律から、会えた、と来た。
〈帰るの?〉
送ると、先に帰ってと言われた、という返事だった。写真は渡した、ともう一つ来る。
〈今、どこ〉
〈駅。電車待ってる〉
私は机の椅子を引いた。澪さんが私の箸を見た。
「電話するなら、置いて。汁、こぼれるから」
店の外で律へかけた。
「航、何て」
「帰る。私とじゃなくて」
「どこへ」
「知らない」
電車の来る音がした。
「写真、要らないって言われた?」
「欲しいって。だから渡した」
「その写真」
「火曜の。久住が、ちゃんとやってくださいって言った後の」
律から写真が来た。パン屋のドアの脇に、航がいる。分室から持って出た袋を片手に下げ、もう片方の手をこちらへ出していた。頬の赤い方を見ようとして撮ったと言う。
「パン、買ったの?」
「まだ。今から買うって。私、もう行くって言ったから」
「一緒に食べなかった?」
「写真、渡しただけ。私も、帰りたかったの」
「消してって言われた。灯、先に、顔、見て」
私は画面を開いた。律は電車へ乗るから切る、と言った。
私は分かったと答え、店へ戻った。
澪さんも携帯を持っていた。
「灯さんに頼んだら早いって。私に送る分、まだなのに」
私が返事を打とうとすると、麺が伸びるよ、と言われた。
沙帆は次の音へ線をつないでいた。いまのは応募したものと違い、部屋の中も入れていると言う。
「あとで、それ、聴く」
「先、食べたら」
私は麺を取った。三輪さんは少しだけもらい、田辺さんはもう食べた、と断った。
「これも、先生へ渡してたから」
田辺さんが財布から控えを出した。会場へ払った方だという。
「私が払ったのよ」
「分かってる。私が払ったことには、してないでしょう」
三輪さんは控えを返した。
「半分だけでも、返せると思ってたの」
「私が聞きたいのは、声の方」
澪さんが空の皿を取った。田辺さんは控えを財布へ戻した。
窓の外に宅配の車が止まった。人が茶色の箱を載せる。上の箱へ黄色いベルトが渡っている。午後、西崎さんが本の上へ服を詰めた箱だった。
西崎さんが右の手で台車を押さえていた。左へ白い布が巻かれている。
「手、どうしたんだろ」
私が言うと、田辺さんが窓を見た。
「殴った方?」
「左です」
車が角の向こうへ行く。西崎さんは大学の方へ歩いた。
久住くんから、大学の道具は返った、と来た。自分の鞄はまだ分室、と続いていた。
六時を少し過ぎて、澪さんが、来た、と言った。航の文だった。
私にも届いていた。先生が倒れていた時に先に資料を取った、と始まる。律にはまだ来ていないらしい。
「今、航、どこ」
澪さんが電話をかけた。出なかった。
久住くんから、窓口へ西崎さんが来たので鍵は本人、ともう一つ届く。職員へ話があって待っているという。
田辺さんは立った。
「私、袋忘れてる。冷蔵庫へ入れてくれたの、取って帰る」
「明日でも」
「傷むでしょう。あれ、明日には持って行けないから」
三輪さんは椅子を動かなかった。
「私はここで読む。私の所、あの子、何て書いたの」
澪さんが自分の画面を渡した。田辺さんは妹へ戻りかけ、鞄を持ち直した。
「じゃ、先に。袋、一緒にするから」
田辺さんが出た。三輪さんは画面の一行へ指を置いた。自分が送った電話の所だった。
私の鞄を開くと、財布の下へ手帳がない。
机へ全部出し、借りたCDの袋もめくった。分室で持っていたのは覚えている。分室で澪さんの言葉を書き、そのまま置いたのだと思った。
「今日、戻らなきゃ駄目?」
沙帆が訊いた。
「先生の電話の所も、入ってて。明日、持っていくので」
「明日、朝、行けば」
澪さんは画面から顔を上げた。
「私、店、閉める。駅までなら一緒」
私は職員へ連絡した。分室の施錠は最後に出る人へ頼んだが、鍵を窓口へ返すのは月曜になるという。自分の鍵で入っていいか訊くと、私物を取るだけなら、窓も見てほしいと言われた。
久住くんへ、手帳を取りに戻る、と送る。工具の袋を置いたままなので、まだ開いていれば取りたい、と返ってきた。
沙帆が空の容器を集めた。
「私、先に持って帰るね。自転車だから」
澪さんへ、麺、あとで、と言う。何の返事かを訊くと、晩御飯代、と返ってきた。
私は自分の分を机へ置いた。澪さんが釣り銭を出す間、店のシャッターの音を聞いていた。
分室へ戻る角に、宅配の車はもういなかった。濡れた道を壁へ寄って通った。荷物がなくなれば、久住くんも月曜には困らない。
手帳だけ取ったら帰り、沙帆の音を最後まで聴こうと思った。