三輪さんは違う靴を片方ずつ履いて、玄関の段へ出てきた。
茶色の平たい靴と、黒い踵のある靴だった。
「どっちだと思う?」
私は持ってきた袋を見た。
「靴」
「あ、歩くんでしたら、茶色でしょうか」
「歩くのは歩くけど」
「私は黒い方が好きです」
律が言った。
「そう? じゃ、黒」
片足を戻し、奥からもう片方を出してくる。茶色を端へ揃えてから、私たちを入れてくれた。
十時を少し過ぎていた。駅からここまで、律は袋を持とうかと一度訊いた。私が断ると、次は訊かなかった。服を見に行くからと、今日はカメラも持っていない。
上着の袖から値札を留めていた白い糸が出ている。三輪さんは引いてみて、取れないと分かると、そのまま袖を折った。
「このあと集会所へ。昔、洋服売ってた友達が、着ないのを持ってくるんです」
「今のも、そうなんですか」
「これは買ったのよ。着なかっただけ」
私はカセットを出した。三輪さんが背の字を読み、耳の横で傾ける。律が少し身を乗り出した。
「振っちゃ駄目?」
「あんまり強くは」
「中で音が混ざるわけじゃないんでしょうけど」
「混ざらないです」
律が答えた。
テレビの下の引き出しへカセットが入った。
写真は七枚だった。最後の一枚が木曜に戻ることを伝え、机へ並べる。古い台所が三枚、庭が二枚、人の写った物が二枚。
三輪さんは鍋のある所を指した。
「こんな所に置いてたんだ」
「水害の前のお宅ですよね」
「今は駐車場。見に行っても何もないの」
庭の端に男の人の背中があった。私が訊こうとすると、玄関でチャイムが鳴った。
「開いてるわよ」
田辺さんが買物袋を両手に提げて入ってきた。
「重かった。帰りのこと、買う時は考えないのね」
「また大根?」
「半分は私の」
「一本の方が安かった?」
「そう」
「じゃ、安い方をお姉ちゃんが持って帰って」
田辺さんは笑いながら台所へ行った。袋の中から冷蔵庫へ入れる物だけ選び、大根は残す。律が立ちかけると、手で座らせた。
「その靴、去年痛くなったでしょう」
「帰りはバスにする」
「去年もそう言ってた」
「今年は、する」
三輪さんが湯飲みを並べた。私は茶色を勧めた口を閉じたまま、お茶を受け取った。
田辺さんは机を見ると、あと一枚は縁側だったかしら、と言った。
「和夫さんが座ってる。幸枝、写りが嫌だって」
「嫌がったの、お姉ちゃん」
「私も写ってた?」
「寝てたから忘れてる」
「ああ。じゃ、戻らなくてもいいわ」
「私は欲しい」
声が重なった。律が下を向いて笑い、田辺さんも、眠い顔してたのね、と笑った。
一覧へ、縁側、三人、と書く。田辺さんは写真を動かさず、先のカセットをどこへ入れたか訊いた。三輪さんが引き出しを指すと、あそこなら分かる、と頷いた。
「受取の欄へ、確認を――」
「その前に、これ。大学へ言ってもらっていいですか」
茶色の封筒が机へ来た。地域の広報紙の見本と、返送用の小さい封筒が入っている。
赤い付箋の下に三輪さんの顔があった。写真の脇に、夫を亡くし、ほっとしたと語る、と書かれている。
私は湯飲みから手を離した。
「来月、出るそうです。字が間違ってたら電話してくださいって。字は、間違ってないでしょうけど」
律が紙を少し寄せた。私は次を読まなかった。
「大学の展示をご覧になった、って」
田辺さんが言った。
「私が電話する。どなたかしら」
「お姉ちゃん、この前も電話したでしょう」
「この人には、まだ」
「展示の方。次のには直るって言った」
「今週、先生に会うから。ちゃんと」
「これは金曜までなの」
三輪さんの指が電話番号へ落ちた。
私は、私の字幕からだと思います、と言った。
「〈病院から〉を削ってしまって。そのために、ご主人が亡くなったあとみたいに」
「その話は聞いてます」
「申し訳ありませんでした」
三輪さんが私を見た。上着の糸をもう一度つまむ。
「で、これはどうしたらいいですか」
見本へ指が戻った。
私は携帯を出しかけ、代わりに手帳を開いた。
「分室へ持って帰ってもいいですか。金曜の締切も伝えます。今日、どうするかお電話します」
「三時過ぎに。出ちゃうので」
電話番号の横へ書き足した。
田辺さんは台所から、先生には私からも、と言った。鍋の蓋を一つ取って、置く所を探している。
「先生、用事が増えると忘れるから。原票も秋のも、その時に」
「秋のって、お姉ちゃんが声かけてた方?」
「聞き書きの会。月に一度。今度は私がやるの」
「私も、行くことになってる?」
「写真のこと、分かる人がいてくれたら助かるでしょう」
「そう。でも、私はまだ」
三輪さんは袖を戻しかけた。糸がまた出たので、折り直す。
「先生に来てもらわなくても、できるんじゃない?」
「ええ。来てくださる人がいればね」
田辺さんは大根を袋から出した。転がりそうになり、律が端を押さえた。
「包丁、そっち?」
「勝手に半分にしないで。明日持って帰って」
「今日持って帰るわよ」
「また忘れるから」
大根は切られなかった。田辺さんは台所の引き出しを閉め、包丁の方はもう訊かなかった。
私は見本を鞄の上へ入れた。受取の紙を出すと、三輪さんが名前を書いた。田辺さんが横から、もう少し上、とはみ出した字を指す。
三輪さんは紙を回し、大きな幸のあとへ二文字を詰めた。
「書く所、もっと大きくしてください」
「直します」
律が私を見た。今度は何を直す話か、間違えていなかった。
十一時前、三輪さんがテレビの引き出しをまた開けた。
「音を移せるって、姉が言ってたんですが。うちの機械、動かないの」
「CDをかける物は、お持ちですか」
「それはある。昨日、確かめました」
田辺さんが、ほら、と言いかけた。三輪さんはカセットを私の前へ置いた。
「来週、姪が来るので。前に一緒に聴いたの、覚えてるって」
「金曜までに作って、お持ちします」
言ってから、久住くんへ訊いていないことを思い出した。
「できるかは、見てもらってから。できなければ、テープだけ金曜に」
「じゃ、お願いします。途中から違う音が入ってるって言ってたでしょう。それも、そのままでいいから」
メモを二枚書き、一枚を渡す。家で聴くため、金曜返却。署名の欄よりずっと大きい字になった。
立つと、三輪さんは黒い靴で段を降りた。律に、服を見に行くの、と訊く。
「選ぶのが遅くて」
「買わないで帰ってもいいのよ。誰も怒らないから」
「怒ってないわよ」
奥から田辺さんの声がした。三輪さんはお茶の盆を持って戻っていった。
元町の店で、律が白いシャツを三枚、同じ腕へ掛けた。
「違い、分からない」
「襟」
「襟があるのは分かるよ」
一枚を戻し、もう一枚も戻しかけた所で、薄い緑を取った。
「これ、どう」
「いい」
「早い」
「白よりいい。もう白の違い、覚えられない」
「服の相談、向いてない」
「今言わないでよ」
鏡の前で自分へ当てたあと、律が私にも当てた。値札は白より安かった。
「緑にしよう」
「値段見た?」
「いま見た」
「その前に言ってくれたら信じたのに」
試着室から、いる、と声がした。
私はカセットのある鞄を持ったまま、いる、と答えた。カーテンが開き、律が折った袖を見せる。少し大きかった。
「いいと思う」
さっきより長く見て言った。律は鏡へ向き直し、それから買うことにした。
店を出ても袋の口が開いている。
「まだ白、考えてる?」
「うん」
「戻る?」
「戻らない」
昼をどこで食べるか訊かれた。答える前に、律の携帯が鳴る。
「航が、こっち来るって。颯太もいる」
「そうなんだ」
「行く?」
画面を覗くと、まだ返事は打っていなかった。
「ゲームセンター。ご飯、そのあとになるけど」
「行く。お腹すいたら、先に食べる」
律が笑って指を戻した。私へ見せた緑の服は袋に入り、次に誰へ見せるのか、まだ訊けなかった。