戻ると西崎さんが上着を腕へ載せていた。
「今日は、もうやめる」
「要さん、俺が持った分も、ちゃんと書きます」
「書けばいいだろ」
航が前へ来た。
「要さん、あの封筒、出したんですか」
「まだ。出した文は、今日のこと」
「研究の方も、先生が当日見たことになってるでしょう」
「それは別に出す。中、読んだ?」
「全部は」
「一頁目も?」
航が自分の紙を見た。
「今、そっちじゃないでしょう」
「俺が出す方の話だろ。俺が聞きに行った所、何も知らないじゃないか」
「知ってますよ。複写した分の」
「複写じゃなくて。二年、行って聞いた方。お前の音、借りる前から」
西崎さんは机へ戻りかけた。航がまた前へ来た。
「返却の混乱ってだけだと、違うでしょう。先生が倒れてた時、先に見てたの、複写の紙ですよね」
「お前が先に取っただろ」
「取った。だから俺も書くんです」
西崎さんが脇へ行こうとすると、航が腕を掴んだ。
「放せ」
手は離れた。航は道を空けなかった。
「灯には、助けてって言えたんですね」
「そうだよ」
「俺が呼んだ時には、先に紙の方を」
「呼べって言っただろ、電話で」
「来てからです」
航の手が携帯へ出た。西崎さんはそれを引いた。
律が航を呼ぶ。彼は振り向かなかった。
「去年の声は、木曜の返事じゃない。そういう文には、もう直しません」
西崎さんが航の肩を押した。
航が一歩戻ると、西崎さんの右の拳が頬へ当たった。航の肩が廊下の枠へぶつかる。律の椅子が倒れた。
「何してんの!」
私が立つとお茶の缶が転がった。田辺さんが拾う。
航は頬へ手を当てていた。
「顔、見せて」
「大丈夫」
「大丈夫って、殴られたじゃん」
律が腕を取ろうとして、避けられた。
西崎さんは鞄を下ろした。
「病院、行こう」
「今、要さんと行くわけないでしょう」
「航」
「袋、取るから」
航は保管室へ上がった。戸は閉めなかった。
西崎さんがその後ろへ出かけ、律が間へ入った。
「今、近づかないでください」
棚の前で、航は顔をこちらへ向けなかった。口へ寄せた手を離すと、袋の肩紐を掴む。一度で上げられず、反対の手を添えた。
下りてくる航の袋から、冊子の角が出ていた。西崎さんはそれを見た。何も言わなかった。
「帰ろう。私、いるから」
「先、行って」
律は袋を持とうとした手を下ろした。
「六時って言ったじゃん」
「まだ終わってないんだよ」
「帰るって言った」
「今は、帰る」
「袋、私、持つよ」
律が手を出すと、航は肩を引いた。持ち直した紐を彼女へ渡した。
「玄関まで。ごめん」
律は袋を下げた。二人で並んだが、航は彼女の顔を見なかった。
航が私の方を見た。
「灯、文、あとで送っていい」
「何の方」
「俺がしたこと。もう一回、見てほしい」
私は澪さんの画面を彼へ見せた。
「先に澪さんへ送って」
「うん」
靴を履くと、田辺さんが濡れた布を持って来た。
「頬、冷やして。袋へ入れるから」
「いいです」
「一枚だけよ」
航が受け取り、頬へ当てた。布を取るときに白い方を少し見た。私は彼の手がどくのを待たなかった。
「姉ちゃんへ、今日、電話しました?」
「してない。妹と、印刷店の方へ寄るから」
「昨日、俺が渡した音、その日じゃないって、もう言ってますから」
田辺さんの手が袋へ戻った。
「それは、聴けば分かるでしょう」
「分かるように渡したんじゃないでしょう。俺も、そうだったけど」
航は布を渡した。
田辺さんは畳まず、流しの脇に置いた保冷袋の持ち手へ掛けた。
「来る時に、連絡して。幸枝の所、今日は人がいるから」
「そっちへ行くとは言ってません」
玄関で律が袋を渡した。冊子が滑り、航は下から押し戻した。
「それ、置いてっていいよ」
西崎さんが言った。
航は返事をせず、袋の口を折った。
戸が開く。律は動かなかった。私も、じゃあねと言わなかった。傘を持っていないので訊こうとして、もう晴れていたことを思い出した。
戸が閉まった。
田辺さんは白い容器を出して数え直した。
「私も行くわ。妹の電話、また待たせてる」
缶は大学の物と分けて置くと言われ、私はそこだけ訊き直した。
「置いていってもいいですか」
「訊いておいて。私の物は、あとで取れるように」
西崎さんへは顔を向けなかった。玄関から三輪さんへ、今から出る、と電話する声がした。おにぎりの袋が片方だけ、机に残っていた。
律は椅子を起こし、自分の写真を数えていた。西崎さんが上着へ腕を入れかけると、律が言った。
「航と、どこで会うつもりですか」
「知らない。病院へ行こうって、言ったけど」
「今、行くって言う人、いるんですか」
彼は袖を下ろした。
「俺が殴った。それは、言う」
携帯で大学の人へ連絡し始めた。私は靴を履き、缶を流しの横へ避けた。
「灯、どこ行くの」
律が訊いた。
「沙帆の所。借りたCD、渡すから。あとで澪さんの店にも」
「土曜、もう閉めてるよ」
「沙帆と、中で音、見てるって」
律は写真を一枚、透明な袋へ入れた。
「私、航、追ってくる」
「一緒に帰るの?」
「知らないよ、そんなの」
私を見たので、私は袋へ目を下ろした。
「ごめん。違う、灯に」
律は紙袋の口を両手で押さえた。透けた写真の裏に、私の知らない字があった。
彼女が出たあと、西崎さんが大学の人へ、まず自分のしたことを話します、と言う。いつもより低い声だった。
私は邪魔をしないように出た。机に田辺さんの保冷袋があった。まだ小さい容器が入っている。あとで持って帰る、と言われた方だった。
冷蔵庫へ入れ、西崎さんへ、袋の方を、と話した。彼は戸の前から、うん、とだけ返した。