雨を閉じこめる

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CHAPTER 05 / 24

第五章 雨の間

航が久住くんへ録音機を借りたいと言った。

「先生との話。毎回、言ったこと変わるから」
「書いてもらえよ」
 西崎さんが言った。
「書いてくれたら、苦労しないです」

 軽い声だったので、私も笑った。
 久住くんは棚からケースを取り、本体の番号を貸出の紙へ写した。電池とカードの空きを確かめ、ヘッドホンを差す所も見る。

「北町へ戻した線、ここにつながります。まず録る方、確かめますね」

 赤いボタンを一度押すと、待っている画面になる。もう一度で表示が変わった。久住くんが二言話し、四角い印のボタンで止める。横向きの印を押すと、同じ二言が本体から小さく出た。
 航は戻す方のボタンを長く押し、短く押す時と動きが違う、と言った。

「探す時は、押し続ける方。押すだけだと、頭へ戻ります」
「これ、いまのも残ってる?」
「はい。試した分。消す必要ないです。終わったら止めて、そのまま返してください」

 紙を航へ向けた。彼が名前を書く間、私は三輪さんの原票と写真の封筒を別々に袋へ入れた。直した字幕の見本も、その上へ重ねる。

「それ、持っていこうか」
 航が手を出した。
「私も行く。先生へ確認するのあるから」

 木の札の鍵を取って外へ出る。青い札の方は西崎さんが持っていた。同じ戸を開ける鍵なのに、二つを一緒に掛けたことはなかった。
 北町の高い窓は道路のすぐ向こうだった。渡るには歩道を下り、横断歩道へ回る。細かい雨の中、私は傘を航へ少し寄せた。

「澪、昨日どうだった」
「大学へ戻らないって」
「うん。それは」

 信号で止まると航が隣へ来た。

「ほかの話。仕事とか」
「昼に電話が来るの、嫌だって」
「俺も怒られた、それ」

 笑ったので私も笑った。

「魚は食べてた」
「骨あると食べないんだけどな。家だと」
「取ってたよ」
「へえ」

 信号が変わる。航は、そっか、と歩き出した。

 鍵を使う前に、先生が内側から戸を開けた。
 印刷した紙を持っている。奥の机へ戻り、紙を広げる方を私へ空けてくれた。

「写真、明日お返ししていいですか」
「いいよ。原票は私が預かる。写真は持ち主へ」

 私は袋へ写真だけ戻した。原票に並んだ和夫さんと田辺さんの名を、先生が指で押さえた。
 航が録音機を出す。

「あとで文にするんで、録っていいですか」
「どうぞ。まだ決まってない所も入るよ」
「はい」

 赤いボタンが二度押された。

「三時二十二分。蒼井航、真壁先生」
「真壁敦史です。所属も言う?」
「それは分かるので」

 先生が笑った。電話とプリンターより手前の角へ、機器が置かれる。スピーカーの線はまだどこへもつながっていなかった。

「宮原さんもいる。写真を持ってきてくれた所」

 私は袋から字幕の見本を出した。先生が目を向ける前に、航が澪さんの紙のことを始めた。

「原本、本人に先に戻すって、いいですよね」
「いいよ。こっちで持ってる控えとは分けよう。文にするのは、その後で」
「訂正を出すのも」
「出す。ただ、いま君の文を全部読んだわけじゃない」

 先生は航の草稿をめくった。上の方に訂正のお知らせ、とある。
 私は見本を持って待った。昼の案内はすぐ見てくれたのに、今は私の紙があることにも気づいていないようだった。

「先生、これも。戻した字幕の方です」
「病院から、を入れたの?」
「はい。前の音も残すと、五分四十秒になります」
「四十秒か。それぐらいなら」
「あの時は、五分までって」

 先生の手が止まった。

「あの時は、学生の発表と一緒に流す予定だったからね」
「それで切ったんです」
「うん」

 私は紙を先生の前へ置いた。航の草稿に重なり、彼が自分の方を引いた。

「先に、俺の方を見てもらっていい?」
「私も、今日、見てもらいたい」

 先生が二枚を並べた。私の見本を読み、原票へ目を戻す。私は椅子の横に立ったまま、読んでいる行を見た。

「ここ、声は残ってるんだね」
「あります」
「じゃあ、尺はそのままで。一度つないだ方を見せて」

 見本を返してもらった。航がすぐ草稿を寄せる。
 先生は最後の頁までめくった。原本を返すことには頷いたが、先生の了承を入れる欄へ鉛筆で印をつけた。

「ここは、まだ」
「直す所を言っていただければ」
「まず原本を戻す。その後、本人に読んでもらって」

 航は紙を取った。先生が時計を見て、田辺さんが来る頃だ、と言った。

「五時ぐらいに、また来ます。録音機、置いていっていいですか」
「いいよ。田辺さんとの話も残しておこう」

 航が機器へ戻った。先生は、ここで一度止めよう、と言った。四角い印へ航の指が置かれる。

「田辺さんとの話は」
「返す物も違うから、別に。私が使えるなら、後で」
「赤いの、二回です」

 先生が頷いた。私は傘を持って戸の内側で待った。
 二人で出ると、先生が戸の所まで来て、雨、まだ降ってるんだ、と言った。

 信号で、航が私の袋を見た。

「四十秒ならいいんだって」
「今はね」
「先生、そういうの多いよ」

 私は見本を押さえた。そうだよね、と答えかけたが、昼に褒めてもらった案内のこともあった。
 航は青になると先に渡った。歩調を速め、私も横へ並んだ。

 分室へ戻ると、四時前だった。田辺さんが手帳を持って待っていた。
 沙帆はカセットの最後を取り込んでいた。最後に長く誰も喋らない所がある。もう何もないの、と訊くと、止まる所まで、と答えた。

「本人に、途中もそのままでって言われたから」

 返す方と作業の控えへ写し、CDにする順に並べる。私は新しい受取の欄を広くし、三輪さんの住所を封筒へ書いた。
 航は濡れた袖で手を拭き、机へ草稿を置いた。先生の了承、と書く所だけまだ空いている。

「澪の前の紙、文章にしたの残ってる?」
「印刷したのは、あると思う」
「あとで見たい。俺の文の前に、本人の方」

 束を探す間、田辺さんが北町へ出る支度をした。手帳と布袋をジャケットの内側へ抱える。

「灯ちゃん、六時まで?」
「はい」
「戻るから。窓、雨入ってない?」

 紙の端が濡れていた。私が窓を閉めると、沙帆が顔を上げた。
 田辺さんは横断歩道へ向かった。北町の戸へ入る所までは、ここから見えない。
 私は濡れた一覧を刷り直した。同じ行へ入れていた写真と原票を二つに分ける。紙が二枚になった。
 新しい方を送って電話すると、表示は十六時十八分だった。

「先生、新しい一覧を送りました。三輪さんの写真は本人へ、原票は先生へ。そこを分けて」
『机の上のと違うの?』
「はい。二枚目の上に、写真の番号があります。原票と同じ行だったのを分けたので、全部で十四です」
『……来た。二枚になったのか。ああ、八枚目ね。これで全部戻る?』
「明日、私がお持ちします」
『お願いします。紙の方は、田辺さんへあとで説明するから』
「秋の方もですか」
『うん。先に会場へ連絡する。田辺さんの案内から、番号を写してたところ。君の新しい一覧、裏、借りるよ』
「二枚目、まだ下へ写真が続いてます」
『裏へ書くから大丈夫。番号、すぐ見失うんだ』

 向こうで紙が揃う音がした。
 私は西崎さんが公開を止める連絡をしていることも伝えた。先生は礼を言い、そちらに雨が入っていないか訊いた。

「窓、閉めました」
『じゃ、よろしく』

 切ったあと、濡れた紙を丸めて捨てた。航は机で、澪さんの名前のある紙を読んでいた。
 西崎さんが、送り先、こっちも、と封筒を寄せた。私は住所録と比べた。さっき北町へ送り直した一覧にある名も、別の番地へ来ていた。
 田辺さんのいる北町へ訊こうとすると、あとでいい、と止められた。二人で送り状の数を合わせた。
 西崎さんが最後の一枚へ印をつけた時、田辺さんが玄関へ戻ってきた。

 四時半を少し過ぎて、田辺さんが戻った。
 袋を流しの脇へ置く。底から水が一滴ずつ落ちた。

「濡れたわ」

 手を洗い、袋の外を布巾で押さえた。私が写真のことを伝えると、お願いね、と振り向いた。

「秋の方、どうでした?」
「字を大きくって。名前の所」

 手帳を開いた。案内へ鉛筆の線がついている。お話を聞く人、の下だった。片隅の赤い点とは別に、名前の少し上に細い切れ目があった。下の一枚も同じ所で開いている。切れ目は紙の縁へは繋がっていなかった。紙をずらすと向こうが見え、切れ目の内側から字へ赤黒く滲んでいた。田辺さんは二枚を揃え、その所を下へ折って、付箋の頁へ挟んだ。

「先生が取ったから。返してもらったの。手、汚しちゃった」
「その紙?」
「妹の名前、消すって。まだ相談の途中なのに」

 手帳の間から、小さい振込の紙が出た。会場費の欄だけ見えた。
「先に、私が払ったの。もう人も頼んでるのに。やらないなら、先生から言ってって」
 田辺さんが紙を中へ戻した。
「何も始まらないうちに、やめる話だけ早いんだから」

「先に、今のを終わらせないと」

 澪さんから電話が来た。紙に残すため、録ってもいいか訊くと、残して、と返った。字幕の確認に使う機器を机の手前へ寄せた。田辺さんは隣で、受取欄を見ていた。

『公開しないだけじゃ足りない。見本も出さないって入れて』
「見本も、使用しない」
『そう。弟にも送った。読んだって来たのに、その後、電話にも出ない』

 私はその一文を先生へ送ると言った。後ろで田辺さんが、写真は八枚ね、と言った。澪さんとの電話を切り、原票の追記として先生へ送った。録音したまま、自分でも一度読み返した。

「見本も、使用しない。公開だけでなく」
「ねえ、会場の椅子、二十脚だったかしら」

 田辺さんの声も入った。八枚の写真を数えながら、二十だったと思う、と答えた。
 田辺さんは受取欄の姓と名を一つずつ読むので、私もそのまま録っておいた。
 西崎さんは隣の机で、複写の控えを刷っていた。紙が斜めに入り、私に前の蓋を持っていてと言った。外した紙は折れていた。新しい束を入れる。田辺さんが受取欄を指したまま、その音を聞いていた。

 航が立った。

「先生、もう空きました?」
「まだ紙を見てらしたけど」
「先に行きます。返すの、今日にしてもらう」

 木の札の鍵を取り、五時の約束より先に出た。田辺さんは呼びかけるように口を開き、それから私へ、受取欄できた、と訊いた。
 私は二枚の一覧を出した。田辺さんが名前の所へ顔を寄せる。

「幸枝の字、大きいのよね」
「広くしました」
「そう。本人に書いてもらって」

 私は頷いた。
 少しして、西崎さんの携帯が鳴った。

「何だ。……先に呼べ」

 私は顔を上げた。前の蓋がまだ開いていたので、もう一度閉める所を訊いた。西崎さんは電話を耳から離さず、ここを持って、と私の手を上へ移した。

 航から写真が来た。
 机へ載った紙に、本人へ返す、と鉛筆で書かれている。数字は十三のままだった。紙の向こうの端に、別の紙が斜めに重なっていて、四、の字の頭が見えた。写真は机の縁で切れていた。床も、先生の椅子も写っていない。斜めに重なった紙の下の方に、見本、の字もあった。

〈あった。先生は帰った。あとはこっちでやる〉

 私は了解と返した。西崎さんが新しい紙を取り出した。前の蓋を、私が閉めた。田辺さんが、名前の下はこっちへ、と受取欄を指し、私はそこを読み返してから録音を止めた。

「俺も行く。伝票、そっち先に」

 青い札の鍵を取って出る。上着は椅子に残したままだった。

 沙帆が玄関の軒下へ三脚を開いた。
 鞄を風の側へ立て、録音機を載せる。窓を閉めた作業室からより、車の音が近かった。

「車、入るよ」
「切れた所を使う」
「向こうの窓も、開いてる」
「声が入ったら、そこも避ける」

 田辺さんが私の後ろへ来た。

「寒くないの」

 沙帆が指を一本立てた。私たちは中へ戻り、私は伝票を片づけた。田辺さんは一覧をまだ持っている。
 遠くで低い雷が鳴った。終わらないうちに、短い音が重なった。

「いまの、いいね」

 言ってから沙帆を見た。彼女は動かなかった。
 田辺さんが小さい袋を私へ渡す。飴が二つ入っていた。

「よく話すから。食べて」

 外で、声のような音がした。車が通る間は分からなかった。行ったあと、細い所だけ残る。同じ調子が、二度あったように思った。

「受取は幸枝に。私の名前、下でいいから」

 田辺さんの指が紙へ置かれた。私はその下に線を引いた。彼女の爪の横に、白い布巾の糸がついている。
 いったん雨だけになった。紙へ目を戻すと、また人の声のようなものが聞こえる。言葉は分からなかった。何かが大きく擦れ、硬い音がした。少し遅れて、もう一つ。
 私は廊下へ顔を向けた。

「何か入った?」
「たぶん、人。あとで聴く」

 沙帆は機器のそばにしゃがんでいた。向こうの高い窓には、雨の光だけがあった。
 田辺さんは私の紙へ指を置いたまま、そう、それで、と言った。

 戻った沙帆が長い方を開いた。
 寒くないの、という田辺さんの声が先に出た。飛ばさず長さを見ていた。
 雷のあと、私の、いまの、いいね、がある。雨の奥で声の輪郭が二度細く上がり、そのあとは何かが擦れる音と、硬い音が二つ聞こえた。

「向こう、何か聴いてる?」

 訊くと沙帆は北町を見た。

「分からない。人が入ってたら、使えない」

 後ろへ送った。声がなくなると、私は言葉を探すのをやめて聴けた。

「ここから三分」

 応募の方へ書き出し、長い方も別へ写す。機器とカードを鞄へ戻し、仕事のCDを私へ渡した。

「三輪さんの。最初と最後は鳴る。途中の所も変えてない」

 私はヘッドホンをつけ、夫らしい人の声と、最後の戸が閉まる音を確かめた。会ったことはない。名前の字は見慣れていた。
 カセットとCDを封筒へ入れる。沙帆は明日昼から来ると話し、応募は朝、家で送ると言った。

「今日も、いったん帰る?」
「七時の前に。音、まだちょっと」

 どこで食べるのか訊かず、私は封筒の口を折った。
 田辺さんが沙帆へも飴を渡す。素直な礼が返り、私もさっき同じように礼を言ったことを思い出した。

 律が窓際へ来たので、届いた写真を見せた。彼女は自分の携帯を出した。

「航、戻るの?」
「戻ってくるんじゃない」

 北町の戸が閉まった。木の札の鍵を航が使い、西崎さんは先で待っている。先生が出た所は見ていなかった。
 航の鞄は下だけ四角く膨らんでいた。録音機の貸出の紙には、まだ返却を書く所が空いていた。

「先生、金曜いないって言ってたよ」
 律が言った。
「そうなんだ」

 三輪さんへ十二時までに持っていくと電話してある。私は封筒を自分の鞄へ入れた。
 律は先に帰ってて、と言った。

「航さん待つの?」
「うん」

 袋から落ちた飴を律が拾った。

「これ、開いてる」

 受け取ってポケットへ入れた。訊かなければ、拾ってもらうまでここにいなかったかもしれない。
 玄関で靴を直していると、二人が戻った。航の袖が濡れている。西崎さんがマットを踏んだ。

「明日、文の方、頼んでいい?」
「何を書くか、教えてくれたら」
「送る。澪には、まだ言わないで。形になってからにしたい」

 声が少し下がった。私は頷き、傘を取った。
 魚の骨は自分で取って食べていた、とここでも言わなかった。

 焼きそばには値引きのシールがなかった。
 牛乳を取りに一周しても同じだったので、そのまま買った。帰るとくらげから、今日やる、と来ていた。
 始めると、くらげが先へ行く。追えば足場が落ち、待つと今度は二人とも落ちる。

「待ってって言ってるじゃん」
『ここ、止まれないの』
「先に言ってよ」
『さっき言った』
「聞こえてない」

 やり直しの画面で、くらげが動かなかった。

『今日はやめる?』
「別に。やるよ」
『楽しそうじゃないけど』
「そういう日もあるでしょ」
『あるけど、私に当たらないでよ』

 冗談めかした声が嫌だった。

「じゃ、やめれば」
『うん。いったんやめる』

 画面へ一人で残った。
 ごめん、と送って風呂へ入り、出ると、また今度、と来ていた。航からのファイルはまだなかった。
 田辺さんの飴を一つ食べた。もう一つはポケットで少し溶け、包装へ貼りついていた。

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目次

雨を閉じこめる

  1. 01返却済み
  2. 02片方ずつ
  3. 03百円玉
  4. 04おかわり
  5. 05雨の間読書中
  6. 06声の置き場所
  7. 07返す人
  8. 08帰らない夜
  9. 09名前を書くところ
  10. 10六時まで
  11. 11先に行って
  12. 12持ってくる方
  13. 13戻った部屋
  14. 14抜粋
  15. 15渡した写真
  16. 16誰と食べた
  17. 17家で聴く
  18. 18煮える間
  19. 19まだいる
  20. 20もう一杯
  21. 21行かない返事
  22. 22持って帰る
  23. 23白い画面
  24. 24雨漏り

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