航が久住くんへ録音機を借りたいと言った。
「先生との話。毎回、言ったこと変わるから」
「書いてもらえよ」
西崎さんが言った。
「書いてくれたら、苦労しないです」
軽い声だったので、私も笑った。
久住くんは棚からケースを取り、本体の番号を貸出の紙へ写した。電池とカードの空きを確かめ、ヘッドホンを差す所も見る。
「北町へ戻した線、ここにつながります。まず録る方、確かめますね」
赤いボタンを一度押すと、待っている画面になる。もう一度で表示が変わった。久住くんが二言話し、四角い印のボタンで止める。横向きの印を押すと、同じ二言が本体から小さく出た。
航は戻す方のボタンを長く押し、短く押す時と動きが違う、と言った。
「探す時は、押し続ける方。押すだけだと、頭へ戻ります」
「これ、いまのも残ってる?」
「はい。試した分。消す必要ないです。終わったら止めて、そのまま返してください」
紙を航へ向けた。彼が名前を書く間、私は三輪さんの原票と写真の封筒を別々に袋へ入れた。直した字幕の見本も、その上へ重ねる。
「それ、持っていこうか」
航が手を出した。
「私も行く。先生へ確認するのあるから」
木の札の鍵を取って外へ出る。青い札の方は西崎さんが持っていた。同じ戸を開ける鍵なのに、二つを一緒に掛けたことはなかった。
北町の高い窓は道路のすぐ向こうだった。渡るには歩道を下り、横断歩道へ回る。細かい雨の中、私は傘を航へ少し寄せた。
「澪、昨日どうだった」
「大学へ戻らないって」
「うん。それは」
信号で止まると航が隣へ来た。
「ほかの話。仕事とか」
「昼に電話が来るの、嫌だって」
「俺も怒られた、それ」
笑ったので私も笑った。
「魚は食べてた」
「骨あると食べないんだけどな。家だと」
「取ってたよ」
「へえ」
信号が変わる。航は、そっか、と歩き出した。
鍵を使う前に、先生が内側から戸を開けた。
印刷した紙を持っている。奥の机へ戻り、紙を広げる方を私へ空けてくれた。
「写真、明日お返ししていいですか」
「いいよ。原票は私が預かる。写真は持ち主へ」
私は袋へ写真だけ戻した。原票に並んだ和夫さんと田辺さんの名を、先生が指で押さえた。
航が録音機を出す。
「あとで文にするんで、録っていいですか」
「どうぞ。まだ決まってない所も入るよ」
「はい」
赤いボタンが二度押された。
「三時二十二分。蒼井航、真壁先生」
「真壁敦史です。所属も言う?」
「それは分かるので」
先生が笑った。電話とプリンターより手前の角へ、機器が置かれる。スピーカーの線はまだどこへもつながっていなかった。
「宮原さんもいる。写真を持ってきてくれた所」
私は袋から字幕の見本を出した。先生が目を向ける前に、航が澪さんの紙のことを始めた。
「原本、本人に先に戻すって、いいですよね」
「いいよ。こっちで持ってる控えとは分けよう。文にするのは、その後で」
「訂正を出すのも」
「出す。ただ、いま君の文を全部読んだわけじゃない」
先生は航の草稿をめくった。上の方に訂正のお知らせ、とある。
私は見本を持って待った。昼の案内はすぐ見てくれたのに、今は私の紙があることにも気づいていないようだった。
「先生、これも。戻した字幕の方です」
「病院から、を入れたの?」
「はい。前の音も残すと、五分四十秒になります」
「四十秒か。それぐらいなら」
「あの時は、五分までって」
先生の手が止まった。
「あの時は、学生の発表と一緒に流す予定だったからね」
「それで切ったんです」
「うん」
私は紙を先生の前へ置いた。航の草稿に重なり、彼が自分の方を引いた。
「先に、俺の方を見てもらっていい?」
「私も、今日、見てもらいたい」
先生が二枚を並べた。私の見本を読み、原票へ目を戻す。私は椅子の横に立ったまま、読んでいる行を見た。
「ここ、声は残ってるんだね」
「あります」
「じゃあ、尺はそのままで。一度つないだ方を見せて」
見本を返してもらった。航がすぐ草稿を寄せる。
先生は最後の頁までめくった。原本を返すことには頷いたが、先生の了承を入れる欄へ鉛筆で印をつけた。
「ここは、まだ」
「直す所を言っていただければ」
「まず原本を戻す。その後、本人に読んでもらって」
航は紙を取った。先生が時計を見て、田辺さんが来る頃だ、と言った。
「五時ぐらいに、また来ます。録音機、置いていっていいですか」
「いいよ。田辺さんとの話も残しておこう」
航が機器へ戻った。先生は、ここで一度止めよう、と言った。四角い印へ航の指が置かれる。
「田辺さんとの話は」
「返す物も違うから、別に。私が使えるなら、後で」
「赤いの、二回です」
先生が頷いた。私は傘を持って戸の内側で待った。
二人で出ると、先生が戸の所まで来て、雨、まだ降ってるんだ、と言った。
信号で、航が私の袋を見た。
「四十秒ならいいんだって」
「今はね」
「先生、そういうの多いよ」
私は見本を押さえた。そうだよね、と答えかけたが、昼に褒めてもらった案内のこともあった。
航は青になると先に渡った。歩調を速め、私も横へ並んだ。
分室へ戻ると、四時前だった。田辺さんが手帳を持って待っていた。
沙帆はカセットの最後を取り込んでいた。最後に長く誰も喋らない所がある。もう何もないの、と訊くと、止まる所まで、と答えた。
「本人に、途中もそのままでって言われたから」
返す方と作業の控えへ写し、CDにする順に並べる。私は新しい受取の欄を広くし、三輪さんの住所を封筒へ書いた。
航は濡れた袖で手を拭き、机へ草稿を置いた。先生の了承、と書く所だけまだ空いている。
「澪の前の紙、文章にしたの残ってる?」
「印刷したのは、あると思う」
「あとで見たい。俺の文の前に、本人の方」
束を探す間、田辺さんが北町へ出る支度をした。手帳と布袋をジャケットの内側へ抱える。
「灯ちゃん、六時まで?」
「はい」
「戻るから。窓、雨入ってない?」
紙の端が濡れていた。私が窓を閉めると、沙帆が顔を上げた。
田辺さんは横断歩道へ向かった。北町の戸へ入る所までは、ここから見えない。
私は濡れた一覧を刷り直した。同じ行へ入れていた写真と原票を二つに分ける。紙が二枚になった。
新しい方を送って電話すると、表示は十六時十八分だった。
「先生、新しい一覧を送りました。三輪さんの写真は本人へ、原票は先生へ。そこを分けて」
『机の上のと違うの?』
「はい。二枚目の上に、写真の番号があります。原票と同じ行だったのを分けたので、全部で十四です」
『……来た。二枚になったのか。ああ、八枚目ね。これで全部戻る?』
「明日、私がお持ちします」
『お願いします。紙の方は、田辺さんへあとで説明するから』
「秋の方もですか」
『うん。先に会場へ連絡する。田辺さんの案内から、番号を写してたところ。君の新しい一覧、裏、借りるよ』
「二枚目、まだ下へ写真が続いてます」
『裏へ書くから大丈夫。番号、すぐ見失うんだ』
向こうで紙が揃う音がした。
私は西崎さんが公開を止める連絡をしていることも伝えた。先生は礼を言い、そちらに雨が入っていないか訊いた。
「窓、閉めました」
『じゃ、よろしく』
切ったあと、濡れた紙を丸めて捨てた。航は机で、澪さんの名前のある紙を読んでいた。
西崎さんが、送り先、こっちも、と封筒を寄せた。私は住所録と比べた。さっき北町へ送り直した一覧にある名も、別の番地へ来ていた。
田辺さんのいる北町へ訊こうとすると、あとでいい、と止められた。二人で送り状の数を合わせた。
西崎さんが最後の一枚へ印をつけた時、田辺さんが玄関へ戻ってきた。
四時半を少し過ぎて、田辺さんが戻った。
袋を流しの脇へ置く。底から水が一滴ずつ落ちた。
「濡れたわ」
手を洗い、袋の外を布巾で押さえた。私が写真のことを伝えると、お願いね、と振り向いた。
「秋の方、どうでした?」
「字を大きくって。名前の所」
手帳を開いた。案内へ鉛筆の線がついている。お話を聞く人、の下だった。片隅の赤い点とは別に、名前の少し上に細い切れ目があった。下の一枚も同じ所で開いている。切れ目は紙の縁へは繋がっていなかった。紙をずらすと向こうが見え、切れ目の内側から字へ赤黒く滲んでいた。田辺さんは二枚を揃え、その所を下へ折って、付箋の頁へ挟んだ。
「先生が取ったから。返してもらったの。手、汚しちゃった」
「その紙?」
「妹の名前、消すって。まだ相談の途中なのに」
手帳の間から、小さい振込の紙が出た。会場費の欄だけ見えた。
「先に、私が払ったの。もう人も頼んでるのに。やらないなら、先生から言ってって」
田辺さんが紙を中へ戻した。
「何も始まらないうちに、やめる話だけ早いんだから」
「先に、今のを終わらせないと」
澪さんから電話が来た。紙に残すため、録ってもいいか訊くと、残して、と返った。字幕の確認に使う機器を机の手前へ寄せた。田辺さんは隣で、受取欄を見ていた。
『公開しないだけじゃ足りない。見本も出さないって入れて』
「見本も、使用しない」
『そう。弟にも送った。読んだって来たのに、その後、電話にも出ない』
私はその一文を先生へ送ると言った。後ろで田辺さんが、写真は八枚ね、と言った。澪さんとの電話を切り、原票の追記として先生へ送った。録音したまま、自分でも一度読み返した。
「見本も、使用しない。公開だけでなく」
「ねえ、会場の椅子、二十脚だったかしら」
田辺さんの声も入った。八枚の写真を数えながら、二十だったと思う、と答えた。
田辺さんは受取欄の姓と名を一つずつ読むので、私もそのまま録っておいた。
西崎さんは隣の机で、複写の控えを刷っていた。紙が斜めに入り、私に前の蓋を持っていてと言った。外した紙は折れていた。新しい束を入れる。田辺さんが受取欄を指したまま、その音を聞いていた。
航が立った。
「先生、もう空きました?」
「まだ紙を見てらしたけど」
「先に行きます。返すの、今日にしてもらう」
木の札の鍵を取り、五時の約束より先に出た。田辺さんは呼びかけるように口を開き、それから私へ、受取欄できた、と訊いた。
私は二枚の一覧を出した。田辺さんが名前の所へ顔を寄せる。
「幸枝の字、大きいのよね」
「広くしました」
「そう。本人に書いてもらって」
私は頷いた。
少しして、西崎さんの携帯が鳴った。
「何だ。……先に呼べ」
私は顔を上げた。前の蓋がまだ開いていたので、もう一度閉める所を訊いた。西崎さんは電話を耳から離さず、ここを持って、と私の手を上へ移した。
航から写真が来た。
机へ載った紙に、本人へ返す、と鉛筆で書かれている。数字は十三のままだった。紙の向こうの端に、別の紙が斜めに重なっていて、四、の字の頭が見えた。写真は机の縁で切れていた。床も、先生の椅子も写っていない。斜めに重なった紙の下の方に、見本、の字もあった。
〈あった。先生は帰った。あとはこっちでやる〉
私は了解と返した。西崎さんが新しい紙を取り出した。前の蓋を、私が閉めた。田辺さんが、名前の下はこっちへ、と受取欄を指し、私はそこを読み返してから録音を止めた。
「俺も行く。伝票、そっち先に」
青い札の鍵を取って出る。上着は椅子に残したままだった。
沙帆が玄関の軒下へ三脚を開いた。
鞄を風の側へ立て、録音機を載せる。窓を閉めた作業室からより、車の音が近かった。
「車、入るよ」
「切れた所を使う」
「向こうの窓も、開いてる」
「声が入ったら、そこも避ける」
田辺さんが私の後ろへ来た。
「寒くないの」
沙帆が指を一本立てた。私たちは中へ戻り、私は伝票を片づけた。田辺さんは一覧をまだ持っている。
遠くで低い雷が鳴った。終わらないうちに、短い音が重なった。
「いまの、いいね」
言ってから沙帆を見た。彼女は動かなかった。
田辺さんが小さい袋を私へ渡す。飴が二つ入っていた。
「よく話すから。食べて」
外で、声のような音がした。車が通る間は分からなかった。行ったあと、細い所だけ残る。同じ調子が、二度あったように思った。
「受取は幸枝に。私の名前、下でいいから」
田辺さんの指が紙へ置かれた。私はその下に線を引いた。彼女の爪の横に、白い布巾の糸がついている。
いったん雨だけになった。紙へ目を戻すと、また人の声のようなものが聞こえる。言葉は分からなかった。何かが大きく擦れ、硬い音がした。少し遅れて、もう一つ。
私は廊下へ顔を向けた。
「何か入った?」
「たぶん、人。あとで聴く」
沙帆は機器のそばにしゃがんでいた。向こうの高い窓には、雨の光だけがあった。
田辺さんは私の紙へ指を置いたまま、そう、それで、と言った。
戻った沙帆が長い方を開いた。
寒くないの、という田辺さんの声が先に出た。飛ばさず長さを見ていた。
雷のあと、私の、いまの、いいね、がある。雨の奥で声の輪郭が二度細く上がり、そのあとは何かが擦れる音と、硬い音が二つ聞こえた。
「向こう、何か聴いてる?」
訊くと沙帆は北町を見た。
「分からない。人が入ってたら、使えない」
後ろへ送った。声がなくなると、私は言葉を探すのをやめて聴けた。
「ここから三分」
応募の方へ書き出し、長い方も別へ写す。機器とカードを鞄へ戻し、仕事のCDを私へ渡した。
「三輪さんの。最初と最後は鳴る。途中の所も変えてない」
私はヘッドホンをつけ、夫らしい人の声と、最後の戸が閉まる音を確かめた。会ったことはない。名前の字は見慣れていた。
カセットとCDを封筒へ入れる。沙帆は明日昼から来ると話し、応募は朝、家で送ると言った。
「今日も、いったん帰る?」
「七時の前に。音、まだちょっと」
どこで食べるのか訊かず、私は封筒の口を折った。
田辺さんが沙帆へも飴を渡す。素直な礼が返り、私もさっき同じように礼を言ったことを思い出した。
律が窓際へ来たので、届いた写真を見せた。彼女は自分の携帯を出した。
「航、戻るの?」
「戻ってくるんじゃない」
北町の戸が閉まった。木の札の鍵を航が使い、西崎さんは先で待っている。先生が出た所は見ていなかった。
航の鞄は下だけ四角く膨らんでいた。録音機の貸出の紙には、まだ返却を書く所が空いていた。
「先生、金曜いないって言ってたよ」
律が言った。
「そうなんだ」
三輪さんへ十二時までに持っていくと電話してある。私は封筒を自分の鞄へ入れた。
律は先に帰ってて、と言った。
「航さん待つの?」
「うん」
袋から落ちた飴を律が拾った。
「これ、開いてる」
受け取ってポケットへ入れた。訊かなければ、拾ってもらうまでここにいなかったかもしれない。
玄関で靴を直していると、二人が戻った。航の袖が濡れている。西崎さんがマットを踏んだ。
「明日、文の方、頼んでいい?」
「何を書くか、教えてくれたら」
「送る。澪には、まだ言わないで。形になってからにしたい」
声が少し下がった。私は頷き、傘を取った。
魚の骨は自分で取って食べていた、とここでも言わなかった。
焼きそばには値引きのシールがなかった。
牛乳を取りに一周しても同じだったので、そのまま買った。帰るとくらげから、今日やる、と来ていた。
始めると、くらげが先へ行く。追えば足場が落ち、待つと今度は二人とも落ちる。
「待ってって言ってるじゃん」
『ここ、止まれないの』
「先に言ってよ」
『さっき言った』
「聞こえてない」
やり直しの画面で、くらげが動かなかった。
『今日はやめる?』
「別に。やるよ」
『楽しそうじゃないけど』
「そういう日もあるでしょ」
『あるけど、私に当たらないでよ』
冗談めかした声が嫌だった。
「じゃ、やめれば」
『うん。いったんやめる』
画面へ一人で残った。
ごめん、と送って風呂へ入り、出ると、また今度、と来ていた。航からのファイルはまだなかった。
田辺さんの飴を一つ食べた。もう一つはポケットで少し溶け、包装へ貼りついていた。