「自分のあります」
久住くんが財布を閉じた。航は両替機の前で千円札を持っていた。
「その一枚と替えて。崩したら返すから」
「なら、その千円、入れればいいじゃないですか」
「じゃ、そこ空けて」
半歩寄らせて札を入れ、硬貨を掴む。それからこちらを見つけ、手を上げた。
蒼井航は律と同じ四年生だった。背が高く、分室で人が足りないとまず彼へ訊く。来られなくても、誰かを見つけてくれる。今も硬貨を数えるより先に、私たちを台へ呼んでいた。
「何買ったの」
「服」
「見せて」
「あとで」
律が袋を後ろへ回す。
「灯が選んだ?」
「白を何枚も見せられました」
「白、持ってるの分かってるから」
「私、そこ言ってない」
久住くんまで少し笑った。
久住颯太くんは工学部の二年だった。機械の前だと先生も彼のいる方を見てから触る。何もない所で会う時は、背筋を伸ばしている。
「カセット、CDにできる?」
「何のですか」
「三輪さんの。金曜に返したくて」
「いま持ってます?」
頷くと鞄を見た。航が、午後分室で見れば、と言い、台へ百円を置く。
律がその一枚を取った。
「最初、私と灯」
「俺のお金」
「はい」
自分の財布から百円を出して航へ返した。航はそれを台へ入れた。
ファンが回り、赤いパックが浮く。律は持ち手を腕ごと引いた。
「そんな振らなくていいよ」
「やってみたいんだよ」
縁へ当たり、自分の側へ戻った。私は一点取った。
「いま見てた」
「パック?」
「いい感じに浮いてるなと思って」
「見てていいよ」
二点目は私の方へ入った。嬉しそうだったので、私も笑った。
次は左を見て右へ打つつもりが、反対の縁へ当たってきれいに戻り、私のゴールへ落ちた。
「灯、もう一回」
航が言った。
「見なかったことにして」
「三人いる。無理」
律は笑い過ぎてパックを取れなかった。私は黙って一点取る。
「ひどい」
「試合中だから」
五対四で勝った。律は航の袖を引き、もう一回と言った。
先に俺と颯太、と航が向こうへ回る。初めは速い球が続いたが、三点差になると航の球が遅くなった。
「ちゃんとやってください」
「やってるよ」
次も遅かった。久住くんは手で押さえ、あと一分と出た表示を指した。
航が律を見た。律は台から離れ、腕を組んでいた。
「ごめん。じゃ、いく」
そのまま航が勝った。
久住くんが自分の百円を出す。
「もう一回、いいですか」
航は手を引き、彼に入れさせた。今度は喋らなかった。パックが縁を打つ音が続き、久住くんが一点取ると、律が私の袖を掴んだ。
「見た?」
「見てた」
「あれ、私もやりたい」
袖を掴んだまま、次の球を見る。私は腕を動かさなかった。
律は携帯の画面を止め、久住くんが百円を出した所を私へ見せた。
「顔、いい。これ、写真にしてあげる」
「負けた所、入れないでください」
「そこは動いてるから」
負けた久住くんは、最後違う方へ打ちました、と自分の手を見た。航が私の失敗をまた言ったので、それは終わった、と答えた。
律が、あの一点教えて、と頼む。久住くんは航を見て、強く打たれるとできないんですけど、と言った。
「俺、脇で見てる」
航は私の隣へ来た。硬貨を二枚重ねる。
「灯、まだやる?」
「お腹すいた」
「俺も」
声を掛けると、律は今ちょっと、と言った。教わった側と違う方へ打っていた。
小さい総菜屋で、魚のフライを四つ買った。コロッケが一つ、おまけでつく。
航が貼り紙を見つけたので、分けるのは私に回った。
「分けた人、最後ね」
「そうなんですか」
久住くんが訊いた。
「いま決めた」
割り箸で四つにしようとして衣が崩れた。大きさを比べる形ではなくなり、四人で順番に拾った。
久住くんがフライを口から離した。航が飲物を出す。まだ熱いです、と彼が言い、律も自分のを割った。
航が携帯を台の端へ置いた。さっきの一点を律が撮っていたらしい。
「これ、灯も見て」
近づくと、硬い音が大きく鳴った。律が音量を下げた。
「耳、近い」
「自分で持つより、置いた方が見えるじゃん」
「音は、みんな見なくていいから」
もう一度、パックが戻る。久住くんが笑ったので、彼にも見せることになった。航が戻し、同じ音が小さく出た。
「この前、別の映像、仕事先に出した」
航が携帯を伏せた。律はフライを持ったまま顔を上げた。
「有料の?」
「最初の分は、もう。卒業したら一本。田辺さんの秋の会。商店街の聞き書き。見本、先に」
「よかったじゃん」
航は笑った。いつ決まったの、と訊くと、正式には木曜、先生に紙をもらってからだと言った。
「見本には姉の声も入れてる。昔の方、ちょっと」
「澪さんがやるの?」
「一つはね。印刷屋だけじゃ、もったいないし」
私は音のことが分からないので、すごいねと言った。航は、字幕の所、灯にまた頼むかも、と言った。律はフライをひと口食べた。
「明日、午後いる?」
携帯をしまった航が訊いた。
「姉の店の案内、受取りに行ってくれない。木曜に先生へ渡したいんだよ」
お姉さんの澪さんは、前は同じ大学にいた。今は印刷の仕事をしている。私は二年前、映像をこれ以上使わないでほしいと書かれた紙を先に思い出した。
「沙帆も行く。二つあるから」
「行ける」
律はフライを小さくしていた。見ていると、どうしたの、と顔を上げた。
航が、助かると言った。
「訂正も今週、先生と話す。ちゃんと出たら、姉が戻る方も選べるし」
「大学へ戻るの?」
「選べるようには、したいじゃん」
私は広報紙の見本を鞄から出した。三輪さんの所へ同じような文が来ていることを伝えると、西崎さんへ先に、と航が言った。
先生は今日外にいる。それなら、西崎さんのいる分室へ戻る方が早い。
「三時の電話、あっちでする?」
律が訊いた。
「うん。テープも見てもらう」
「じゃ、駅まで一緒」
航が服の袋へ手を伸ばすと、律は明日着る、と言った。
「明日、俺いないかも」
「じゃ、見ないままかも」
袋は私の側へ戻った。私は駅まで、もう少し見ていたいと思った。
西崎さんは見本を読むと、電話番号を携帯へ写した。
「三時過ぎに返事するんだね。先にこっちへ訊く」
私が電話しようとしていた手を戻す。久住くんはカセットの窓を見て、再生する機械を借りに出た。三十分ぐらいと言うので、金曜までにできるか訊くと、聴いてからです、と答えた。
三時十分、西崎さんの電話が終わった。
「見本、いったん止めてもらった。担当から三輪さんへ連絡する。直した文を載せるか、記事ごとやめるかは本人に聞くって」
「ありがとうございます」
「三輪さんへ電話して」
私は折り返した。大学の映像は木曜に先生へ、と言うと、分かりました、と返ってきた。テープはまだ全部聴けていないことも伝えた。
今日中に何か答えなければと思っていたのに、明日の電話でいいと三輪さんが言った。切る前にメモの日付を直した。
西崎さんは別の番号へかけ始めた。私の仕事は一つ終わり、彼の電話はまだ続いた。
水曜の午後、印刷店のガラス越しに沙帆が見えた。
段ボール箱へ座っている。手を振っても立たない。
「座っていいの?」
「いいって」
奥から澪さんが顔を出し、空箱ならどうぞ、と言った。作業着の袖を上げ、赤いペンを持っている。
「宮原さんだよね。いま包んでるから」
沙帆が膝の横の袋を開けた。飴を一つ取ると、すぐ閉じる。
「それ、お客さんの」
奥から声がした。
「一個」
「昨日から数えて」
レジの皿にも同じ飴があった。
「何で袋から取るの」
「近いから」
澪さんが包みを二つ持って出た。袋を沙帆から取り、皿へ飴を足す。
「ほら、いまこっちの方が近い」
「もう食べた」
「もう一個、取ろうとしてた」
沙帆は箱を降り、カウンターへ顎を載せた。
案内二百、受取の控え百。私は注文書と数量を比べた。私が短くした文から、一行だけ戻っている。内容を再確認する場合がある、と先生に言われた所だった。
澪さんは見本を載せ、角を揃えた。
「仕事の後で、ちょっと待つ?」
沙帆が訊いた。
「今日は帰る。昨日帰れなかったから」
「じゃ、待つ」
私は包みを抱えた。まだ昼を食べていないと話すと、沙帆が三人で、と言った。今その数へ入ったのが、少し面白くなかった。
西崎さんへ四時までに戻ると送る。濡らすな、と返ってきた。
食堂で、澪さんは私の包みを空いた椅子へ移した。
「床、濡れてることあるから」
沙帆は焼きそばを頼んだ。私も麺のつもりで選んだが、沙帆が伝票の「丼」を指した。メニューの写真を見直すと、具の下に少しご飯が見えた。
「ご飯、食べなかった?」
「あと一口で電話」
「先に食べたら」
「誰か出てくれたらね。昼休み一人だから」
「もぐもぐって、出れば」
沙帆が本当にやり、澪さんが笑った。私が受取時刻を確かめた電話も昼だった。
「宮原さんのことじゃないよ」
「すみません」
「今、違うって言ったのに」
澪さんは沙帆の水をひと口飲んだ。
明日の七時でいいかと訊き、沙帆が安い所を探すと答える。私は包みの紐を指で押さえた。
「劇場には返事した?」
「まだ。出す音、決まってない」
「金曜までだよね」
応募のメールを沙帆が開いた。音響を手伝う人を探していて、短い音と経歴を送る。
「先生に見てもらったら」
私が言うと、画面が消えた。
「見てもらった。いいと思うよって」
「じゃ、いいんじゃない」
「じゃ、って」
言い直す言葉が間に合わなかった。沙帆はストローの袋を細く折る。
「夏の展示も頼まれてる。そっちの返事もしないと」
「給料は」
澪さんが訊いた。
「交通費」
「行った分でなくなるじゃん」
「そうだよ」
私の丼が来た。二人の皿より大きかった。
別の話をしようとして、航が訂正の話をすると言っていたことを伝えた。大学へ戻る方も選べるように、と。
澪さんが魚へ置いた箸を止めた。
「誰に言ってた?」
「私に。昨日、律と久住くんも」
「またか」
沙帆はこちらを見なかった。
「戻らないよ。店も休まない。申し込むとか、何もないから」
「はい」
「あの訂正は出してほしい。私が勝手にやったみたいに残ってるから。それと、この紙。預けたままの分も」
澪さんが鞄から控えを出した。私が以前見た物より、余白に小さい字が多かった。持ってきた日と、公開を止めたい範囲、説明を求めた相手が書かれている。先生の返事の欄は空いたままだった。
「航には原本を本人に戻してって言った。俺が持って帰るって言ったから、私が先に見るって、また言った」
彼女は控えをしまった。
二年前、分室の前で彼女が先生と話す間、私は字幕を切っていた。先生は後で、先に相談してほしかった、と言った。その時、何を先に相談すればよかったのか訊かなかった。
「私、戻りたそうに聞こえた?」
「航さんが、その」
「うん。ごめん。航に言うことだった」
澪さんは骨を皿の端へ寄せた。
沙帆が自分の皿を動かし、私の丼を覗く。
「多かった?」
「うん」
「言ったじゃん」
「言ったね」
小さい器を頼み、少しもらうと言った。飴も食べたのに、と澪さんが言うと、あれは別、と答えた。
私はまだ箸をつけていない方を二人へ向けた。
出ると雨が落ちていた。澪さんが店から袋を持ってきて、包みへかけた。
角で別れる時、沙帆が七時ね、ともう一度言った。
「高いの、分かってる。変な名前も、できたら避ける」
澪さんは笑って見送った。
帰る途中、傘をずらし、私の包みへ寄せてくれた。七時の食事は明日。私も空いている。
「それ、二人で行くの?」
「何が」
「明日」
沙帆は私の持つ包みを見た。
「灯も来る?」
「行っていいなら」
「嫌だったら訊かないよ。澪さんにも、今」
携帯を出しかけたので、こっち先に、と包みを少し上げた。
彼女は自分の分を取った。傘が私の方へ傾き、肩が濡れる。片手で打って、それでも明日の七時、と私へ確かめた。
「うん」
澪さんから、三人ね、と来た。沙帆が画面を向ける。私はその三の字を見てから頷いた。
車が通るので二人で軒下へ寄る。沙帆の携帯がまた鳴った。
「劇場?」
「先生」
一番上の、楽しみにしています、が見えた。
傘を閉じ、沙帆は両手で打ち始めた。自分の包みは膝へ挟んでいる。
「先、行ってていいよ」
「先に置いてくる」
「私の机。空いてる方。あ、待って。何か置いたかも」
私は歩きかけた所で止まった。自分の携帯も鳴った。
包みを軒下の乾いた所へ一度置いた。宅配便の通知だった。その日の受付は、もう終わっていた。