木曜の朝、西崎さんは机を空けていた。
昨日、沙帆と運んだ包みは開けてある。戻るのが遅くなったことを謝る前に、端の束を棚へと言われた。
「今日、最後の箱が来る。そっち、空けといて」
私の携帯が昨日鳴ったのは、宅配便の再配達だった。今夜受け取ることになり、沙帆と澪さんへ、三人で食べる方を土曜にできないか訊いた。澪さんは昼なら、沙帆は何でも、と返した。
沙帆の机にはヘッドホンと蓋をしたカップがあった。
「土曜、十二時半でいい?」
後ろから声がした。私は頷いた。
「今日も澪さんの所へ行くの?」
「音、聴いてもらう。応募の」
「そっか」
沙帆はカップを取り、空いているか傾けた。少し残っていた。
「七時の前に終わるかな」
「ご飯、食べないの?」
「食べるかも。作ってると、忘れるから」
私は再配達の時刻をもう一度見た。土曜なら行ける。今日は七時には部屋へ戻らなければならなかった。
西崎さんが水色のヘアゴムを差し出した。昨日、袋を留めるために使った物だった。
「これ、宮原の」
「ありがとうございます」
彼は椅子から上着を取った。右の袖口がほつれている。
「電車でやった」
引き出しから缶を出して、裁ちばさみで糸を切る。先を閉じたまま袖のほつれへ近づけて、それから開いた。布まで切れそうなので、私は自分の手を引いた。針へ通す時だけ手を窓へ寄せた。それでも入らないようなので、机の糸通しを近づけた。
「ああ、ありがとう」
「直せるんですね」
「これぐらいなら」
通ってからは速かった。裏から二、三度縫い、表へ返し、また戻す。
「そっち、見えなかったですけど」
「俺には見えた」
缶へ針を戻す所で、チャイムが鳴った。
最後の箱は思ったより小さかった。
田辺さんが封筒を一つずつ開けた。同じ名前を二度読むと、そっちは家族の分、と言う。西崎さんが送り状へ印をつける。
三輪さんの八枚目は、厚紙に挟まれていた。縁側に夫婦が座り、奥で田辺さんが横になっている。眉を寄せていて、寝ているのか起こされたのか分からない。
「ひどい顔」
「楽しみにしてました」
「幸枝が?」
「はい」
「そうでしょうね」
写真を戻しかけ、田辺さんが手を止めた。
「金曜に返すんだったわね。原票、先生に見てもらってからで」
「写真は先に戻せる。紙は先生」
西崎さんが二つに分けた。田辺さんは手帳を開き、青い付箋を一枚剥がして貼り直した。
小さい案内に、お話を聞く人 田辺依子、とある。
「初めて、そっちへ名前を書いてもらったの。今まで、連絡先ばっかり」
照れたように裏返す。私はもう少し見たかった。
「秋の会、妹さんも」
「写真のこと、知ってるでしょう。来てくれたらね。会場の人も、先生のお名前を借りられるなら声かけやすいって」
「田辺さんがやるんじゃ」
「私がやるの。来てくれる人がいないと、始まらないけど」
手帳を閉じると、玄関から航が飯どうする、と呼んだ。
出る前に、久住くんと機器を北町へ戻した。
電源をつなぐ方のスピーカーと、もう片方が一つの箱に入っている。私が箱を持ち、久住くんがコードを持った。横断歩道へ下るので、北町の窓は近いのに、着くまでは長い。
先生が戸を開けた。元は小さい印刷所だったという一室には棚があり、奥に机が二つある。手前は紙を広げる机。奥には電話と小さいプリンター。高い窓は先生の椅子の後ろだった。
机には切りかけのりんごと湯飲みがあった。先生は皿を奥へ寄せ、黒い柄の包丁を小さい流しへ運んだ。
「戻った。あとで、二人で聴くから」
久住くんが机の両側へスピーカーを置いた。コンセントへ差し、つないだ左右の線を後ろへ回す。音を入れる細い線の先だけ、先生へ向けた。
「これ、パソコンでも、貸す録音機でも同じです。端子、こっち」
私の携帯の音をつなぎ、一度確かめた。先生は窓の金具を持ち上げた。少し開く。
「また閉めるんですか」
久住くんが訊いた。
「紙の時だけ。蒸すでしょう。人が増えると」
外の車の音が入った。先生が音量を少し上げる。私は窓の下に立ったが、道路の反対側の人の顔は見えなかった。
線を抜いて返してもらう。スピーカーの方の小さいつまみは、先生が回した所に残った。
「宮原さん、原票も午後、持ってきて。二つに分けた方が分かるね」
私は三輪さんの分の話だと思い、頷いた。
「去年、返却済みって書いたのは、田辺さんへ渡したからですか」
「受け取った名前は田辺さんだね。紙も、午後に見よう」
「三輪さんのカセットは、箱に残ってました」
先生は音の線を机の端へ寄せた。
「音を移してから妹さんへ渡すと聞いてた。田辺さんが来たら、そっちも訊こう」
私は午後に持ってくる物へ、去年の受領の紙も足した。返した名前と、待っている人の名前が違う。それを先生にも見てほしかった。
食堂で、西崎さんが店の人へ椅子を足してもらっていた。分室で話す時より声が高く、すみませんを二度言った。
沙帆は先に席についていた。隣へ座ると、昨日の袋の跡がまだある、と私の腕を指す。
「消えるよ」
「まだ消えてない」
律は緑のシャツを着ていた。袖を二度折っている。
「着たんだ」
「どう」
「いい。試着した時も見たけど」
「この前、袋ばっかりだったじゃん」
航が似合うと言った。律は、今度は袋じゃないから、と返した。二人の間でどんな話があったのか、私は知らなかった。
田辺さんは遅れて入り、本日の定食を、と人数を数えた。
「私、焼肉がいいです」
沙帆が言った。
「僕も別で」
久住くんも言った。
「はいはい。好きなのにして。まとめたら早いかと思っただけ」
注文の後、小鉢を一つずつ足せないか訊いた。西崎さんが身を引く。
「そこまで頼まなくても」
「訊くだけ。余ってなかったら、それでいいの」
煮物ならあるよ、と返った。田辺さんが西崎さんへ笑う。
「強いですね」
「恥ずかしい顔、何度もしてるから」
「俺も結構してますけど」
「まだ覚えてるでしょう。忘れてからよ」
航も私も笑った。
先生はお茶がなくなる頃に来た。鞄から長い写真を出し、戻ってきたんだよ、と広げた。同じ部屋の左と右に、先生が一人ずついる。
「双子なんですか」
久住くんが訊いた。
「言われると思った。二人いれば展示は楽なんだけどね」
「パノラマですよね」
律が言った。
「早いな。ほかの人が考える時間なくなっちゃった」
先生は撮る人の後ろを走ったのだと言った。間に合わなかった方もあり、片足しか写っていない。
「そっちが見たいです」
「そっちは出さない」
「先生、仕事してないじゃないですか」
西崎さんが言った。
「二人分してるのに」
「ほかの人にもカメラ持たせてますよ」
「ああ、そうか」
先生が本当に困った顔をしたあと笑った。私は左で持っている箱と、右の箱をもう一度見たかった。皿が来て、写真は丸められた。
先生は私の前の案内見本を取り、短くした所を読んだ。
「最後の一行、戻したんだね。よくなった」
西崎さんへも見せるので、少し嬉しかった。
私は三輪さんの広報の見本のことを訊いた。先生の箸が止まる。
「西崎くんから聞いた。あっちは止めてもらえたんだよね」
「元の映像も、木曜に確かめるって私が」
「見よう。音、ある?」
「あります」
沙帆が答えた。
田辺さんのお茶を注ぐ手が止まった。
「幸枝に聴かせなくても、今のを止めればよろしいんじゃないですか」
「比べるのは、まず私たちで。何を直したか、出す時にも必要だから」
自分の褒められた字幕が、間違った方に並ぶ。私は小鉢へ箸を入れた。食べるよ、と言った相手が分からなかった。
先生が久住くんへ古い椅子の修理を訊く。もう座れます、と真面目に答えた。
「毎晩、眺めてるのかと思った」
「脚の歪み、低い所から見ると分かるんです」
「眺めてから座る?」
「そうです」
田辺さんが、毎晩座ってる方から直してもらいたいわ、と言った。
沙帆がおかわり、と手を上げた。ご飯だった。私はまだ半分あった。
戻る途中、西崎さんに保管室の空箱を頼まれた。
廊下で台車を止める。中の床は一段高く、二人で持たないと台車を上げられない。私は空箱だけを抱え、足を上へ置いた。
戸の大きいガラスの下は木だった。枠の所に新しい色が残る。
「これも、直したんですか」
「先月、箱を落として。角が当たったんで」
久住くんが言った。
「先生、中が見える方がいいって。同じ大きさで」
奥の棚からは、まだ重い箱が出ていなかった。前の細い板に箱の底が引っかかる。重い物を台車へ移す時、板を外せば高く持ち上げずに出せるのだと久住くんが言う。
西崎さんが箱を棚へ押し戻した。
「月曜、ここから全部出す。先に、これ取れる?」
「外します。今日、道具あります」
久住くんは鞄から長い釘抜きを出した。平たい先は二つに分かれ、片方の角が小さく欠けていた。曲がった方を床へ向け、平たい先を板の裏へ差す。木が少し浮いた。
西崎さんに箱を持ってもらい、板を引いた。端だけ外れず、久住くんは先を入れる所を変えた。
「ここ、押さえてください」
空箱を足元へ置いた。私が両手を出すと、端を持たないで、と言われた。板の真ん中を押さえる。外れた板が床へ倒れる前に、彼が引き取った。
抜いた釘を缶へ入れようとすると、久住くんが待って、と言った。
「これ、僕の缶じゃないので。混ざると、月曜にまた探します」
いらないコピーの紙を一枚取り、釘を四本並べた。折って包む。長い釘抜きの平たい先にも別の紙を巻いた。
「尖ってる方だけでいいんだ」
私が言うと、彼は持ち手を見せた。
「持つ方まで包むと、次にどっちか分かんなくなるので」
紙を巻いた先を鞄の底へ向けて戻した。
「月曜まで、置いていいですか。もう一枚、向こうの棚にもあるので」
「小部屋の机の下。通る所へ置かないで」
西崎さんが言った。
箱を持って降りる時、後ろへ出す足にまだ床がなかった。久住くんが底へ手を添えた。
「重いの、奥にあります。持つ時、呼んでください」
私は返事をして、空箱を台車へ載せた。
西崎さんは奥に残る茶色の箱へ手を置いた。
「俺の本、これだけで二箱分ある。向こうの部屋、開かないなら、一度家へ送る」
「家、置けますか」
「置けない。でも大学に捨てられるよりは」
久住くんが台車を戻しかけた。西崎さんは首を振る。
「まだ集荷、頼んでない。重いのは一人じゃ出せないから」
白い蓋の薄い箱を茶色の箱の上から取ってくれと言われ、私は一人で横の棚へ移した。茶色の方には古い雑誌の背が詰まっている。私は台車の輪が一段の下へあるのを確かめて、手を離した。
沙帆が二年前の音を開いた。
三輪さんは姉が泊まってくれた日を話している。病院から戻り、靴下を脱いだ所まであった。完成した方では、ほっとした声の後に水が入る。
「これ、私がつないだ」
「字幕、私が」
同じように言って、次が出なかった。
先生が後ろへ椅子を持ってきた。元を最後まで聴く。先生自身の、少し短くお願いしてもいいですか、も入っていた。
「私、そう言ってるんだな」
「五分にって、言われたので」
「うん。私が」
先生は完成した方をまた頼みかけ、先に公開を止める連絡をしよう、と西崎さんを呼んだ。
立つ時に、右の人差し指を避けて机へ手をついた。昼にはなかった絆創膏だった。
「包丁、洗うの忘れてて。流しで、先に触っちゃった」
先生は自分で笑った。
「田辺さん、今日の紙、端を汚したらすみません。さっき持った方」
「いいです。出す方じゃありませんから」
田辺さんは二枚の端を揃えた。隅の小さい赤い点を見て、折らずに手帳へ挟んだ。
「私の名前で。どの映像か、そっちで分かる?」
「配信先と展示先で題が違うので。出した分、全部確かめます」
「お願いします」
沙帆はヘッドホンを机へ置いた。私は字幕のファイルを閉じず、保存した。
西崎さんはメールを開き、日付の所へ指を置いた。
「先生、先週送った分も、見ていただけますか」
「ああ、君の。まだだったね」
「来週までに所見が要るので」
先生は日程の画面を開いた。西崎さんが横へ寄る。
「現地へ戻る申請なんです。継続できたら、今度は聞く人を増やせる」
航が封筒の端を持った。
「次は俺も行くって、言ってます。乗り換え、見ておきますね」
「向こうの返事が来てから。駅まで行って、また帰るの、今度は嫌だから」
航が封筒から図を抜きかけた。西崎さんは端を押さえる。
「これ、帰りの線ですか」
「行き。帰りは翌日、こっち」
「じゃ、一日じゃないんですね」
「一日だと会えない人がいるって、春にも言ったよ」
航は紙を戻した。西崎さんの指が、しばらく角へ残った。
先生は画面を戻し、日程を一つ先へ送った。
「事務の担当、誰に引き継ぐ?」
「そこは相談します。まず、読んでいただけたら」
「うん。両方だね」
西崎さんはうなずいたが、画面へ手を出さなかった。
先生が携帯を出した。西崎さんは封筒を持ち、顔が上がるのを待った。
「何曜に送った?」
「火曜です」
「火曜。あった。君が聞き取りに行った所だね」
「はい。ここの引継ぎじゃなくて、研究の方です」
「分かってる。大学へ戻ったら見るよ。見落としてたら、もう一度言って」
先生は画面を閉じた。西崎さんは封筒を、宛名を下にして置いた。口から図の載った一枚が出ていた。
その図に、知らない町の名があった。
「ここ、行かれたんですか」
「二年。バス、一日二本しかない所もある」
「帰れなくなったら」
「泊まる。聞けたらね。行っただけの日もある」
西崎さんが図の外の小さい印へ指を置いた。
航が玄関から、次の箱いいですか、と呼ぶ。
「ちょっと待って」
西崎さんは印の所を一つ説明してから立った。私は町の名前をもう一度読んだ。返却する物の一覧には、その名がなかった。
「返却する音も、研究用の分は残します。名前を外して」
西崎さんが言うと、先生はもう一度携帯を開いた。
「用途、取り直すものがあるね」
「原資料は返します。複写と分けてあります」
「分けたら済むわけじゃないでしょう」
先生の携帯が鳴り、廊下へ出た。西崎さんは封筒を開けなかった。返す物の一覧と別に、複写済み、とある細い欄を見た。名前の所へ自分の手を置いた。
先生が戻ると、田辺さんが手帳から小さい案内を出した。
「先生のお名前だけ、お借りしても」
先生は日付を見た。
「最初三回?」
「聞くだけじゃなくて、聞く方もやっていただこうと」
「いいね。田辺さんが得意な所だ」
田辺さんが笑った。指が角を何度も撫でる。先生が次の紙へ手を出すと、二枚を重ねてもう一度差し出した。胸の前で紙が起きる。
「展示の物も、紹介できたら」
「元の声は、確認を取り直すものがあるから。そのまま持っていかないでね」
「承知しています」
「返す分と説明する分、北町で分けよう。それが終わったら秋の相談も」
田辺さんが見せてくれた申込書には、幸枝さんの名前も印刷されていた。
「もう決まってるんですか」
「会場には先に出さないと。お話、妹が一つしてくれれば、最初が楽なの」
原票には田辺さんの名があった。案内には同じ名が別の大きさで刷られている。私は写真を封筒へ入れ、八枚目の番号を一覧へ書いた。
先生は廊下で田辺さんへ振り向いた。
「雨から台所へ入る所、君が言ったんだっけ。あの並べ方は面白かった。残せる所もあると思う」
「ええ」
田辺さんは紙を手帳へ入れた。先生が去ったあとも、表紙を撫でていた。
航が携帯を出し、西崎さんへ去年の説明を聴かせると言った。
「今度は、最初から入れてある」
「何の」
「研究用に出す時、先生へ聞いた方。原本を返すっていう所も」
私も画面の前へ寄った。先生の声だった。今より早く喋る。
『本人が、見本も使わない、と言ったら、そこまで戻そう。名前を消したらいいという話じゃない』
『原本は返す。訂正も出す。いいですよね』
『そこは、そうだよ』
湯飲みを置く音がした。小さく二度触れ、三度目だけ大きかった。
『でも、私が聴いたってだけで、署名までしたことになるのかな』
『署名じゃないです。確認した人として』
『何を確認したか、君の文へ収まらないよ』
西崎さんが、ここ、と言った。航が少し戻す。
『何を確認したか、君の文へ収まらないよ。ちょっと、手を離して』
机が擦れ、先生が、録音機、まだ止まってない、と言った。航の笑いが入った。
「持って帰ろうとして、先生のコードまで引っ張った」
「そこまで残さなくても」
西崎さんが言った。
「元のは、切らない方がいいんじゃないですか」
「使う分は別。原資料の方は残す」
私は湯飲みの三つの音をもう一度聴きたかった。航は画面を閉じた。去年も同じ話をしていたのだと思った。