雨を閉じこめる

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CHAPTER 08 / 24

第八章 帰らない夜

今日はアパートへ帰る、と母へ送ると、電話が来た。
 仕事が終わらない、と答えた。何の仕事かは訊かれなかった。

『明日は?』
「まだ分かんない」
『じゃ、筍のやつ、冷凍するよ。食べるって言ったから煮たのに』

 ごめんと答えると、そんなことで謝らなくても、と笑った。私はもう切るねと言った。まだ何か言いかけていた。
 沙帆が隣にいた。何も訊かず、分室の入口へ戻った。

 北町へは入らないように言われた。
 自分の鞄は分室の椅子へ寄せられていた。誰が動かしたか訊かず、机の紙を揃えた。
 三輪さんの受取控え、返却を終えた一覧、その下に航の案。了承の行を読んでから、三輪さんの分だけ取る。
 沙帆が線を巻いていた。

「持って帰っていいの?」
「私の。訊いた」
「雨も?」
「コピー、家にある。カードは明日、話す時に持ってく」

 最後を留めると、机の下を覗いた。

「片方ない」
「何が」
「裾のやつ」

 自転車の裾留めを一つ指へ巻いている。私もしゃがんだ。ペンの蓋が見つかり、違うと言われる。椅子を引くと、紐が脚に絡まっていた。
 沙帆が膝をついて取り、立つ時に私の頭へ肘を当てた。

「ごめん」
「大丈夫」

 触っているともう一度謝った。私が笑ったら変な音が出た。

「ほんと、大丈夫だから」

 沙帆の手が近づき、鞄へ戻った。
 外で航の声がした。初めから全部は聴いていないので、と答えていた。木曜に先生が何を言ったか、まだ本人も知らない所があった。

「応募、返事来た?」
「受付だけ」
「そっか」

 聞きたかったはずなのに、その先を言えなかった。

 律は水を二本持って外にいた。
 航はまだ話しているという。家のパソコンも確かめてもらうので、待っている。

「先、帰ってって言われた」
「帰らないの?」
「灯は?」

 帰っていいと言われた、と答えると律は頷いた。自分がどうするかは言わない。

「私の所、来る?」

 口にしてから布団を干していないことを思い出した。

「今日じゃなくても。航さんと話すなら」
「ありがとう。今日は待つ」

 水の一本を取り、律は蓋を開けた。私が背を向ける前に一口飲む。
 沙帆が自転車を押してきた。駅まで一緒に行くことになった。
 律は立ったままで、私は鞄の紐を肩へ戻した。

 道が狭く、前から来る人を避けて車道へ片足を出した。沙帆がハンドルを引く。車が行くまで二人で止まった。

「今日、食べた?」

 昼を考えた。三輪さんの所から戻り、航の紙を読んだ。そのあとは先生のそばへ行った。

「まだ」
「何か食べてく?」

 駅の手前にパン屋があった。沙帆は昼を食べた、まだ働くつもりだったから、と言った。
 丸いパンの名前を読む。芋、甘いの、と教えてくれたので、それを取った。
 席が二つ空いていた。沙帆は牛乳だけ買い、鞄を膝へ置いた。
 パンは温かくなかった。指で押すとつぶれた。

「先生、分かるかな」

 沙帆が顔を上げた。

「私、ちゃんとできたのか。先生に」

 胸を押した所を言えなかった。

「硬くて。骨、折れたらって」

 パンを置く。沙帆は牛乳の蓋へ手を置いたまま聞いていた。

「電話の人、続けてって言ったんでしょ」
「うん」
「じゃあ……」

 途中でやめて、蓋を取る。飲んでから私の皿を見た。

「残ったら袋もらおう。食べられる時、食べれば」

 私はパンをまた持った。潰れた跡がそのままだった。

「昨日、食べた?」
「何」
「澪さんと。応募の音、見せたんだよね」
「聴いてもらった。何回も。気づいたら店、閉まりそうで」
「何、食べた?」
「カレー。服についた。帰って洗った」

 今日は別の服だった。私は袖を見た。
 沙帆の携帯が鳴る。彼女は私の皿へ画面を向けた。

「澪さん。明日のご飯、いったんなしにして、って」
「うん」
「三人の方にも送る」

 彼女が打つと、私の携帯も鳴った。土曜の十二時半は、またにしよう。私は読んで、分かった、と返した。
 沙帆は牛乳を飲んだ。私のパンが袋へ戻りかけていた。

「昨日は、私、荷物待ってたから」
「うん。木曜は帰るって言ってた」
「分かってるんだけど」

 少し強くなった。沙帆は顔を上げた。

「でも昨日も、行きたかった」
「そっか」
「うん」

 私はパンを口へ入れた。急に甘く、飲み込むまで何も言えなかった。

「次、訊くよ」
「私から、訊く」
「うん」

 残りを袋へ入れた。外はまだ明るかった。

 石川町の駅で別れた。沙帆は右裾に二つとも巻き、ギアがこっちだけだから、と言った。
 電車を待ちながら鞄へ手を入れると、控えの角が当たった。朝はこれで仕事が終わるはずだった。
 暗い所を通ると窓に自分が映った。髪の後ろが乱れている。肘の当たった所を触った。
 部屋で靴を脱ぎ、明かりをつけ忘れた。冷蔵庫に牛乳がある。昨日買った物だった。
 湯を出して止めた。服を脱がず、椅子へ座る。
 航から、明日文の続き相談していい、と来た。
 先生は、と打ち、消した。まだ出してないよ、と返す。
 分かってる。だから明日。
 すぐ電話になった。

「灯。今日、悪かった」

 向こうで律の声がした。何と言ったかは分からない。

「先生のことも、ちゃんと」
「ちゃんと、何?」

 返事が遅れた。

「北町で聴いた方のこと。警察に話した。要さんにも、そこは言ってほしくて」
「録音、私に返す方じゃないよね」
「文の話。先生が姉に返すって言った所、灯もいたじゃん」

 私は服の袖を引いた。先生は返すと言った。文を読んだわけではないとも言った。

「その後、何て言ったの」

 航が黙る。私は返事を待った。

「先生、俺が戻った時、倒れてた」

 椅子の背へ掛けたタオルが、近すぎる気がした。

「木曜?」
「うん」
「どうして、先生は帰ったって」
「そこも、話した。俺が悪かった」
「私には言ってない」

 向こうの律の声がなくなった。

「先生、いつも椅子、あそこに引いてたじゃん」
「木曜のこと、話して」
「引こうとした。顔、隠れてて。脚が先生の袖に掛かってて、動かすと、腕まで」
 向こうで何かが擦れた。律が、航、と言った。
「呼んだ?」
「先生って。返事、なくて」
「救急を」
「番号、開いた。まだ、かけてない」
「かけてないって、木曜でしょう」
 航の息が途切れた。
「うん。その時。自分の手、赤くなってて。画面へ触るの、嫌で、袖で」
 私は胸を支えた時の自分の手を見た。爪の間はもう洗っていた。
「要さんにかけた。先に呼べって言われた」
「じゃ、呼べたじゃん」
「紙が、先生の下へ入ってた。姉ちゃんの名前、そこだけ見えて」
「先生が倒れてるのに?」
「引いた。破れそうで。先生を起こして、取ればって。起こせなくて」
 電話の向こうで、律がもう一度彼を呼んだ。
「灯には、帰ったって送った。紙だけ撮れば、下、写らないから」
 私は机の端で切れた写真を思い出した。了解、と送った画面も。
「私から、了解って来たよね」
「うん」

 うん、を聞く前までは、違うことを言ってほしかった。

「その後、先生の声、鳴らしたの?」
 航は答えなかった。向こうで律が、座って、と言った。航の息が少し遠くなった。
「木曜の方、明日、聴いて。要さんが何を見たかも、別にして」
「自分で訊いて」

 言い方を直せなかった。航は訊く、と答えた。

「灯にも、いてもらいたいんだけど」
「警察から、明日電話あるから」
「俺も」

 あとでね、と切れた。私はタオルを持ち上げ、また掛けた。
 くらげの、また今度、へ何か送りたかった。沙帆へ駅着いた、と訊いてしまい、自転車で帰ることを思い出した。
 訂正文のファイルは、その夜も来なかった。

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目次

雨を閉じこめる

  1. 01返却済み
  2. 02片方ずつ
  3. 03百円玉
  4. 04おかわり
  5. 05雨の間
  6. 06声の置き場所
  7. 07返す人
  8. 08帰らない夜読書中
  9. 09名前を書くところ
  10. 10六時まで
  11. 11先に行って
  12. 12持ってくる方
  13. 13戻った部屋
  14. 14抜粋
  15. 15渡した写真
  16. 16誰と食べた
  17. 17家で聴く
  18. 18煮える間
  19. 19まだいる
  20. 20もう一杯
  21. 21行かない返事
  22. 22持って帰る
  23. 23白い画面
  24. 24雨漏り

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