今日はアパートへ帰る、と母へ送ると、電話が来た。
仕事が終わらない、と答えた。何の仕事かは訊かれなかった。
『明日は?』
「まだ分かんない」
『じゃ、筍のやつ、冷凍するよ。食べるって言ったから煮たのに』
ごめんと答えると、そんなことで謝らなくても、と笑った。私はもう切るねと言った。まだ何か言いかけていた。
沙帆が隣にいた。何も訊かず、分室の入口へ戻った。
北町へは入らないように言われた。
自分の鞄は分室の椅子へ寄せられていた。誰が動かしたか訊かず、机の紙を揃えた。
三輪さんの受取控え、返却を終えた一覧、その下に航の案。了承の行を読んでから、三輪さんの分だけ取る。
沙帆が線を巻いていた。
「持って帰っていいの?」
「私の。訊いた」
「雨も?」
「コピー、家にある。カードは明日、話す時に持ってく」
最後を留めると、机の下を覗いた。
「片方ない」
「何が」
「裾のやつ」
自転車の裾留めを一つ指へ巻いている。私もしゃがんだ。ペンの蓋が見つかり、違うと言われる。椅子を引くと、紐が脚に絡まっていた。
沙帆が膝をついて取り、立つ時に私の頭へ肘を当てた。
「ごめん」
「大丈夫」
触っているともう一度謝った。私が笑ったら変な音が出た。
「ほんと、大丈夫だから」
沙帆の手が近づき、鞄へ戻った。
外で航の声がした。初めから全部は聴いていないので、と答えていた。木曜に先生が何を言ったか、まだ本人も知らない所があった。
「応募、返事来た?」
「受付だけ」
「そっか」
聞きたかったはずなのに、その先を言えなかった。
律は水を二本持って外にいた。
航はまだ話しているという。家のパソコンも確かめてもらうので、待っている。
「先、帰ってって言われた」
「帰らないの?」
「灯は?」
帰っていいと言われた、と答えると律は頷いた。自分がどうするかは言わない。
「私の所、来る?」
口にしてから布団を干していないことを思い出した。
「今日じゃなくても。航さんと話すなら」
「ありがとう。今日は待つ」
水の一本を取り、律は蓋を開けた。私が背を向ける前に一口飲む。
沙帆が自転車を押してきた。駅まで一緒に行くことになった。
律は立ったままで、私は鞄の紐を肩へ戻した。
道が狭く、前から来る人を避けて車道へ片足を出した。沙帆がハンドルを引く。車が行くまで二人で止まった。
「今日、食べた?」
昼を考えた。三輪さんの所から戻り、航の紙を読んだ。そのあとは先生のそばへ行った。
「まだ」
「何か食べてく?」
駅の手前にパン屋があった。沙帆は昼を食べた、まだ働くつもりだったから、と言った。
丸いパンの名前を読む。芋、甘いの、と教えてくれたので、それを取った。
席が二つ空いていた。沙帆は牛乳だけ買い、鞄を膝へ置いた。
パンは温かくなかった。指で押すとつぶれた。
「先生、分かるかな」
沙帆が顔を上げた。
「私、ちゃんとできたのか。先生に」
胸を押した所を言えなかった。
「硬くて。骨、折れたらって」
パンを置く。沙帆は牛乳の蓋へ手を置いたまま聞いていた。
「電話の人、続けてって言ったんでしょ」
「うん」
「じゃあ……」
途中でやめて、蓋を取る。飲んでから私の皿を見た。
「残ったら袋もらおう。食べられる時、食べれば」
私はパンをまた持った。潰れた跡がそのままだった。
「昨日、食べた?」
「何」
「澪さんと。応募の音、見せたんだよね」
「聴いてもらった。何回も。気づいたら店、閉まりそうで」
「何、食べた?」
「カレー。服についた。帰って洗った」
今日は別の服だった。私は袖を見た。
沙帆の携帯が鳴る。彼女は私の皿へ画面を向けた。
「澪さん。明日のご飯、いったんなしにして、って」
「うん」
「三人の方にも送る」
彼女が打つと、私の携帯も鳴った。土曜の十二時半は、またにしよう。私は読んで、分かった、と返した。
沙帆は牛乳を飲んだ。私のパンが袋へ戻りかけていた。
「昨日は、私、荷物待ってたから」
「うん。木曜は帰るって言ってた」
「分かってるんだけど」
少し強くなった。沙帆は顔を上げた。
「でも昨日も、行きたかった」
「そっか」
「うん」
私はパンを口へ入れた。急に甘く、飲み込むまで何も言えなかった。
「次、訊くよ」
「私から、訊く」
「うん」
残りを袋へ入れた。外はまだ明るかった。
石川町の駅で別れた。沙帆は右裾に二つとも巻き、ギアがこっちだけだから、と言った。
電車を待ちながら鞄へ手を入れると、控えの角が当たった。朝はこれで仕事が終わるはずだった。
暗い所を通ると窓に自分が映った。髪の後ろが乱れている。肘の当たった所を触った。
部屋で靴を脱ぎ、明かりをつけ忘れた。冷蔵庫に牛乳がある。昨日買った物だった。
湯を出して止めた。服を脱がず、椅子へ座る。
航から、明日文の続き相談していい、と来た。
先生は、と打ち、消した。まだ出してないよ、と返す。
分かってる。だから明日。
すぐ電話になった。
「灯。今日、悪かった」
向こうで律の声がした。何と言ったかは分からない。
「先生のことも、ちゃんと」
「ちゃんと、何?」
返事が遅れた。
「北町で聴いた方のこと。警察に話した。要さんにも、そこは言ってほしくて」
「録音、私に返す方じゃないよね」
「文の話。先生が姉に返すって言った所、灯もいたじゃん」
私は服の袖を引いた。先生は返すと言った。文を読んだわけではないとも言った。
「その後、何て言ったの」
航が黙る。私は返事を待った。
「先生、俺が戻った時、倒れてた」
椅子の背へ掛けたタオルが、近すぎる気がした。
「木曜?」
「うん」
「どうして、先生は帰ったって」
「そこも、話した。俺が悪かった」
「私には言ってない」
向こうの律の声がなくなった。
「先生、いつも椅子、あそこに引いてたじゃん」
「木曜のこと、話して」
「引こうとした。顔、隠れてて。脚が先生の袖に掛かってて、動かすと、腕まで」
向こうで何かが擦れた。律が、航、と言った。
「呼んだ?」
「先生って。返事、なくて」
「救急を」
「番号、開いた。まだ、かけてない」
「かけてないって、木曜でしょう」
航の息が途切れた。
「うん。その時。自分の手、赤くなってて。画面へ触るの、嫌で、袖で」
私は胸を支えた時の自分の手を見た。爪の間はもう洗っていた。
「要さんにかけた。先に呼べって言われた」
「じゃ、呼べたじゃん」
「紙が、先生の下へ入ってた。姉ちゃんの名前、そこだけ見えて」
「先生が倒れてるのに?」
「引いた。破れそうで。先生を起こして、取ればって。起こせなくて」
電話の向こうで、律がもう一度彼を呼んだ。
「灯には、帰ったって送った。紙だけ撮れば、下、写らないから」
私は机の端で切れた写真を思い出した。了解、と送った画面も。
「私から、了解って来たよね」
「うん」
うん、を聞く前までは、違うことを言ってほしかった。
「その後、先生の声、鳴らしたの?」
航は答えなかった。向こうで律が、座って、と言った。航の息が少し遠くなった。
「木曜の方、明日、聴いて。要さんが何を見たかも、別にして」
「自分で訊いて」
言い方を直せなかった。航は訊く、と答えた。
「灯にも、いてもらいたいんだけど」
「警察から、明日電話あるから」
「俺も」
あとでね、と切れた。私はタオルを持ち上げ、また掛けた。
くらげの、また今度、へ何か送りたかった。沙帆へ駅着いた、と訊いてしまい、自転車で帰ることを思い出した。
訂正文のファイルは、その夜も来なかった。