土曜の朝、瀬川さんから電話があった。
木曜に聞いた先生の返事と、昨日の続き。十時に署へ行くことになった。
服を替え、昨日の方を洗濯する袋へ入れかけた。身体を支えた時のことをまた訊かれるかもしれない。出して畳み、椅子へ置いた。
窓から隣の建物が見える部屋だった。私は座る前に先生のことを訊いた。
「胸に、刃物による傷が一か所ありました。出血が亡くなった原因と分かっています」
「私が押した所ですか」
瀬川さんが最初に見た姿勢へ話を戻した。身体を動かす前の服、床、椅子と刃物の位置。
私は横向きの背中の方しか見なかった。呼吸を見てと言われ、そのあと仰向けにした。胸の前をどこまで確かめたかは思い出せない。
手を重ねた場所を示した。昨日と同じつもりだった。
「田辺さんの紙、赤い所がありました。戻った時に」
「預かった物を確認しています」
「手を洗ってたんです。汚したって。先生に取られた紙を返してもらったからって」
田辺さんが包丁を触ったのだと思いたくなかった。先生は木曜、北町から戻った時に指へ絆創膏をしていた。案内の端を汚したと、田辺さんへも言っていた。
木曜の赤い所を見ただけでは、いつついたものか分からない。私はその絆創膏と、二枚を一緒に手帳へ入れた所も話した。
先生の包丁を流しへ運んだ手を覚えていた。りんごを切る物だった。
「昼、紙の端には小さい点がありました。夕方は、真ん中の方が切れてて。二枚、同じ所です」
指で空中へ示すと、瀬川さんが昼と夕方を別に書いた。私はもう一度、昼の紙を見た時を訊かれた。
「木曜に蒼井さんが戻った時も、先生が倒れていたと聞きましたか」
「昨夜、本人からです」
帰ったと送ったのが嘘だったことも話した。
「木曜、自分の手に血がついたって。先生の下の紙を取ったとも」
「宮原さんが、その場で見たのではないですね」
「電話で。昨夜、航さんが」
昨日まで信じていた写真へ目を戻した。今度も航が言ったことだった。
身体を触ったか、机の物を動かしたか、何を持ち出したか。私が金曜に見た物が、木曜も同じ位置だったとは限らない。
「木曜には、救急は」
「その時は呼んでいないと、二人とも話しています」
私は鞄へ手を置いた。航の、紙を先に取った、を思い出す。
先生の話として出された音は二つだった。操作を試した久住くんの短い音は、先に確かめたという。
初めの方で、航が三時二十二分と言う。私もいて、写真を先に返す話をした。原本を本人へ戻すことと、訂正文への署名は違った。
田辺さんとの分を別にするから、と私たちが立ち、止めようという先生の声で終わる。
「私、ここまでいました。この後は、分室へ」
「十六時十八分の電話の時は?」
「先生でした。二枚になったのか、八枚目ね、って」
その通話は機器に入っていなかった。履歴と送った一覧を出した。私が先生の声へ直接返事をしたのは、そこまでだった。
次の音が始まった。
雨が強かった。椅子の脚が一度鳴り、航が名前と、木曜、北町、と言った。
『見本も、使用しない。その範囲も、入れて』
『本人が、見本も使わない、と言ったら、そこまで戻そう。名前を消したらいいという話じゃない』
『原本は返す。訂正も出す。ここでいいですよね』
『そこは、そうだよ』
湯飲みが机へ触れた。小さい音が二つ、そのあとで一つ。
小さい二つの音の間に、覚えのある空きがあった。木曜の昼、航が去年の音を戻した時も、私は三度目を待った。
『先生、署名、ここだけ』
『でも、私が聴いたってだけで、署名までしたことになるのかな』
『確認した人として、ここに』
『何を確認したか、君の文へ収まらないよ。ちょっと、手を離して』
机が擦れた。椅子がまた一度鳴り、そこで終わった。
「前に聴きました。先生の所、同じだと思います」
瀬川さんの手が止まった。
「いつ、どちらで?」
「木曜の昼。分室で、航さんの携帯から。去年の説明って」
航の返事は違った。去年は署名じゃないと言い、今は確認した人としてと言う。同じ会話ではないのに、湯飲みと机の音は同じ所を通る。
「去年の声を、木曜に鳴らしたんじゃないですか」
「その元の音も確認します。宮原さんが覚えているのは、先生の発話ですか。それとも、物音も?」
「両方です。先生は最後、録音機がまだ止まってないって。木曜の昼は、そこまで聴きました」
ここにはその声がなかった。
元の音なら何があったか分かる、という言葉を、私は自分で何度も使っていた。元の機器で録った音にも、もう一つの元が入れられる。
「でも、澪さんの言った所は木曜です。私が送った後だから」
自分へ言うように続けた。全部が古いわけではなかった。録音を止めずに、去年の声へ今の航が返事したのだとしたら、雨も入る。先生が倒れていても。
「航さんが殺したことには、ならないですよね」
早くそう言ってほしかった。
瀬川さんは録音の画面を閉じず、先生と直接電話で話した時からを、もう一度頼んだ。
私は十六時十八分の下へ田辺さんの帰着を書いた。切れた案内を出したのは航が再び行く前だった。西崎さんは隣で送り状を数えていた。
瀬川さんが写真を戻してくれた。私は十三の下の紙を見る。先生は電話で、新しい方が二枚になったと言った。手帳にはその時の言葉があった。
紙の頭だけで、そこにいた人の代わりにはならない。
「航さんが持ち帰った紙、先生の机へ残した物もあるんですよね」
「持ち出した物と合わせて確かめています」
「田辺さんの紙だけなら、先に切った指の血かもしれません。航さんが入った時の方を、私は見てません」
瀬川さんが、写真のどこを木曜に読んだか訊いた。私は字の所へ指を置いた。あった、と書かれたから、返す紙の写真だと思った。
先生が手を切っただけならいい。航の声に返事していたならいい。どちらも私が欲しい方の話だった。
「この音を、木曜の生きていた先生の声として聞いた人がほかにもいます。律も。仕事先も」
瀬川さんは名前と連絡先を訊いた。私は知っている方から話した。
*
署を出ると昼前だった。
駅まで歩き、航へ電話した。呼び出しが鳴るごとに切ろうと思った。
「灯?」
「木曜に、呼ばなかったんだってね」
駐車場の端へ寄る。道路の音が減った。
「昨日、私、先生の胸を押したんだよ」
「俺も代わった」
そうだった。目の前で代わってくれた。それが嫌だった。
「先生の声、去年の方を鳴らしたんじゃないの」
航の息がすぐ近くへ来た。
「聴いたの」
「木曜、北町、って言った方。去年の湯飲みと机の音、同じだよ」
「全部?」
「二つとも」
私が答えてから、航はしばらく喋らなかった。
「戻ったら倒れてたんだよ。要さんにも言った」
「何を鳴らしたのか訊いてる。先生が今返事したんじゃないなら、律にも言って」
「姉ちゃんへ、原本だけでも返せたらって」
「紙を取って、それからは?」
「要さんに来てもらって。話の所を」
「それ、救急じゃないよね」
「うん」
私は返事を探さなかった。
「返せば、それだけは終わると思った」
「先生は、どうなると思ったの」
返事がなかった。
「先生の机から取った物、返す。今日、書く」
「先生は、戻らないよ」
自分の声が耳へ返った。航の息だけが続いた。
「聴いた方、出して。去年のと、木曜のと。私が間違ってたら、そう言えるように」
「警察へは出した」
「私にも、比べさせて」
航が黙った。今日会う、とだけ答えた。
私はあとで、と言った。切った携帯が熱かった。
午後、西崎さんのいる分室へ行った。
北町には人がいた。入る方へ行かず、横断歩道を渡る。
西崎さんは自分の本を袋へ入れていた。上着は椅子に残り、直した袖の糸が少し余っている。
「金曜、どうして私を呼んだんですか」
「電話が来たから」
「私がしました。原本あるかって」
手が止まった。
「一人じゃ、できないから」
紙を機械から取る。温かかった。
「木曜にも、誰か呼べば」
「うん」
「航さんが電話して、来る前に紙を取ったって」
「聞いたんだ」
「昨日」
私は紙を机へ置いた。
「呼べって言ったよ。電話では」
「じゃ、行った時には」
「もう呼んでると思ってた。呼んでなかった」
袋の中へ入れた本を、また取った。角が袋の縫い目へ引っかかり、二度引いた。
「先生の顔、見ました?」
「航に、離れろって言った。手、胸の所へ出してたから」
「何をしてたんですか」
「紙、取ろうとしてた。上じゃなくて、先生の下の。俺、肩へ触った」
彼は本を両手で持ったまま、机の向こうへ置こうとした。袋が間にあった。
「それで」
「先生って呼んだ。近くで。ずっと、目、開いたままで」
私は金曜の先生の顔を思い出した。自分が押す間は見られなかった。
「電話は」
「航の、机にあった。俺の方、持ってたよ」
左の掌が上を向いた。携帯はそこになかった。
「なのに、何を返すか決めたんですか」
「紙、全部持って帰るなって。先生の分と、俺の分も。どれが何の原本か、航、混ぜてたから」
「先生を、そこへ置いたまま?」
「うん」
袋を脇へ下ろし、本を机に置いた。背には彼の名前があった。
「音、借りた。研究の方へ出す文も、先生、読んでくれてないから」
「私たちが聞いたの、先生の返事じゃなかったんですね」
西崎さんは携帯を出した。私はその手から目を離さなかった。
「木曜も、それ、持ってたんですよね」
「持ってた」
画面の灯りがついた。彼はまだ何も押していなかった。
「手、離せって言ったんだ。俺が。航へ」
西崎さんの指が、自分の携帯から離れた。
「離させて、そのあと?」
「先生の方へは、出さなかった。俺も」
私は昨日の交代の手を見るつもりで、彼の掌を見た。
「今度、ちゃんと分けて出すから」
彼は机の電話へ手を出した。大学へかけ、今週送った所見をいったん引き下げると言った。受話器を戻すと、机の本を袋へ入れ直そうとした。底へ横に置くと口が閉まらない。私は空箱を持って来るため保管室へ入った。
箱を机へ戻すと、久住くんが来た。大学へ返す道具を数え、小部屋の床へ袋を置いた。西崎さんは紺のシャツを出した。靴下も一緒だった。
「服も、上へ入れて送るから」
「洗った方ですか」
「うん。月曜、運ぶ時に使う。研究室、もう置けないって。いったんここへ」
袋へ戻し、本の箱の上を少し空けた。久住くんが蓋を押すと、片方だけ閉まらない。
「ベルト、これ使ってください。本の上なら、服は袋、別に」
黄色いベルトが渡った。私は自分の靴下を思い出した。乾かす前にしまわないで、と母から来た方へ、まだ返事をしていなかった。
玄関が鳴った。
航が薄いファイルを持って入った。
「変えた。先生の了承の所、確認中にする」
机へ載せた。私は読まなかった。
「その前。録音するまで、何をしたの」
航の手がファイルの上へ戻った。
「紙、取った。先生の方へ残すのと」
「そこは聞いた。先生、いたんでしょう」
彼は左の指を自分の掌へ当てた。何かを取ろうとしているように見えた。
「袖、ここへ入った。拭いても、取れなくて」
「どの袖」
「俺の。洗って、いまも、取れてない」
西崎さんが顔を上げた。航はそちらへ向かなかった。
「姉ちゃんの紙、取ったら、その下も出てきた。要さん、これは持っていくなって。俺、一枚ずつ、どれか、訊いた」
「それを先にしたんだ」
「先生の顔、見てられなかった。机の上なら、できたから」
私はファイルの端へ手を出しかけた。机の下に人がいると知った写真を、また思い出した。
「携帯、充電なくて?」
「違う。音、残ってた。去年の。先生が返すって言ったの、ここへ入れたらって」
「ここって」
航は先生の了承と印刷された所を押さえた。
「やってみたら、先生の声、出た。大きく。止めた。窓、開いてるから」
西崎さんは流しの方を見た。いま分室の窓は閉まっていた。
「また鳴らしたの?」
「頭から。俺の方、言い直して。その間、先生の方、見なかった」
「ずっと、返事、待たなかったんだね」
航は指を紙から離した。
「いま、待ってもらう所じゃないの、分かってる」
先生の了承を確認中とした一行の下へ、まだ何も書かれていなかった。
「私が直す方にしないで。澪さんにも、それを見せて」
「要さんにも先に」
「先に送っていいか、ご本人に訊く」
携帯を出すと、航は西崎さんを見た。
「要さんの研究用の方、音、同じ名前で出した?」
「継続の方には、出した」
「先生が今度の原稿を見たって?」
「直す。今、その連絡をしてたんだよ」
「前に、送った分も?」
「その『事務担当に呼ばれて』って、俺のことだろ」
西崎さんが航の文を引いた。航は片方の端を押さえた。
「俺が一人で決めた文じゃない。電話も来たし、要さんにも」
「呼ばれたことにして、後から来た人にするなよ」
航が紙を戻そうとすると、彼は手を離さなかった。
「自分で出す。お前の方に、このまま書くな」
「仕事の方にも、出した」
「澪さんの声?」
「先生が了承したって。木曜に。見本はもう引き上げろって来てる」
航は署名のない所を指で押した。
「姉ちゃん、直接連絡してた」
澪さんへ、いま話せるか、と送った。すぐ電話が来たので、航にも渡した。
「古いのも」
航が言うと、向こうの声が大きくなった。
「はい。前のも、です」
机へ携帯を戻した。航は二枚とも袋へ入れず、机へ残した。西崎さんは、先生の所見を取り下げたと職員へ伝える。窓の方で短く話し、その間に航が澪さんの印刷店の番号を手帳へ写した。
航は自分の紙の『事務担当』を消しかけた。ペンを置き、消さずに持ち上げた。
待つ間、保管室の箱を出した。
高い床へ上がる前に靴を脱ぐ。奥の棚の下へしゃがみ、畳んだ箱を引く。
角が戸の内側の棒へ当たった。上の釘から外れ、左側が下へ落ちた。
久住くんが入口へ来た。大学へ返す道具を確認する用事だった。
「上へ戻してください。下がってると戸が閉まらないので」
棒を持ち上げて掛け直した。久住くんは箱の通り道を携帯で撮り、月曜にも台車が要ると職員へ送った。
戸の下は木で、向こうの人の足は見えない。大きい箱を持つ時には、声を掛けないとぶつかる。
箱を抱えて降りる時、底を受け取ってくれた。
作業室の机には紙とペンが残っていた。二人とも、そこから書き始めた様子はなかった。