雨を閉じこめる

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CHAPTER 09 / 24

第九章 名前を書くところ

土曜の朝、瀬川さんから電話があった。
 木曜に聞いた先生の返事と、昨日の続き。十時に署へ行くことになった。
 服を替え、昨日の方を洗濯する袋へ入れかけた。身体を支えた時のことをまた訊かれるかもしれない。出して畳み、椅子へ置いた。

 窓から隣の建物が見える部屋だった。私は座る前に先生のことを訊いた。

「胸に、刃物による傷が一か所ありました。出血が亡くなった原因と分かっています」
「私が押した所ですか」

 瀬川さんが最初に見た姿勢へ話を戻した。身体を動かす前の服、床、椅子と刃物の位置。
 私は横向きの背中の方しか見なかった。呼吸を見てと言われ、そのあと仰向けにした。胸の前をどこまで確かめたかは思い出せない。
 手を重ねた場所を示した。昨日と同じつもりだった。

「田辺さんの紙、赤い所がありました。戻った時に」
「預かった物を確認しています」
「手を洗ってたんです。汚したって。先生に取られた紙を返してもらったからって」

 田辺さんが包丁を触ったのだと思いたくなかった。先生は木曜、北町から戻った時に指へ絆創膏をしていた。案内の端を汚したと、田辺さんへも言っていた。
 木曜の赤い所を見ただけでは、いつついたものか分からない。私はその絆創膏と、二枚を一緒に手帳へ入れた所も話した。
 先生の包丁を流しへ運んだ手を覚えていた。りんごを切る物だった。
「昼、紙の端には小さい点がありました。夕方は、真ん中の方が切れてて。二枚、同じ所です」
 指で空中へ示すと、瀬川さんが昼と夕方を別に書いた。私はもう一度、昼の紙を見た時を訊かれた。

「木曜に蒼井さんが戻った時も、先生が倒れていたと聞きましたか」
「昨夜、本人からです」

 帰ったと送ったのが嘘だったことも話した。
「木曜、自分の手に血がついたって。先生の下の紙を取ったとも」
「宮原さんが、その場で見たのではないですね」
「電話で。昨夜、航さんが」
 昨日まで信じていた写真へ目を戻した。今度も航が言ったことだった。
 身体を触ったか、机の物を動かしたか、何を持ち出したか。私が金曜に見た物が、木曜も同じ位置だったとは限らない。

「木曜には、救急は」
「その時は呼んでいないと、二人とも話しています」

 私は鞄へ手を置いた。航の、紙を先に取った、を思い出す。

 先生の話として出された音は二つだった。操作を試した久住くんの短い音は、先に確かめたという。
 初めの方で、航が三時二十二分と言う。私もいて、写真を先に返す話をした。原本を本人へ戻すことと、訂正文への署名は違った。
 田辺さんとの分を別にするから、と私たちが立ち、止めようという先生の声で終わる。

「私、ここまでいました。この後は、分室へ」
「十六時十八分の電話の時は?」
「先生でした。二枚になったのか、八枚目ね、って」

 その通話は機器に入っていなかった。履歴と送った一覧を出した。私が先生の声へ直接返事をしたのは、そこまでだった。

 次の音が始まった。
 雨が強かった。椅子の脚が一度鳴り、航が名前と、木曜、北町、と言った。

『見本も、使用しない。その範囲も、入れて』
『本人が、見本も使わない、と言ったら、そこまで戻そう。名前を消したらいいという話じゃない』
『原本は返す。訂正も出す。ここでいいですよね』
『そこは、そうだよ』

 湯飲みが机へ触れた。小さい音が二つ、そのあとで一つ。
 小さい二つの音の間に、覚えのある空きがあった。木曜の昼、航が去年の音を戻した時も、私は三度目を待った。

『先生、署名、ここだけ』
『でも、私が聴いたってだけで、署名までしたことになるのかな』
『確認した人として、ここに』
『何を確認したか、君の文へ収まらないよ。ちょっと、手を離して』

 机が擦れた。椅子がまた一度鳴り、そこで終わった。

「前に聴きました。先生の所、同じだと思います」

 瀬川さんの手が止まった。

「いつ、どちらで?」
「木曜の昼。分室で、航さんの携帯から。去年の説明って」

 航の返事は違った。去年は署名じゃないと言い、今は確認した人としてと言う。同じ会話ではないのに、湯飲みと机の音は同じ所を通る。

「去年の声を、木曜に鳴らしたんじゃないですか」
「その元の音も確認します。宮原さんが覚えているのは、先生の発話ですか。それとも、物音も?」
「両方です。先生は最後、録音機がまだ止まってないって。木曜の昼は、そこまで聴きました」

 ここにはその声がなかった。
 元の音なら何があったか分かる、という言葉を、私は自分で何度も使っていた。元の機器で録った音にも、もう一つの元が入れられる。

「でも、澪さんの言った所は木曜です。私が送った後だから」

 自分へ言うように続けた。全部が古いわけではなかった。録音を止めずに、去年の声へ今の航が返事したのだとしたら、雨も入る。先生が倒れていても。

「航さんが殺したことには、ならないですよね」

 早くそう言ってほしかった。
 瀬川さんは録音の画面を閉じず、先生と直接電話で話した時からを、もう一度頼んだ。
 私は十六時十八分の下へ田辺さんの帰着を書いた。切れた案内を出したのは航が再び行く前だった。西崎さんは隣で送り状を数えていた。
 瀬川さんが写真を戻してくれた。私は十三の下の紙を見る。先生は電話で、新しい方が二枚になったと言った。手帳にはその時の言葉があった。
 紙の頭だけで、そこにいた人の代わりにはならない。
「航さんが持ち帰った紙、先生の机へ残した物もあるんですよね」
「持ち出した物と合わせて確かめています」
「田辺さんの紙だけなら、先に切った指の血かもしれません。航さんが入った時の方を、私は見てません」
 瀬川さんが、写真のどこを木曜に読んだか訊いた。私は字の所へ指を置いた。あった、と書かれたから、返す紙の写真だと思った。
 先生が手を切っただけならいい。航の声に返事していたならいい。どちらも私が欲しい方の話だった。

「この音を、木曜の生きていた先生の声として聞いた人がほかにもいます。律も。仕事先も」

 瀬川さんは名前と連絡先を訊いた。私は知っている方から話した。
     *

 署を出ると昼前だった。
 駅まで歩き、航へ電話した。呼び出しが鳴るごとに切ろうと思った。

「灯?」
「木曜に、呼ばなかったんだってね」

 駐車場の端へ寄る。道路の音が減った。

「昨日、私、先生の胸を押したんだよ」
「俺も代わった」

 そうだった。目の前で代わってくれた。それが嫌だった。

「先生の声、去年の方を鳴らしたんじゃないの」

 航の息がすぐ近くへ来た。

「聴いたの」
「木曜、北町、って言った方。去年の湯飲みと机の音、同じだよ」
「全部?」
「二つとも」

 私が答えてから、航はしばらく喋らなかった。

「戻ったら倒れてたんだよ。要さんにも言った」
「何を鳴らしたのか訊いてる。先生が今返事したんじゃないなら、律にも言って」
「姉ちゃんへ、原本だけでも返せたらって」
「紙を取って、それからは?」
「要さんに来てもらって。話の所を」
「それ、救急じゃないよね」
「うん」

 私は返事を探さなかった。

「返せば、それだけは終わると思った」
「先生は、どうなると思ったの」

 返事がなかった。

「先生の机から取った物、返す。今日、書く」
「先生は、戻らないよ」
 自分の声が耳へ返った。航の息だけが続いた。
「聴いた方、出して。去年のと、木曜のと。私が間違ってたら、そう言えるように」
「警察へは出した」
「私にも、比べさせて」

 航が黙った。今日会う、とだけ答えた。

 私はあとで、と言った。切った携帯が熱かった。

 午後、西崎さんのいる分室へ行った。
 北町には人がいた。入る方へ行かず、横断歩道を渡る。
 西崎さんは自分の本を袋へ入れていた。上着は椅子に残り、直した袖の糸が少し余っている。

「金曜、どうして私を呼んだんですか」
「電話が来たから」
「私がしました。原本あるかって」

 手が止まった。

「一人じゃ、できないから」

 紙を機械から取る。温かかった。

「木曜にも、誰か呼べば」
「うん」
「航さんが電話して、来る前に紙を取ったって」
「聞いたんだ」
「昨日」

 私は紙を机へ置いた。

「呼べって言ったよ。電話では」
「じゃ、行った時には」
「もう呼んでると思ってた。呼んでなかった」
 袋の中へ入れた本を、また取った。角が袋の縫い目へ引っかかり、二度引いた。
「先生の顔、見ました?」
「航に、離れろって言った。手、胸の所へ出してたから」
「何をしてたんですか」
「紙、取ろうとしてた。上じゃなくて、先生の下の。俺、肩へ触った」
 彼は本を両手で持ったまま、机の向こうへ置こうとした。袋が間にあった。
「それで」
「先生って呼んだ。近くで。ずっと、目、開いたままで」
 私は金曜の先生の顔を思い出した。自分が押す間は見られなかった。
「電話は」
「航の、机にあった。俺の方、持ってたよ」
 左の掌が上を向いた。携帯はそこになかった。
「なのに、何を返すか決めたんですか」
「紙、全部持って帰るなって。先生の分と、俺の分も。どれが何の原本か、航、混ぜてたから」
「先生を、そこへ置いたまま?」
「うん」
 袋を脇へ下ろし、本を机に置いた。背には彼の名前があった。
「音、借りた。研究の方へ出す文も、先生、読んでくれてないから」
「私たちが聞いたの、先生の返事じゃなかったんですね」
 西崎さんは携帯を出した。私はその手から目を離さなかった。
「木曜も、それ、持ってたんですよね」
「持ってた」
 画面の灯りがついた。彼はまだ何も押していなかった。

「手、離せって言ったんだ。俺が。航へ」
 西崎さんの指が、自分の携帯から離れた。
「離させて、そのあと?」
「先生の方へは、出さなかった。俺も」
 私は昨日の交代の手を見るつもりで、彼の掌を見た。
「今度、ちゃんと分けて出すから」
 彼は机の電話へ手を出した。大学へかけ、今週送った所見をいったん引き下げると言った。受話器を戻すと、机の本を袋へ入れ直そうとした。底へ横に置くと口が閉まらない。私は空箱を持って来るため保管室へ入った。
 箱を机へ戻すと、久住くんが来た。大学へ返す道具を数え、小部屋の床へ袋を置いた。西崎さんは紺のシャツを出した。靴下も一緒だった。
「服も、上へ入れて送るから」
「洗った方ですか」
「うん。月曜、運ぶ時に使う。研究室、もう置けないって。いったんここへ」
 袋へ戻し、本の箱の上を少し空けた。久住くんが蓋を押すと、片方だけ閉まらない。
「ベルト、これ使ってください。本の上なら、服は袋、別に」
 黄色いベルトが渡った。私は自分の靴下を思い出した。乾かす前にしまわないで、と母から来た方へ、まだ返事をしていなかった。
 玄関が鳴った。
 航が薄いファイルを持って入った。

「変えた。先生の了承の所、確認中にする」
 机へ載せた。私は読まなかった。
「その前。録音するまで、何をしたの」
 航の手がファイルの上へ戻った。
「紙、取った。先生の方へ残すのと」
「そこは聞いた。先生、いたんでしょう」
 彼は左の指を自分の掌へ当てた。何かを取ろうとしているように見えた。
「袖、ここへ入った。拭いても、取れなくて」
「どの袖」
「俺の。洗って、いまも、取れてない」
 西崎さんが顔を上げた。航はそちらへ向かなかった。
「姉ちゃんの紙、取ったら、その下も出てきた。要さん、これは持っていくなって。俺、一枚ずつ、どれか、訊いた」
「それを先にしたんだ」
「先生の顔、見てられなかった。机の上なら、できたから」
 私はファイルの端へ手を出しかけた。机の下に人がいると知った写真を、また思い出した。
「携帯、充電なくて?」
「違う。音、残ってた。去年の。先生が返すって言ったの、ここへ入れたらって」
「ここって」
 航は先生の了承と印刷された所を押さえた。
「やってみたら、先生の声、出た。大きく。止めた。窓、開いてるから」
 西崎さんは流しの方を見た。いま分室の窓は閉まっていた。
「また鳴らしたの?」
「頭から。俺の方、言い直して。その間、先生の方、見なかった」
「ずっと、返事、待たなかったんだね」
 航は指を紙から離した。
「いま、待ってもらう所じゃないの、分かってる」
 先生の了承を確認中とした一行の下へ、まだ何も書かれていなかった。
「私が直す方にしないで。澪さんにも、それを見せて」
「要さんにも先に」
「先に送っていいか、ご本人に訊く」

 携帯を出すと、航は西崎さんを見た。

「要さんの研究用の方、音、同じ名前で出した?」
「継続の方には、出した」
「先生が今度の原稿を見たって?」
「直す。今、その連絡をしてたんだよ」
「前に、送った分も?」
「その『事務担当に呼ばれて』って、俺のことだろ」
 西崎さんが航の文を引いた。航は片方の端を押さえた。
「俺が一人で決めた文じゃない。電話も来たし、要さんにも」
「呼ばれたことにして、後から来た人にするなよ」
 航が紙を戻そうとすると、彼は手を離さなかった。
「自分で出す。お前の方に、このまま書くな」

「仕事の方にも、出した」
「澪さんの声?」
「先生が了承したって。木曜に。見本はもう引き上げろって来てる」

 航は署名のない所を指で押した。

「姉ちゃん、直接連絡してた」

 澪さんへ、いま話せるか、と送った。すぐ電話が来たので、航にも渡した。
「古いのも」
 航が言うと、向こうの声が大きくなった。
「はい。前のも、です」
 机へ携帯を戻した。航は二枚とも袋へ入れず、机へ残した。西崎さんは、先生の所見を取り下げたと職員へ伝える。窓の方で短く話し、その間に航が澪さんの印刷店の番号を手帳へ写した。
 航は自分の紙の『事務担当』を消しかけた。ペンを置き、消さずに持ち上げた。

 待つ間、保管室の箱を出した。
 高い床へ上がる前に靴を脱ぐ。奥の棚の下へしゃがみ、畳んだ箱を引く。
 角が戸の内側の棒へ当たった。上の釘から外れ、左側が下へ落ちた。
 久住くんが入口へ来た。大学へ返す道具を確認する用事だった。
「上へ戻してください。下がってると戸が閉まらないので」
 棒を持ち上げて掛け直した。久住くんは箱の通り道を携帯で撮り、月曜にも台車が要ると職員へ送った。
 戸の下は木で、向こうの人の足は見えない。大きい箱を持つ時には、声を掛けないとぶつかる。

 箱を抱えて降りる時、底を受け取ってくれた。
 作業室の机には紙とペンが残っていた。二人とも、そこから書き始めた様子はなかった。

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目次

雨を閉じこめる

  1. 01返却済み
  2. 02片方ずつ
  3. 03百円玉
  4. 04おかわり
  5. 05雨の間
  6. 06声の置き場所
  7. 07返す人
  8. 08帰らない夜
  9. 09名前を書くところ読書中
  10. 10六時まで
  11. 11先に行って
  12. 12持ってくる方
  13. 13戻った部屋
  14. 14抜粋
  15. 15渡した写真
  16. 16誰と食べた
  17. 17家で聴く
  18. 18煮える間
  19. 19まだいる
  20. 20もう一杯
  21. 21行かない返事
  22. 22持って帰る
  23. 23白い画面
  24. 24雨漏り

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