金曜の朝、澪さんへ電話した。六時に届いた文を開いていた。夕方、分室で見た文章と同じだったか訊いた。
「同じ。帰る前にもう一回直すって、言ってたから。次があると思ってた」
「送る方は、先にやっておくって」
「うん。あとで触ったら、帰るの遅くなるからって」
日と時刻を選ぶ画面を、航は四時過ぎ、分室で開いた。六時に律と帰る方、澪さんへ説明が届く方を、一緒に終わらせるつもりだった。
私は最後の行を読んだ。説明になっていない所があると、航自身が書いていた。受け取った時、まだそれを書き直している人がいると思っていた。
「帰れなかったんだね」
澪さんが言った。私は返事をしなかった。
「直すって言ったのに。そのまま来た」
瀬川さんへ連絡し、律から聞いたことを伝えた。今日どこへ行くか訊かれ、西崎さんの研究を職員のいる部屋で見ると答えた。
「終わったら、連絡をください」
手帳を閉じ、鞄へしまった。
午後、律と別れてから、大学へ向かった。甘い飲み物の後に、まだ少し喉が渇いていた。
職員がいる部屋だった。窓へ向いた机に西崎さんの原稿があり、横へ路線の画面を開いた携帯が置いてあった。
「持ってきてくれたんだ」
左の手に、小さい絆創膏が残っていた。
「ここの図、二つの日に跨いでる所、泊まったんですか」
「そこは終電がなくなったから。こっちは別。先方が夕方しか空かなくて」
頁を戻し、私が違う方へ引いた線を指でたどる。
「この町、二度」
「三度。いちばん下、断られた時。駅まで行って戻った」
「そこも、入れるんですね」
「行けた所だけにしたら、すぐ次へ行けたことになるだろ」
新しい図が来た。会えなかった日に線があり、その後へ細い矢印が出る。
「こっちだと、分かります」
西崎さんは携帯を取った。
「そういうの、向こうでも訊けると思う。前とどう違うか、会えた人だけじゃなくて」
「私が行く方は、しません」
彼は一度、画面を見た。人数を選ぶ欄を開く。
「じゃ、一人にする。日だけ合わせてくれれば、後で別の人を探せるから」
指が出て、一人を選んだ。数字が二から一へ変わる。
「航さんにも、そうできたんですか」
「断られたよ。お前も聞いたろ」
「箱の後に、自分で断るって」
「終わったから。それだけ終わったら、帰るって」
西崎さんが頁を戻した。
「手、巻いてくれたんだよ。殴った後なのに。あいつ、自分から」
「はい」
「一緒に戻ったんだよ、一回帰ってから」
その二つは、なくならなかった。
「白い服は、箱を渡す前に胸を貫かれてます。手の血をつけただけではないです」
彼の指が止まった。
「田辺さんは、その二箱が車へ載る時、澪さんの所にいました。私と三輪さんと。後から来て、鋏を鞄へ入れ、救急へかけた。でも、あの服は、もうなかった」
「俺も大学に。久住が会ってるだろ」
「六時の文は、分室で先に書いてました。その前に、何をしたんですか。二人で箱を出し、手を巻いた後に」
西崎さんの左の手が机へ出た。
「服、貸したんだよ。白いの、洗って返すって」
「着て帰れる方へ、戻したんですね」
「帰るなら、着ていけって。あいつ、自分で着られるから」
彼は襟元へ手を出した。いま着ているのは、別の服だった。
「俺の服、着てたろ。持って帰っていいって言った方。返すって、あの時は言わなかった」
私は紺の襟を思い出した。胸の前が開いていた。電話の声へ返事をしている間、航の顔へ、何度も戻った。
「袖を切った鋏を、机へ置いた。その後、自分で断るって言った」
「電話、見ないでって。俺が先に説明するから、待てって。自分のことだけ、勝手にあっちへ」
彼の手が私の鞄へ出た。職員がその手を見ていた。
西崎さんは手を机へ戻した。
「番号まで、出したのかって」
「自分でかける方を、止めたんですね」
「先方へ二人って伝えたのは、あなたでした。航さん本人には、まだ訊いてなかった人へ」
「返事を待ってたら、また取れないだろ。二人で行くって、一度言ったんだよ」
彼の右の手が原稿の角を押す。図が机へ平らになった。
「俺の服を着てたんだよ。お前が来た時も」
「見ました」
「俺が、持って帰れって言ったんだよ」
指が原稿の角から離れた。
「航が、こっちに何かしてくれた所まで、お前の文ではなくなるの」
「手を巻いてくれたことは、話します」
彼は私を見た。
「そうだよ。そこは、書けるだろ」
原稿を押さえていた手が、私の前へ出た。
「宮原。図の直した方、そっちは見て」
別の頁が来た。二年はなかったことにならない。ここで返事をすれば、誰にどう持って行くかを、また訊かれる。
「今日は、持って帰りません」
図を机へ戻した。
職員が私を呼ぶと、西崎さんは、まだ向こうの人は待ってるんだよ、と言った。
私は携帯を鞄から出さず、立った。
廊下の別の机へ座った。職員が水を持ってきてくれた。
瀬川さんへ電話した。西崎さんの言ったことを、聞いた順に話した。
「袖を切ってくれた人へ、あの鋏を使ったんだと思います。服を着せて、白い方を自分の箱へ。それから大学へ行った」
そこで声が止まった。白い服に穴ができた瞬間を、私は見ていない。傷ができた瞬間にもう話せなかった、と決めたわけでもない。
私が考えたのは、田辺さんが後から初めて刺した説明に、先に出た服の場所がないことだった。先生の声を流した航が、今度は自分の声で断る方へ動こうとしていた。そこへ使える鋏が、手当てをした机にあった。
三輪さんからも来ていた。短くしてくれた分、こっちで聴く時間も掛かるのよ、とある。私は一度笑い、作り直す日を決めて送った。
翌週、田辺さんと西崎さんが、それぞれの殺害の件で逮捕された。
田辺さんは先生へ電話を置いてほしかったと話したという。木曜の案内は、二枚を重ねた時に刃が通った。会場の控えは台所の缶へ残り、彼女が払った分は先生が殺されても返らなかった。
田辺さんが土曜に鋏を鞄へ入れたことも、救急へ電話したことも、残った。胸を貫かれた白い服は、彼女が来る前に運び出されていた。
西崎さんが電話を代わったのは、服を箱へ入れ、大学から戻った後だった。私へ手を代われると言ったことも、記録に残った。
母へ、航が先生を殺していなかったとだけなら、少しほっとすると思った。それだけを送りかけ、送らずにかけた。
小鉢を食べた所から話した。母は、今はどこ、と先に訊いた。
家、と答えた。まだ靴を履いたままだった。