山を下りるにはまだ早い

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CHAPTER 15 / 21

第十五章 下へ行く

二〇一へ戻ると、宏和は車の紙を開いた。
「八時になったら店へ掛ける。話すのは俺。名義も俺だから」
「俺は、何を」
「道のこと。朝、女将さんに聞いて。それを俺に教えて。下で父親に迎えを頼むなら、場所が要る」
「一緒に下りる?」
「俺、先に行くかも。電話の場所を確かめたいし」
 僕は七時四十五分にアラームを入れた。
「起きてなかったら、呼んで」
「呼ぶ」
 亮は洗面の袋を持ったまま座っていた。

「まだ、言いたいことある」
 亮が言った。
「訊くか。会えるか」
 宏和が電話へ手を伸ばすと、亮が取った。
「俺が」
 帳場で拓海の左手からまた血が出ていると聞いた。救助中に切った傷だった。医療の人は通れるところまで来ていて、宿の人が迎えに下りているという。
「新しいタオル、一枚。持って来てって」
 亮は自分の袋から出した。宏和が上着を取った。

 小部屋で制服の人が拓海の左手を押さえていた。卓の端へ布を敷き、その上に腕があった。拓海は顔を壁へ向けた。
「痛い」
 亮はタオルを女将さんへ渡した。流しの縁に赤い滴があった。歯を磨こうとして掌を開いたらしい。
「俺の歯磨き粉、上にある」
「ここにもある。磨く?」
「俺が、磨く話をしてるんじゃねえよ」
 拓海が顔を向けた。制服の人が、手を動かさないで、と言った。亮は戸口の椅子へ手を掛けたまま止まった。
 宏和は上着を膝と腹へ掛けた。左袖へ通そうとした拓海を止めた。
「そのまま。返すのは後で」
「ありがと」
 宏和は頷いた。拓海の目へは顔を向けなかった。

 亮が椅子を卓へ寄せた。
「代われますか」
 制服の人が亮の顔を見た。
「押さえるのを?」
「はい」
 新しい手袋を渡された。亮は片方をはめ、もう片方の口を開こうとした。宏和が袋を取り、僕は椅子を押さえた。
 制服の人は布の上の位置を示した。亮の手がそこへ来るまで、自分の手を離さなかった。
「ここを、そのまま。動かしたり、途中で布をめくったりしないでください」
 亮は頷いた。制服の人が手を引くと、亮の肩が下がった。卓の上で腕を置き直す場所を探していた。制服の人は隣の椅子へ座った。
 僕も向かいの椅子へ座った。宏和は背後に残った。上着の裾が滑り、僕は膝のところへ戻した。

「俺が胸、押してたの、見たろ」
 亮が言った。
「見た」
「何で、それから俺には」
 拓海の左肩が動いた。亮は手を戻そうとして、制服の人に位置を確かめてもらった。
「痛い」
 拓海が顔を下げた。亮は口を閉じた。
 女将さんが卓の端へ紙を置いた。迎えに下りた人の名と、戻る道が書いてあった。制服の人は一度それを見た。亮は拓海の手の上へ目を戻した。

「少し、緩めて」
 拓海が言った。
 亮は制服の人を見た。その人は布の位置を見て、今は圧迫を続けてください、と答えた。
「もうちょっと」
 亮はそれだけ言った。拓海は目を閉じた。
 僕のアラームは七時四十五分だった。宏和は明日八時に電話する。その二つは朝の時間だった。亮の両手は卓の上にあった。

「母ちゃん、電話」
 拓海が僕を見た。
「朝になったら、会ったこと、先に。俺が自分で。母ちゃんは頼んでないから」
「会ったことだけ?」
 僕が訊くと、拓海は下を向いた。
「……頼むの、駄目か」
「今、返事要らないだろ」
 亮が言った。手は同じ所にあった。
 拓海は僕の方へ向いたままだった。亮が顔を上げた。
「俺が上へ戻った時、お前、着替えてくればって、祐助に」
「シャツ、裏返しだったから」
「それも、見てたんだな」
 拓海が頷いた。
「俺には、風呂で待っててって。俺、何も知らないで」
 亮の声が大きくなった。拓海は身体を丸めた。
「痛い」
 亮は拓海を見た。それから自分の手を見た。制服の人が身体を寄せ、押さえる位置をもう一度確かめた。
「手当てを続けます。話は、あとにしてください」
「はい」
 亮が答えた。拓海は返事をしなかった。

 宏和が亮の椅子の横へ来た。
「俺、代わろうか」
 亮は顔を向けなかった。右腕の袖が卓の縁へ引っかかっていた。
「……このまま、押して」
 そこから先が出なかった。僕は制服の人へ顔を向けた。その人は手袋を取り、亮の隣から手を戻した。
「私が代わります。手を引くのは、言ってからで大丈夫です」
 亮は頷いた。替わった人の手が布を押さえているのを見てから、自分の手を膝へ下ろした。
 宏和が袖を卓から離した。亮は椅子を引き、立った。
「洗ってくる」
「待つ」
 僕も立つと、亮は僕を見た。
「すぐ戻る」

 流しへ行った亮は、手袋を外しても、しばらく掌を上へ向けていた。女将さんが石鹸を指した。亮は水を出した。
 戻って来た時、拓海は目を閉じていた。亮は椅子へ座らず、戸口に残った。宏和は上着の裾を持っていた。
「俺、まだ何も言えてない」
 亮が僕へ言った。
「聞いてた」
「途中でやめただろ。俺が」
 彼は濡れた手を拭き、右肘を曲げた。
「もう一回言おうとしたら、また痛いって言うと思って」
 僕は拓海を見た。声を掛ければ目を開けそうだった。亮は布を押さえる制服の人の手を見ていた。

 医療の人が入って来ると、制服の人は救助中に切ったことと、圧迫を続けていたことを話した。僕も見たところまで話した。亮は手袋の空の袋を宏和から受け取り、女将さんへ捨てる場所を訊いた。
 拓海は診療できる場所へ連れて行ってもらうと聞いた。警察官が同行する。
 水原さんは別の椅子で待っていた。毛布を自分で肩へ掛け、パソコンの鞄を香坂さんへ返した。必要な連絡先を訊かれ、六月に取材した相手の名前も言った。福地さんの部屋の前を通らない方へ連れて行かれた。

 拓海が上着を畳もうとすると、宏和が肩へ掛けた。左袖は通さなかった。
「返すから」
「捨てるなよ」
 玄関へ歩く前に、僕は拓海を呼んだ。
「お母さんには、会ったってだけじゃ言わないからな」
「……うん」
 拓海は上着を押さえた。
「車、明日は」
「今、聞けない」
 亮が言った。拓海は口を閉じた。靴を履く時、右手だけでは紐を結べず、警察官へ頼んだ。僕らはそこまで行かなかった。

 部屋には四枚の布団があった。亮は四枚目の端に座った。
「タオル、最初、持ってけばよかった」
 宏和はその横へ座った。僕は名刺を財布へ戻そうとした。
「それ、もらってたんだ」
 僕が差し出すと、宏和は受け取らなかった。
「俺、まだもらってない」
 名刺を戻した。
「寝る?」
 宏和が訊いた。
「目、閉じる」
 亮が横になった。僕はアラームの七時四十五分を確かめた。電気を消すと、戸の下の光だけが残った。

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目次

山を下りるにはまだ早い

  1. 01四人部屋
  2. 02並ぶ前
  3. 03二つの一階
  4. 04待っている答え
  5. 05先に買う
  6. 06湯の手前
  7. 07玄関
  8. 08雨の二人
  9. 09骨
  10. 10返すもの
  11. 11まだ話している
  12. 12紙の向こう
  13. 13返してもらうもの
  14. 14隣へ座る
  15. 15下へ行く読書中
  16. 16残した車
  17. 17九時の番号
  18. 18送られてきた紙
  19. 19後ろの席
  20. 20おかわり
  21. 21終章 四人分

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