二〇一へ戻ると、宏和は車の紙を開いた。
「八時になったら店へ掛ける。話すのは俺。名義も俺だから」
「俺は、何を」
「道のこと。朝、女将さんに聞いて。それを俺に教えて。下で父親に迎えを頼むなら、場所が要る」
「一緒に下りる?」
「俺、先に行くかも。電話の場所を確かめたいし」
僕は七時四十五分にアラームを入れた。
「起きてなかったら、呼んで」
「呼ぶ」
亮は洗面の袋を持ったまま座っていた。
「まだ、言いたいことある」
亮が言った。
「訊くか。会えるか」
宏和が電話へ手を伸ばすと、亮が取った。
「俺が」
帳場で拓海の左手からまた血が出ていると聞いた。救助中に切った傷だった。医療の人は通れるところまで来ていて、宿の人が迎えに下りているという。
「新しいタオル、一枚。持って来てって」
亮は自分の袋から出した。宏和が上着を取った。
小部屋で制服の人が拓海の左手を押さえていた。卓の端へ布を敷き、その上に腕があった。拓海は顔を壁へ向けた。
「痛い」
亮はタオルを女将さんへ渡した。流しの縁に赤い滴があった。歯を磨こうとして掌を開いたらしい。
「俺の歯磨き粉、上にある」
「ここにもある。磨く?」
「俺が、磨く話をしてるんじゃねえよ」
拓海が顔を向けた。制服の人が、手を動かさないで、と言った。亮は戸口の椅子へ手を掛けたまま止まった。
宏和は上着を膝と腹へ掛けた。左袖へ通そうとした拓海を止めた。
「そのまま。返すのは後で」
「ありがと」
宏和は頷いた。拓海の目へは顔を向けなかった。
亮が椅子を卓へ寄せた。
「代われますか」
制服の人が亮の顔を見た。
「押さえるのを?」
「はい」
新しい手袋を渡された。亮は片方をはめ、もう片方の口を開こうとした。宏和が袋を取り、僕は椅子を押さえた。
制服の人は布の上の位置を示した。亮の手がそこへ来るまで、自分の手を離さなかった。
「ここを、そのまま。動かしたり、途中で布をめくったりしないでください」
亮は頷いた。制服の人が手を引くと、亮の肩が下がった。卓の上で腕を置き直す場所を探していた。制服の人は隣の椅子へ座った。
僕も向かいの椅子へ座った。宏和は背後に残った。上着の裾が滑り、僕は膝のところへ戻した。
「俺が胸、押してたの、見たろ」
亮が言った。
「見た」
「何で、それから俺には」
拓海の左肩が動いた。亮は手を戻そうとして、制服の人に位置を確かめてもらった。
「痛い」
拓海が顔を下げた。亮は口を閉じた。
女将さんが卓の端へ紙を置いた。迎えに下りた人の名と、戻る道が書いてあった。制服の人は一度それを見た。亮は拓海の手の上へ目を戻した。
「少し、緩めて」
拓海が言った。
亮は制服の人を見た。その人は布の位置を見て、今は圧迫を続けてください、と答えた。
「もうちょっと」
亮はそれだけ言った。拓海は目を閉じた。
僕のアラームは七時四十五分だった。宏和は明日八時に電話する。その二つは朝の時間だった。亮の両手は卓の上にあった。
「母ちゃん、電話」
拓海が僕を見た。
「朝になったら、会ったこと、先に。俺が自分で。母ちゃんは頼んでないから」
「会ったことだけ?」
僕が訊くと、拓海は下を向いた。
「……頼むの、駄目か」
「今、返事要らないだろ」
亮が言った。手は同じ所にあった。
拓海は僕の方へ向いたままだった。亮が顔を上げた。
「俺が上へ戻った時、お前、着替えてくればって、祐助に」
「シャツ、裏返しだったから」
「それも、見てたんだな」
拓海が頷いた。
「俺には、風呂で待っててって。俺、何も知らないで」
亮の声が大きくなった。拓海は身体を丸めた。
「痛い」
亮は拓海を見た。それから自分の手を見た。制服の人が身体を寄せ、押さえる位置をもう一度確かめた。
「手当てを続けます。話は、あとにしてください」
「はい」
亮が答えた。拓海は返事をしなかった。
宏和が亮の椅子の横へ来た。
「俺、代わろうか」
亮は顔を向けなかった。右腕の袖が卓の縁へ引っかかっていた。
「……このまま、押して」
そこから先が出なかった。僕は制服の人へ顔を向けた。その人は手袋を取り、亮の隣から手を戻した。
「私が代わります。手を引くのは、言ってからで大丈夫です」
亮は頷いた。替わった人の手が布を押さえているのを見てから、自分の手を膝へ下ろした。
宏和が袖を卓から離した。亮は椅子を引き、立った。
「洗ってくる」
「待つ」
僕も立つと、亮は僕を見た。
「すぐ戻る」
流しへ行った亮は、手袋を外しても、しばらく掌を上へ向けていた。女将さんが石鹸を指した。亮は水を出した。
戻って来た時、拓海は目を閉じていた。亮は椅子へ座らず、戸口に残った。宏和は上着の裾を持っていた。
「俺、まだ何も言えてない」
亮が僕へ言った。
「聞いてた」
「途中でやめただろ。俺が」
彼は濡れた手を拭き、右肘を曲げた。
「もう一回言おうとしたら、また痛いって言うと思って」
僕は拓海を見た。声を掛ければ目を開けそうだった。亮は布を押さえる制服の人の手を見ていた。
医療の人が入って来ると、制服の人は救助中に切ったことと、圧迫を続けていたことを話した。僕も見たところまで話した。亮は手袋の空の袋を宏和から受け取り、女将さんへ捨てる場所を訊いた。
拓海は診療できる場所へ連れて行ってもらうと聞いた。警察官が同行する。
水原さんは別の椅子で待っていた。毛布を自分で肩へ掛け、パソコンの鞄を香坂さんへ返した。必要な連絡先を訊かれ、六月に取材した相手の名前も言った。福地さんの部屋の前を通らない方へ連れて行かれた。
拓海が上着を畳もうとすると、宏和が肩へ掛けた。左袖は通さなかった。
「返すから」
「捨てるなよ」
玄関へ歩く前に、僕は拓海を呼んだ。
「お母さんには、会ったってだけじゃ言わないからな」
「……うん」
拓海は上着を押さえた。
「車、明日は」
「今、聞けない」
亮が言った。拓海は口を閉じた。靴を履く時、右手だけでは紐を結べず、警察官へ頼んだ。僕らはそこまで行かなかった。
部屋には四枚の布団があった。亮は四枚目の端に座った。
「タオル、最初、持ってけばよかった」
宏和はその横へ座った。僕は名刺を財布へ戻そうとした。
「それ、もらってたんだ」
僕が差し出すと、宏和は受け取らなかった。
「俺、まだもらってない」
名刺を戻した。
「寝る?」
宏和が訊いた。
「目、閉じる」
亮が横になった。僕はアラームの七時四十五分を確かめた。電気を消すと、戸の下の光だけが残った。