山を下りるにはまだ早い

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CHAPTER 03 / 21

第三章 二つの一階

階段の手前で、亮が百円玉を求められた。髪を一つに結んだ女性が五十円玉を二枚持っていた。自販機が戻してくるという。
 亮のポケットから先にイルカが落ち、彼女が拾う間に財布が出た。硬貨を替えると、水原です、と名乗った。
「ありがとう、森野君。梢さん、コーヒー、全部冷たいの?」
「まだ九月ですから」
「そっか」
 缶の落ちる音を聞いて、僕らは階段を上がった。
 本館二階の客室を過ぎ、ガラス窓の続く渡り廊下を渡ると、柱が黒くなった。女将さんが旧館の三階ですと言った。
「どこで上がった?」
 小鈴さんが振り返り、宏和は窓から本館の壁を見せた。
「坂に建ってるから。屋根は同じくらいだけど、こっちの棟の方が下まである」
「一階、増えた」
 亮が言い、拓海が、戻ると減るな、と返した。宏和は写真を撮ってよいか確認してから天井へ向けた。
 なずなさんの本の写真もこの廊下だった。夜に足音がする話は、と尋ねると、女将さんは、物を取りに私も通ります、と答えた。陶子さんは今の方が柱の色が濃いと、なずなさんと写真を撮った。小鈴さんも携帯を出し、窓を見る澄さんを撮った。
「それ、髪、ぐしゃぐしゃでしょう」
「顔、見えないから大丈夫」
「私が見たいの」
 小鈴さんが画面を出すと、澄さんは覗き込み、そのままコートを着た。小鈴さんは庭は下だよね、と女将さんへ訊いて、携帯をしまった。
 旧館の二階へ下りると読書室の戸が開いていた。学校の机が窓から少し離され、椅子が二脚並んでいた。机の右端には低い木の台がついている。宏和が横へ回りかけ、椅子の背へ膝を当てた。
「前は窓にくっついてたんですか」
「紙が湿気を吸うので。戸を開けられるところまでしか動かせなくて」
 宏和は戸の傍へ戻り、二脚の椅子も入れて机を撮った。
 灰色の電話に、帳場は〇、と札があった。亮が夕飯の時間も訊けるのかと言うと、女将さんは六時半ですと答えた。
 なずなさんが棚から薄い写真帳を抜いた。開いた頁には、さっき通った廊下があった。陶子さんが横から、窓に誰か立たせたら同じになる、と覗いた。
「向こうで見ていいですか。自分の本の方と、比べたいので」
 女将さんは夕方までにこの机へ戻してくださいと頼んだ。陶子さんはもう携帯を出し、なずなさんは頁を閉じないで持った。二人の間で、廊下へ先に立つ方を決めていた。
 向かいの談話室で、しのぶさんが名刺入れを開いていた。僕の部屋の番号を訊き、後で一枚持っていくと言った。
「テレビの人に渡した、とか、誰にも言わないから」
「こいつのテレビは仕事じゃないんです」
 亮が言い、じゃあ仕事じゃない方で、と返された。
 下の渡り廊下は本館一階のロビーへ続いていた。その奥が浴場だった。亮はもうそちらへ足を置いたが、女将さんが下の資料室もご覧になりますか、と訊くと、宏和は階段へ向いた。
「俺、もう風呂行く」
「うん。俺は下も見たい」
「祐助は」
「あと一つ」
 亮は息を吐いた。下から箱を運ぶ声が聞こえ、渡り廊下から足を戻した。
「箱だけ。運んだら終わりな」
 前掛けをした男性が箱を抱えていた。料理の笠原です、と女将さんが言った。亮は自分から受け取り、拓海も床の箱を取った。上の物置へ運ぶ。僕と宏和は、昔の厨房だった資料室へ入った。
 壁際には煤のついた釜と飯櫃があった。宏和が釜の台へ屈むと、亮が戸口へ戻り、もう一箱持ってと頼んだ。宏和は釜の写真を撮ってから箱を受け取った。笠原さんも釜へ眉を寄せた。
「それで皆の飯、炊いてたんだな。俺が来たときは、もう使ってなかったけど」
 彼は帳面から縦にも横にも折り目のある紙を抜いた。
「庄司さんへ、これだけ見てもらう。帰る前には返してもらうから」
 女将さんが福地さんも来ていると言った。笠原さんは、昨日、今日見せると電話で伝えたと答え、前掛けを外して上へ行った。
 部屋の机には白い電話と開いたパソコンがあった。水原さんが眼鏡を頭へ載せて座っていた。膝の紙を裏返した時に鉛筆が落ち、僕が拾った。
「ありがとう。眼鏡も見なかった?」
「頭に」
 彼女は下ろして掛け直した。しのぶさんが新聞で名前を見たという。水原芙美。今は自分で書いて持っていく仕事で、前の記事を直すために来たと話した。
「この後、原稿を預けて、また取りに行きます」
 携帯が鳴った。いったん鞄へ入れ、すぐに取り出した。笠原さんが戻った時には紙を持っていなかった。
 水原さんのパソコンの脇へ、小さな紙が貼ってあった。〈庄司・四時、原稿の回収・十七時十五分〉。
「取材は、四時の方で終わるんですか」
「読んでもらう所まで。原稿は置いて、あとで取りに行くの。戻ってから探す方が長くなるから、記録にも、返す用事の名前を付ける」
 机には、庭で撮った人の写真が二枚あった。片方の裏へ小さな丸がついている。
「この人も、こちらで?」
「六月。今度載せる方。二枚、送って選んでもらった」
 彼女は丸のない方も同じ袋へ戻した。鉛筆を探す間、その袋が開いたままだった。
「庄司さんには、どの行を読んだかも録ります。持って帰って直したら、私が足した所まで返事みたいになるから」
 四時の下へ一本、鉛筆を置いた。時計はまだ三時台だった。
 女将さんは裏庭の戸を開けた。昔はここから厨房へ運び込んだという。小鈴さんが庭へ目を向けたが、白い霧に塀の向こうが隠れていた。
「このまま出て、玄関まで回れますか」
「今は歩けるようにしてないんです。表のお庭へは玄関から。雨になると滑りますから、こちらも中を通ってください」
 澄さんは小鈴さんの袖へ手を掛けてから、先に戸を離れた。小鈴さんも戻った。
 宏和が戻ると、拓海は資料室の戸口から机を見ていた。亮は米の支度も手伝うと言った。そっちは俺の仕事、お客さんは風呂へ、と笠原さんが断った。
「飯、何時ですか」
「六時半。よく食う?」
「はい」
 笠原さんが厨房へ帰るまで、亮は見ていた。
 女将さんが古い膳を両手で持った。僕は部屋の湯飲みが三つしかなかったと思い出した。電話で伝えてもらえますかと言われ、水原さんに断って受話器を取った。帳場は〇、客室は部屋番号。三回鳴って笠原さんが出た。
「湯飲みを一つ、二〇一へ。お願いします」
『ああ、四人だったか。夕飯の前に入れとくよ』
 亮が片手を耳へ当てた。
「米も一つ」
「米は六時半」
 僕が答え、女将さんが笑った。水原さんは窓で電話をしていた。白いタッパー、青いのはまだ凍ってると、家の人へ教えていた。明日は帰る、パンを買っていくと言って切った。
 階段で宏和が資料室を振り返った。亮が建物は逃げないと言うと、宏和は昔の缶蹴りの話を始めた。
「缶を置く場所、先に見ないと」
「缶は蹴ればいいだろ」
「隠れる場所がないと、蹴りに出られないんだって」
「見てる間に呼ぶなよ」
 宏和の声が強くなった。亮は階段を半段戻り、水原さんを先へ通した。宏和は一枚撮り、僕の足が引っかかると、こっちは一段高いと教えて前をゆっくり上がった。
 拓海の電話から母親の声が聞こえた。音を小さくしようとしていた。
『亮君、大きくなった?』
「遠近法だって。母ちゃんも明日、来れば。帰り、駅まで一緒に」
『明日は山口さんの所に行くの。さっき言ったでしょう』
「先に、迎えに来るだけでも。俺が電車にすればいいじゃん」
『祐助君たちと帰りなさいよ。あなたが行ける日まで待ったんじゃないの』
 女将さんが上がってきたので、拓海は脇へ寄った。椎茸を忘れないよう頼まれ、切ってから小袋も足すかと僕へ訊いた。
「家に置く方。あいつらに全部持ってかれるから」
 後で見ようと答えた。電話の画面には四人の写真が残り、彼は亮の顔を大きくした。
 談話室で、亮は羊羹を指して食べてよいか訊いた。小鈴さんが澄さんの前へ袋を差し出した。
「胡桃、ある?」
「もうない」
「私のは?」
「食べた」
 小鈴さんが袋を逆さにすると、砕けた端だけ落ちた。
「さっきは半分、くれたのに」
「今度は私が食べたかったから」
 彼女は端を食べ、袋を畳んだ。僕は長机へ座った。小鈴さんが隣の椅子を引く間に、宏和は入口へ戻った。
「今、十分、もう越えてるな」
 亮が言った。
「うん。次、俺一人で行くから」
「そうじゃなくて。俺、こっちの十分も使ったんだけど」
 宏和は立ったまま、携帯をしまった。拓海は空いた椅子へ手を掛け、亮のために長机から引いた。亮は座らず羊羹を取った。

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目次

山を下りるにはまだ早い

  1. 01四人部屋
  2. 02並ぶ前
  3. 03二つの一階読書中
  4. 04待っている答え
  5. 05先に買う
  6. 06湯の手前
  7. 07玄関
  8. 08雨の二人
  9. 09骨
  10. 10返すもの
  11. 11まだ話している
  12. 12紙の向こう
  13. 13返してもらうもの
  14. 14隣へ座る
  15. 15下へ行く
  16. 16残した車
  17. 17九時の番号
  18. 18送られてきた紙
  19. 19後ろの席
  20. 20おかわり
  21. 21終章 四人分

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