階段の手前で、亮が百円玉を求められた。髪を一つに結んだ女性が五十円玉を二枚持っていた。自販機が戻してくるという。
亮のポケットから先にイルカが落ち、彼女が拾う間に財布が出た。硬貨を替えると、水原です、と名乗った。
「ありがとう、森野君。梢さん、コーヒー、全部冷たいの?」
「まだ九月ですから」
「そっか」
缶の落ちる音を聞いて、僕らは階段を上がった。
本館二階の客室を過ぎ、ガラス窓の続く渡り廊下を渡ると、柱が黒くなった。女将さんが旧館の三階ですと言った。
「どこで上がった?」
小鈴さんが振り返り、宏和は窓から本館の壁を見せた。
「坂に建ってるから。屋根は同じくらいだけど、こっちの棟の方が下まである」
「一階、増えた」
亮が言い、拓海が、戻ると減るな、と返した。宏和は写真を撮ってよいか確認してから天井へ向けた。
なずなさんの本の写真もこの廊下だった。夜に足音がする話は、と尋ねると、女将さんは、物を取りに私も通ります、と答えた。陶子さんは今の方が柱の色が濃いと、なずなさんと写真を撮った。小鈴さんも携帯を出し、窓を見る澄さんを撮った。
「それ、髪、ぐしゃぐしゃでしょう」
「顔、見えないから大丈夫」
「私が見たいの」
小鈴さんが画面を出すと、澄さんは覗き込み、そのままコートを着た。小鈴さんは庭は下だよね、と女将さんへ訊いて、携帯をしまった。
旧館の二階へ下りると読書室の戸が開いていた。学校の机が窓から少し離され、椅子が二脚並んでいた。机の右端には低い木の台がついている。宏和が横へ回りかけ、椅子の背へ膝を当てた。
「前は窓にくっついてたんですか」
「紙が湿気を吸うので。戸を開けられるところまでしか動かせなくて」
宏和は戸の傍へ戻り、二脚の椅子も入れて机を撮った。
灰色の電話に、帳場は〇、と札があった。亮が夕飯の時間も訊けるのかと言うと、女将さんは六時半ですと答えた。
なずなさんが棚から薄い写真帳を抜いた。開いた頁には、さっき通った廊下があった。陶子さんが横から、窓に誰か立たせたら同じになる、と覗いた。
「向こうで見ていいですか。自分の本の方と、比べたいので」
女将さんは夕方までにこの机へ戻してくださいと頼んだ。陶子さんはもう携帯を出し、なずなさんは頁を閉じないで持った。二人の間で、廊下へ先に立つ方を決めていた。
向かいの談話室で、しのぶさんが名刺入れを開いていた。僕の部屋の番号を訊き、後で一枚持っていくと言った。
「テレビの人に渡した、とか、誰にも言わないから」
「こいつのテレビは仕事じゃないんです」
亮が言い、じゃあ仕事じゃない方で、と返された。
下の渡り廊下は本館一階のロビーへ続いていた。その奥が浴場だった。亮はもうそちらへ足を置いたが、女将さんが下の資料室もご覧になりますか、と訊くと、宏和は階段へ向いた。
「俺、もう風呂行く」
「うん。俺は下も見たい」
「祐助は」
「あと一つ」
亮は息を吐いた。下から箱を運ぶ声が聞こえ、渡り廊下から足を戻した。
「箱だけ。運んだら終わりな」
前掛けをした男性が箱を抱えていた。料理の笠原です、と女将さんが言った。亮は自分から受け取り、拓海も床の箱を取った。上の物置へ運ぶ。僕と宏和は、昔の厨房だった資料室へ入った。
壁際には煤のついた釜と飯櫃があった。宏和が釜の台へ屈むと、亮が戸口へ戻り、もう一箱持ってと頼んだ。宏和は釜の写真を撮ってから箱を受け取った。笠原さんも釜へ眉を寄せた。
「それで皆の飯、炊いてたんだな。俺が来たときは、もう使ってなかったけど」
彼は帳面から縦にも横にも折り目のある紙を抜いた。
「庄司さんへ、これだけ見てもらう。帰る前には返してもらうから」
女将さんが福地さんも来ていると言った。笠原さんは、昨日、今日見せると電話で伝えたと答え、前掛けを外して上へ行った。
部屋の机には白い電話と開いたパソコンがあった。水原さんが眼鏡を頭へ載せて座っていた。膝の紙を裏返した時に鉛筆が落ち、僕が拾った。
「ありがとう。眼鏡も見なかった?」
「頭に」
彼女は下ろして掛け直した。しのぶさんが新聞で名前を見たという。水原芙美。今は自分で書いて持っていく仕事で、前の記事を直すために来たと話した。
「この後、原稿を預けて、また取りに行きます」
携帯が鳴った。いったん鞄へ入れ、すぐに取り出した。笠原さんが戻った時には紙を持っていなかった。
水原さんのパソコンの脇へ、小さな紙が貼ってあった。〈庄司・四時、原稿の回収・十七時十五分〉。
「取材は、四時の方で終わるんですか」
「読んでもらう所まで。原稿は置いて、あとで取りに行くの。戻ってから探す方が長くなるから、記録にも、返す用事の名前を付ける」
机には、庭で撮った人の写真が二枚あった。片方の裏へ小さな丸がついている。
「この人も、こちらで?」
「六月。今度載せる方。二枚、送って選んでもらった」
彼女は丸のない方も同じ袋へ戻した。鉛筆を探す間、その袋が開いたままだった。
「庄司さんには、どの行を読んだかも録ります。持って帰って直したら、私が足した所まで返事みたいになるから」
四時の下へ一本、鉛筆を置いた。時計はまだ三時台だった。
女将さんは裏庭の戸を開けた。昔はここから厨房へ運び込んだという。小鈴さんが庭へ目を向けたが、白い霧に塀の向こうが隠れていた。
「このまま出て、玄関まで回れますか」
「今は歩けるようにしてないんです。表のお庭へは玄関から。雨になると滑りますから、こちらも中を通ってください」
澄さんは小鈴さんの袖へ手を掛けてから、先に戸を離れた。小鈴さんも戻った。
宏和が戻ると、拓海は資料室の戸口から机を見ていた。亮は米の支度も手伝うと言った。そっちは俺の仕事、お客さんは風呂へ、と笠原さんが断った。
「飯、何時ですか」
「六時半。よく食う?」
「はい」
笠原さんが厨房へ帰るまで、亮は見ていた。
女将さんが古い膳を両手で持った。僕は部屋の湯飲みが三つしかなかったと思い出した。電話で伝えてもらえますかと言われ、水原さんに断って受話器を取った。帳場は〇、客室は部屋番号。三回鳴って笠原さんが出た。
「湯飲みを一つ、二〇一へ。お願いします」
『ああ、四人だったか。夕飯の前に入れとくよ』
亮が片手を耳へ当てた。
「米も一つ」
「米は六時半」
僕が答え、女将さんが笑った。水原さんは窓で電話をしていた。白いタッパー、青いのはまだ凍ってると、家の人へ教えていた。明日は帰る、パンを買っていくと言って切った。
階段で宏和が資料室を振り返った。亮が建物は逃げないと言うと、宏和は昔の缶蹴りの話を始めた。
「缶を置く場所、先に見ないと」
「缶は蹴ればいいだろ」
「隠れる場所がないと、蹴りに出られないんだって」
「見てる間に呼ぶなよ」
宏和の声が強くなった。亮は階段を半段戻り、水原さんを先へ通した。宏和は一枚撮り、僕の足が引っかかると、こっちは一段高いと教えて前をゆっくり上がった。
拓海の電話から母親の声が聞こえた。音を小さくしようとしていた。
『亮君、大きくなった?』
「遠近法だって。母ちゃんも明日、来れば。帰り、駅まで一緒に」
『明日は山口さんの所に行くの。さっき言ったでしょう』
「先に、迎えに来るだけでも。俺が電車にすればいいじゃん」
『祐助君たちと帰りなさいよ。あなたが行ける日まで待ったんじゃないの』
女将さんが上がってきたので、拓海は脇へ寄った。椎茸を忘れないよう頼まれ、切ってから小袋も足すかと僕へ訊いた。
「家に置く方。あいつらに全部持ってかれるから」
後で見ようと答えた。電話の画面には四人の写真が残り、彼は亮の顔を大きくした。
談話室で、亮は羊羹を指して食べてよいか訊いた。小鈴さんが澄さんの前へ袋を差し出した。
「胡桃、ある?」
「もうない」
「私のは?」
「食べた」
小鈴さんが袋を逆さにすると、砕けた端だけ落ちた。
「さっきは半分、くれたのに」
「今度は私が食べたかったから」
彼女は端を食べ、袋を畳んだ。僕は長机へ座った。小鈴さんが隣の椅子を引く間に、宏和は入口へ戻った。
「今、十分、もう越えてるな」
亮が言った。
「うん。次、俺一人で行くから」
「そうじゃなくて。俺、こっちの十分も使ったんだけど」
宏和は立ったまま、携帯をしまった。拓海は空いた椅子へ手を掛け、亮のために長机から引いた。亮は座らず羊羹を取った。
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