旅館に着いて最初に褒められたのは、拓海の字だった。
「読みやすいお名前ですね」
女将さんに言われ、池上拓海はペンを止めた。宿帳には、石動宏和、と書いてあった。
「こいつのです」
「字の話だろ」
宏和が手を伸ばすと、拓海は宿帳を横へ滑らせた。
「読み仮名、いするぎでいい?」
「そこまで知ってて、何で確認するんだよ」
「仕事では大事なんだよ。確認」
「俺の名前を書くの、お前の仕事じゃない」
女将さんは笑いながら、皆さんのお名前もお願いします、と言った。胸の名札に間宮梢とある。作務衣の袖が肘まで上がり、左手の小さな絆創膏が、宿帳を押さえるたびに曲がった。
僕は青凪祐助と書き、ペンを森野亮へ渡した。亮は住所まで書いてから、僕の方へ宿帳を戻してきた。
「郵便番号、見せて」
「お前も同じだろ」
「そうだっけ」
「三本向こうだぞ、お前んち」
拓海が横から覗いた。
「川、越えるから違うかもしれない」
「ほら」
「いま考えた」
亮は拓海の肩を押し、僕の書いた数字をそのまま写した。最後に宏和が自分の名前の読み仮名を埋めた。拓海の字を直さなかったのは、女将さんの前だからか、褒められた字だからか、僕には分からなかった。
帳場の奥で湯の沸く音がした。女将さんが四つの茶碗を出すと、亮が急にいい姿勢になった。玄関の戸の上には、折返し、と墨で書かれた板が掛かっていた。
この名前が気になったのは、僕より宏和の方だった。せっかく来たのに帰れって言われてるみたいだ、と言ったくせに、ほかの候補の写真を見ても、最後はここの古い建物へ戻った。亮は風呂が広ければいいと言い、拓海は四人で一部屋なのかと二度訊いた。
僕が最初に予約の画面を送ったとき、亮は、四人部屋にしろよ、とだけ返した。宏和は駐車場の写真を欲しがり、拓海はその日のうちに職場で休みを確かめた。そこから僕の試験が動き、宏和の家の用事が入り、夏の旅行が九月の終わりになった。
途中で三人なら空いている日があった。僕はその日を送らず、次の月の予定を開いた。二十歳になったら何かしようと亮が言い出した頃には、僕だけまだ十九だった。
「皆さん、学生さん?」
「三人です。俺だけ働いてます」
拓海が答えた。
「今日は寝ます」
「寝られないよ。こいつら」
亮は僕らを指し、拓海に手首を下げられた。
「いま、お前が言ったんだろ」
女将さんは熱い茶を置いた。茶碗を持つと、僕の指先の方が冷えていた。山へ入ってから運転を代わり、最後の坂では対向車が来るたびに、肘を体へ寄せていた。僕が小さくなっても車の幅は変わらない。分かっていても、また寄せた。
「お風呂、何時からですか」
亮が訊いた。
「三時からです。今、清掃の仕上げを。九時まで入れますよ」
「露天も?」
「ええ。雨が強くなると、閉めますけれど」
亮は玄関の外を見た。空は白かった。
「降りますかね」
「そこまでは、私にも」
「すいません」
素直に頭を下げたので、僕は笑った。亮は茶碗を持ったまま、宏和へ顔を向けた。
「先、風呂でいい?」
「建物も案内してもらえるって」
「風呂も三時だって」
宏和は鞄から予約の控えを出しかけ、戻した。
「十分だけ、先に見たい」
亮が僕の足を軽く蹴った。もう長くなる、と口だけで言っている。宏和は、見たい所に丸をつけるからと案内を頼んだ。亮は茶を飲み終え、先に売店へ行った。
帳場の脇が売店になっていた。山菜の瓶と焼き菓子が並び、その下に青いイルカのキーホルダーが入った籠があった。山の中で、いちばん目立つ色だった。
亮はイルカを一つ取った。
「何につけるんだよ」
「車」
「借りてるのに?」
僕が訊くと、彼は考えてから、家の鍵、と言った。
「急に安くなったな」
拓海が言った。亮は財布を出した。三百円だった。
輪を開こうとして爪が入らず、亮は宏和へ渡した。宏和はまだ見学の話を聞いていたが、鍵を受け取ると、話を止めずに輪へ通した。
「ほら」
「ありがとう」
「値札、残ってる」
拓海が亮の手から取り、イルカを裏返した。値札を爪で擦って剥がし、鍵を戻した。亮は買ったイルカを手のひらへ載せた。目が少し離れていて、背中には塗り残しがあった。
「まあ、俺に似てる」
「どこ」
「いいところ」
僕は茶碗を置いた。女将さんが手を出したので渡しかけると、宏和がまとめて盆へ載せた。
「二〇一号室です。お荷物、先にどうぞ」
鍵の札が宏和から僕へ来た。僕は階段へ向かい、右足を一段目へ載せたところで、襟を引かれた。
「祐助。靴」
見下ろすと、右足だけ階段に載り、左足は玄関の敷物に残っていた。どちらにもスニーカーを履いていた。
「運転、疲れた?」
拓海が訊いた。亮が上から笑っていたので、僕は、まだお前を乗せたまま走れる、と答えた。
「何で俺を」
「ほかは静かだから」
スリッパに履き替えると、拓海が鍵を持って待っていた。
部屋は、鞄を開いたままでも歩けるくらいには広かった。窓のすぐ外に木の幹が並び、山の上の方は見えない。拓海が広縁の椅子へ座り、もう一脚に足を載せた。
亮はその足を持ち上げ、下へ腰を入れた。
「重い」
「持ったの、お前だろ」
「どけろってことだよ」
拓海は膝を曲げ、踵だけ亮の腿へ残した。亮がさらに押し返すと、椅子の背に頭をぶつけた。
「痛い」
普通の声だったので、僕は笑ってしまった。拓海はこちらへ向き、痛いんだけど、ともう一度言った。
「分かった」
「分かった顔じゃない」
宏和が部屋へ入ってきた。手に小さな館内案内を持っている。
「楽しそうだな」
「いま痛がってる」
僕が言うと、宏和は拓海を見て、ああ、と言った。それだけだった。
座卓には急須とポット、小さな菓子箱、白い電話機があった。亮が菓子箱を開け、饅頭を四つ数えた。僕は浴衣の棚を開けたが、似たような襟ばかりで、どれが大きいのか分からなかった。
「亮の、後で選ぼう」
「何で俺のだけ難しそうなの」
「袖が短かったら、二枚つなげるか」
拓海が言うと、亮は彼の足を下ろした。拓海も座卓まで来て、鞄を引き寄せた。僕が持ち手を持って寄せると、片方だけ伸びた。
「そこ、持つな。切れる」
「持ってから言うなよ」
僕は底を畳へ下ろした。亮も片手を出していたが、もう持つところはなかった。
拓海は持ち手へ巻いた黒い帯を外した。金具に赤い糸が挟まっていた。ほどけた鞄の裏から出たものだった。
「母ちゃんの鞄。俺の、届くの明日になった」
「使うの今日だろ」
「明日届くって言ったじゃん」
宏和が持ち手を裏返した。赤い縫い目が、端から三つほど抜けている。
「直してから借りろよ」
「帰ったら俺が直す。さっきも言った」
「俺には言ってない」
拓海は帯を膝へ広げた。鞄の底まで回してあった長さが、畳へ垂れた。二つに畳み、端を一緒に丸めて上着のポケットへ入れた。宏和は持ち手を鞄の口へ入れた。案内の紙を広げる場所がなく、先に財布を開いた。
「金、いまやる?」
「もう払った分だけ。あとで忘れるから」
亮は饅頭を咥え、片手でポケットを探った。鍵のイルカが先に出てきた。
「それで払うの」
「俺の方が損だろ。三百円だぞ」
宏和が携帯へ数字を入れた。車の代金とガソリン代。僕が出した駐車場の三百円。昼食は各自で払った。
「祐助の買った飲み物も」
「あれはいいよ」
「何で」
「三本だし。俺が飲みたくて止まったんだから」
宏和は入力する手を止めた。
「四本だろ」
「お前、自分で払ったじゃん」
「ああ。そうか」
拓海が自分の鞄から水を出し、ラベルを見ていた。
「百四十円」
「書いてないだろ、そこには」
「覚えてるから」
「じゃあ何で見たんだよ」
拓海はボトルを僕の方へ向けた。
「軟水だって」
亮が噴きそうになり、饅頭を手で覆った。宏和は笑わずに入力を続けていたが、口を一文字にしたまま、次の画面へ進まなかった。
宏和がレシートを避けるより早く、水の底が案内に丸い跡をつけた。拓海はボトルを広縁へ退けた。亮のイルカは、座卓で倒れていた。
合格通知にも、あんな跡をつけまいとしていた。拓海が司法書士の試験に受かった夜、亮の家で鍋をした。汁が飛ぶたびに、拓海は自分の袖を紙の前へ出した。僕が空いた菓子の缶を後ろへ置くと、ようやく紙が倒れなくなった。
「見た?」
僕はその晩、三回訊かれた。合格した人の番号を三回読んだ。宏和は皿を紙から離し、亮は肉を取るときだけゆっくり箸を上げた。飛んでも知らねえぞと言っていたのに。蓋が閉まらないほど入れた鍋は、最後に汁まで減っていた。
「これ、立たねえ」
亮がイルカを掌へ戻した。
「泳ぐやつだからな」
拓海が広縁から帰ってきた。僕は笑った。研修と登録を済ませて町の事務所に勤め始めても、こういう返事は変わらなかった。
「はいはい」
いま、拓海が電話に出た。
「あ、ごめん、はい」
宏和の指が止まった。亮は饅頭を飲み込んだ。
「母だと思った。はい。今、出先で。月曜の朝の、付箋のところです。……水野さんに先に見てもらえますか。俺からも連絡します」
電話を切ると、拓海は携帯を座卓へ伏せた。
「上司」
「はいはい」
僕が言うと、空の包みが飛んできた。受け取ったが、少し湿っていた。
亮が、休みでも来るんだなと言った。
「俺の付箋が『ここ』だけだったから。月曜までに、ちゃんと頼み直す」
拓海は水野さんへ文字を打った。宏和が肘の下からガソリン代のレシートを抜いた。
宏和の携帯が震えた。彼は相手を見て、立った。広縁の端へ行き、僕らに背を向けた。
「着いた。うん。それは月曜に。……いや、俺に聞かれても」
亮が拓海へ饅頭の箱を寄せた。残りは一つだった。拓海は取りかけ、僕の手に包みしかないのを見た。
「お前、食った?」
「まだ」
「何で包み持ってんだよ」
「投げてきたからだろ」
拓海は箱を僕へ押した。饅頭は、思ったより重かった。
「大学で習ってるのと、それは別。俺、壁は直せない」
宏和の声が大きくなった。亮は膝を抱え、拓海も携帯から顔を上げた。
宏和は何度か頷き、分かったから、と言って切った。
「祖母。物置の壁、剥がれたって」
「見に行くの」
僕が訊くと、宏和は座り直した。
「俺が一回見ないと、業者に頼めないんだって。見ても直せないのに」
「孫の顔が見たいんじゃねえの」
亮が言った。宏和は亮を見た。
「だったら、そう言えばいいのに」
「言われたら行くのかよ」
「行くだろ」
宏和は自分の携帯を見た。壁の写真が来ていた。僕へ向けかけたが、亮が覗き込んだので、そのまま三人の方へ出した。
「これ、落ちる?」
「俺に聞くなって、ばあちゃんにも言った」
拓海は少し拡大し、携帯を返した。
「月曜じゃなくて、業者へ先に電話だけしてもらったら」
「したくないんだよ。知らない人に」
宏和は返事を打った。しばらくして、俺が電話番号を探してやる、と言った。亮は饅頭の包みを細く畳みながら、うん、と答えた。
僕は饅頭をかじった。箱はもう空だった。
拓海の携帯がまた鳴った。今度は画面を確かめていた。
「はい。今さっき、あんたと間違えて、偉い目に遭ったんだけど」
母親だった。彼は僕の前に落ちた包みを取り、宏和へペンを求めた。
「椎茸。大きい方? 二袋? 重くない? ……乾いてるのは知ってるよ」
亮は膝へ顔を伏せた。
「山口さんに。ああ。帰りでいいだろ。いま買うと部屋で邪魔になる」
拓海は紙へ丸を二つ書き、電話を切った。
「誰に買うの」
「母ちゃんの職場の人。山口さん。ここ行くって言ったら、あっちで椎茸の話になったんだって」
「一人で二袋?」
「母ちゃんも食うんだろ。明日、あっちで」
亮が包み紙の丸を指した。
「お前は?」
「俺は家帰るだろ」
「食う方」
「俺の買った椎茸で、俺だけいないんだよ」
宏和がペンを受け取った。拓海は自分の財布を出し、まだ開けずにポケットへ戻した。
「家に置く分もいるかな。値段見てからにする」
「椎茸で買えないほどするかよ」
「二袋と俺のと、お前が食う分も言い出すだろ」
「それはお前んちで食う」
亮が笑った。拓海も笑い、明日、母ちゃんが帰ってからか、と携帯の画面を見た。
宏和は案内を持って立った。僕らが座っている間にも、見学の時間が減っていた。拓海は携帯をしまい、僕へ顔を向けた。
「いま何か言いたい顔したろ」
「饅頭、食べてる」
「食い終わってからでいい」
僕は食べるのを早めた。亮が時計を見た。
「三時になるぞ」
「見学、三時過ぎだって」
宏和が言った。
「過ぎって、何分?」
「聞いてくる」
「帰ってこいよ」
拓海の声を聞きながら、宏和は戸口へ向かった。途中で戻り、充電器だけ鞄から出した。
「写真も撮りたい。四人で」
「いま撮れば」
亮は饅頭の箱を閉じ、頭の後ろの窓を指した。
「暗いだろ、ここ。逆光になる」
「じゃあ窓の方を向く」
「誰が撮るんだよ」
亮は考え、僕を見た。
「四人って言ったばっかだろ」
僕が返すと、拓海が笑った。宏和は携帯を構えかけて下ろした。
「下で頼もう。女将さんに」
「いま?」
「見学の前。揃ってるうちに」
亮は座ったまま、自分の上着を引き寄せた。イルカのついた鍵をポケットへ入れ直している。僕は最後の一口を食べ、四つの包みを重ねた。
拓海は丸を二つ書いた紙だけ取り、半分に折って財布へ入れた。それから宏和の案内を覗いた。
「見学って、下まで行くのか」
「まだ聞いてない。つながってるところを見たいんだよ」
窓の端から、もう一つの棟へ伸びるガラスの廊下が見えた。古い柱の向こうに、窓がいくつも続いている。宏和はそこを指し、指したまま、亮が上着を着るのを待っていた。
「十分だけな」
亮が言った。
宏和は案内を畳みかけ、止めた。
「最初に写真。そこから十分で、続きは俺一人でもいい」
「じゃあ、最初は行く」
亮は携帯を出し、まだ何も押さずに戻した。
亮が僕を見た。僕は鍵の札を指で回し、立った。
拓海は宏和の案内を指した。
「それ、置いてく? 写真、地図まで写るぞ」
宏和は紙を畳んでポケットへ入れた。拓海が先に廊下へ出た。僕は鍵を持ったことを確かめた。亮は空の菓子箱を鞄へ入れようとして、宏和に、それは置いていけ、と止められていた。
四人が出るまで、僕は戸を開けて待った。