山を下りるにはまだ早い

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CHAPTER 01 / 21

第一章 四人部屋

旅館に着いて最初に褒められたのは、拓海の字だった。

「読みやすいお名前ですね」

 女将さんに言われ、池上拓海はペンを止めた。宿帳には、石動宏和、と書いてあった。

「こいつのです」
「字の話だろ」

 宏和が手を伸ばすと、拓海は宿帳を横へ滑らせた。

「読み仮名、いするぎでいい?」
「そこまで知ってて、何で確認するんだよ」
「仕事では大事なんだよ。確認」
「俺の名前を書くの、お前の仕事じゃない」

 女将さんは笑いながら、皆さんのお名前もお願いします、と言った。胸の名札に間宮梢とある。作務衣の袖が肘まで上がり、左手の小さな絆創膏が、宿帳を押さえるたびに曲がった。

 僕は青凪祐助と書き、ペンを森野亮へ渡した。亮は住所まで書いてから、僕の方へ宿帳を戻してきた。

「郵便番号、見せて」
「お前も同じだろ」
「そうだっけ」
「三本向こうだぞ、お前んち」

 拓海が横から覗いた。

「川、越えるから違うかもしれない」
「ほら」
「いま考えた」

 亮は拓海の肩を押し、僕の書いた数字をそのまま写した。最後に宏和が自分の名前の読み仮名を埋めた。拓海の字を直さなかったのは、女将さんの前だからか、褒められた字だからか、僕には分からなかった。

 帳場の奥で湯の沸く音がした。女将さんが四つの茶碗を出すと、亮が急にいい姿勢になった。玄関の戸の上には、折返し、と墨で書かれた板が掛かっていた。

 この名前が気になったのは、僕より宏和の方だった。せっかく来たのに帰れって言われてるみたいだ、と言ったくせに、ほかの候補の写真を見ても、最後はここの古い建物へ戻った。亮は風呂が広ければいいと言い、拓海は四人で一部屋なのかと二度訊いた。

 僕が最初に予約の画面を送ったとき、亮は、四人部屋にしろよ、とだけ返した。宏和は駐車場の写真を欲しがり、拓海はその日のうちに職場で休みを確かめた。そこから僕の試験が動き、宏和の家の用事が入り、夏の旅行が九月の終わりになった。
 途中で三人なら空いている日があった。僕はその日を送らず、次の月の予定を開いた。二十歳になったら何かしようと亮が言い出した頃には、僕だけまだ十九だった。

「皆さん、学生さん?」
「三人です。俺だけ働いてます」

 拓海が答えた。

「今日は寝ます」
「寝られないよ。こいつら」

 亮は僕らを指し、拓海に手首を下げられた。

「いま、お前が言ったんだろ」

 女将さんは熱い茶を置いた。茶碗を持つと、僕の指先の方が冷えていた。山へ入ってから運転を代わり、最後の坂では対向車が来るたびに、肘を体へ寄せていた。僕が小さくなっても車の幅は変わらない。分かっていても、また寄せた。

「お風呂、何時からですか」

 亮が訊いた。

「三時からです。今、清掃の仕上げを。九時まで入れますよ」
「露天も?」
「ええ。雨が強くなると、閉めますけれど」

 亮は玄関の外を見た。空は白かった。

「降りますかね」
「そこまでは、私にも」
「すいません」

 素直に頭を下げたので、僕は笑った。亮は茶碗を持ったまま、宏和へ顔を向けた。

「先、風呂でいい?」
「建物も案内してもらえるって」
「風呂も三時だって」

 宏和は鞄から予約の控えを出しかけ、戻した。

「十分だけ、先に見たい」
 亮が僕の足を軽く蹴った。もう長くなる、と口だけで言っている。宏和は、見たい所に丸をつけるからと案内を頼んだ。亮は茶を飲み終え、先に売店へ行った。

 帳場の脇が売店になっていた。山菜の瓶と焼き菓子が並び、その下に青いイルカのキーホルダーが入った籠があった。山の中で、いちばん目立つ色だった。

 亮はイルカを一つ取った。

「何につけるんだよ」
「車」
「借りてるのに?」

 僕が訊くと、彼は考えてから、家の鍵、と言った。

「急に安くなったな」

 拓海が言った。亮は財布を出した。三百円だった。

 輪を開こうとして爪が入らず、亮は宏和へ渡した。宏和はまだ見学の話を聞いていたが、鍵を受け取ると、話を止めずに輪へ通した。

「ほら」
「ありがとう」
「値札、残ってる」

 拓海が亮の手から取り、イルカを裏返した。値札を爪で擦って剥がし、鍵を戻した。亮は買ったイルカを手のひらへ載せた。目が少し離れていて、背中には塗り残しがあった。

「まあ、俺に似てる」
「どこ」
「いいところ」

 僕は茶碗を置いた。女将さんが手を出したので渡しかけると、宏和がまとめて盆へ載せた。

「二〇一号室です。お荷物、先にどうぞ」

 鍵の札が宏和から僕へ来た。僕は階段へ向かい、右足を一段目へ載せたところで、襟を引かれた。

「祐助。靴」

 見下ろすと、右足だけ階段に載り、左足は玄関の敷物に残っていた。どちらにもスニーカーを履いていた。

「運転、疲れた?」

 拓海が訊いた。亮が上から笑っていたので、僕は、まだお前を乗せたまま走れる、と答えた。

「何で俺を」
「ほかは静かだから」

 スリッパに履き替えると、拓海が鍵を持って待っていた。

 部屋は、鞄を開いたままでも歩けるくらいには広かった。窓のすぐ外に木の幹が並び、山の上の方は見えない。拓海が広縁の椅子へ座り、もう一脚に足を載せた。

 亮はその足を持ち上げ、下へ腰を入れた。

「重い」
「持ったの、お前だろ」
「どけろってことだよ」

 拓海は膝を曲げ、踵だけ亮の腿へ残した。亮がさらに押し返すと、椅子の背に頭をぶつけた。

「痛い」

 普通の声だったので、僕は笑ってしまった。拓海はこちらへ向き、痛いんだけど、ともう一度言った。

「分かった」
「分かった顔じゃない」

 宏和が部屋へ入ってきた。手に小さな館内案内を持っている。

「楽しそうだな」
「いま痛がってる」

 僕が言うと、宏和は拓海を見て、ああ、と言った。それだけだった。

 座卓には急須とポット、小さな菓子箱、白い電話機があった。亮が菓子箱を開け、饅頭を四つ数えた。僕は浴衣の棚を開けたが、似たような襟ばかりで、どれが大きいのか分からなかった。

「亮の、後で選ぼう」
「何で俺のだけ難しそうなの」
「袖が短かったら、二枚つなげるか」

 拓海が言うと、亮は彼の足を下ろした。拓海も座卓まで来て、鞄を引き寄せた。僕が持ち手を持って寄せると、片方だけ伸びた。

「そこ、持つな。切れる」
「持ってから言うなよ」

 僕は底を畳へ下ろした。亮も片手を出していたが、もう持つところはなかった。
 拓海は持ち手へ巻いた黒い帯を外した。金具に赤い糸が挟まっていた。ほどけた鞄の裏から出たものだった。

「母ちゃんの鞄。俺の、届くの明日になった」
「使うの今日だろ」
「明日届くって言ったじゃん」

 宏和が持ち手を裏返した。赤い縫い目が、端から三つほど抜けている。

「直してから借りろよ」
「帰ったら俺が直す。さっきも言った」
「俺には言ってない」

 拓海は帯を膝へ広げた。鞄の底まで回してあった長さが、畳へ垂れた。二つに畳み、端を一緒に丸めて上着のポケットへ入れた。宏和は持ち手を鞄の口へ入れた。案内の紙を広げる場所がなく、先に財布を開いた。

「金、いまやる?」
「もう払った分だけ。あとで忘れるから」

 亮は饅頭を咥え、片手でポケットを探った。鍵のイルカが先に出てきた。

「それで払うの」
「俺の方が損だろ。三百円だぞ」

 宏和が携帯へ数字を入れた。車の代金とガソリン代。僕が出した駐車場の三百円。昼食は各自で払った。

「祐助の買った飲み物も」
「あれはいいよ」
「何で」
「三本だし。俺が飲みたくて止まったんだから」

 宏和は入力する手を止めた。

「四本だろ」
「お前、自分で払ったじゃん」
「ああ。そうか」

 拓海が自分の鞄から水を出し、ラベルを見ていた。

「百四十円」
「書いてないだろ、そこには」
「覚えてるから」
「じゃあ何で見たんだよ」

 拓海はボトルを僕の方へ向けた。

「軟水だって」

 亮が噴きそうになり、饅頭を手で覆った。宏和は笑わずに入力を続けていたが、口を一文字にしたまま、次の画面へ進まなかった。

 宏和がレシートを避けるより早く、水の底が案内に丸い跡をつけた。拓海はボトルを広縁へ退けた。亮のイルカは、座卓で倒れていた。

 合格通知にも、あんな跡をつけまいとしていた。拓海が司法書士の試験に受かった夜、亮の家で鍋をした。汁が飛ぶたびに、拓海は自分の袖を紙の前へ出した。僕が空いた菓子の缶を後ろへ置くと、ようやく紙が倒れなくなった。

「見た?」

 僕はその晩、三回訊かれた。合格した人の番号を三回読んだ。宏和は皿を紙から離し、亮は肉を取るときだけゆっくり箸を上げた。飛んでも知らねえぞと言っていたのに。蓋が閉まらないほど入れた鍋は、最後に汁まで減っていた。

「これ、立たねえ」

 亮がイルカを掌へ戻した。

「泳ぐやつだからな」

 拓海が広縁から帰ってきた。僕は笑った。研修と登録を済ませて町の事務所に勤め始めても、こういう返事は変わらなかった。

「はいはい」

 いま、拓海が電話に出た。

「あ、ごめん、はい」

 宏和の指が止まった。亮は饅頭を飲み込んだ。

「母だと思った。はい。今、出先で。月曜の朝の、付箋のところです。……水野さんに先に見てもらえますか。俺からも連絡します」

 電話を切ると、拓海は携帯を座卓へ伏せた。

「上司」
「はいはい」

 僕が言うと、空の包みが飛んできた。受け取ったが、少し湿っていた。

 亮が、休みでも来るんだなと言った。
「俺の付箋が『ここ』だけだったから。月曜までに、ちゃんと頼み直す」
 拓海は水野さんへ文字を打った。宏和が肘の下からガソリン代のレシートを抜いた。

 宏和の携帯が震えた。彼は相手を見て、立った。広縁の端へ行き、僕らに背を向けた。

「着いた。うん。それは月曜に。……いや、俺に聞かれても」

 亮が拓海へ饅頭の箱を寄せた。残りは一つだった。拓海は取りかけ、僕の手に包みしかないのを見た。

「お前、食った?」
「まだ」
「何で包み持ってんだよ」
「投げてきたからだろ」

 拓海は箱を僕へ押した。饅頭は、思ったより重かった。

「大学で習ってるのと、それは別。俺、壁は直せない」

 宏和の声が大きくなった。亮は膝を抱え、拓海も携帯から顔を上げた。

 宏和は何度か頷き、分かったから、と言って切った。

「祖母。物置の壁、剥がれたって」
「見に行くの」

 僕が訊くと、宏和は座り直した。

「俺が一回見ないと、業者に頼めないんだって。見ても直せないのに」
「孫の顔が見たいんじゃねえの」

 亮が言った。宏和は亮を見た。

「だったら、そう言えばいいのに」
「言われたら行くのかよ」
「行くだろ」

 宏和は自分の携帯を見た。壁の写真が来ていた。僕へ向けかけたが、亮が覗き込んだので、そのまま三人の方へ出した。

「これ、落ちる?」
「俺に聞くなって、ばあちゃんにも言った」

 拓海は少し拡大し、携帯を返した。

「月曜じゃなくて、業者へ先に電話だけしてもらったら」
「したくないんだよ。知らない人に」

 宏和は返事を打った。しばらくして、俺が電話番号を探してやる、と言った。亮は饅頭の包みを細く畳みながら、うん、と答えた。

 僕は饅頭をかじった。箱はもう空だった。

 拓海の携帯がまた鳴った。今度は画面を確かめていた。

「はい。今さっき、あんたと間違えて、偉い目に遭ったんだけど」

 母親だった。彼は僕の前に落ちた包みを取り、宏和へペンを求めた。

「椎茸。大きい方? 二袋? 重くない? ……乾いてるのは知ってるよ」

 亮は膝へ顔を伏せた。

「山口さんに。ああ。帰りでいいだろ。いま買うと部屋で邪魔になる」

 拓海は紙へ丸を二つ書き、電話を切った。

「誰に買うの」
「母ちゃんの職場の人。山口さん。ここ行くって言ったら、あっちで椎茸の話になったんだって」
「一人で二袋?」
「母ちゃんも食うんだろ。明日、あっちで」

 亮が包み紙の丸を指した。

「お前は?」
「俺は家帰るだろ」
「食う方」
「俺の買った椎茸で、俺だけいないんだよ」

 宏和がペンを受け取った。拓海は自分の財布を出し、まだ開けずにポケットへ戻した。

「家に置く分もいるかな。値段見てからにする」
「椎茸で買えないほどするかよ」
「二袋と俺のと、お前が食う分も言い出すだろ」
「それはお前んちで食う」

 亮が笑った。拓海も笑い、明日、母ちゃんが帰ってからか、と携帯の画面を見た。

 宏和は案内を持って立った。僕らが座っている間にも、見学の時間が減っていた。拓海は携帯をしまい、僕へ顔を向けた。

「いま何か言いたい顔したろ」
「饅頭、食べてる」
「食い終わってからでいい」

 僕は食べるのを早めた。亮が時計を見た。

「三時になるぞ」
「見学、三時過ぎだって」

 宏和が言った。

「過ぎって、何分?」
「聞いてくる」
「帰ってこいよ」

 拓海の声を聞きながら、宏和は戸口へ向かった。途中で戻り、充電器だけ鞄から出した。

「写真も撮りたい。四人で」
「いま撮れば」

 亮は饅頭の箱を閉じ、頭の後ろの窓を指した。

「暗いだろ、ここ。逆光になる」
「じゃあ窓の方を向く」
「誰が撮るんだよ」

 亮は考え、僕を見た。

「四人って言ったばっかだろ」

 僕が返すと、拓海が笑った。宏和は携帯を構えかけて下ろした。

「下で頼もう。女将さんに」
「いま?」
「見学の前。揃ってるうちに」

 亮は座ったまま、自分の上着を引き寄せた。イルカのついた鍵をポケットへ入れ直している。僕は最後の一口を食べ、四つの包みを重ねた。

 拓海は丸を二つ書いた紙だけ取り、半分に折って財布へ入れた。それから宏和の案内を覗いた。

「見学って、下まで行くのか」
「まだ聞いてない。つながってるところを見たいんだよ」

 窓の端から、もう一つの棟へ伸びるガラスの廊下が見えた。古い柱の向こうに、窓がいくつも続いている。宏和はそこを指し、指したまま、亮が上着を着るのを待っていた。

「十分だけな」

 亮が言った。

 宏和は案内を畳みかけ、止めた。
「最初に写真。そこから十分で、続きは俺一人でもいい」
「じゃあ、最初は行く」
 亮は携帯を出し、まだ何も押さずに戻した。

 亮が僕を見た。僕は鍵の札を指で回し、立った。

 拓海は宏和の案内を指した。

「それ、置いてく? 写真、地図まで写るぞ」

 宏和は紙を畳んでポケットへ入れた。拓海が先に廊下へ出た。僕は鍵を持ったことを確かめた。亮は空の菓子箱を鞄へ入れようとして、宏和に、それは置いていけ、と止められていた。

 四人が出るまで、僕は戸を開けて待った。

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目次

山を下りるにはまだ早い

  1. 01四人部屋読書中
  2. 02並ぶ前
  3. 03二つの一階
  4. 04待っている答え
  5. 05先に買う
  6. 06湯の手前
  7. 07玄関
  8. 08雨の二人
  9. 09骨
  10. 10返すもの
  11. 11まだ話している
  12. 12紙の向こう
  13. 13返してもらうもの
  14. 14隣へ座る
  15. 15下へ行く
  16. 16残した車
  17. 17九時の番号
  18. 18送られてきた紙
  19. 19後ろの席
  20. 20おかわり
  21. 21終章 四人分

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