山を下りるにはまだ早い

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CHAPTER 13 / 21

第十三章 返してもらうもの

鷲尾さんが小部屋の戸を開けた。
「会いたくなければ、お待ちになっていてください」
 宏和は僕に先に行けとは言わなかった。二人で戸へ行った。拓海は番号を書いた紙を鷲尾さんへ出した。
「月曜、十時です。水野さんが分かります。俺が先に会うって、言ったんです」
 鷲尾さんは紙を受け取り、戸のそばへ戻った。拓海はもう一枚、机の端へ寄せた。宏和が椅子を引き、僕は隣へ座った。

「先生、離してって。紙のことだと思ってた」
 僕が言うと、拓海は番号へ指を置いた。
「ここにも、事務所の。名刺の番号と」
「そこは後で」
 宏和が言った。鞄の口は閉じていた。
 僕は封筒を渡した時のことを話した。
「先生、左でファイルを挟んでた。その後、お前の方へ来た手は、右なのか」
「右の。帯の方へ来た」

 拓海は番号の紙を置いた。
「まだ、掛けたとこ、聞いてない」
 僕が言うと、拓海は右手を開いた。

「俺の二行、先に返してって言った。先生はそこも母ちゃんに読んでもらうって。本人へ確認、って、赤い字を」
 僕が封筒を渡した時にも、その字はあった。
「今の母が戻りたいと言ったんですねって。違うなら、そこから確かめようって」
「お前は、何て」
「先に、警察の用事だった方を。そこを母に渡してから、俺の方は話すって」
 拓海は番号の紙を少し引き、戻した。
「先生、女将さんも呼ぶって。母ちゃんへ電話するなら、場所も訊いてって。右が電話へ行った」

「お前が持って来た、灰色の?」
「うん。俺、机の横へ行った。電話、今は取らないでって」
「取ったのか」
「先生が手を戻した。俺に、どいてって。女将さんを呼ぶからって」

 宏和は顔を上げた。拓海は戸を見なかった。
「先生、戸の方を見た。まだ俺が話してんのに。こっちも見てって言った」
「紙を?」
「俺が書いた所。そこを先に返してって」
 拓海は自分の紙を持ちかけた。置いたまま、右手だけを横へ動かした。

「帯、持ってた。椅子の後ろへ回って、首に掛けた」
 僕は椅子の背から手を離した。
「後ろから?」
「……うん」
「そこで、先生は」
「顔をこっちへ向けた。何するんだって。俺、返してって言って、引いた」

 拓海の手が止まった。机の上に電話もファイルもなく、番号の紙と水があった。
「先生、放せって。俺も、分かったって言って、一回、緩めた」
「そこで、やめれば」
 宏和が口を閉じた。
「右の指が、下へ入ったんだよ。帯の下。取られると思って」
「紙を取られるんじゃ、なくて」
 拓海は右手を閉じた。紙の角が曲がった。
「俺が、また引いた」

 僕は庄司さんが五時に出した右手を思い出した。握手の一回を二人で数えた、と笑った。
 拓海は左掌の包帯へ顔を下げた。
「先生が膝をついて、俺も下へ行った。放せって、さっきより小さい声で。それでも」
 手が机の端を離れた。
「肩が床についた。眼鏡が落ちて。先生の手が、もうこっちへ来なくなっても、俺、離さなかった」
 宏和は椅子から足を引いた。鞄を膝へ戻した。
 僕は、紙の方、と言いかけた。拓海の声を聞く前は、そちらの返事を持ち帰れればと思っていた。

「ファイルも床で開いてた。なずなさんが最初に見た時から」
 拓海が顔を上げた。
「そこへ、何を返したんだ」
「外してから、ファイルを開けた。俺の文と名前があって、角を持って」
 紙の角を持つように指が開いた。
「取ったら、先生の字もなくなる。名刺を付けた跡も。母ちゃんが読んだら、何を取ったって訊くから」

 番号へ指を戻しかけた。僕は紙を取らなかった。
「まだ、持って帰れると思ってたのか」
「先生が書いた方を。俺がここへ来たから、母ちゃんの訂正ができたって」
 拓海は紙へ顔を戻した。
「書いてもらう所を開いた。先生の方へ。こっちを先にって」
 僕は最初に見た、裏へ折れた紙の端を思い出した。
「床へ?」
 拓海は頷いた。
「俺が書いた方を直すなら、水原さんが戻ってからまた確かめるって。先生の字が来れば、俺が渡した文より先に。こっちを先にって、言った」
 彼は水の蓋へ手を出しかけた。指を戻した。
「返事はなかった。肩、床についてたのに、俺、紙を向けた」

 宏和が立ちかけた。戸へは行かず、鞄を椅子へ置いた。
 僕は携帯を机へ置いた。
「これで呼べた」
 拓海は自分のポケットへ目を落とした。
「俺のも、あった」
「見たんだろ。先生の顔」
「こっちを向いてた。息をしてるかは、見てない。俺は紙を拾った」
 宏和が下を向いた。机の下で靴が少し動いた。

「灰色の電話を取ったのは、母ちゃんへ掛けられないように。女将さんも呼ぶって言われたから」
 拓海はボトルへ手を伸ばしかけた。持たずに戻した。
「帯を巻いて、通じないって持っていけば、帳場で預かってもらえると思った」
「母ちゃんへ言うのは、自分から?」
 僕が訊くと、拓海は顔を戻した。
「訂正の方から言って、俺の文は待ってもらおうって。ファイルは持ち出せなくて、白い封筒を取った。古い手紙は笠原さんへ返したって聞いたのに、まだ入ってるように思って」
 僕は庄司さんが黒い字を封筒へ入れた時のことを思い出した。折ると読みにくいからと、口を閉じなかった。
「下で福地さんに、首へ使ったと、倒れたから外したって言った。手紙はなかったし、紙の方も先生と話すって言われて、待った」
 拓海は戸を見た。
「俺より、ちゃんと話せると思った。電話も取ったって言った。でも、救急を呼んでとは」
 言葉が止まった。僕は受話器を下から支えた時のことを思い出した。手を出す所は分かった。上着へ当たり、落としそうだった。
「俺にも頼めた」
「頼めた」
 返事が早かった。拓海は僕を見た。いつも用事を頼む時と同じ顔だった。
「封筒を頼んだみたいに?」
 拓海は頷きかけた。
「俺が持ってくと、今じゃないって言われそうで。女将さんから頼まれた客なら、入れてもらえると思った」
「俺が訊けば、入れる」
 彼は番号から指を離した。
「それを知ってたんだろ」
 僕は携帯を取らなかった。
「じゃあ俺に、何を待てって言ったんだよ」
 拓海は紙へ顔を戻した。番号の下の名前を、またなぞろうとしていた。

「俺らには、風呂で待っててって」
 宏和が言った。
「下で警察の人に会って、そこまで話したのに、まだ俺らのところへ来るつもりだったの」
 拓海は僕を見た。
「祐助が封筒のこと聞いてたから。福地さんも上へ行ったと思えば、先にそっちを」
「俺が聞いてくれれば?」
 拓海は小さく、うん、と言った。
「俺がしたのは言ったから。お前が、俺より後で先生が返事したか訊いてくれたら」
「返事はあった。そこは見た。でも、お前が引いて、倒れてからも離さなかった。その話は、なくならないだろ」
 宏和が立った。僕も立ったが、戸へ行けなかった。
「俺、お前の後に返事があればと思った。それはあった。でも最後に何が起きたかを見ないで、お前に赤い線の話だけ、渡そうとした」
 拓海は鷲尾さんを見た。
「仕事先へ、自分で電話します。母にも。記事より前に」
 僕の方へ向き、番号の紙を出しかけた。
「水野さんへ、月曜、十時の人の続きだけ。引き継いだか訊いてもらえる? 俺が先に連絡するから」
 宏和が戸を開けた。僕は机の前にいた。
「俺、あの人の話は分からないから」
「水野さんが分かる」
「連絡したかは、確認する。十時の人を待つって、そっちが聞いてたかも。でも、その人へ何を言うかまで、俺からは」
 拓海は紙を机へ下ろした。
「うん」
 鷲尾さんが番号を見た。拓海がそちらへ紙を寄せたので、僕は机の前を空けた。
 戸へ行くと、拓海が、月曜の六時半、と言った。
「飯、俺、行けない」
 僕は振り返った。
「お前、それ、まだ先だよ」
 拓海は椅子に座ったままだった。

 部屋には四枚の布団があった。亮は、どうだった、と訊いた。
 宏和が最初に話した。僕は、拓海が手を緩めてから引き直したことと、床へついてからも離さなかったことを話した。
「離せって、言ってたって。あの人」
「お前が聞いたの」
「拓海から。右の指を、帯から外させようとしてたって。床の方も、聞こえてたって」
 亮は水の蓋を取った。僕へ出し、途中で宏和へ向けた。宏和が飲んだ。
「俺、いま、顔見たら、返事しそうだ」
 亮は布団へ座った。月曜の店の候補を開き、指を止めた。僕は横へ座らず、自分の布団の端にいた。

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目次

山を下りるにはまだ早い

  1. 01四人部屋
  2. 02並ぶ前
  3. 03二つの一階
  4. 04待っている答え
  5. 05先に買う
  6. 06湯の手前
  7. 07玄関
  8. 08雨の二人
  9. 09骨
  10. 10返すもの
  11. 11まだ話している
  12. 12紙の向こう
  13. 13返してもらうもの読書中
  14. 14隣へ座る
  15. 15下へ行く
  16. 16残した車
  17. 17九時の番号
  18. 18送られてきた紙
  19. 19後ろの席
  20. 20おかわり
  21. 21終章 四人分

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