鷲尾さんが小部屋の戸を開けた。
「会いたくなければ、お待ちになっていてください」
宏和は僕に先に行けとは言わなかった。二人で戸へ行った。拓海は番号を書いた紙を鷲尾さんへ出した。
「月曜、十時です。水野さんが分かります。俺が先に会うって、言ったんです」
鷲尾さんは紙を受け取り、戸のそばへ戻った。拓海はもう一枚、机の端へ寄せた。宏和が椅子を引き、僕は隣へ座った。
「先生、離してって。紙のことだと思ってた」
僕が言うと、拓海は番号へ指を置いた。
「ここにも、事務所の。名刺の番号と」
「そこは後で」
宏和が言った。鞄の口は閉じていた。
僕は封筒を渡した時のことを話した。
「先生、左でファイルを挟んでた。その後、お前の方へ来た手は、右なのか」
「右の。帯の方へ来た」
拓海は番号の紙を置いた。
「まだ、掛けたとこ、聞いてない」
僕が言うと、拓海は右手を開いた。
「俺の二行、先に返してって言った。先生はそこも母ちゃんに読んでもらうって。本人へ確認、って、赤い字を」
僕が封筒を渡した時にも、その字はあった。
「今の母が戻りたいと言ったんですねって。違うなら、そこから確かめようって」
「お前は、何て」
「先に、警察の用事だった方を。そこを母に渡してから、俺の方は話すって」
拓海は番号の紙を少し引き、戻した。
「先生、女将さんも呼ぶって。母ちゃんへ電話するなら、場所も訊いてって。右が電話へ行った」
「お前が持って来た、灰色の?」
「うん。俺、机の横へ行った。電話、今は取らないでって」
「取ったのか」
「先生が手を戻した。俺に、どいてって。女将さんを呼ぶからって」
宏和は顔を上げた。拓海は戸を見なかった。
「先生、戸の方を見た。まだ俺が話してんのに。こっちも見てって言った」
「紙を?」
「俺が書いた所。そこを先に返してって」
拓海は自分の紙を持ちかけた。置いたまま、右手だけを横へ動かした。
「帯、持ってた。椅子の後ろへ回って、首に掛けた」
僕は椅子の背から手を離した。
「後ろから?」
「……うん」
「そこで、先生は」
「顔をこっちへ向けた。何するんだって。俺、返してって言って、引いた」
拓海の手が止まった。机の上に電話もファイルもなく、番号の紙と水があった。
「先生、放せって。俺も、分かったって言って、一回、緩めた」
「そこで、やめれば」
宏和が口を閉じた。
「右の指が、下へ入ったんだよ。帯の下。取られると思って」
「紙を取られるんじゃ、なくて」
拓海は右手を閉じた。紙の角が曲がった。
「俺が、また引いた」
僕は庄司さんが五時に出した右手を思い出した。握手の一回を二人で数えた、と笑った。
拓海は左掌の包帯へ顔を下げた。
「先生が膝をついて、俺も下へ行った。放せって、さっきより小さい声で。それでも」
手が机の端を離れた。
「肩が床についた。眼鏡が落ちて。先生の手が、もうこっちへ来なくなっても、俺、離さなかった」
宏和は椅子から足を引いた。鞄を膝へ戻した。
僕は、紙の方、と言いかけた。拓海の声を聞く前は、そちらの返事を持ち帰れればと思っていた。
「ファイルも床で開いてた。なずなさんが最初に見た時から」
拓海が顔を上げた。
「そこへ、何を返したんだ」
「外してから、ファイルを開けた。俺の文と名前があって、角を持って」
紙の角を持つように指が開いた。
「取ったら、先生の字もなくなる。名刺を付けた跡も。母ちゃんが読んだら、何を取ったって訊くから」
番号へ指を戻しかけた。僕は紙を取らなかった。
「まだ、持って帰れると思ってたのか」
「先生が書いた方を。俺がここへ来たから、母ちゃんの訂正ができたって」
拓海は紙へ顔を戻した。
「書いてもらう所を開いた。先生の方へ。こっちを先にって」
僕は最初に見た、裏へ折れた紙の端を思い出した。
「床へ?」
拓海は頷いた。
「俺が書いた方を直すなら、水原さんが戻ってからまた確かめるって。先生の字が来れば、俺が渡した文より先に。こっちを先にって、言った」
彼は水の蓋へ手を出しかけた。指を戻した。
「返事はなかった。肩、床についてたのに、俺、紙を向けた」
宏和が立ちかけた。戸へは行かず、鞄を椅子へ置いた。
僕は携帯を机へ置いた。
「これで呼べた」
拓海は自分のポケットへ目を落とした。
「俺のも、あった」
「見たんだろ。先生の顔」
「こっちを向いてた。息をしてるかは、見てない。俺は紙を拾った」
宏和が下を向いた。机の下で靴が少し動いた。
「灰色の電話を取ったのは、母ちゃんへ掛けられないように。女将さんも呼ぶって言われたから」
拓海はボトルへ手を伸ばしかけた。持たずに戻した。
「帯を巻いて、通じないって持っていけば、帳場で預かってもらえると思った」
「母ちゃんへ言うのは、自分から?」
僕が訊くと、拓海は顔を戻した。
「訂正の方から言って、俺の文は待ってもらおうって。ファイルは持ち出せなくて、白い封筒を取った。古い手紙は笠原さんへ返したって聞いたのに、まだ入ってるように思って」
僕は庄司さんが黒い字を封筒へ入れた時のことを思い出した。折ると読みにくいからと、口を閉じなかった。
「下で福地さんに、首へ使ったと、倒れたから外したって言った。手紙はなかったし、紙の方も先生と話すって言われて、待った」
拓海は戸を見た。
「俺より、ちゃんと話せると思った。電話も取ったって言った。でも、救急を呼んでとは」
言葉が止まった。僕は受話器を下から支えた時のことを思い出した。手を出す所は分かった。上着へ当たり、落としそうだった。
「俺にも頼めた」
「頼めた」
返事が早かった。拓海は僕を見た。いつも用事を頼む時と同じ顔だった。
「封筒を頼んだみたいに?」
拓海は頷きかけた。
「俺が持ってくと、今じゃないって言われそうで。女将さんから頼まれた客なら、入れてもらえると思った」
「俺が訊けば、入れる」
彼は番号から指を離した。
「それを知ってたんだろ」
僕は携帯を取らなかった。
「じゃあ俺に、何を待てって言ったんだよ」
拓海は紙へ顔を戻した。番号の下の名前を、またなぞろうとしていた。
「俺らには、風呂で待っててって」
宏和が言った。
「下で警察の人に会って、そこまで話したのに、まだ俺らのところへ来るつもりだったの」
拓海は僕を見た。
「祐助が封筒のこと聞いてたから。福地さんも上へ行ったと思えば、先にそっちを」
「俺が聞いてくれれば?」
拓海は小さく、うん、と言った。
「俺がしたのは言ったから。お前が、俺より後で先生が返事したか訊いてくれたら」
「返事はあった。そこは見た。でも、お前が引いて、倒れてからも離さなかった。その話は、なくならないだろ」
宏和が立った。僕も立ったが、戸へ行けなかった。
「俺、お前の後に返事があればと思った。それはあった。でも最後に何が起きたかを見ないで、お前に赤い線の話だけ、渡そうとした」
拓海は鷲尾さんを見た。
「仕事先へ、自分で電話します。母にも。記事より前に」
僕の方へ向き、番号の紙を出しかけた。
「水野さんへ、月曜、十時の人の続きだけ。引き継いだか訊いてもらえる? 俺が先に連絡するから」
宏和が戸を開けた。僕は机の前にいた。
「俺、あの人の話は分からないから」
「水野さんが分かる」
「連絡したかは、確認する。十時の人を待つって、そっちが聞いてたかも。でも、その人へ何を言うかまで、俺からは」
拓海は紙を机へ下ろした。
「うん」
鷲尾さんが番号を見た。拓海がそちらへ紙を寄せたので、僕は机の前を空けた。
戸へ行くと、拓海が、月曜の六時半、と言った。
「飯、俺、行けない」
僕は振り返った。
「お前、それ、まだ先だよ」
拓海は椅子に座ったままだった。
部屋には四枚の布団があった。亮は、どうだった、と訊いた。
宏和が最初に話した。僕は、拓海が手を緩めてから引き直したことと、床へついてからも離さなかったことを話した。
「離せって、言ってたって。あの人」
「お前が聞いたの」
「拓海から。右の指を、帯から外させようとしてたって。床の方も、聞こえてたって」
亮は水の蓋を取った。僕へ出し、途中で宏和へ向けた。宏和が飲んだ。
「俺、いま、顔見たら、返事しそうだ」
亮は布団へ座った。月曜の店の候補を開き、指を止めた。僕は横へ座らず、自分の布団の端にいた。