宏和と部屋へ上がり、濡れたシャツを脱いだ。背中から布が離れると、ようやく息を大きく吸えた。窓の外は木の幹も見えなかった。
僕が亮のリュックから大きい浴衣を出すと、宏和はその下の上着を取った。
「お前のタオルもいるだろ」
「風呂に置いてきた」
「じゃ、後で。先に亮の」
彼は自分の上着へ腕を通した。僕は長袖を着た。四人で荷物を開けていた座卓を、二人で回って出た。
下へ戻ると、拓海が四人分の箸袋を並べていた。亮は上着を受け取り、ありがとう、と言った。着ないで膝へ広げた。胸を押していたときは両手が重なっていた。今は、その両方の掌に何もなかった。
六時五十六分に、濡れた傘を持つ男性と、髪を短く結んだ女性が来た。
「槙沢署の香坂です。こちらが鷲尾。最初に見つけた方と、通報した方から伺います」
宏和と水原さんが立った。福地さんは現場まで案内すると言い、鷲尾さんと渡り廊下へ向かった。
女将さんがおしぼりを出す間に、僕も帳場へ行った。灰色の電話があった。白い封筒はなく、警察へ渡したと教えられた。
「青凪君も、あとで。先に食べていてください」
戻ってきた鷲尾さんに、封筒を届けたのは自分だと言った。
「福地さんへ渡すって、庄司さんが。俺は、そこを見ました」
「こちらへ」
帳場の脇へ寄った。鷲尾さんは透明な袋を置いた。空の封筒を渡し、庄司さんが黒い大きな字の紙を入れたことを話した。折ると読みにくいからと、机の端へ置いたところまで。
「これを、最後まで読みましたか」
「説明を訂正してほしいってところまでです。下は、見てない」
鷲尾さんは袋を裏返した。紙の後ろに、封筒の口が透けた。あの口を閉じなかった手が見えてきて、僕は、庄司さんが立って来たと付け加えた。眼鏡を掛け、自分で机へ戻った。孫へ出す握手の問題を一緒に解いた。夕食中ずっと出題することは断った。時計を見たのは戸を出てからで、五時二分だった。
「その後、池上さんが入った?」
「はい。俺は水原さんと戻って、水を買って。十五分まで一緒でした」
鷲尾さんの書く速さにつられ、電話も帯もまとめて言おうとした。玄関で無線が鳴った。香坂さんが外へ出て、同じ道の名を聞き返した。
「下の道が崩れています。車は通れません。こちらから下りないでください」
「救急車は」
亮が食堂の入口から訊いた。
「先に通過しています。病院へ向かっています」
宏和が玄関のガラスへ近づいた。車の鍵を手に持っていた。女将さんは別の道を伝えるため、香坂さんと軒下へ出た。帳場の電話がまた鳴り、僕の携帯から電波の表示が消えた。
「ここから先も、今、話してください。車のことは後で伺います」
鷲尾さんに言われ、僕は携帯を机へ置いた。
「電話は拓海が持ってきました。帯で巻いて。俺も、受話器を支えた」
鷲尾さんは灰色の本体へ目を移した。
「運んでいる所を見たんですね」
「はい。福地さんへ、封筒も帯も渡しました」
「それより前は」
四時五十二分には駐在へ行くと言って、五時十五分には戻っていた。その間を言おうとしたら、鷲尾さんが、見たところだけで大丈夫です、と言った。
僕は女将さんの電話と、しのぶさんが資料室へ持っていった紙を話した。誰が何を書いたかは見ていない。
帳場の向こうで、陶子さんが写真帳を袋へ入れていた。
「返すとこだけ見てもらいたくて。私は隣で写真を選んでたから」
なずなさんは両手を膝に置いた。
「戸を開けた時、二人とも中にいた。庄司さんは椅子の所で、顔が下へ。写真帳を返そうとして、そこで肩が床へ」
「二人というのは」
「福地さんと、水原さん」
鷲尾さんは写真帳ではなく、なずなさんへ椅子を寄せた。
「二人の姿は見たんですね」
「福地さんが紙を。水原さんは椅子の後ろで。手は、よく。陶子が来てから、私、戸を押さえてました」
僕はもう一つ聞きたかった。二人が入る前に、庄司さんはどんなふうにいたのだろう。鷲尾さんが彼女に名前を確かめていて、僕は食堂へ戻った。
食堂へ戻る途中で、宏和に会った。
「車の場所は大丈夫だって。俺が見に行くのは駄目だってさ。鍵、誰に預けたらいいのかも、聞いてなかった」
彼はポケットへ鍵を押し込んだ。亮の箸袋は細く折られ、拓海の席は空だった。向かいの小部屋から声がしていた。
「拓海は」
「鷲尾さんに」
僕は携帯に、封筒、と打った。次に福地さんの名を入れ、疑問符をつけた。庄司さんが封筒の口を広げていた。福地君へ、と言った相手が、さっきは自分から拓海へ預けた物だと言った。
読み返す前に母の宛先を開いた。道が崩れて帰れない。それを書いて保存すると、封筒の二文字もまだ残っていた。
しのぶさんが食堂の入口から女将さんを呼んだ。まだ書かれていない費用の紙を持っていた。
「笠原さん、もう厨房?」
「ええ。先にお食事を」
「月曜、向こうへ説明するんです。返金できない会場代と、私の分は別にしてって。言っただけじゃ経理に出せないの」
福地さんが帳場から来た。主催へ電話するように言いましたよね、としのぶさんへ声をかけた。
「しましたよ。だから返事を待ってたの。あなたの字が欲しくて、立って待ってたんじゃありません。この紙一枚、まだできてない」
しのぶさんは携帯を出した。鷲尾さんが小部屋から戻ってきて、その時に資料室にいた人を訊いた。
「釜の写真、撮ったの。これと一緒に送るつもりで」
画面の下に五時十二分とあった。蓋の向こうで、福地さんが白い紙の端を押さえていた。戸口に拓海がいた。抱えた灰色の電話へ黒い帯が回り、金具の端が小指から垂れていた。
「ここで呼ばれて、廊下へ出たの。私の費用も一緒にしないでくれって。戻ったら二人ともいなくて」
亮が椅子を離れた。写真の時刻へ顔を近づけた。
「五時十二分。俺、湯ん中だ」
僕は写真の電話を見ていた。三分後に受話器を支えた、僕の指には何も巻かれていなかった。
拓海が小部屋から来た。鷲尾さんの横を通りかけ、画面を見て止まった。
「それ、お前の帯だよな」
亮が訊いた。
「うん。首に使った」
しのぶさんの携帯が下がった。
「庄司さんに。俺が掛けて、引いた。先生、離してって、俺も言った。倒れたから、外した」
宏和の足が椅子の脚に当たった。亮は拓海を見ていた。
「俺、お前、忘れ物取りに行ったんだと思ってた」
拓海は顔を上げた。
「電話が通じないって言ったじゃん」
僕が言うと、拓海は白い封筒が置かれていた方を見た。
「母へ掛けるって、手が来たから。俺が取って持って出た」
「じゃ、壊れてないの」
「分かんない。直しにって言えば運べると思った」
福地さんが、別で聞いた方が、と鷲尾さんへ言った。拓海はそちらへ向かなかった。
鷲尾さんが、その時のことも順に伺います、と言った。拓海は頷いたが、小部屋へ足を向けなかった。
「俺がやったんです。下で福地さんに言った。紙のことを話してくれるって。帯も渡した」
「それは、俺、見た」
亮は僕へ向かなかった。
「拓海、どんなふうに使ったんだよ」
拓海の右手が椅子の背を持った。
「まだ、みんなには、話してない」
「じゃ、いま言えよ」
拓海が口を開いた。鷲尾さんが二人の間へ来た。
「こちらで初めから伺います。森野さんも、後でお話を続けてください」
亮は椅子へ戻った。拓海は小部屋へ入る前に一度こちらを向いた。僕は水を机へ置いた。
しのぶさんは鷲尾さんの求めに応じて、携帯をもう一度開いた。食堂へ盆が運ばれてきたので、宏和は空いていた拓海の席からおしぼりの盆をどけた。