山を下りるにはまだ早い

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CHAPTER 08 / 21

第八章 雨の二人

宏和と部屋へ上がり、濡れたシャツを脱いだ。背中から布が離れると、ようやく息を大きく吸えた。窓の外は木の幹も見えなかった。
 僕が亮のリュックから大きい浴衣を出すと、宏和はその下の上着を取った。

「お前のタオルもいるだろ」
「風呂に置いてきた」
「じゃ、後で。先に亮の」

 彼は自分の上着へ腕を通した。僕は長袖を着た。四人で荷物を開けていた座卓を、二人で回って出た。
 下へ戻ると、拓海が四人分の箸袋を並べていた。亮は上着を受け取り、ありがとう、と言った。着ないで膝へ広げた。胸を押していたときは両手が重なっていた。今は、その両方の掌に何もなかった。

 六時五十六分に、濡れた傘を持つ男性と、髪を短く結んだ女性が来た。

「槙沢署の香坂です。こちらが鷲尾。最初に見つけた方と、通報した方から伺います」

 宏和と水原さんが立った。福地さんは現場まで案内すると言い、鷲尾さんと渡り廊下へ向かった。
 女将さんがおしぼりを出す間に、僕も帳場へ行った。灰色の電話があった。白い封筒はなく、警察へ渡したと教えられた。

「青凪君も、あとで。先に食べていてください」

 戻ってきた鷲尾さんに、封筒を届けたのは自分だと言った。

「福地さんへ渡すって、庄司さんが。俺は、そこを見ました」
「こちらへ」

 帳場の脇へ寄った。鷲尾さんは透明な袋を置いた。空の封筒を渡し、庄司さんが黒い大きな字の紙を入れたことを話した。折ると読みにくいからと、机の端へ置いたところまで。

「これを、最後まで読みましたか」
「説明を訂正してほしいってところまでです。下は、見てない」

 鷲尾さんは袋を裏返した。紙の後ろに、封筒の口が透けた。あの口を閉じなかった手が見えてきて、僕は、庄司さんが立って来たと付け加えた。眼鏡を掛け、自分で机へ戻った。孫へ出す握手の問題を一緒に解いた。夕食中ずっと出題することは断った。時計を見たのは戸を出てからで、五時二分だった。

「その後、池上さんが入った?」
「はい。俺は水原さんと戻って、水を買って。十五分まで一緒でした」

 鷲尾さんの書く速さにつられ、電話も帯もまとめて言おうとした。玄関で無線が鳴った。香坂さんが外へ出て、同じ道の名を聞き返した。

「下の道が崩れています。車は通れません。こちらから下りないでください」
「救急車は」

 亮が食堂の入口から訊いた。

「先に通過しています。病院へ向かっています」

 宏和が玄関のガラスへ近づいた。車の鍵を手に持っていた。女将さんは別の道を伝えるため、香坂さんと軒下へ出た。帳場の電話がまた鳴り、僕の携帯から電波の表示が消えた。

「ここから先も、今、話してください。車のことは後で伺います」
 鷲尾さんに言われ、僕は携帯を机へ置いた。
「電話は拓海が持ってきました。帯で巻いて。俺も、受話器を支えた」
 鷲尾さんは灰色の本体へ目を移した。
「運んでいる所を見たんですね」
「はい。福地さんへ、封筒も帯も渡しました」
「それより前は」
 四時五十二分には駐在へ行くと言って、五時十五分には戻っていた。その間を言おうとしたら、鷲尾さんが、見たところだけで大丈夫です、と言った。
 僕は女将さんの電話と、しのぶさんが資料室へ持っていった紙を話した。誰が何を書いたかは見ていない。
 帳場の向こうで、陶子さんが写真帳を袋へ入れていた。
「返すとこだけ見てもらいたくて。私は隣で写真を選んでたから」
 なずなさんは両手を膝に置いた。
「戸を開けた時、二人とも中にいた。庄司さんは椅子の所で、顔が下へ。写真帳を返そうとして、そこで肩が床へ」
「二人というのは」
「福地さんと、水原さん」
 鷲尾さんは写真帳ではなく、なずなさんへ椅子を寄せた。
「二人の姿は見たんですね」
「福地さんが紙を。水原さんは椅子の後ろで。手は、よく。陶子が来てから、私、戸を押さえてました」
 僕はもう一つ聞きたかった。二人が入る前に、庄司さんはどんなふうにいたのだろう。鷲尾さんが彼女に名前を確かめていて、僕は食堂へ戻った。

 食堂へ戻る途中で、宏和に会った。

「車の場所は大丈夫だって。俺が見に行くのは駄目だってさ。鍵、誰に預けたらいいのかも、聞いてなかった」

 彼はポケットへ鍵を押し込んだ。亮の箸袋は細く折られ、拓海の席は空だった。向かいの小部屋から声がしていた。

「拓海は」
「鷲尾さんに」

 僕は携帯に、封筒、と打った。次に福地さんの名を入れ、疑問符をつけた。庄司さんが封筒の口を広げていた。福地君へ、と言った相手が、さっきは自分から拓海へ預けた物だと言った。
 読み返す前に母の宛先を開いた。道が崩れて帰れない。それを書いて保存すると、封筒の二文字もまだ残っていた。
 しのぶさんが食堂の入口から女将さんを呼んだ。まだ書かれていない費用の紙を持っていた。
「笠原さん、もう厨房?」
「ええ。先にお食事を」
「月曜、向こうへ説明するんです。返金できない会場代と、私の分は別にしてって。言っただけじゃ経理に出せないの」
 福地さんが帳場から来た。主催へ電話するように言いましたよね、としのぶさんへ声をかけた。
「しましたよ。だから返事を待ってたの。あなたの字が欲しくて、立って待ってたんじゃありません。この紙一枚、まだできてない」
 しのぶさんは携帯を出した。鷲尾さんが小部屋から戻ってきて、その時に資料室にいた人を訊いた。
「釜の写真、撮ったの。これと一緒に送るつもりで」
 画面の下に五時十二分とあった。蓋の向こうで、福地さんが白い紙の端を押さえていた。戸口に拓海がいた。抱えた灰色の電話へ黒い帯が回り、金具の端が小指から垂れていた。
「ここで呼ばれて、廊下へ出たの。私の費用も一緒にしないでくれって。戻ったら二人ともいなくて」
 亮が椅子を離れた。写真の時刻へ顔を近づけた。
「五時十二分。俺、湯ん中だ」
 僕は写真の電話を見ていた。三分後に受話器を支えた、僕の指には何も巻かれていなかった。
 拓海が小部屋から来た。鷲尾さんの横を通りかけ、画面を見て止まった。
「それ、お前の帯だよな」
 亮が訊いた。
「うん。首に使った」
 しのぶさんの携帯が下がった。
「庄司さんに。俺が掛けて、引いた。先生、離してって、俺も言った。倒れたから、外した」
 宏和の足が椅子の脚に当たった。亮は拓海を見ていた。
「俺、お前、忘れ物取りに行ったんだと思ってた」
 拓海は顔を上げた。
「電話が通じないって言ったじゃん」
 僕が言うと、拓海は白い封筒が置かれていた方を見た。
「母へ掛けるって、手が来たから。俺が取って持って出た」
「じゃ、壊れてないの」
「分かんない。直しにって言えば運べると思った」
 福地さんが、別で聞いた方が、と鷲尾さんへ言った。拓海はそちらへ向かなかった。
 鷲尾さんが、その時のことも順に伺います、と言った。拓海は頷いたが、小部屋へ足を向けなかった。
「俺がやったんです。下で福地さんに言った。紙のことを話してくれるって。帯も渡した」
「それは、俺、見た」
 亮は僕へ向かなかった。
「拓海、どんなふうに使ったんだよ」
 拓海の右手が椅子の背を持った。
「まだ、みんなには、話してない」
「じゃ、いま言えよ」
 拓海が口を開いた。鷲尾さんが二人の間へ来た。
「こちらで初めから伺います。森野さんも、後でお話を続けてください」
 亮は椅子へ戻った。拓海は小部屋へ入る前に一度こちらを向いた。僕は水を机へ置いた。
 しのぶさんは鷲尾さんの求めに応じて、携帯をもう一度開いた。食堂へ盆が運ばれてきたので、宏和は空いていた拓海の席からおしぼりの盆をどけた。

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目次

山を下りるにはまだ早い

  1. 01四人部屋
  2. 02並ぶ前
  3. 03二つの一階
  4. 04待っている答え
  5. 05先に買う
  6. 06湯の手前
  7. 07玄関
  8. 08雨の二人読書中
  9. 09骨
  10. 10返すもの
  11. 11まだ話している
  12. 12紙の向こう
  13. 13返してもらうもの
  14. 14隣へ座る
  15. 15下へ行く
  16. 16残した車
  17. 17九時の番号
  18. 18送られてきた紙
  19. 19後ろの席
  20. 20おかわり
  21. 21終章 四人分

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