宏和の車の紙には、店の番号が二つあった。
「こっちは営業所。こっち、事故の時の。返す日の変更で、こっちへ掛けていいか」
僕は紙へ顔を近づけた。二行の間に、宏和が引いた短い線があった。
「分からない。帳場で、外へ掛ける方、借りられるかだけは訊ける」
「俺が訊く。八時になったら」
宏和は番号を携帯へ入れた。僕はペンを持つ手と、腕の下にあった手を思い出した。水原さんは拓海の傷を押さえた。その時も、右の袖口が折れて白い裏が出ていた。
香坂さんは読書室の戸口にいた。帯が広げられ、机と木台の間に物差しが置かれていた。
「もう一度、手の所を見たいです」
「どの部分でしょう」
「紙を持ってる人。俺、福地さんの両手だと思って、亮にもそう言ったんです」
香坂さんは僕の顔を見た。
「手を見たのか、紙の上の顔を見たのか、分けて教えてください」
僕は顎だったと答えた。両側には指があった。名前を訊かれた時に、顔の方を持って帰った。
小部屋で端末が出された。水原さんは別の部屋にいた。古いノートも原稿も、ここにはなかった。
香坂さんが、必要な部分を確かめると言った。僕は最後まで、最初に見た画面を思い出した。
線が走る少し前から動いた。
水原さんが帯を下げ、庄司さんが眼鏡を掛け直す。立ちかけた肩をまた引く。そこまでは、彼女が端を持っていた。
福地さんが紙の角を取る。
『どこを消すんですか』
『その下です。先に。そこ、持っててください』
肩が二つ重なった。福地さんの袖が、水原さんの肩の内側へ来た。黒い端が袖の向こうへ滑った。
右の白い袖口が紙の端へ出た。ペンが二行を消した。
反対の角を持つ手は、そこへ近づかなかった。紙が揺れると、端を少し折って止めた。
紙の下で、庄司さんの右手首を取る指があった。
「この手首、俺が入った時も、水原さんが持ってました」
香坂さんはそこで止めた。
「陶子さんへ、下から持つよう言われて、放したところですか」
「はい。俺は、それを見た」
紙の右端の手はペンを持っていた。手首の下の手は、もう片方を押さえていた。
あの時の水原さんの右袖も、先が一つ折れて、白い裏が出ていた。
僕は自分の右手でペンを持つ形を作った。左は机へ置いた。そこへ庄司さんの手首を足すことはできた。後ろの帯まで、もう一本は出せなかった。
「水原さんの右手がペンで、左が手首なら」
声が止まった。福地さんの顎を見ていた。紙の両側に手があった。そこだけで、一人の両手にした。
「俺、二人の手を、一人のにしたんだ」
香坂さんは画面を動かした。線を引く手は紙の右端へ残り、反対の角は左側から引かれた。福地さんの顎も、そちらへ動いた。
同じ人の胸の前に、紙が収まっていたわけではなかった。
紙の下の指は庄司さんの右手首を取っていた。庄司さんの左手は、首の布にあった。福地さんの空いていた方の腕は、二つの肩の後ろへ回っていた。
『梢さんに、私から』
『電話は俺が掛けた。俺が言うから』
肩が後ろへ戻った。
水原さんのペンは、紙の右端にあった。
黒い端を持った手が、上へ動いた。
香坂さんはそこで閉じた。新しく足された手ではなかった。僕が二行の線と一緒に見た手だった。
「福地さんが、最後も」
「確認している行為については、お二人へそれぞれ伺っています」
「じゃ、水原さんは」
僕は言いかけた。彼女がいったん下げ、もう一度引いたところも、初めから入っていた。
「最後じゃなくても、引いたのは、あった」
香坂さんは頷いた。
「見えた区間のことと、病院で確かめることは、分けて記録しています」
僕は女将さんが帳場で受けた電話を話した。
「救急じゃなかったんですか。来るって、福地さんが」
香坂さんが女将さんの記録を出した。
読書室へ戻すのは、灰色の電話機だった。女将さんはそちらでは通じていると答えた。僕が風呂へ入る時には、まだ帳場に載っていた。
夕食の膳の数を厨房へ伝える声も聞いた。救急を誰かに頼む声ではなかった。
「四時台の方は、手紙を戻してほしいという用件です。笠原さんに伝えたと。こちらは、電話機です」
香坂さんが言った。僕は、笠原さんが帳面へ戻した折り目のある紙を思い出した。
「福地さんは、笠原さんに、何を」
「先に、笠原さんの話を伺います」
笠原さんは前掛けを外し、折り目のある紙を出した。
「千佳さんから預かって、俺が届けた。尚人君が、もう警察の用事はやめたいって。同じ物を二枚書いて、一枚に受け取った人の名前をもらった」
真島篤、とあった。
「目の前で書いてもらった。これ以上は無理だって。分かりましたって、返事を聞いて帰った」
笠原さんは今日の紙も置いた。こちらには福地篤とあった。
「千佳さんへ返さなかった。新聞が出て、俺が届けたって外で話してなかった。辞めるって言われた時は、厨房が一人足りなくなるから困るよって、先に」
厨房の中で皿の音がした。笠原さんは振り向かなかった。
福地さんは鷲尾さんと一緒に来た。拓海は別の部屋にいた。
鷲尾さんが、受け取った後のことを訊いた。
「上へ回しました」
「誰へ」
福地さんは紙へ指を出しかけ、袖を下ろした。
「その前に、俺が聞くつもりで。弟が昼に来ると思ってたんです。弁当を持ってくれば」
「届けた日から、渡すまでを伺います」
「あいつ、俺とは飯を食えたんですよ」
笠原さんが紙を袋へ戻そうとした。署名が折り目へ隠れた。
「だから、俺が聞いてから」
「渡してないのか」
福地さんは黙った。
「渡してません。俺のところに置いた。まず俺から話すつもりで」
鷲尾さんが書いた。
「今日、庄司さんからも、そのことを言われましたね」
画面の音は出されなかった。福地さんは頷いた。
「女将さんを呼ぶと言った。俺が話すって、言ったのに」
「帯を受け取った時のことを」
「水原さんが紙を書くから。俺は紙を持って、帯も。先生が手を電話へ出した」
福地さんは片手を机へ出しかけ、戻した。
「梢さんに俺がやったことを、見たまま言わせるって。尚人の手紙のことも。あの人は自分の指示だった方だけ言って、あとは俺へ」
「呼ぶのを止めたんですか」
「俺から言うからって。電話は、俺が掛けたので」
鷲尾さんはその返事を記録した。
「首から放してと言われたところも伺います」
福地さんは紙の方を見た。
「まず、俺が話せば」
笠原さんが袋を閉じた。鷲尾さんは紙の話へ戻らなかった。
亮へ最後の手のことを話した。
「水原さん、紙へ線を引いてた。もう片方で、庄司さんの手首を持ってて。紙の左だけが、福地さんの」
「じゃ、両手って」
「俺が。顎を見て、そう言った」
亮は椅子を引いた。座らなかった。
「俺が行った時の手も、同じの?」
「水原さんが、腕を持ってた。その前に引き直したのも、本当だった。福地さんが受け取って、その後も」
宏和が、帳場で電話を借りられると話した。
「八時に、俺が。外へ掛ける方」
僕は携帯へ時刻を入れた。拓海の事務所の番号は、まだ入っていなかった。
鷲尾さんが小部屋の戸を開け、僕らへ会うか訊いた。宏和は紙を折った。
僕は拓海に、誰が最後だったかを言いに行くつもりだった。
亮は席を動かさなかった。
「俺が待ってた時のこと、まだ、あいつから聞けてない」
僕は拓海が帯を掛けた時の話を、首へ使ったという一言から続けていなかった。
宏和が戸へ向かった。僕も行った。