山を下りるにはまだ早い

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CHAPTER 09 / 21

第九章 骨

拓海が戻ってくると、女将さんは笠原さんへ目を向けた。笠原さんが厨房の方を振り返り、女将さんは、出しましょう、と言った。
「お食事、召し上がれる分だけでも」
 拓海は宏和の引いた椅子へ座った。僕は箸を取った。魚の皿を置く間、亮は膝の上着を椅子の背へ掛けていた。
 僕は手を合わせた。いただきます、と言ったつもりだったが、自分の声は聞こえなかった。

 魚の腹を開くと、皮が一枚で取れた。骨を避けたところを口へ入れた。細いものが舌に当たり、箸が止まった。

 拓海が小皿を寄せた。

「出せば」

 僕は顔を上げた。小皿は煮物の横にあった。

「呑もうとするな。出せ」

 口から取って、皿へ置いた。拓海は自分の魚から背骨を外し、皿の端へ載せた。

「先にこれ取るんだよ。毎回、その食い方?」
「毎回じゃない」
「切身もあるしな」

 僕は彼を見た。彼は右手で味噌汁の蓋を取っていた。左手の包帯が机の縁へ触れ、すぐに膝へ戻った。

「手、大丈夫か」
「血は止まった。後で診てもらう。今、そっちへ行けなくなったから、来てもらうって」

 拓海は蓋を置いた。僕は自分の小皿へ骨を出した。

 香坂さんが食堂へ入ってきた。箸を持ったまま、僕は顔を上げた。

 庄司さんが亡くなったと告げられた。病院から連絡があったという。僕は彼女の手にあった無線を見た。通じない携帯を、膝の上へ置いていた。

 僕は、孫なら先に言うな、と笑った庄司さんを思い出した。夕食の後には孫へ電話する。家で一緒に食べるのは明日。今日の予定も、明日の予定も、僕よりよく決まっていた人だった。
 亮は首を動かさなかった。膝に置いた右手を、左手で覆っていた。

「病院には、着いたんですよね」

 僕が訊くと、香坂さんは頷いた。そこへ着いたら、と思っていたことは言わなかった。亮は椅子を少し引いた。立たずに戻し、膝へ目を落とした。

 香坂さんが廊下へ出た。拓海は味噌汁の椀へ手を戻した。僕の前には、まだ身の残った魚があった。

 亮の魚は、もう頭だけになっていた。

「速すぎるだろ」

 拓海が言うと、亮は皿を見た。

「食ったんだな、俺」

 女将さんが、もう一匹、と訊いた。亮は、はい、と答え、すぐに、いや、と言いかけた。

「まだありますから」

 皿が下げられた。亮は両手を机の下へ下ろした。僕は彼の前へ水を寄せたが、手は出てこなかった。

 向こうの席で、小鈴さんが椀を持ち上げた。

「これ、何でしたっけ」
「蕪」

 澄さんが答えた。小鈴さんは笑いかけ、途中で口を押さえた。

「さっき、聞いたのに。ごめん」

 澄さんは水のコップをその前へ置いた。小鈴さんは取らず、椀を下ろした。

 なずなさんは何度か箸を持ち直していた。陶子さんが椀を近づけると、蓋の上へ箸を置いた。

「私、足音の話、しなきゃよかった」
「関係ないよ」
「それは分かってる」

 陶子さんは口を閉じた。なずなさんの椀の蓋を取ると、自分の椀へ目を戻した。

 水原さんは膝に手帳を載せていた。しのぶさんへ、庄司さんとお知り合いでしたね、と声をかける。しのぶさんは煮物を飲み込んでから、仕事で何度か、と答えた。

「最近も、相談を受けました?」
「警察には話します」
「主催の方からの要求なら、訂正の記事にも関わりますから」
「少し、食べさせて。さっきから何も入ってこないの」

 しのぶさんは自分の椀へ手を戻した。水原さんは、すみません、と言い、手帳を閉じた。編集部へも、と口を開きかけた。
 しのぶさんは箸を持った。水原さんは閉じた手帳を膝へ戻した。机へ置き直した時、頁から付箋がはみ出していた。

「あの紙、今日来たものじゃないんですよね」

 陶子さんが訊いた。

「ええ。私が昼にお借りしたコピーです。庄司さんの家へ届いたのは、少し前」
「じゃあ、今日ここへ来るって、書いてあったわけじゃ」
「そのようなことは、書いてありません」

 水原さんはそう答え、机へ手帳を載せた。福地さんがタオルを持って食堂へ来た。小鈴さんに一枚渡し、濡れた浴衣の袖を見て、冷えますよ、と言った。

「携帯、充電しておいてください。通じるようになったときに、使えるように」

 宏和が椅子の下の袋を取った。僕へ充電器を見せる。

「使う?」
「俺、まだある」
「そう」

 袋へ入れかけ、やめた。近くの壁の差込み口を見る。

「誰か、使いますか」

 小鈴さんが手を上げた。

「私、お願い。だいぶ減っちゃった」

 宏和は立って、線をつないだ。肩が少し下がった。小鈴さんが椅子を引き寄せようとすると、澄さんは、食べてからでいいでしょう、とその皿を指した。

「うん。後で」

 小鈴さんは携帯を壁際へ置いた。澄さんの携帯は、伏せたまま皿の横にあった。

 新しい魚を持った笠原さんが来た。亮の前へ置き、頭の下、と箸を入れる場所を教えた。亮は探し、少しだけ身を取った。

「あ、うまい」

 笠原さんは頷いた。亮の箸がもう一度そこへ入るのを見てから、厨房へ戻った。

 僕も探したが、魚の骨がばらばらになっていた。

「次だな」

 拓海が言った。

「次って」
「次に魚食うとき」

 僕は皿の端へ骨を寄せた。

「池上さん」

 水原さんが拓海を呼んだ。彼は箸を止めた。

「千佳さんの息子さん、ですね。お母様と、何度か連絡を取っているんです」
「知ってます」
「今日のお話を、お母様にもお伝えしたくて」
「母に伝えてください」

 水原さんは帳場の方へ目をやった。

「今、連絡できませんから。庄司さんとは、どこまでお話を――」
「ここで?」

 水原さんは周りを見た。椅子を引いて立ったが、拓海は座ったまま、箸を皿の上へ揃えた。

「少し、外で」
「俺、まだ食べてるんですけど」

 彼女は止まった。拓海は残っていた身を一口食べ、飲み込んでから立った。僕の椅子が邪魔だったので、横へずらした。

 食堂の戸口で、水原さんが手帳を開いた。

「あまり時間がないんです。今日お話しできるはずだった方が、亡くなってしまって」
「俺には、時間があると思うんですか」
「そういう意味では」
「じゃあ、何の話ですか」

 亮が箸を置いた。僕が顔を向けたときには、もう立っていた。

「今じゃなくていいだろ」
「俺が話してる」

 拓海が片手を上げた。亮は止まり、椅子の背へ手をついた。

「十二年前の記事です。私が書いた。お母様から、あなたもご存じだと」
「知ってます」
「当時の説明と違う資料が出てきています。訂正のために、確認を」
「十二年、確認してたんですか」

 水原さんの手が手帳の頁に載った。

「最近まで、十分に調べていませんでした。去年、福地さんから改めて連絡を頂いて」
「三回目でね」
「ええ。一度目は、昔の資料が揃わないとお返事しました」

 福地さんが入口まで来た。タオルが腕に残っていた。

「そこは、もういいでしょう。今、進めている話を」

 拓海は福地さんを見たが、答えなかった。僕は椅子を引き、戸口へ行った。

「拓海。お前のお母さん、ここで働いてたの?」

 彼は僕を見た。

「俺が小学校の頃。そこも、知らなかった?」

 僕は首を横に振った。彼は手帳の方へ顔を戻し、また僕を見た。

「福地さんの弟が死んだとき、母ちゃんのせいになった。何かを頼んで、会いに行かせたって」
「昼に、違うって言ってたのは」
「そのこと。助けてくれって言われたんだよ。母ちゃんは。怖くなったから、もう警察の用事はやめたいって」

 水原さんが手帳を閉じた。

「警察は、協力してもらっていたことを説明しませんでした。相手との揉み合いで転落した、と。千佳さんの個人的な用事で出向いたという説明を、そのまま私が記事にしました」
「名前も」
「はい。出しました」

 拓海は食堂の中を一度見た。亮は立ったままだった。宏和は椅子へ戻っていた。

「書き直したら、前の家に届くんですか。母ちゃん、辞めたとき、挨拶もできなくて。辞めるって、先に電話したの、こっちなんですよ」

 水原さんは答えなかった。福地さんが、池上君、と呼び、肩へ手を伸ばしかけた。拓海は横へずれた。

「触らないでください」

 福地さんは手を下ろした。女将さんが厨房から顔を出し、千佳さんが辞めたとき、と言いかけた。

「女将さんの話は、今してないです」

 女将さんは戸口に止まった。

 水原さんは手帳を鞄へ入れた。

「記事は直してほしいと、仰っています。昔の住所も、今の勤め先も出さない。その条件を守ります。原稿も、お母様へ先にお送りします」
「今、仕事してるんです。母ちゃん」
「伺っています」
「邪魔しないでください」

 水原さんは頷いた。拓海は返事を待たず席へ戻った。僕も隣へ座った。亮はまだ椅子の背を掴んでいた。

「座れよ」
「さっき、何で止めた」
「俺の話だから」
「ああ、そう」

 亮が座った。椅子が大きな音を立てた。魚の皿を引こうとした手を止め、左で引いた。拓海が皿を持ち上げかけた。
「俺が食うから」
 亮が言った。拓海は皿を置いた。

 宏和が卓上の水差しを少し持ち上げた。拓海のコップは空だった。拓海が手を出すと、宏和は注がずに渡した。

「挨拶も、できなかったんだ」

 僕が言うと、拓海は、うん、と答えた。水を半分まで入れ、水差しを机の真ん中へ戻した。

「出たら、前に住んでたとこへも届くのかな。直った記事」
「俺も母ちゃんに言った。一回見に行こうって」
「帰るの?」
「見に行くだけ。仕事が決まった頃、休みまで取ってさ。何しにって言われた」

 水を注いだときの滴が、コップの下にも残っていた。拓海はおしぼりを探し、盆にはないと気づいた。

「その日は職場の人と飯行くから、駄目だって。別の日にしようとも言われなくて。楽しみにしてたんだよ、そっちは」

 僕は椎茸の大袋を思い出した。二袋とも、その職場の人へ渡す。

「買ってきたの、明日、ちゃんと渡せるといいな」

 僕が言うと、拓海は顔を上げた。

「うん。あれ、母ちゃんが買ってくるって言ったことになってるから」

 言ってから、水を飲んだ。亮は魚へ箸を入れ、まだ身のあるところを探していた。

「福地さんは、去年から?」
「うん。水原さんに取り次いで、会うとこも探してくれた。最初は母ちゃんの職場で、休憩のときに聞くつもりだったんだって」
「母さんが、そこでいいって?」
「言った。でも、仕事辞めたくないって言ってるでしょって、福地さんが。俺も、休憩なら早いって思ってたんだけど」

 拓海はコップを皿から離した。

「断ったらまた後回しになると思って、母ちゃん、もう職場でいいって。俺にはそう言ったのに、あの人は別の場所にした。俺より聞いてたんだよ。そういうところは」

 宏和が机に広がった水へ目を落とした。拓海はコップを持ち、飲んだ。

「旅行も、その話のためにここにしたの?」

 僕が訊くと、彼は首を振った。

「来てみたかった。どんなところか。みんなでも来たかったし」
「俺、ほかの候補も出したよな」

 宏和が言った。

「うん。俺も、ここがいいって返しただろ」
「分かってる」
「お前のせいじゃない」

 宏和は拓海を見た。拓海は口を閉じ、少しして、悪い、と言った。

「そういう話じゃなかった」

 宏和は返事をしなかった。水差しを自分の方へ引き寄せ、コップへ注いだ。

 亮が魚の頭の下へ箸を入れた。身が少し取れ、食べた。僕は自分の皿へ目を戻した。骨の間に、まだ食べられるところがあった。

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目次

山を下りるにはまだ早い

  1. 01四人部屋
  2. 02並ぶ前
  3. 03二つの一階
  4. 04待っている答え
  5. 05先に買う
  6. 06湯の手前
  7. 07玄関
  8. 08雨の二人
  9. 09骨読書中
  10. 10返すもの
  11. 11まだ話している
  12. 12紙の向こう
  13. 13返してもらうもの
  14. 14隣へ座る
  15. 15下へ行く
  16. 16残した車
  17. 17九時の番号
  18. 18送られてきた紙
  19. 19後ろの席
  20. 20おかわり
  21. 21終章 四人分

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