拓海が戻ってくると、女将さんは笠原さんへ目を向けた。笠原さんが厨房の方を振り返り、女将さんは、出しましょう、と言った。
「お食事、召し上がれる分だけでも」
拓海は宏和の引いた椅子へ座った。僕は箸を取った。魚の皿を置く間、亮は膝の上着を椅子の背へ掛けていた。
僕は手を合わせた。いただきます、と言ったつもりだったが、自分の声は聞こえなかった。
魚の腹を開くと、皮が一枚で取れた。骨を避けたところを口へ入れた。細いものが舌に当たり、箸が止まった。
拓海が小皿を寄せた。
「出せば」
僕は顔を上げた。小皿は煮物の横にあった。
「呑もうとするな。出せ」
口から取って、皿へ置いた。拓海は自分の魚から背骨を外し、皿の端へ載せた。
「先にこれ取るんだよ。毎回、その食い方?」
「毎回じゃない」
「切身もあるしな」
僕は彼を見た。彼は右手で味噌汁の蓋を取っていた。左手の包帯が机の縁へ触れ、すぐに膝へ戻った。
「手、大丈夫か」
「血は止まった。後で診てもらう。今、そっちへ行けなくなったから、来てもらうって」
拓海は蓋を置いた。僕は自分の小皿へ骨を出した。
香坂さんが食堂へ入ってきた。箸を持ったまま、僕は顔を上げた。
庄司さんが亡くなったと告げられた。病院から連絡があったという。僕は彼女の手にあった無線を見た。通じない携帯を、膝の上へ置いていた。
僕は、孫なら先に言うな、と笑った庄司さんを思い出した。夕食の後には孫へ電話する。家で一緒に食べるのは明日。今日の予定も、明日の予定も、僕よりよく決まっていた人だった。
亮は首を動かさなかった。膝に置いた右手を、左手で覆っていた。
「病院には、着いたんですよね」
僕が訊くと、香坂さんは頷いた。そこへ着いたら、と思っていたことは言わなかった。亮は椅子を少し引いた。立たずに戻し、膝へ目を落とした。
香坂さんが廊下へ出た。拓海は味噌汁の椀へ手を戻した。僕の前には、まだ身の残った魚があった。
亮の魚は、もう頭だけになっていた。
「速すぎるだろ」
拓海が言うと、亮は皿を見た。
「食ったんだな、俺」
女将さんが、もう一匹、と訊いた。亮は、はい、と答え、すぐに、いや、と言いかけた。
「まだありますから」
皿が下げられた。亮は両手を机の下へ下ろした。僕は彼の前へ水を寄せたが、手は出てこなかった。
向こうの席で、小鈴さんが椀を持ち上げた。
「これ、何でしたっけ」
「蕪」
澄さんが答えた。小鈴さんは笑いかけ、途中で口を押さえた。
「さっき、聞いたのに。ごめん」
澄さんは水のコップをその前へ置いた。小鈴さんは取らず、椀を下ろした。
なずなさんは何度か箸を持ち直していた。陶子さんが椀を近づけると、蓋の上へ箸を置いた。
「私、足音の話、しなきゃよかった」
「関係ないよ」
「それは分かってる」
陶子さんは口を閉じた。なずなさんの椀の蓋を取ると、自分の椀へ目を戻した。
水原さんは膝に手帳を載せていた。しのぶさんへ、庄司さんとお知り合いでしたね、と声をかける。しのぶさんは煮物を飲み込んでから、仕事で何度か、と答えた。
「最近も、相談を受けました?」
「警察には話します」
「主催の方からの要求なら、訂正の記事にも関わりますから」
「少し、食べさせて。さっきから何も入ってこないの」
しのぶさんは自分の椀へ手を戻した。水原さんは、すみません、と言い、手帳を閉じた。編集部へも、と口を開きかけた。
しのぶさんは箸を持った。水原さんは閉じた手帳を膝へ戻した。机へ置き直した時、頁から付箋がはみ出していた。
「あの紙、今日来たものじゃないんですよね」
陶子さんが訊いた。
「ええ。私が昼にお借りしたコピーです。庄司さんの家へ届いたのは、少し前」
「じゃあ、今日ここへ来るって、書いてあったわけじゃ」
「そのようなことは、書いてありません」
水原さんはそう答え、机へ手帳を載せた。福地さんがタオルを持って食堂へ来た。小鈴さんに一枚渡し、濡れた浴衣の袖を見て、冷えますよ、と言った。
「携帯、充電しておいてください。通じるようになったときに、使えるように」
宏和が椅子の下の袋を取った。僕へ充電器を見せる。
「使う?」
「俺、まだある」
「そう」
袋へ入れかけ、やめた。近くの壁の差込み口を見る。
「誰か、使いますか」
小鈴さんが手を上げた。
「私、お願い。だいぶ減っちゃった」
宏和は立って、線をつないだ。肩が少し下がった。小鈴さんが椅子を引き寄せようとすると、澄さんは、食べてからでいいでしょう、とその皿を指した。
「うん。後で」
小鈴さんは携帯を壁際へ置いた。澄さんの携帯は、伏せたまま皿の横にあった。
新しい魚を持った笠原さんが来た。亮の前へ置き、頭の下、と箸を入れる場所を教えた。亮は探し、少しだけ身を取った。
「あ、うまい」
笠原さんは頷いた。亮の箸がもう一度そこへ入るのを見てから、厨房へ戻った。
僕も探したが、魚の骨がばらばらになっていた。
「次だな」
拓海が言った。
「次って」
「次に魚食うとき」
僕は皿の端へ骨を寄せた。
「池上さん」
水原さんが拓海を呼んだ。彼は箸を止めた。
「千佳さんの息子さん、ですね。お母様と、何度か連絡を取っているんです」
「知ってます」
「今日のお話を、お母様にもお伝えしたくて」
「母に伝えてください」
水原さんは帳場の方へ目をやった。
「今、連絡できませんから。庄司さんとは、どこまでお話を――」
「ここで?」
水原さんは周りを見た。椅子を引いて立ったが、拓海は座ったまま、箸を皿の上へ揃えた。
「少し、外で」
「俺、まだ食べてるんですけど」
彼女は止まった。拓海は残っていた身を一口食べ、飲み込んでから立った。僕の椅子が邪魔だったので、横へずらした。
食堂の戸口で、水原さんが手帳を開いた。
「あまり時間がないんです。今日お話しできるはずだった方が、亡くなってしまって」
「俺には、時間があると思うんですか」
「そういう意味では」
「じゃあ、何の話ですか」
亮が箸を置いた。僕が顔を向けたときには、もう立っていた。
「今じゃなくていいだろ」
「俺が話してる」
拓海が片手を上げた。亮は止まり、椅子の背へ手をついた。
「十二年前の記事です。私が書いた。お母様から、あなたもご存じだと」
「知ってます」
「当時の説明と違う資料が出てきています。訂正のために、確認を」
「十二年、確認してたんですか」
水原さんの手が手帳の頁に載った。
「最近まで、十分に調べていませんでした。去年、福地さんから改めて連絡を頂いて」
「三回目でね」
「ええ。一度目は、昔の資料が揃わないとお返事しました」
福地さんが入口まで来た。タオルが腕に残っていた。
「そこは、もういいでしょう。今、進めている話を」
拓海は福地さんを見たが、答えなかった。僕は椅子を引き、戸口へ行った。
「拓海。お前のお母さん、ここで働いてたの?」
彼は僕を見た。
「俺が小学校の頃。そこも、知らなかった?」
僕は首を横に振った。彼は手帳の方へ顔を戻し、また僕を見た。
「福地さんの弟が死んだとき、母ちゃんのせいになった。何かを頼んで、会いに行かせたって」
「昼に、違うって言ってたのは」
「そのこと。助けてくれって言われたんだよ。母ちゃんは。怖くなったから、もう警察の用事はやめたいって」
水原さんが手帳を閉じた。
「警察は、協力してもらっていたことを説明しませんでした。相手との揉み合いで転落した、と。千佳さんの個人的な用事で出向いたという説明を、そのまま私が記事にしました」
「名前も」
「はい。出しました」
拓海は食堂の中を一度見た。亮は立ったままだった。宏和は椅子へ戻っていた。
「書き直したら、前の家に届くんですか。母ちゃん、辞めたとき、挨拶もできなくて。辞めるって、先に電話したの、こっちなんですよ」
水原さんは答えなかった。福地さんが、池上君、と呼び、肩へ手を伸ばしかけた。拓海は横へずれた。
「触らないでください」
福地さんは手を下ろした。女将さんが厨房から顔を出し、千佳さんが辞めたとき、と言いかけた。
「女将さんの話は、今してないです」
女将さんは戸口に止まった。
水原さんは手帳を鞄へ入れた。
「記事は直してほしいと、仰っています。昔の住所も、今の勤め先も出さない。その条件を守ります。原稿も、お母様へ先にお送りします」
「今、仕事してるんです。母ちゃん」
「伺っています」
「邪魔しないでください」
水原さんは頷いた。拓海は返事を待たず席へ戻った。僕も隣へ座った。亮はまだ椅子の背を掴んでいた。
「座れよ」
「さっき、何で止めた」
「俺の話だから」
「ああ、そう」
亮が座った。椅子が大きな音を立てた。魚の皿を引こうとした手を止め、左で引いた。拓海が皿を持ち上げかけた。
「俺が食うから」
亮が言った。拓海は皿を置いた。
宏和が卓上の水差しを少し持ち上げた。拓海のコップは空だった。拓海が手を出すと、宏和は注がずに渡した。
「挨拶も、できなかったんだ」
僕が言うと、拓海は、うん、と答えた。水を半分まで入れ、水差しを机の真ん中へ戻した。
「出たら、前に住んでたとこへも届くのかな。直った記事」
「俺も母ちゃんに言った。一回見に行こうって」
「帰るの?」
「見に行くだけ。仕事が決まった頃、休みまで取ってさ。何しにって言われた」
水を注いだときの滴が、コップの下にも残っていた。拓海はおしぼりを探し、盆にはないと気づいた。
「その日は職場の人と飯行くから、駄目だって。別の日にしようとも言われなくて。楽しみにしてたんだよ、そっちは」
僕は椎茸の大袋を思い出した。二袋とも、その職場の人へ渡す。
「買ってきたの、明日、ちゃんと渡せるといいな」
僕が言うと、拓海は顔を上げた。
「うん。あれ、母ちゃんが買ってくるって言ったことになってるから」
言ってから、水を飲んだ。亮は魚へ箸を入れ、まだ身のあるところを探していた。
「福地さんは、去年から?」
「うん。水原さんに取り次いで、会うとこも探してくれた。最初は母ちゃんの職場で、休憩のときに聞くつもりだったんだって」
「母さんが、そこでいいって?」
「言った。でも、仕事辞めたくないって言ってるでしょって、福地さんが。俺も、休憩なら早いって思ってたんだけど」
拓海はコップを皿から離した。
「断ったらまた後回しになると思って、母ちゃん、もう職場でいいって。俺にはそう言ったのに、あの人は別の場所にした。俺より聞いてたんだよ。そういうところは」
宏和が机に広がった水へ目を落とした。拓海はコップを持ち、飲んだ。
「旅行も、その話のためにここにしたの?」
僕が訊くと、彼は首を振った。
「来てみたかった。どんなところか。みんなでも来たかったし」
「俺、ほかの候補も出したよな」
宏和が言った。
「うん。俺も、ここがいいって返しただろ」
「分かってる」
「お前のせいじゃない」
宏和は拓海を見た。拓海は口を閉じ、少しして、悪い、と言った。
「そういう話じゃなかった」
宏和は返事をしなかった。水差しを自分の方へ引き寄せ、コップへ注いだ。
亮が魚の頭の下へ箸を入れた。身が少し取れ、食べた。僕は自分の皿へ目を戻した。骨の間に、まだ食べられるところがあった。