水原さんの控えは、透明な袋に入っていた。下の二行には赤い線があった。元の紙は読書室から警察が運び出していた。
「これも庄司さんが?」
僕が訊くと、水原さんは線へ目を落とした。
「消すと決めたのは私です。お母様に今の気持ちを確かめていませんでした」
「じゃあ、もう」
「使いません。池上さんへ、そこだけでも」
香坂さんが袋を戻した。水原さんは向かいの小部屋へ案内され、戸が閉まった。福地さんも、別の警察官と帳場の奥へ入っていた。
食堂には宏和と亮がいた。宏和は机へ紙を広げ、借りた車の店が朝何時に開くか調べていた。
「八時から。先に借りた電話で掛ける」
「拓海は?」
「鷲尾さんが聞いてる」
亮は水を飲んだ。蓋は卓に置いたままだった。
「手、いま、診てもらう人を呼んでるって」
拓海が帯を首へ掛けたことは聞いた。倒れてから外したことも。
その後で、庄司さんは話したという。
僕は帳場の方へ戻った。香坂さんが読書室から出てきた。
「俺が入ったとこ、映ってたって」
「はい。前を通った方が青凪さんか、確かめたいので」
「初めから見せてもらえますか。拓海の後で、どんなふうに話してたのか」
香坂さんは僕を見た。
「人が倒れるところも入っています。確認している記録です。今、見られますか」
僕は頷いた。顔を見れば、返事の声が誰のものか、分かると思った。
小部屋に水原さんはいなかった。香坂さんと、記録を扱う制服の人がいた。
机に端末が置かれた。元の記録を保全して、確認用に出したものだと聞いた。回収へ戻った時から、止めるよう言われたところまで、一つの記録だった。
画面に雨の渡り廊下が入った。
『戻りました。水原です』
戸が開いた。携帯が下を向き、倒れた椅子と、床に開いたファイルが見えた。庄司さんの目は開いていた。首に帯はなく、福地さんが黒い布を片手へ畳んでいた。
『池上君が首へ。本人から聞いた。これも預かった』
『救急は?』
『私から帳場へ。場所は私が言うから』
庄司さんの右手が、福地さんの袖を掴んだ。
『人を、呼んで』
声があった。僕は机の端を握った。
『ここで倒れたままじゃ。椅子まで、起きて』
福地さんの腕が脇へ入り、庄司さんが上がった。水原さんは携帯を木台に立てた。机の角が近くなり、窓の留め金が左上へ来た。灰色の電話は、そこになかった。福地さんは庄司さんの左へ残り、水原さんは空いた椅子の背を避けて右肩の傍へ来た。
『女将を呼ぶ。君が何をしたか、私から』
『俺が話すから。梢さんに、見たまま言われたら』
庄司さんは自分の携帯へ手を出した。福地さんがその腕を戻し、帯を両方の上腕の外へ回した。
『腕です。首には掛けていない』
『腕も、放して』
水原さんが端を受け取った。片手へまとめ、空いた手で原稿を取った。帯に結び目はなかった。
『首じゃないでしょう。腕を、下へ』
福地さんが携帯を耳へ当てた。
『梢さん。戻してください。読書室へ。ここで待ってます。ええ、そちらで見た後で』
『救急は』
『先に来るから。帳場には言った』
庄司さんはまた机の携帯へ手を伸ばした。片腕が帯から抜けた。水原さんの手が後ろへ引き、胸の黒い線が襟へ上がった。
『電話は私に。君の説明で済ませない』
『紙を、先に見てもらいたいんです』
『上がってる。首に』
『ちょっと。座ったままで、お願いします』
黒い布が顎の下へ来た。庄司さんの指が、その下へ入った。
『千佳さんが私用で接触を頼んだ事実は確認されていない。ここだけ、あなたの声で』
『その文は君が書いた。私の言った通りではないね』
『あなたに確かめたんです。聞かなかったことには、しないでください』
眼鏡が机へ落ちた。
『返して』
『下は消します。お母様には確かめていません』
帯が下がった。福地さんが眼鏡を渡し、庄司さんは自分で掛けた。
『人を、呼んで』
『帳場には言ったそうです。来るまでに、ここだけ』
庄司さんが立ちかけると、黒い線がまた襟へ来た。
『首、放して』
『はいって、私には言ったでしょう』
水原さんの声だった。彼女は一度手を下げ、また引いた。
福地さんが原稿の角を取った。
『どこを消すんですか』
『その下です。先に。そこ、持っててください』
水原さんの肩が前へ来た。福地さんは紙を離さず、もう片方の腕を彼女の肩の内側へ入れた。黒い端が、その袖の向こうへ動いた。
『俺が。こっちは』
水原さんの空いた手が、庄司さんの右手首の下へ入った。
『ペン、持てますか。ここを消してから』
庄司さんは手首を戻そうとした。
紙が上がった。右端には赤いペンのある手、左端には紙を折らないよう開いた指があった。ペンの後ろに白い袖口が見え、紙の上には福地さんの顎が出た。
二行へ線が走った。僕はそこを見た。拓海が母へ見せたくなかった文は、端から端まで消された。
『千佳さんのは消したでしょう。俺が尚人のを止めたって、笠原が持ってきたんですか』
『紙は笠原へ返した。君が上へ渡さなかったことは、君が答えるんだね』
庄司さんの右手首が紙の下で動いた。下から支える指は離れなかった。左手が顎の下の布へ入った。
『梢さんに、私から』
『電話は俺が掛けた。俺が言うから』
『君の説明で済ませない』
机へ出ようとした肩が、後ろへ戻った。
『首、放して』
『福地さん、ちょっと、紙が』
『先生、こっちを向いて』
肩の後ろの手が折れ、布が上へ引かれた。
紙が倒れ、顔を隠した。右端の赤いペンと左端の指は、そこに残ったままだった。紙の下で手首を取る指も動いた。机についた肘が滑り、椅子の脚が鳴った。
『庄司さん』
水原さんの声がした。なずなさんが戸口へ来た。
『写真帳を返しに、あの』
肩が床へついた。黒い端を持った手が開いた。帯は倒れた椅子の脚へ落ちた。
なずなさんが廊下を向いた。
『誰か、来て!』
陶子さんが来た。場所を空けてください、と言った。水原さんが持っていた右手首の下へ、自分の手を入れた。
その手首が、紙の下にあった手首だった。
宏和が住所を言い、亮が膝をついた。僕の腕が画面を横切った。拓海がコップを落とし、水原さんがその傷へ布を当てた。
香坂さんが再生を止めた。
「ここです。画面の前へ来た方」
「俺です。その後、玄関へ」
制服の人が時刻を控えた。画面の外でも、亮は胸を押していた。
「書いてくれたんですね。下の二行」
僕が言うと、香坂さんは原稿の袋へ目を向けた。
「線は、記録にも残っています」
「福地さんが、紙を」
僕は止まった。福地さんの顎は見えた。紙の二つの手も見た。その後ろで、首に帯が来ていた。
「最後に引いたのは、水原さんですか」
「それぞれがしたことを、こちらで確認しています。青凪さんがどこへ行ったかは、今の答えで大丈夫です」
端末が戻された。僕は席を立った。
食堂へ戻ると、亮は椅子の背へ上着を掛けていた。
「話してた?」
「話してた。床から起きて。下の二行も消した」
「首に、あれ、また来た?」
僕は水原さんが引き直したところを話した。『はいって私には言ったでしょう』という声も。
亮は上着から手を離した。
「俺、行った時には、もう首になかった」
「最後は、福地さんが紙を持ってた。両側に手があって。水原さんは、後ろに」
「じゃ、最後まで、水原さんが?」
「まだ、持ってたと思う」
亮は水を飲もうとして、ボトルを机へ戻した。
「俺が来た時、腕、持ってたのは誰だっけ」
「水原さん」
「何で、まだ持ってたんだろ」
僕は右手首を床へ戻した陶子さんを思い出した。水原さんの手は、その手首の下にあった。
赤いペンが二行を消していた。その後ろに、白い袖口があった。