山を下りるにはまだ早い

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CHAPTER 11 / 21

第十一章 まだ話している

水原さんの控えは、透明な袋に入っていた。下の二行には赤い線があった。元の紙は読書室から警察が運び出していた。
「これも庄司さんが?」
 僕が訊くと、水原さんは線へ目を落とした。
「消すと決めたのは私です。お母様に今の気持ちを確かめていませんでした」
「じゃあ、もう」
「使いません。池上さんへ、そこだけでも」
 香坂さんが袋を戻した。水原さんは向かいの小部屋へ案内され、戸が閉まった。福地さんも、別の警察官と帳場の奥へ入っていた。

 食堂には宏和と亮がいた。宏和は机へ紙を広げ、借りた車の店が朝何時に開くか調べていた。
「八時から。先に借りた電話で掛ける」
「拓海は?」
「鷲尾さんが聞いてる」
 亮は水を飲んだ。蓋は卓に置いたままだった。
「手、いま、診てもらう人を呼んでるって」

 拓海が帯を首へ掛けたことは聞いた。倒れてから外したことも。
 その後で、庄司さんは話したという。
 僕は帳場の方へ戻った。香坂さんが読書室から出てきた。
「俺が入ったとこ、映ってたって」
「はい。前を通った方が青凪さんか、確かめたいので」
「初めから見せてもらえますか。拓海の後で、どんなふうに話してたのか」
 香坂さんは僕を見た。
「人が倒れるところも入っています。確認している記録です。今、見られますか」
 僕は頷いた。顔を見れば、返事の声が誰のものか、分かると思った。

 小部屋に水原さんはいなかった。香坂さんと、記録を扱う制服の人がいた。
 机に端末が置かれた。元の記録を保全して、確認用に出したものだと聞いた。回収へ戻った時から、止めるよう言われたところまで、一つの記録だった。

 画面に雨の渡り廊下が入った。
『戻りました。水原です』
 戸が開いた。携帯が下を向き、倒れた椅子と、床に開いたファイルが見えた。庄司さんの目は開いていた。首に帯はなく、福地さんが黒い布を片手へ畳んでいた。
『池上君が首へ。本人から聞いた。これも預かった』
『救急は?』
『私から帳場へ。場所は私が言うから』
 庄司さんの右手が、福地さんの袖を掴んだ。
『人を、呼んで』
 声があった。僕は机の端を握った。
『ここで倒れたままじゃ。椅子まで、起きて』
 福地さんの腕が脇へ入り、庄司さんが上がった。水原さんは携帯を木台に立てた。机の角が近くなり、窓の留め金が左上へ来た。灰色の電話は、そこになかった。福地さんは庄司さんの左へ残り、水原さんは空いた椅子の背を避けて右肩の傍へ来た。

『女将を呼ぶ。君が何をしたか、私から』
『俺が話すから。梢さんに、見たまま言われたら』
 庄司さんは自分の携帯へ手を出した。福地さんがその腕を戻し、帯を両方の上腕の外へ回した。
『腕です。首には掛けていない』
『腕も、放して』
 水原さんが端を受け取った。片手へまとめ、空いた手で原稿を取った。帯に結び目はなかった。
『首じゃないでしょう。腕を、下へ』
 福地さんが携帯を耳へ当てた。
『梢さん。戻してください。読書室へ。ここで待ってます。ええ、そちらで見た後で』
『救急は』
『先に来るから。帳場には言った』

 庄司さんはまた机の携帯へ手を伸ばした。片腕が帯から抜けた。水原さんの手が後ろへ引き、胸の黒い線が襟へ上がった。
『電話は私に。君の説明で済ませない』
『紙を、先に見てもらいたいんです』
『上がってる。首に』
『ちょっと。座ったままで、お願いします』
 黒い布が顎の下へ来た。庄司さんの指が、その下へ入った。
『千佳さんが私用で接触を頼んだ事実は確認されていない。ここだけ、あなたの声で』
『その文は君が書いた。私の言った通りではないね』
『あなたに確かめたんです。聞かなかったことには、しないでください』
 眼鏡が机へ落ちた。
『返して』
『下は消します。お母様には確かめていません』
 帯が下がった。福地さんが眼鏡を渡し、庄司さんは自分で掛けた。
『人を、呼んで』
『帳場には言ったそうです。来るまでに、ここだけ』
 庄司さんが立ちかけると、黒い線がまた襟へ来た。
『首、放して』
『はいって、私には言ったでしょう』
 水原さんの声だった。彼女は一度手を下げ、また引いた。

 福地さんが原稿の角を取った。
『どこを消すんですか』
『その下です。先に。そこ、持っててください』
 水原さんの肩が前へ来た。福地さんは紙を離さず、もう片方の腕を彼女の肩の内側へ入れた。黒い端が、その袖の向こうへ動いた。
『俺が。こっちは』
 水原さんの空いた手が、庄司さんの右手首の下へ入った。
『ペン、持てますか。ここを消してから』
 庄司さんは手首を戻そうとした。
 紙が上がった。右端には赤いペンのある手、左端には紙を折らないよう開いた指があった。ペンの後ろに白い袖口が見え、紙の上には福地さんの顎が出た。
 二行へ線が走った。僕はそこを見た。拓海が母へ見せたくなかった文は、端から端まで消された。

『千佳さんのは消したでしょう。俺が尚人のを止めたって、笠原が持ってきたんですか』
『紙は笠原へ返した。君が上へ渡さなかったことは、君が答えるんだね』
 庄司さんの右手首が紙の下で動いた。下から支える指は離れなかった。左手が顎の下の布へ入った。
『梢さんに、私から』
『電話は俺が掛けた。俺が言うから』
『君の説明で済ませない』
 机へ出ようとした肩が、後ろへ戻った。
『首、放して』
『福地さん、ちょっと、紙が』
『先生、こっちを向いて』
 肩の後ろの手が折れ、布が上へ引かれた。
 紙が倒れ、顔を隠した。右端の赤いペンと左端の指は、そこに残ったままだった。紙の下で手首を取る指も動いた。机についた肘が滑り、椅子の脚が鳴った。

『庄司さん』
 水原さんの声がした。なずなさんが戸口へ来た。
『写真帳を返しに、あの』
 肩が床へついた。黒い端を持った手が開いた。帯は倒れた椅子の脚へ落ちた。
 なずなさんが廊下を向いた。
『誰か、来て!』

 陶子さんが来た。場所を空けてください、と言った。水原さんが持っていた右手首の下へ、自分の手を入れた。
 その手首が、紙の下にあった手首だった。
 宏和が住所を言い、亮が膝をついた。僕の腕が画面を横切った。拓海がコップを落とし、水原さんがその傷へ布を当てた。
 香坂さんが再生を止めた。
「ここです。画面の前へ来た方」
「俺です。その後、玄関へ」
 制服の人が時刻を控えた。画面の外でも、亮は胸を押していた。

「書いてくれたんですね。下の二行」
 僕が言うと、香坂さんは原稿の袋へ目を向けた。
「線は、記録にも残っています」
「福地さんが、紙を」
 僕は止まった。福地さんの顎は見えた。紙の二つの手も見た。その後ろで、首に帯が来ていた。
「最後に引いたのは、水原さんですか」
「それぞれがしたことを、こちらで確認しています。青凪さんがどこへ行ったかは、今の答えで大丈夫です」
 端末が戻された。僕は席を立った。

 食堂へ戻ると、亮は椅子の背へ上着を掛けていた。
「話してた?」
「話してた。床から起きて。下の二行も消した」
「首に、あれ、また来た?」
 僕は水原さんが引き直したところを話した。『はいって私には言ったでしょう』という声も。
 亮は上着から手を離した。
「俺、行った時には、もう首になかった」
「最後は、福地さんが紙を持ってた。両側に手があって。水原さんは、後ろに」
「じゃ、最後まで、水原さんが?」
「まだ、持ってたと思う」
 亮は水を飲もうとして、ボトルを机へ戻した。
「俺が来た時、腕、持ってたのは誰だっけ」
「水原さん」
「何で、まだ持ってたんだろ」
 僕は右手首を床へ戻した陶子さんを思い出した。水原さんの手は、その手首の下にあった。
 赤いペンが二行を消していた。その後ろに、白い袖口があった。

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目次

山を下りるにはまだ早い

  1. 01四人部屋
  2. 02並ぶ前
  3. 03二つの一階
  4. 04待っている答え
  5. 05先に買う
  6. 06湯の手前
  7. 07玄関
  8. 08雨の二人
  9. 09骨
  10. 10返すもの
  11. 11まだ話している読書中
  12. 12紙の向こう
  13. 13返してもらうもの
  14. 14隣へ座る
  15. 15下へ行く
  16. 16残した車
  17. 17九時の番号
  18. 18送られてきた紙
  19. 19後ろの席
  20. 20おかわり
  21. 21終章 四人分

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