階段を下りる途中で、大学の友人から画像が来た。課題が未提出になっている、とあった。僕は写真を開き、上の日付を読んだ。
〈先週だぞ、それ〉
送ってから、自分の提出画面を開いた。先週だった。
「俺も間違えてた。タブレット取ってくる」
亮はタオルを持ったまま僕を見た。
「先入ってる」
宏和は頷き、亮と下りた。僕も、うん、と答えて部屋へ戻った。
戸を開けると、拓海はもういなかった。座卓の椎茸の袋は、窓際へ寄せてあった。タブレットを出し、同じファイルを正しい週へ送った。今度は提出済みと表示された。画像を撮って友人へ返すと、景色も送れと来た。
〈まだ風呂も入ってない〉
そう返し、タオルと財布を取った。
福地さんが玄関で靴を履いていた。
「降り出したよ」
外の砂利に、黒い点が増えていた。彼はしゃがみ、踵を直してから立った。
「山、下りるんですか」
「駐在まで。人と会うことになっててね」
福地さんが携帯を出した。画面には窓際の机があった。宏和がさっき撮った写真だった。
「そこ、俺たちも、さっきいました」
「池上君が送ってくれた。お母さんの記事も、そこで見てもらうんだってね」
僕は頷いた。タオルを持ち直すと、福地さんは画面を消した。宏和のいない階段へ目を向け、女将さんへ言った。
「朝、車を出すって言われたら、電話ください。切り返すのが心配だって」
「ええ。でも、明日のうちはまだ雨かもしれませんよ」
「じゃあ、待ってる間に慌てて動かさないように」
女将さんは厨房を振り返り、朝の支度を始める前に車の場所を確かめると言った。福地さんは戸へ手を掛けた。
「また顔を出します。庄司さんにも」
「お伝えします」
福地さんはガラス戸を閉めた。車のドアが閉まる音を聞いてから、僕は携帯の時計を見た。四時五十二分だった。
自販機の前で小銭を数えた。百円玉が一枚と十円玉が三枚。水を買うには足りなかった。
財布を開くと、千円札だけだった。拓海にもらった名刺が学生証の間から出た。角を折らないように戻した。さっき聞いた五時の約束は、もう始まる頃だった。
笠原さんが下の渡り廊下から来た。帳面の間に、折り目のついた紙を戻していた。
「返ってきたんですか」
僕は、さっき持って上がった紙を指した。
「うん。庄司さんに見せたところまでは、済んだ。夕飯の支度へ戻る」
前掛けの紐を背中で結びながら、厨房へ入った。
帳場で千円札を出し、両替をお願いした。女将さんが百円玉を十枚並べた。僕は財布の小銭を一度空けて、そこへ入れた。
女将さんが帳場の下から封筒を取り出した。
「旧館の読書室、分かりますよね」
「はい」
「庄司さんが、人に渡す書類を入れるのでと。私が持っていくと言ったんですけど、食堂の方を離せなくて」
宿の名が小さく印刷された白い封筒だった。口を開いたまま僕へ差し出された。中身は入っていなかった。
「このまま渡せば?」
「ええ。大きいのしかなくて申し訳ない、と」
タオルの上へ載せ、下の渡り廊下を通った。窓に細い雨粒がついていた。読書室の戸を軽く叩くと、返事がした。
庄司さんは窓際の机の左に座っていた。右にあるもう一脚は空だった。腕時計を外し、机に置いている。紙の端へ赤い字があり、彼は眼鏡を掛けていた。水原さんの姿はなかった。右脇の木台は空だった。
「ああ、すまないね」
彼は自分の携帯を伏せ、ファイルを左の脇へ挟んで、立ってこちらへ来た。右の袖口の釦が外れていた。眼鏡を指で上げ、袖を戻した。僕は封筒を渡した。
「原稿を返す前に、もう一度読んでもらう。私が直した所も、そうでない所も」
「水原さんが戻った時に?」
「ああ。池上君も、自分の書いた方から。返事だけ持っていかれるのは困るんだ」
彼はファイルを机へ置き、僕の封筒の口を広げた。
「女将さんから。大きいのしかないそうです」
「構わないよ」
庄司さんは机へ歩いて戻り、ファイルを開いた。さっきの黒い文字の紙が出てきた。
「福地君へ渡すんだ。さっき戻ると言っていたから。折ると読みにくいし、ちょうどいい」
紙が封筒へ滑り込んだ。口は閉じず、机の端へ寄せた。
「今晩、孫へ一問、出せるかな。私も答えてみたいんだよ」
庄司さんが眼鏡の箱を原稿へ載せた。眼鏡は掛けたままだった。
「じゃあ、握手の問題で。十人がいて、全員がほかの人と一回ずつ握手します。全部で何回でしょう」
「九十回」
速かったので、僕は笑いかけた。
「私の九回と、君の九回、と数えたんだが」
「俺との一回、俺も数えました?」
庄司さんが右手を出した。僕も出した。握る前に、彼が手を止めた。
「ああ。同じ一回を、二人とも」
「はい」
「半分で、四十五。孫なら先に言うな」
彼は机へ手を戻した。紙へ書きかけてペンを下ろした。
「いや、覚えた。私が九十と言ったのは、孫には言わなくていいね」
「言った方が、答えた後に笑えると思います」
彼は口を開け、それから声を出して笑った。
「そうか。そうだな」
池上拓海の名の隣に、本人へ確認、と赤い字があった。下の二行はまだそこにあった。彼は原稿を一枚戻し、またこちらを向いた。
「名前を入れてもいいかな。青凪君と私で、同じ一回を数えたと」
「名前は、いいです。夕食の間ずっと問題を考えるのは、無理ですけど」
「ああ。今日はこれだけ。ありがとう」
僕はタオルを持ち直した。庄司さんはファイルを閉じ、また左の脇へ挟んだ。
「女将さんに、封筒のお礼も」
「はい」
戸を閉めると、向かいの談話室から陶子さんの声がした。
「これ、窓が白いね」
「こっちの方が、顔はいい」
なずなさんが答えた。二人は窓際で携帯を並べていた。机に借りた写真帳が開き、同じ廊下の写真が載っていた。
戸の前を離れようとすると、拓海が階段のところから来た。
「まだ風呂、入ってないの」
「お前もだろ」
彼は笑わなかった。右手に、さっき丸めた黒い帯があった。
「封筒、届けてた。庄司さんに」
「うん。俺、そこ」
拓海は僕の横を通った。読書室の戸を叩き、返事を待って入った。僕は向かいの談話室へ会釈し、下の渡り廊下へ曲がると、水原さんが手前にいた。
「もう、回収ですか」
「早いんだけど、書けるところまでと思って。池上さん、今、入りました?」
「はい」
「じゃ、待ちます。話が終わるまで」
彼女は僕の携帯を見て、いま何分、と訊いた。五時にはなっています、と答えると、あの机に時計もあったね、と言った。
「お風呂?」
「まだ。先に水、買ってきます」
「私も、もう一本。さっきの、飲んじゃった」
彼女が僕の前へ出た。ガラスへ雨粒がつき、二人の足が並んで映った。
友人から提出できたと連絡が来た。五時二分だった。僕もできた、と返し、四人の写真を送った。
帳場で女将さんへお礼を伝えた。水原さんは棚の椎茸を見た。僕がまだ話しているうちに、読書室から電話が来た。女将さんは受話器を取り、庄司さん、夕食は六時半です、と答えた。
「ええ、封筒は届いたと、伺いました。お礼も。青凪さんが」
僕を見て笑った。電話が置かれると、水原さんは自販機を指した。二人とも同じ水を買った。
彼女は鞄を開けた。手帳型の携帯が中にあった。原稿の控えです、と紙を出し、膝へ置いた。下の二行へ赤い線を引いた。僕はその横の椅子へ座った。五時十五分まで待つ、と言ったのは彼女だった。
「青凪君は、答えを覚えるとき、どこまで覚えるの」
「何のですか」
「クイズ。答えだけ? 言い回しも?」
僕は水を飲んだ。
「問題によります。それ、記事とは違うと思います。俺が答えられればいいだけなので」
「そうね。次の文まで読んでもらえると、もう直せるんだけど」
「そこも、庄司さんが消したんですか」
僕は彼女の引いた線を見た。
「回収したら確かめます」
「じゃ、まだ」
水原さんは線の先へペンを戻した。水は開けていなかった。
電話がまた鳴った。女将さんは帳場へ戻った。
「笠原さん? いま食堂じゃないの。……ああ、福地さん、戻ったんですか」
水原さんが紙から顔を上げた。
「紙は、普通ののでいい? はい。下へ持っていきます」
女将さんは食堂へ声を掛け、紙を数枚取った。僕に渡さず、帳場の奥から来た人へ持たせた。
「資料室へ。笠原さん、そこにいるから」
しのぶさんが下の渡り廊下へ入っていった。肩から下げた小さな鞄を開き、釜の写真、まだ撮ってない、と携帯を出した。
「会場代の返事も、一緒に書いてもらってくる。口でいいって言われたって、経理には出せないから」
女将さんが、笠原に訊いてみてください、と答えた。僕が会釈すると、しのぶさんも手を上げた。
小鈴さんが来て、僕の画面に残った四人の写真を見つけた。あとで送って、と頼まれ、画面を出した。水原さんも覗いた。
「こちらが池上さん。名刺、頂いたんですよ」
「俺も、さっき」
小鈴さんが自分の写真を出した。澄さんの横顔だった。怒られたけど消せとは言われなかった、と言って、奥の廊下へ行った。
水原さんは紙を畳んだ。僕が立とうとすると、彼女は時計を見た。
「もうすぐ。池上さん、まだですね」
下の渡り廊下から、拓海が来た。白い封筒と灰色の電話を抱えていた。受話器の端が上着へ当たっていた。黒い帯が本体の下へ回り、金具の端だけが、彼の左の小指から下がっていた。
「何、それ」
「読書室の。通じないって」
僕が受話器を支えると、拓海は本体を抱え直した。
「さっき、庄司さん、掛けてたけど」
「一階で、挿してみた。向こうでは直らなかった」
女将さんは、こちらで見てからお持ちします、と電話を受け取った。拓海は帯を解いた。本体を持っていた形のまま、手がしばらく空いていた。
福地さんが後ろから来た。濡れたジャンパーを腕へ載せ、片方の袖を下へ垂らしていた。携帯の画面は、さっき玄関で見た窓の机だった。女将さんは電話を持ったまま立っていた。福地さんの、画面を送る指も止まった。
福地さんは携帯をしまった。
「封筒も、こちらへ」
拓海が白い封筒を渡した。福地さんは中を確かめた。紙を半分ほど出し、拓海へ顔を向けた。
「持ってきたのは、これだけ?」
拓海は電話を見てから、はい、と答えた。福地さんは紙を戻し、女将さんへ預けた。
「庄司さんから。警察で預かります。あとで、お願いします」
「はい」
女将さんは封筒へ小さな紙を載せた。
「君は部屋へ戻るんだね」
福地さんが言った。拓海は帯を二つに折り、掌へ巻き込んだ。
「返してもらいたいところ、まだ」
「分かっている。私が行くから」
福地さんは、ジャンパーを持っていない手を出した。拓海の指が開いた。帯が掌から相手の手へ渡った。福地さんは金具を布の中へ折った。
「戻しておく。それも、私から話す」
拓海は頷いた。僕は帯をもう使わないのかと思った。鞄の持ち手へ巻くには、部屋へ持って帰った方がいい。訊こうとすると、水原さんが立った。
「私も、原稿を。約束の時間なので」
「今、持っていきましょうか。電話」
女将さんが訊いた。福地さんは、こちらで見てから、と答えた。
「必要なら、携帯から帳場へ掛けます。その時、読書室へお願いします」
女将さんは電話を帳場へ置いた。
福地さんはジャンパーの片方の袖へ腕を通した。帯を反対の手へ替え、もう一方も着た。下の渡り廊下へ戻り、先に階段を上がった。水原さんは鞄を開き、控えを奥へ入れた。返してもらう紙の場所を空け、上へ続いた。拓海はそれを見ていた。僕が、俺らも風呂へ、と言うと、一回部屋、と答えた。
「落とすぞ、それ」
僕のタオルから携帯が滑りかけていた。握り直すと、拓海は階段へ向かった。時計は五時十五分だった。
僕が浴場の戸へ手を出すと、帳場の電話が鳴った。女将さんが受けた。
「はい、読書室へ。こちらでは通じていますよ、その灰色の方。いま手が空きましたら」
時計を見て、厨房へ声を掛けた。六時半の膳の数だった。灰色の電話は、帳場の上に置いたままだった。
男湯の脱衣所では、宏和が髪を拭いていた。
「何してたの」
「課題出して、両替して、封筒運んで、水飲んでた」
「封筒?」
「庄司さんに。女将さんから頼まれて」
宏和はタオルを耳から離した。
「お前、頼まれること多いな」
「お前らにも、頼まれる」
「聞きに行くの、お前がいちばん、戻ってくるじゃん」
宏和は笑わなかった。髪を拭いたタオルを畳み、僕の隣の籠を空けた。
「そっちはもう上がるの」
「中が暑かった。亮、まだ入ってる」
彼は隣の棚から自分の服を取った。僕は空いている籠へ財布と携帯を置き、その横に水を立てた。
浴室へ入ると、亮が湯船の縁に肘を掛けていた。顔から汗が流れている。僕を見ると、ようやく来た、と言った。
「拓海、部屋へ戻った。風呂で待っててって」
「まだ来ないのか。一回上がった。二回目」
「俺、まだ一回目にもなってない」
亮は立ち、縁を越えた。水がかかり、僕は足を引いた。
「露天、よかったぞ」
「まだ開いてる?」
「雨、細いから。行ってこいよ」
僕は桶を取った。早く入りたかったが、汲んだ湯は思ったより熱かった。片足ずつ流し、次を肩からかけた。壁の向こうに雨音がした。
どこかで低い声がした。
僕は桶を棚へ戻しかけた。湯の流れる音が続き、誰の声か分からなかった。脱衣所の方で、亮が宏和を呼んだ。
「一枚だけ。さっきの変な方、出して」
その後に、人が叫んだ。
亮だと思った。もう脱衣所へ出たはずだったが、何か忘れて戻ったのかもしれなかった。
次は女の人の声だった。
「誰か、来て!」
桶の縁を膝にぶつけた。汲んだばかりの湯が足元に広がった。