山を下りるにはまだ早い

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CHAPTER 06 / 21

第六章 湯の手前

階段を下りる途中で、大学の友人から画像が来た。課題が未提出になっている、とあった。僕は写真を開き、上の日付を読んだ。

〈先週だぞ、それ〉

 送ってから、自分の提出画面を開いた。先週だった。

「俺も間違えてた。タブレット取ってくる」

 亮はタオルを持ったまま僕を見た。

「先入ってる」

 宏和は頷き、亮と下りた。僕も、うん、と答えて部屋へ戻った。

 戸を開けると、拓海はもういなかった。座卓の椎茸の袋は、窓際へ寄せてあった。タブレットを出し、同じファイルを正しい週へ送った。今度は提出済みと表示された。画像を撮って友人へ返すと、景色も送れと来た。

〈まだ風呂も入ってない〉

 そう返し、タオルと財布を取った。

 福地さんが玄関で靴を履いていた。

「降り出したよ」

 外の砂利に、黒い点が増えていた。彼はしゃがみ、踵を直してから立った。

「山、下りるんですか」
「駐在まで。人と会うことになっててね」

 福地さんが携帯を出した。画面には窓際の机があった。宏和がさっき撮った写真だった。

「そこ、俺たちも、さっきいました」
「池上君が送ってくれた。お母さんの記事も、そこで見てもらうんだってね」

 僕は頷いた。タオルを持ち直すと、福地さんは画面を消した。宏和のいない階段へ目を向け、女将さんへ言った。
「朝、車を出すって言われたら、電話ください。切り返すのが心配だって」
「ええ。でも、明日のうちはまだ雨かもしれませんよ」
「じゃあ、待ってる間に慌てて動かさないように」
 女将さんは厨房を振り返り、朝の支度を始める前に車の場所を確かめると言った。福地さんは戸へ手を掛けた。
「また顔を出します。庄司さんにも」
「お伝えします」

 福地さんはガラス戸を閉めた。車のドアが閉まる音を聞いてから、僕は携帯の時計を見た。四時五十二分だった。

 自販機の前で小銭を数えた。百円玉が一枚と十円玉が三枚。水を買うには足りなかった。

 財布を開くと、千円札だけだった。拓海にもらった名刺が学生証の間から出た。角を折らないように戻した。さっき聞いた五時の約束は、もう始まる頃だった。

 笠原さんが下の渡り廊下から来た。帳面の間に、折り目のついた紙を戻していた。
「返ってきたんですか」
 僕は、さっき持って上がった紙を指した。
「うん。庄司さんに見せたところまでは、済んだ。夕飯の支度へ戻る」
 前掛けの紐を背中で結びながら、厨房へ入った。

 帳場で千円札を出し、両替をお願いした。女将さんが百円玉を十枚並べた。僕は財布の小銭を一度空けて、そこへ入れた。
 女将さんが帳場の下から封筒を取り出した。

「旧館の読書室、分かりますよね」
「はい」
「庄司さんが、人に渡す書類を入れるのでと。私が持っていくと言ったんですけど、食堂の方を離せなくて」

 宿の名が小さく印刷された白い封筒だった。口を開いたまま僕へ差し出された。中身は入っていなかった。

「このまま渡せば?」
「ええ。大きいのしかなくて申し訳ない、と」

 タオルの上へ載せ、下の渡り廊下を通った。窓に細い雨粒がついていた。読書室の戸を軽く叩くと、返事がした。

 庄司さんは窓際の机の左に座っていた。右にあるもう一脚は空だった。腕時計を外し、机に置いている。紙の端へ赤い字があり、彼は眼鏡を掛けていた。水原さんの姿はなかった。右脇の木台は空だった。

「ああ、すまないね」

 彼は自分の携帯を伏せ、ファイルを左の脇へ挟んで、立ってこちらへ来た。右の袖口の釦が外れていた。眼鏡を指で上げ、袖を戻した。僕は封筒を渡した。
「原稿を返す前に、もう一度読んでもらう。私が直した所も、そうでない所も」
「水原さんが戻った時に?」
「ああ。池上君も、自分の書いた方から。返事だけ持っていかれるのは困るんだ」
 彼はファイルを机へ置き、僕の封筒の口を広げた。

「女将さんから。大きいのしかないそうです」
「構わないよ」

 庄司さんは机へ歩いて戻り、ファイルを開いた。さっきの黒い文字の紙が出てきた。

「福地君へ渡すんだ。さっき戻ると言っていたから。折ると読みにくいし、ちょうどいい」

 紙が封筒へ滑り込んだ。口は閉じず、机の端へ寄せた。

「今晩、孫へ一問、出せるかな。私も答えてみたいんだよ」
 庄司さんが眼鏡の箱を原稿へ載せた。眼鏡は掛けたままだった。
「じゃあ、握手の問題で。十人がいて、全員がほかの人と一回ずつ握手します。全部で何回でしょう」
「九十回」
 速かったので、僕は笑いかけた。
「私の九回と、君の九回、と数えたんだが」
「俺との一回、俺も数えました?」
 庄司さんが右手を出した。僕も出した。握る前に、彼が手を止めた。
「ああ。同じ一回を、二人とも」
「はい」
「半分で、四十五。孫なら先に言うな」
 彼は机へ手を戻した。紙へ書きかけてペンを下ろした。
「いや、覚えた。私が九十と言ったのは、孫には言わなくていいね」
「言った方が、答えた後に笑えると思います」
 彼は口を開け、それから声を出して笑った。
「そうか。そうだな」
 池上拓海の名の隣に、本人へ確認、と赤い字があった。下の二行はまだそこにあった。彼は原稿を一枚戻し、またこちらを向いた。
「名前を入れてもいいかな。青凪君と私で、同じ一回を数えたと」
「名前は、いいです。夕食の間ずっと問題を考えるのは、無理ですけど」
「ああ。今日はこれだけ。ありがとう」
 僕はタオルを持ち直した。庄司さんはファイルを閉じ、また左の脇へ挟んだ。
「女将さんに、封筒のお礼も」
「はい」

 戸を閉めると、向かいの談話室から陶子さんの声がした。

「これ、窓が白いね」
「こっちの方が、顔はいい」

 なずなさんが答えた。二人は窓際で携帯を並べていた。机に借りた写真帳が開き、同じ廊下の写真が載っていた。

 戸の前を離れようとすると、拓海が階段のところから来た。

「まだ風呂、入ってないの」
「お前もだろ」

 彼は笑わなかった。右手に、さっき丸めた黒い帯があった。

「封筒、届けてた。庄司さんに」
「うん。俺、そこ」

 拓海は僕の横を通った。読書室の戸を叩き、返事を待って入った。僕は向かいの談話室へ会釈し、下の渡り廊下へ曲がると、水原さんが手前にいた。

「もう、回収ですか」
「早いんだけど、書けるところまでと思って。池上さん、今、入りました?」
「はい」
「じゃ、待ちます。話が終わるまで」

 彼女は僕の携帯を見て、いま何分、と訊いた。五時にはなっています、と答えると、あの机に時計もあったね、と言った。

「お風呂?」
「まだ。先に水、買ってきます」
「私も、もう一本。さっきの、飲んじゃった」

 彼女が僕の前へ出た。ガラスへ雨粒がつき、二人の足が並んで映った。

 友人から提出できたと連絡が来た。五時二分だった。僕もできた、と返し、四人の写真を送った。

 帳場で女将さんへお礼を伝えた。水原さんは棚の椎茸を見た。僕がまだ話しているうちに、読書室から電話が来た。女将さんは受話器を取り、庄司さん、夕食は六時半です、と答えた。

「ええ、封筒は届いたと、伺いました。お礼も。青凪さんが」

 僕を見て笑った。電話が置かれると、水原さんは自販機を指した。二人とも同じ水を買った。
 彼女は鞄を開けた。手帳型の携帯が中にあった。原稿の控えです、と紙を出し、膝へ置いた。下の二行へ赤い線を引いた。僕はその横の椅子へ座った。五時十五分まで待つ、と言ったのは彼女だった。

「青凪君は、答えを覚えるとき、どこまで覚えるの」
「何のですか」
「クイズ。答えだけ? 言い回しも?」

 僕は水を飲んだ。

「問題によります。それ、記事とは違うと思います。俺が答えられればいいだけなので」
「そうね。次の文まで読んでもらえると、もう直せるんだけど」
「そこも、庄司さんが消したんですか」
 僕は彼女の引いた線を見た。
「回収したら確かめます」
「じゃ、まだ」
 水原さんは線の先へペンを戻した。水は開けていなかった。

 電話がまた鳴った。女将さんは帳場へ戻った。

「笠原さん? いま食堂じゃないの。……ああ、福地さん、戻ったんですか」

 水原さんが紙から顔を上げた。

「紙は、普通ののでいい? はい。下へ持っていきます」

 女将さんは食堂へ声を掛け、紙を数枚取った。僕に渡さず、帳場の奥から来た人へ持たせた。

「資料室へ。笠原さん、そこにいるから」

 しのぶさんが下の渡り廊下へ入っていった。肩から下げた小さな鞄を開き、釜の写真、まだ撮ってない、と携帯を出した。
「会場代の返事も、一緒に書いてもらってくる。口でいいって言われたって、経理には出せないから」
 女将さんが、笠原に訊いてみてください、と答えた。僕が会釈すると、しのぶさんも手を上げた。
 小鈴さんが来て、僕の画面に残った四人の写真を見つけた。あとで送って、と頼まれ、画面を出した。水原さんも覗いた。

「こちらが池上さん。名刺、頂いたんですよ」
「俺も、さっき」

 小鈴さんが自分の写真を出した。澄さんの横顔だった。怒られたけど消せとは言われなかった、と言って、奥の廊下へ行った。
 水原さんは紙を畳んだ。僕が立とうとすると、彼女は時計を見た。

「もうすぐ。池上さん、まだですね」

 下の渡り廊下から、拓海が来た。白い封筒と灰色の電話を抱えていた。受話器の端が上着へ当たっていた。黒い帯が本体の下へ回り、金具の端だけが、彼の左の小指から下がっていた。

「何、それ」
「読書室の。通じないって」

 僕が受話器を支えると、拓海は本体を抱え直した。

「さっき、庄司さん、掛けてたけど」
「一階で、挿してみた。向こうでは直らなかった」

 女将さんは、こちらで見てからお持ちします、と電話を受け取った。拓海は帯を解いた。本体を持っていた形のまま、手がしばらく空いていた。

 福地さんが後ろから来た。濡れたジャンパーを腕へ載せ、片方の袖を下へ垂らしていた。携帯の画面は、さっき玄関で見た窓の机だった。女将さんは電話を持ったまま立っていた。福地さんの、画面を送る指も止まった。

 福地さんは携帯をしまった。
「封筒も、こちらへ」

 拓海が白い封筒を渡した。福地さんは中を確かめた。紙を半分ほど出し、拓海へ顔を向けた。
「持ってきたのは、これだけ?」
 拓海は電話を見てから、はい、と答えた。福地さんは紙を戻し、女将さんへ預けた。

「庄司さんから。警察で預かります。あとで、お願いします」
「はい」

 女将さんは封筒へ小さな紙を載せた。

「君は部屋へ戻るんだね」

 福地さんが言った。拓海は帯を二つに折り、掌へ巻き込んだ。

「返してもらいたいところ、まだ」
「分かっている。私が行くから」

 福地さんは、ジャンパーを持っていない手を出した。拓海の指が開いた。帯が掌から相手の手へ渡った。福地さんは金具を布の中へ折った。

「戻しておく。それも、私から話す」

 拓海は頷いた。僕は帯をもう使わないのかと思った。鞄の持ち手へ巻くには、部屋へ持って帰った方がいい。訊こうとすると、水原さんが立った。

「私も、原稿を。約束の時間なので」

「今、持っていきましょうか。電話」
 女将さんが訊いた。福地さんは、こちらで見てから、と答えた。
「必要なら、携帯から帳場へ掛けます。その時、読書室へお願いします」
 女将さんは電話を帳場へ置いた。

 福地さんはジャンパーの片方の袖へ腕を通した。帯を反対の手へ替え、もう一方も着た。下の渡り廊下へ戻り、先に階段を上がった。水原さんは鞄を開き、控えを奥へ入れた。返してもらう紙の場所を空け、上へ続いた。拓海はそれを見ていた。僕が、俺らも風呂へ、と言うと、一回部屋、と答えた。

「落とすぞ、それ」

 僕のタオルから携帯が滑りかけていた。握り直すと、拓海は階段へ向かった。時計は五時十五分だった。

 僕が浴場の戸へ手を出すと、帳場の電話が鳴った。女将さんが受けた。
「はい、読書室へ。こちらでは通じていますよ、その灰色の方。いま手が空きましたら」
 時計を見て、厨房へ声を掛けた。六時半の膳の数だった。灰色の電話は、帳場の上に置いたままだった。
 男湯の脱衣所では、宏和が髪を拭いていた。

「何してたの」
「課題出して、両替して、封筒運んで、水飲んでた」
「封筒?」
「庄司さんに。女将さんから頼まれて」

 宏和はタオルを耳から離した。

「お前、頼まれること多いな」
「お前らにも、頼まれる」
「聞きに行くの、お前がいちばん、戻ってくるじゃん」

 宏和は笑わなかった。髪を拭いたタオルを畳み、僕の隣の籠を空けた。
「そっちはもう上がるの」
「中が暑かった。亮、まだ入ってる」

 彼は隣の棚から自分の服を取った。僕は空いている籠へ財布と携帯を置き、その横に水を立てた。

 浴室へ入ると、亮が湯船の縁に肘を掛けていた。顔から汗が流れている。僕を見ると、ようやく来た、と言った。

「拓海、部屋へ戻った。風呂で待っててって」
「まだ来ないのか。一回上がった。二回目」
「俺、まだ一回目にもなってない」

 亮は立ち、縁を越えた。水がかかり、僕は足を引いた。

「露天、よかったぞ」
「まだ開いてる?」
「雨、細いから。行ってこいよ」

 僕は桶を取った。早く入りたかったが、汲んだ湯は思ったより熱かった。片足ずつ流し、次を肩からかけた。壁の向こうに雨音がした。

 どこかで低い声がした。
 僕は桶を棚へ戻しかけた。湯の流れる音が続き、誰の声か分からなかった。脱衣所の方で、亮が宏和を呼んだ。

「一枚だけ。さっきの変な方、出して」

 その後に、人が叫んだ。
 亮だと思った。もう脱衣所へ出たはずだったが、何か忘れて戻ったのかもしれなかった。

 次は女の人の声だった。

「誰か、来て!」

 桶の縁を膝にぶつけた。汲んだばかりの湯が足元に広がった。

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目次

山を下りるにはまだ早い

  1. 01四人部屋
  2. 02並ぶ前
  3. 03二つの一階
  4. 04待っている答え
  5. 05先に買う
  6. 06湯の手前読書中
  7. 07玄関
  8. 08雨の二人
  9. 09骨
  10. 10返すもの
  11. 11まだ話している
  12. 12紙の向こう
  13. 13返してもらうもの
  14. 14隣へ座る
  15. 15下へ行く
  16. 16残した車
  17. 17九時の番号
  18. 18送られてきた紙
  19. 19後ろの席
  20. 20おかわり
  21. 21終章 四人分

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