帳場へ戻ると、福地さんも下の渡り廊下から来た。庄司さんから講演の主催へ変更なしと返事してほしいと言われたが、まだ掛けていないという。
「今日の話まで、俺にも訊かれますから」
女将さんへ言ってから、携帯を持って外へ出た。拓海は椎茸の棚へ行った。母へ何と渡すのか訊こうとしたが、先に袋を取った。
売店の棚に干し椎茸の袋が並んでいた。大きい袋には、使い切れないくらい入っているように見えた。拓海は裏を読んでから、同じ大きさをもう一つ取った。
「二袋だったよな」
「丸、二つ書いてた」
僕が答えると、彼は財布を開き、包み紙を出した。丸が二つだけあった。
拓海は小袋を一つ足した。母ちゃんが全部渡すから、と言った。帳場へ持っていくと、女将さんが数を確かめた。拓海が千円札を出す拍子に、さっきの包みが落ちた。僕が拾おうとすると、彼の手の方が早かった。
「ごみ箱、こちらです」
女将さんが言った。拓海は紙を握ったまま、はい、と答えた。
「いらないやつなんですけど。一応」
財布へ戻すと、もう一枚、白い紙の角が見えた。名刺だった。二枚重なっていた。
「俺、それもらってない」
僕が言うと、拓海は自分の名刺を一枚出した。
「いる?」
「うん」
「お前、俺の電話番号知ってるだろ」
携帯とは別の番号が印刷されていた。名前の上に、司法書士とある。字が小さかったので、僕は少し近づけて見た。
「母ちゃん、これ、職場に持ってったんだよ。俺に何も言わないで。あと二十枚くらいくれって」
「渡したの?」
「五枚。誰に渡すか分かんないし」
女将さんが、お釣りです、と声をかけた。拓海は名刺を戻し、小銭を数えた。僕は自分の分を財布の内側に入れた。学生証へ重ねると、名前の活字の大きさが違った。
福地さんが帳場の脇で足を止めた。さっきは持っていなかった買物袋を提げていた。
「池上君。五時からで。俺は下へ出るから、一人で行ってもらえるね」
「はい。夜は先に話してください。母ちゃんが頼んだんじゃないって、名前出して」
「それは、俺が話す。君は、自分で言うんだね」
「俺が、ここへ来たことは」
福地さんは拓海の袋を見た。椎茸が二袋、外へ膨らんでいた。
「お母さんにも読んでもらってからでいい。水原さんに渡したら、それで終わりじゃないから」
拓海は頷いた。
女将さんが土産を袋へ分けた。福地さんは鞄へ手を入れ、今度はポケットを触った。
「車の鍵、預けてなかったっけ」
「今日は、頂いてませんけど」
もう片方のポケットから鍵が出てきた。福地さんは女将さんへ見せ、あった、と言った。携帯に来た文を読み、娘の迎え、月曜だった、と呟いた。
「今日じゃないんですか」
女将さんが訊いた。
「今日は向こうで食ってくるって。迎えの話も一緒に来てたんだけど、そっちは返してなかった」
福地さんは買物袋を足元へ置いた。片手ではうまく打てず、鍵も袋へ入れた。
「月曜の、何時」
自分で言いながら書き、続けて途中まで打った文を消した。
「駅から電話して、じゃ駄目か。来た時に動けないかもしれないもんな」
送ると、袋の底から鍵を取り直した。拓海は釣銭をまだ数えていた。
女将さんが土産の袋を拓海へ渡した。福地さんは携帯をもう一度見て、ポケットへ戻した。鍵は、今度は手に持ったままだった。
僕が小袋の方を持つと、小鈴さんの声がした。
「二枚目。その右側。うん、私の書き方が分かりにくかった、ごめん」
窓際へ目をやると、澄さんは本を開いていた。脱いだコートが膝にあり、その上で鞄を押さえている。小鈴さんは横に立ち、携帯を耳へ押し当てたまま、指で見えない紙を指していた。
彼女が電話を切ると、澄さんは本を閉じた。
「終わった」
「私、先にお風呂に行くね」
小鈴さんは時計を見た。四時二十分を少し過ぎていた。
「もう? 庭、行かないの」
「着替え、取ってくる」
「待って。一緒に行く」
澄さんは立った。小鈴さんも鞄を持ち上げたが、持ち手が椅子に引っかかった。
「明日の人、初めてなんだよ。分かんないって言われたら、放っておけないよ」
「うん」
「私が渡した表だから」
澄さんは鞄を持ったまま待っていた。小鈴さんが顔を上げた。
「庭、明日でもいい?」
「明日、晴れるかな」
二人の間を通るわけにもいかず、僕は菓子の棚へ目を戻した。拓海が、ほら、と顎で階段を示したので、一緒に上がった。小鈴さんの声が後ろで聞こえた。
「澄だって、通知見てたじゃん」
返事は聞こえなかった。
部屋へ上がると、宏和は窓際で携帯を充電していた。亮は僕らが入るのを待たず、タオルを取って立った。
「行くぞ。今度は俺が先」
拓海は土産を置き、亮のリュックへ当たった袋を戻した。宏和が浴衣を棚へしまう間、亮は戸口にいた。
「さっきの、仕事?」
僕は尋ねた。
「母ちゃんの話。人と会うだけ」
「椎茸とは別?」
「別。それ、誰かと話してどうするんだよ」
彼は小袋を押し、僕の方へ寄せた。
「宿、決めたあとでさ。ここに来るなら、ついでにって」
僕は頷いた。相手の名前を訊けばよかった。けれど拓海が仕事を始めてから、名前を聞いても、言っても知らないだろ、と返ってくることがあった。今、また知らないと言われるより、このまま椎茸の話をしたかった。
亮が袋を覗き込んだ。
「合格のときの鍋、あれも椎茸だった?」
「俺が逃がしたのは椎茸」
僕が答えると、亮は首を振った。
「後から入れたの。安い方」
「舞茸じゃなかったか」
拓海が言った。
「そう。それ。肉はいいの買ったんだぞ」
宏和が窓際から戻ってきた。
「まだ言うか、それ。肉代は俺が」
「買いに行ったのは俺だろ」
亮は笑い、僕へ袋を返した。拓海が、参考書より高くついたな、と言った。宏和は案内の紙を鞄へしまう途中で止まった。
「参考書は買ってないじゃん、俺」
「うん」
「出すって言ったら、金の話もうすんなって」
僕は袋を座卓へ置いた。試験の前、二人の間が少し変になったことは覚えていた。その後は普通に会っていたので、聞かずにいた。
「古いの使ってたから、買い直したらって言ったんだよ。貸すのでもよかったし、受かってから返してくれても。そこまで言う前に切られた」
宏和は案内をしまった。鞄の口を閉じず、拓海を見ていた。
「俺、一回落ちてんだぞ」
拓海が言った。
「それは、知ってる」
「次も駄目だったら、お前に何て言うんだよ」
「俺の金で受けたんじゃねえだろ」
「分かってる。でもお前、何か買ってくるだろ。試験、終わったら」
宏和は鞄の口へ手を置いたままだった。
「何も買わないから受かれって、言えねえよ」
亮が顔を上げた。拓海は口を開き、閉じた。
「俺、あんとき、聞かれるのも嫌だったんだよ」
「じゃあ、俺に日は教えないでくれよ」
「お前には言いたかったんだろ」
宏和は口を開けた。亮はタオルを持ったまま、窓へ顔を向けた。僕も何か言おうとして、二人に聞かれていないことばかり浮かんだ。
「今なら、別に借りられるけど」
拓海がタオルを取った。
「今は、俺から貸す必要ないだろ」
宏和の返事が少し遅かった。拓海はタオルを肩へ掛け、椎茸の袋を一つ持ち上げた。中で、乾いたものが鳴った。
「来年、お前が何か受けるときは、俺が買う。肉」
「それ、鍋をしたいだけだろ」
宏和は鞄を閉じた。亮が戸口へ行った。
四時四十分に、女将さんが湯飲みを一つ持ってきた。今さらだけど、と笑って、三つの横へ置いた。拓海へは黒い帯を渡した。水原さんから預かったという。巻かれていた紙はなかった。
「お話、もう終わったんですか」
僕が訊くと、女将さんは帯を置いた手を引いた。
「原稿を置いて、また取りに行くそうです。携帯も、ご自分の鞄へ戻して。ここへ届ける時に、そうおっしゃってました」
拓海は湯飲みを見ていた。僕は、返事がもう書いてあるのかと訊こうとして、先に彼が帯を取るのを見た。
「福地さん、まだ下に?」
「資料室かしら。笠原の紙を待ってるようでした」
拓海は金具から赤い糸を抜こうとして、指を離した。帯を上着へ入れ、湯飲みの底の水を手で拭いた。
「鍋は、いい。今日は風呂」
僕は立ち、自分のタオルを取った。拓海が亮の置き忘れた携帯を持っていた。
「これも。お前」
亮は戻って受け取り、ポケットへ入れた。
「宏和、さっきの机の写真、一枚送って」
「どれ」
「読書室。母ちゃんに、ここ、こんなふうになってるって」
「自分で撮れば」
「お前、俺より、ちゃんと撮るじゃん」
宏和は携帯をしまう前に、机の写真を送った。僕にも同じのが来た。窓の机と空いた椅子、木の台。
「俺にだけで、よかったのに」
拓海が言うと、宏和は、まとめて送る方が早い、と携帯を鞄へ入れた。亮は戸口で靴下を脱いでいた。二人の話は、もう続かなかった。
僕がタオルを持ち直すと、拓海は上着から黒い帯を取った。
「記事、明日なんだろ」
僕が訊いた。拓海は頷いた。
「母ちゃんには、水原さんのだけじゃなくて、庄司さんの返事も、渡したい」
「どうして」
「俺が先に渡した文がある。そこへ返事がつくから」
「お母さんも、読んだの?」
拓海は左手を鞄の持ち手から離した。
「訂正してほしいって、言ってる」
「その文も?」
「まだ。俺が聞いたことを書いた」
彼は鞄を閉じ、寝ている方の持ち手を立てた。
「名刺、付けなきゃよかったな」
「水原さんに?」
「庄司さんにも。息子ってだけだと、話、後になると思って」
縫い目の抜けた持ち手が、少し外へ傾いた。
「母が頼んだんじゃないって、そこは電話でも認めたんだよ。福地さんが、そう言ってた」
「じゃあ、その返事は書いてくれるんじゃない」
「そうだな」
拓海は宏和から来た机の写真を開いた。椎茸の袋を横へ押し、二本の指で椅子を大きくした。
「ここで見てもらったって、母ちゃんに言えるし。水原さんが戻る時、俺もいた方がいいな」
「風呂は?」
「先に言ってくる。書いたの、見せてもらうだけだから」
僕は戸へ向かいかけた。亮はもう廊下にいて、宏和が靴下を鞄へ押し込んでいた。
「記事、読んだら、お母さんに見せればいいのか」
「俺から、先に。下の二行、変える」
拓海が言った。
「返事、もらったら、戻る。風呂、待っててって、亮に」
「自分で言えば」
「お前が行くじゃん。あと、帳場から、俺に頼んだもの、庄司さんへ届けてって言われたら」
「何を」
「封筒。水を買う時だけでいい。俺、あとからそこへ行くから」
僕は、水もまだ買ってないと言った。拓海は、じゃあついで、と返した。
拓海は戸の方を見た。亮の姿は、そこからは見えなかった。
「それ、持ってくの」
僕は帯を指した。
「忘れた物、取りに行くから」
「何を」
「下。俺は後で。先入ってて」
拓海が鍵を僕へ渡した。僕が受け取るのを見てから、椅子へ座った。右手の帯を膝へ置いた。
僕は廊下へ出た。亮が宏和へ何か言いかけ、先に階段へ行った。戸を閉めて鍵を回す前に、拓海はまだ中だと思い出した。