山を下りるにはまだ早い

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CHAPTER 07 / 21

第七章 玄関

濡れた体に服を通すと、シャツが背中で丸まった。

 宏和も亮も、もう脱衣所にいなかった。僕は籠から携帯と水を取り、財布をズボンのポケットへ押し込んだ。タオルを置いたまま、廊下へ出た。

 小鈴さんが浴衣の裾を押さえながら走っていた。

「旧館。あっちから」

 下の渡り廊下へ向かう背中を追った。読書室の入口になずなさんがいた。片方のスリッパが脱げている。僕を見ると何か言ったが、声にならなかった。

 庄司さんが床に背をつけていた。肩は机の脚に近かった。左腕の傍にファイルが開いていて、紙の端が裏へ折れていた。なずなさんの借りた写真帳が戸の内側へ落ちていた。水原さんは左手で右手首を下から取り、顔を上げた。

「救急、お願いします。反応しなくなって」

 宏和はもう電話を耳に当てていた。住所を言い、旧館の二階です、と付け足した。
 陶子さんは庄司さんへ呼びかけた。返事はなかった。水原さんが持っている右手へ目を落とした。

「手を、離してください」
「さっきまで、話して」
「その手です。私が、下から持ちます」

 水原さんが陶子さんを見た。右手首の下にあった左の指が開いた。陶子さんの手が下へ入り、腕を床へ下ろした。
 陶子さんがファイルを閉じ、机へ載せた。亮が胸の傍へ膝をつこうとして、倒れた椅子の脚に当たった。陶子さんが椅子の背を持ち、起こした。脚の下から、黒い帯の端が出た。

「私が来た時には、首にはなかったんです。福地さんが起こして。腕へ回したところから、私は」

 水原さんが帯を指した。陶子さんは首を見てから、椅子へ目を戻した。水原さんは帯を拾わなかった。
 宏和が電話を床へ置き、音を大きくした。

「普段どおりの呼吸をしていますか」

 電話から聞こえた。陶子さんは胸を見た。眼鏡の片方の柄が頬に残っていたので、顔から外し、机の端へ置いた。

「普通か、分かりません。呼んでも、返事しなくて」

 宏和が繰り返した。電話の相手が胸を押すように言った。亮が膝をついた。水原さんが膝をずらした。胸の傍が空いた。
 亮は電話の声に従って両手を重ねた。最初に押したとき、シャツの肩が突っ張った。肘が伸び、また押した。
 拓海が戸口へ来た。倒れた人を見て立ち止まり、亮の背中を見た。起こした椅子はまだ机の横にあった。彼が壁際へ運ぼうとすると、背が机へ当たった。水のコップが縁から落ち、床で割れた。
 拓海は椅子を浮かせたまま、濡れた床で足を滑らせた。左手が床についた。

「触らないで。ガラスがある」

 陶子さんが言った。拓海は手を上げた。掌に赤い筋があった。

「切った?」
「ちょっと。椅子、どけようと」

 彼は右手で椅子を押し、左手を胸へ寄せた。僕はタオルを置いてきた。なずなさんが袋から白いハンカチを抜いた。
「これで、押さえれば」
 陶子さんが、ガラスに触れないで、傷の上へ布を、と言った。水原さんが受け取り、拓海の掌へ当てた。右の袖口が手へ滑り、白い裏の折り目が布に触れた。
「手を下ろさないで。ここ、私が押さえます」
 拓海はその人を見た。右手で椅子を押すのをやめた。水原さんは彼を戸口の横へ座らせ、布の上から押さえた。

「AED、あるかって」

 宏和が小鈴さんへ言った。小鈴さんは渡り廊下へ向かった。

「救急車、誰か玄関で」
「俺、行く」

 僕は答えたが、戸口にいた。亮の顔を見ていた。さっきまで、自分の方へ早く来いと言っていた顔だった。今は下を向いていた。

「行けよ」

 亮が一度だけこちらを見た。僕は頷いた。
 水原さんが木台を見た。拓海の掌へ当てた布の端を持ち直した。携帯が立っていた。画面には、膝をついた亮の背中が動いていた。
「そこから動かさないで。手、押さえててください」
 陶子さんが言った。水原さんは拓海の手へ目を戻した。
 僕は戸口から離れ、玄関へ走った。
 女将さんが帳場の電話を取っていた。小鈴さんがその横で、AEDはないですか、と訊いていた。女将さんは、置いてないです、と答え、電話の相手へ、警察の方も、と言った。

「玄関で待ちます」

 自分の声が大きかった。女将さんが受話器を押さえ、お願いします、と答えた。

 靴紐を結ぼうとして、手が震えていることに気づいた。輪にした紐が指から抜けた。踵を踏んだまま外へ出た。

 雨は細く、冷たかった。看板を過ぎたところから、道が木に隠れていた。車はまだ来なかった。

 携帯を出した。誰へ掛ければいいのか考え、誰も出てこなかった。母に知らせても、何が起きたのか説明できない。さっきの友人には、提出できたと返したばかりだった。

 四人の写真が画面に残っていた。僕がその写真を送ってから、どれくらいだったのだろう。

 十五分ほどして、福地さんが玄関から出てきた。ジャンパーを着直していた。携帯の時刻は五時三十五分になっていた。

「救急は」
「まだです。亮が、今」

 福地さんは頷き、軒下から署へ電話を掛けた。繋がるまで何度か場所を変えた。僕は道の方を向いた。電話の低い声の間に、雨の音が入った。

 厨房の方から笠原さんが出てきた。救急車は呼んだ、と僕が言うと、うん、聞いた、と答えた。

「外は寒いだろ」

 彼は玄関灯をつけた。戸が閉まると、道の曲がり角がさっきより暗く見えた。

 小鈴さんが傘を持ってきた。

「これ。濡れちゃうから」
「ありがとうございます」
「車が来たら、私も呼んで」

 彼女は戻りかけ、もう一度僕の顔を見た。

「名前、青凪君で合ってるよね」
「はい」
「うん」

 傘を開くと、柄が手の中で少し回った。握り直した。指の震えが収まり、今度は背中が冷えていると分かった。

 救急車より先に、もう一台車が着いた。制服の警察官が降りてきたので、僕は読書室への道を言った。玄関を入って右、本館一階の奥から渡り廊下を通る。

「君が見つけたの?」
「違います。呼ぶ声を聞いて、風呂から」
「中にいる人に聞きます。ここで車を待っていて」

 僕は頷いた。場所なら、迷わず言えた。下の階を見たいと言ってついていったのが、ずっと前のことのようだった。

 救急車の赤い光が、玄関のガラスに映った。僕は手を上げた。曲がり角を越えてきた車が止まり、中から人が降りた。担架が運ばれるところで、小鈴さんが戸を押さえた。

 僕も中へ入った。澄さんが廊下の人たちを壁際へ寄せていた。自分も寄ると、傘を閉じて、と言われた。開いたままだった。

 その後は、誰が先にどこへ行ったか、よく分からなかった。
 救急の人が拓海の手も見た。水原さんが押さえていたハンカチを外し、布を当てて包帯で留めてもらった。深さはここでは確認できないので、診察を受けてくださいと言われた。

「この人を先に。俺は、後で行きます」

 拓海が答えた。庄司さんの担架へ目を向けていた。救急の人は、出血が続くならすぐ知らせるよう女将さんにも伝えた。

 女将さんが客の人数を数え、笠原さんが戻ってきて頷いた。なずなさんは椅子に座り、陶子さんの手首を握っていた。宏和は救急の人へ何かを説明していた。手に持った携帯の画面が暗くなり、何度か押し直している。制服の警察官が読書室の戸口で写真を撮っていた。黒い帯はまだ床にあった。
「ここに、録画している端末があります。どなたの物ですか」
 水原さんが手を上げた。
「入るところから。原稿を返してもらう時の」
「いまも録っていますね。操作せず、そのまま。置いた時の状態も確認します」
 警察官は木台と画面を撮った。持ち主と録り始めた時を訊いてから、その場で録画を止めさせた。元の記録を確認して保全するので、編集も削除もしないよう言った。
 机の原稿と赤いペンの位置を確かめ、救助のために動かした物を、一人ずつ訊いた。水原さんの端末は警察官の確認の下へ置かれた。

 僕は渡り廊下の端へ行った。制服の警察官が、陶子さんに倒れていた椅子の向きを尋ねていた。

「私が起こしたんです。亮君が胸の傍へ行くのに邪魔だったから。脚の下に、帯の端が」
「眼鏡を、机へ置いたのも?」
「はい。顔のところにあったから。首の帯は、来たときには、もうなかったです。水原さんは、手首を持ってました」

 水原さんが近づいた。

「紙も床にありました。私が戻った時は、もう」
「入ってからの順に伺います。まず、こちらへ」

 警察官は彼女を空いた椅子へ座らせ、開いていたファイルについても確かめた。陶子さんは机へ置いたと答え、自分の手を見た。読書室から救急の人が呼び、警察官が戸へ戻った。
 帳場には、拓海が運んだ灰色の電話があった。制服の警察官が女将さんへ、読書室の電話ですか、と訊いた。

「ええ。通じないと、池上さんが持ってきてくださいました。でも、こちらへ挿したら内線は通じました。戻す支度をしていて、声がしたんです」

 女将さんは本体へ触らず、脇の線を指した。受け取ってから一度も読書室へ戻していない、と警察官へ言った。

「外線の方は、この電話で救急へ。上のは帳場に繋ぐ内線です」

 警察官は手帳へ書いた。女将さんは、庄司さんからのお電話も、その少し前に受けています、と答えた。
 僕がロビーへ戻ると、亮が渡り廊下から出てきた。シャツの胸が濡れ、両手を下へぶら下げていた。

「大丈夫か」

 僕が訊くと、何度か頷いた。

「俺は」

 それ以上言わなかった。僕は水のボトルを持っていたが、渡せばいいのか訊けばいいのか、うまく決められなかった。

 拓海が傍へ来た。

「シャツ、裏返しだぞ」

 胸を見ると、縫い目が外に出ていた。

「ああ」
「着替えてくれば」
「でも」
「今、やることある?」

 僕が黙ると、拓海は、じゃあ行ってこい、と言った。いつもの言い方だった。僕は傘を畳み、壁へ立て掛けた。

 階段へ向かいかけたとき、女将さんが福地さんを呼び止めた。

「お預かりしたものが」

 白い封筒を渡した。福地さんは上の小さな紙を外し、中身を途中まで出した。

「池上君。私から預けたものだね」

 拓海が足を止めた。

「福地さんから預かったのは、それです」

 福地さんは制服の警察官を呼んだ。

「講演の主催から来た要求書のコピーです。庄司さんが持っていたそうです。預かった方は、こちら」

 黒い文字が見えた。僕が渡した封筒へ、庄司さんが入れた紙だった。

 近づくと、福地さんが、昼にもこの文面を皆さんが見ています、と付け加えた。僕は口を開いた。女将さんが救急の人に呼ばれ、拓海も廊下を空けるために脇へ寄った。

「俺、それ――」

 亮が僕の腕を掴んだ。

「祐助。水」

 声が掠れていた。僕はボトルを渡した。亮は蓋を回し、一口飲んだ。右肘を伸ばそうとして、ボトルを左へ替えた。それから肩を下げ、また飲んだ。

「宏和、まだ向こう?」

 僕は頷いた。亮は渡り廊下を見た。戻ろうとはしなかった。

 庄司さんが運ばれていくとき、顔は見えなかった。僕らは壁へ寄り、担架の通る分を空けた。

 担架を固定する音がした。誰かが時刻を言った。女将さんは鞄を持って外へ出たが、付き添いは別の人に頼むと決まったらしく、すぐに戻った。

 救急の人が、首と手首の状態も搬送先へ伝えます、と制服の警察官へ言った。僕は傍まで行かず、玄関の戸を押さえた。
 警察官が、病院での確認を引き継ぐと言った。福地さんは頷き、車の前で何かを伝えた。戻ると、読書室には入らないでくださいと客へ声をかけた。

 救急車が動き始めた。警察の車も後を追った。赤い光が木の幹を横切り、曲がり角の向こうへ消えた。

 六時半だった。

 宏和が玄関へ戻った。僕らを見ると、壁へ背をつけた。携帯を持ったままだった。亮が彼を見てから、腹減った、と言った。

 僕は亮を見た。宏和も顔を上げた。

「いや。違う」

 亮は自分でも分からないような顔をしていた。

「違わないけど。今じゃない」

 笠原さんが厨房の戸口に立っていた。

「飯はあるよ」

 そう言い、また中へ入った。僕は傘の水が床へ落ちているのを見た。着替えに行こうとしていたことを思い出したが、もう階段へ足が向かなかった。

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目次

山を下りるにはまだ早い

  1. 01四人部屋
  2. 02並ぶ前
  3. 03二つの一階
  4. 04待っている答え
  5. 05先に買う
  6. 06湯の手前
  7. 07玄関読書中
  8. 08雨の二人
  9. 09骨
  10. 10返すもの
  11. 11まだ話している
  12. 12紙の向こう
  13. 13返してもらうもの
  14. 14隣へ座る
  15. 15下へ行く
  16. 16残した車
  17. 17九時の番号
  18. 18送られてきた紙
  19. 19後ろの席
  20. 20おかわり
  21. 21終章 四人分

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