濡れた体に服を通すと、シャツが背中で丸まった。
宏和も亮も、もう脱衣所にいなかった。僕は籠から携帯と水を取り、財布をズボンのポケットへ押し込んだ。タオルを置いたまま、廊下へ出た。
小鈴さんが浴衣の裾を押さえながら走っていた。
「旧館。あっちから」
下の渡り廊下へ向かう背中を追った。読書室の入口になずなさんがいた。片方のスリッパが脱げている。僕を見ると何か言ったが、声にならなかった。
庄司さんが床に背をつけていた。肩は机の脚に近かった。左腕の傍にファイルが開いていて、紙の端が裏へ折れていた。なずなさんの借りた写真帳が戸の内側へ落ちていた。水原さんは左手で右手首を下から取り、顔を上げた。
「救急、お願いします。反応しなくなって」
宏和はもう電話を耳に当てていた。住所を言い、旧館の二階です、と付け足した。
陶子さんは庄司さんへ呼びかけた。返事はなかった。水原さんが持っている右手へ目を落とした。
「手を、離してください」
「さっきまで、話して」
「その手です。私が、下から持ちます」
水原さんが陶子さんを見た。右手首の下にあった左の指が開いた。陶子さんの手が下へ入り、腕を床へ下ろした。
陶子さんがファイルを閉じ、机へ載せた。亮が胸の傍へ膝をつこうとして、倒れた椅子の脚に当たった。陶子さんが椅子の背を持ち、起こした。脚の下から、黒い帯の端が出た。
「私が来た時には、首にはなかったんです。福地さんが起こして。腕へ回したところから、私は」
水原さんが帯を指した。陶子さんは首を見てから、椅子へ目を戻した。水原さんは帯を拾わなかった。
宏和が電話を床へ置き、音を大きくした。
「普段どおりの呼吸をしていますか」
電話から聞こえた。陶子さんは胸を見た。眼鏡の片方の柄が頬に残っていたので、顔から外し、机の端へ置いた。
「普通か、分かりません。呼んでも、返事しなくて」
宏和が繰り返した。電話の相手が胸を押すように言った。亮が膝をついた。水原さんが膝をずらした。胸の傍が空いた。
亮は電話の声に従って両手を重ねた。最初に押したとき、シャツの肩が突っ張った。肘が伸び、また押した。
拓海が戸口へ来た。倒れた人を見て立ち止まり、亮の背中を見た。起こした椅子はまだ机の横にあった。彼が壁際へ運ぼうとすると、背が机へ当たった。水のコップが縁から落ち、床で割れた。
拓海は椅子を浮かせたまま、濡れた床で足を滑らせた。左手が床についた。
「触らないで。ガラスがある」
陶子さんが言った。拓海は手を上げた。掌に赤い筋があった。
「切った?」
「ちょっと。椅子、どけようと」
彼は右手で椅子を押し、左手を胸へ寄せた。僕はタオルを置いてきた。なずなさんが袋から白いハンカチを抜いた。
「これで、押さえれば」
陶子さんが、ガラスに触れないで、傷の上へ布を、と言った。水原さんが受け取り、拓海の掌へ当てた。右の袖口が手へ滑り、白い裏の折り目が布に触れた。
「手を下ろさないで。ここ、私が押さえます」
拓海はその人を見た。右手で椅子を押すのをやめた。水原さんは彼を戸口の横へ座らせ、布の上から押さえた。
「AED、あるかって」
宏和が小鈴さんへ言った。小鈴さんは渡り廊下へ向かった。
「救急車、誰か玄関で」
「俺、行く」
僕は答えたが、戸口にいた。亮の顔を見ていた。さっきまで、自分の方へ早く来いと言っていた顔だった。今は下を向いていた。
「行けよ」
亮が一度だけこちらを見た。僕は頷いた。
水原さんが木台を見た。拓海の掌へ当てた布の端を持ち直した。携帯が立っていた。画面には、膝をついた亮の背中が動いていた。
「そこから動かさないで。手、押さえててください」
陶子さんが言った。水原さんは拓海の手へ目を戻した。
僕は戸口から離れ、玄関へ走った。
女将さんが帳場の電話を取っていた。小鈴さんがその横で、AEDはないですか、と訊いていた。女将さんは、置いてないです、と答え、電話の相手へ、警察の方も、と言った。
「玄関で待ちます」
自分の声が大きかった。女将さんが受話器を押さえ、お願いします、と答えた。
靴紐を結ぼうとして、手が震えていることに気づいた。輪にした紐が指から抜けた。踵を踏んだまま外へ出た。
雨は細く、冷たかった。看板を過ぎたところから、道が木に隠れていた。車はまだ来なかった。
携帯を出した。誰へ掛ければいいのか考え、誰も出てこなかった。母に知らせても、何が起きたのか説明できない。さっきの友人には、提出できたと返したばかりだった。
四人の写真が画面に残っていた。僕がその写真を送ってから、どれくらいだったのだろう。
十五分ほどして、福地さんが玄関から出てきた。ジャンパーを着直していた。携帯の時刻は五時三十五分になっていた。
「救急は」
「まだです。亮が、今」
福地さんは頷き、軒下から署へ電話を掛けた。繋がるまで何度か場所を変えた。僕は道の方を向いた。電話の低い声の間に、雨の音が入った。
厨房の方から笠原さんが出てきた。救急車は呼んだ、と僕が言うと、うん、聞いた、と答えた。
「外は寒いだろ」
彼は玄関灯をつけた。戸が閉まると、道の曲がり角がさっきより暗く見えた。
小鈴さんが傘を持ってきた。
「これ。濡れちゃうから」
「ありがとうございます」
「車が来たら、私も呼んで」
彼女は戻りかけ、もう一度僕の顔を見た。
「名前、青凪君で合ってるよね」
「はい」
「うん」
傘を開くと、柄が手の中で少し回った。握り直した。指の震えが収まり、今度は背中が冷えていると分かった。
救急車より先に、もう一台車が着いた。制服の警察官が降りてきたので、僕は読書室への道を言った。玄関を入って右、本館一階の奥から渡り廊下を通る。
「君が見つけたの?」
「違います。呼ぶ声を聞いて、風呂から」
「中にいる人に聞きます。ここで車を待っていて」
僕は頷いた。場所なら、迷わず言えた。下の階を見たいと言ってついていったのが、ずっと前のことのようだった。
救急車の赤い光が、玄関のガラスに映った。僕は手を上げた。曲がり角を越えてきた車が止まり、中から人が降りた。担架が運ばれるところで、小鈴さんが戸を押さえた。
僕も中へ入った。澄さんが廊下の人たちを壁際へ寄せていた。自分も寄ると、傘を閉じて、と言われた。開いたままだった。
その後は、誰が先にどこへ行ったか、よく分からなかった。
救急の人が拓海の手も見た。水原さんが押さえていたハンカチを外し、布を当てて包帯で留めてもらった。深さはここでは確認できないので、診察を受けてくださいと言われた。
「この人を先に。俺は、後で行きます」
拓海が答えた。庄司さんの担架へ目を向けていた。救急の人は、出血が続くならすぐ知らせるよう女将さんにも伝えた。
女将さんが客の人数を数え、笠原さんが戻ってきて頷いた。なずなさんは椅子に座り、陶子さんの手首を握っていた。宏和は救急の人へ何かを説明していた。手に持った携帯の画面が暗くなり、何度か押し直している。制服の警察官が読書室の戸口で写真を撮っていた。黒い帯はまだ床にあった。
「ここに、録画している端末があります。どなたの物ですか」
水原さんが手を上げた。
「入るところから。原稿を返してもらう時の」
「いまも録っていますね。操作せず、そのまま。置いた時の状態も確認します」
警察官は木台と画面を撮った。持ち主と録り始めた時を訊いてから、その場で録画を止めさせた。元の記録を確認して保全するので、編集も削除もしないよう言った。
机の原稿と赤いペンの位置を確かめ、救助のために動かした物を、一人ずつ訊いた。水原さんの端末は警察官の確認の下へ置かれた。
僕は渡り廊下の端へ行った。制服の警察官が、陶子さんに倒れていた椅子の向きを尋ねていた。
「私が起こしたんです。亮君が胸の傍へ行くのに邪魔だったから。脚の下に、帯の端が」
「眼鏡を、机へ置いたのも?」
「はい。顔のところにあったから。首の帯は、来たときには、もうなかったです。水原さんは、手首を持ってました」
水原さんが近づいた。
「紙も床にありました。私が戻った時は、もう」
「入ってからの順に伺います。まず、こちらへ」
警察官は彼女を空いた椅子へ座らせ、開いていたファイルについても確かめた。陶子さんは机へ置いたと答え、自分の手を見た。読書室から救急の人が呼び、警察官が戸へ戻った。
帳場には、拓海が運んだ灰色の電話があった。制服の警察官が女将さんへ、読書室の電話ですか、と訊いた。
「ええ。通じないと、池上さんが持ってきてくださいました。でも、こちらへ挿したら内線は通じました。戻す支度をしていて、声がしたんです」
女将さんは本体へ触らず、脇の線を指した。受け取ってから一度も読書室へ戻していない、と警察官へ言った。
「外線の方は、この電話で救急へ。上のは帳場に繋ぐ内線です」
警察官は手帳へ書いた。女将さんは、庄司さんからのお電話も、その少し前に受けています、と答えた。
僕がロビーへ戻ると、亮が渡り廊下から出てきた。シャツの胸が濡れ、両手を下へぶら下げていた。
「大丈夫か」
僕が訊くと、何度か頷いた。
「俺は」
それ以上言わなかった。僕は水のボトルを持っていたが、渡せばいいのか訊けばいいのか、うまく決められなかった。
拓海が傍へ来た。
「シャツ、裏返しだぞ」
胸を見ると、縫い目が外に出ていた。
「ああ」
「着替えてくれば」
「でも」
「今、やることある?」
僕が黙ると、拓海は、じゃあ行ってこい、と言った。いつもの言い方だった。僕は傘を畳み、壁へ立て掛けた。
階段へ向かいかけたとき、女将さんが福地さんを呼び止めた。
「お預かりしたものが」
白い封筒を渡した。福地さんは上の小さな紙を外し、中身を途中まで出した。
「池上君。私から預けたものだね」
拓海が足を止めた。
「福地さんから預かったのは、それです」
福地さんは制服の警察官を呼んだ。
「講演の主催から来た要求書のコピーです。庄司さんが持っていたそうです。預かった方は、こちら」
黒い文字が見えた。僕が渡した封筒へ、庄司さんが入れた紙だった。
近づくと、福地さんが、昼にもこの文面を皆さんが見ています、と付け加えた。僕は口を開いた。女将さんが救急の人に呼ばれ、拓海も廊下を空けるために脇へ寄った。
「俺、それ――」
亮が僕の腕を掴んだ。
「祐助。水」
声が掠れていた。僕はボトルを渡した。亮は蓋を回し、一口飲んだ。右肘を伸ばそうとして、ボトルを左へ替えた。それから肩を下げ、また飲んだ。
「宏和、まだ向こう?」
僕は頷いた。亮は渡り廊下を見た。戻ろうとはしなかった。
庄司さんが運ばれていくとき、顔は見えなかった。僕らは壁へ寄り、担架の通る分を空けた。
担架を固定する音がした。誰かが時刻を言った。女将さんは鞄を持って外へ出たが、付き添いは別の人に頼むと決まったらしく、すぐに戻った。
救急の人が、首と手首の状態も搬送先へ伝えます、と制服の警察官へ言った。僕は傍まで行かず、玄関の戸を押さえた。
警察官が、病院での確認を引き継ぐと言った。福地さんは頷き、車の前で何かを伝えた。戻ると、読書室には入らないでくださいと客へ声をかけた。
救急車が動き始めた。警察の車も後を追った。赤い光が木の幹を横切り、曲がり角の向こうへ消えた。
六時半だった。
宏和が玄関へ戻った。僕らを見ると、壁へ背をつけた。携帯を持ったままだった。亮が彼を見てから、腹減った、と言った。
僕は亮を見た。宏和も顔を上げた。
「いや。違う」
亮は自分でも分からないような顔をしていた。
「違わないけど。今じゃない」
笠原さんが厨房の戸口に立っていた。
「飯はあるよ」
そう言い、また中へ入った。僕は傘の水が床へ落ちているのを見た。着替えに行こうとしていたことを思い出したが、もう階段へ足が向かなかった。