劇場の戸の前で、凪が止まった。
小宮さんは中へ入らせなかった。段ボールはもう出してあり、土曜に凪が避けた場所へ紙の箱が置かれていた。長椅子には白いシャツが掛かっている。
「ここから」
細いガラスが襟より上を切り、袖も見せていなかった。台へ向く人の背に見えた。凪が箱を避けると、白い肩が台へ寄った。
僕も通った。戻ると肩も戻った。
「俺が動いてたんだ」
凪は戸へ近づき、源さん、と呼んだ。白いところはガラスから外れた。
返事はなかった。
僕は先に戻ったと思ったなら声を掛けてほしかった。掛けても、このシャツは答えない。源さんは二階で凪の紙を待っていた。
小鈴が受付へ来た。印刷所に後半から自分の名前を抜くよう頼んだが、今日の分は戻せなかった。三千円の控えを鞄へ入れ、僕から少し離れて座った。
凪は原稿を出しかけ、小宮さんを見た。
「金曜、出来た分を見せるって返してるんです。二回目の声、使っていいか、源さんの姪の方へ聞くのは」
「その件は、いまは先へ進めないでください」
「俺の映像に入ってるんですけど」
小鈴が鞄の口を閉じた。凪は顔を上げ、原稿を机へ置いた。
小宮さんが、源さんの上着の写真と、客を撮った画を並べた。縄の下から薄茶色が出ている。
凪の手は原稿の最初へ行った。僕もさっきまでそこを見ていた。客をもう一度やれば、源さんが見なくなった時の凪が分かると思っていた。
「朝の方、先に見たいです」
小宮さんが画を替えた。僕は二階の戸を押す前まで戻してもらった。
戸は開かず、鍵の人が回した。ルカが椅子を運び、僕は窓を押した。凪の携帯が低い棚へ置かれるまで、箱へ届く手はなかった。
縄がほどけ、留め金を外した。薄茶色が側板と一緒に倒れた。
僕の手が映った。
「そこで止めてください」
源さんの腰へ、両手を入れている。
畑野さんが肩の下の布を持った。毛布は腰の下まで続き、二人で身体を下ろした。右の肩から脱げた上着の背が、毛布と一緒に板へ折れ出ていた。
僕は画の自分へ手を寄せた。そこを持てば、源さんの腰が載る。服の端だけを引いていたのではなかった。
「その布、夜の方にもありました」
小宮さんが客の画へ戻した。縄の下に、斜めの隙間があった。
「僕、服だけなら置けるって言いました。朝、そこへ手を入れたのに」
凪は顔を上げた。
「源さんは帰って、その上着だけ置いたんですか」
「俺が読む方、先に見たら。ここからは言えてます」
凪が原稿を僕へ向けた。取らなかった。
「服を置いたあと、身体を入れたなら、箱をもう一回開けるでしょう。僕が戸を押す前か、椅子を動かしてる間か」
小宮さんは画を朝の最初へ戻した。
そこにはもう、誰かが源さんを持ち上げる手がなかった。戸を開けて椅子を動かす僕らの向こうで、箱は閉じていた。
「夜、鍵を掛けたあとに来た人はいますか」
僕は訊いた。
「鍵の人が一緒に建物を閉めています。朝も、あなたたちの前で開けた。ほかの部屋を使った人にも聞いています」
下の窓は開かず、箱を通した戸は一つだった。二階へ戻ったのは凪、そのあとルカ。ほかに上がった人はいないと、小宮さんは答えた。
凪が帰る所も見せてもらった。ルカは階段で待ち、鍵の人がコンセントを抜く。箱の蓋も側板も開かなかった。小鈴へ部屋を見せる画にも、閉じた箱があった。
夜の布の下には、もう源さんがいた。
小鈴が自分の携帯を机へ置いた。
「九時四分は、私と話したよ」
「その前、二回読んだ方は」
僕が凪へ訊くと、彼は紙の端を押さえた。
「二回目の最後、ゆっくりになって。俺の最初、すぐには入らないんです。でも、そこは、源さんの方が」
「聞いた。昨日、好きだって言った」
凪は一度頷き、携帯へ手を出そうとした。小宮さんが読む画を開いた。
源さんは続きの紙を押さえ、二度目の最後をゆっくり言った。昼の紙の下は白かった。凪が劇場で書き足し、戻って渡してから読んでもらった声だ。
電話が鳴った。
『車、返したか』
小鈴が返した場所を答える。源さんはまだ読んでると言い、客を先に立たせろと返した。
小鈴は自分の携帯から手を離した。
「ここ、私。言った場所、同じ」
小宮さんは電話の前後も切らなかった。源さんが机へ携帯を置く。背の二つの糸玉の間は閉じている。
「ルカは、まだ車でした」
僕が言うと、小宮さんは工藤さんの記録へ替えた。
九時からルカが座席で工具を出していた。八分に名古屋の人が入り、図の穴を言う。ルカは顔を上げて合わせ、顔も肩も画から消えなかった。右の手首を見せろと、もう一度言われた。
途中を飛ばさず、二十分、相手が終わると言うところまで見た。
あの駐車場から二つ角を曲がり、階段を上がる。降りてすぐ走ったとしても、二十一分の箱へ届かない。僕はその道を小宮さんに確かめ、画の終わる時刻をもう一度見た。
朝、ルカは源さんの顔より先に窓側へ回った。土曜にそこから出る源さんへ手を貸した、と聞いていた。僕はその話を後ろへ置き、顔の場所を知っていることを先へ出していた。
客の画へ戻った。九時二十一分。空いた椅子と、縄の下の切れた布。
一分ほどしてルカが来る。
『工藤さん、まだ源さんに掛けたいって』
『帰りました』
画の凪が、原稿の最初へ戻る。ルカの返事を聞いて、同じところからもう一度言った。
「君が読む前に、箱は閉まってた」
僕は凪を見た。
「九時四分、源さんはまだその服で、傷はなかった。電話のあと、帰る所を見たの」
凪は紙を取った。
「俺が止めました。客をやるから。源さんも、来いよって」
小宮さんが、電話のあとに止めた録画のことを聞かせてください、と言った。
凪の指は紙の一行目にあった。日曜の夜にはそこを僕へ向け、続きを見つけてくれた。今も向けた。
「ここ、聞いてもらえば」
「帰った方を聞く」
「帰ってない。俺が」
小鈴が顔を上げた。
「俺の続き、待ってた。俺が出れば、その後、立つから」
凪は紙を机へ置いた。源さんが読んだ最後の爪の跡があった。
「二回目、聞いてもらったら。そこまで、作ったんです」
僕は紙を奥へ戻した。
「今、その客の方は聞けない」
凪の指が紙のなくなった所へ下りた。
「右の後ろから、背へ入れました。ナイフ、箱の上にあって」
左の手を見た。
「俺が刃、開いた。袖、引いたら、源さんが。座ってもらう方へ。戻ってはくれなかった」
小宮さんは、ここからは別に聞きます、と言った。僕と小鈴を外へ出し、凪の携帯を受け取った。
廊下で手を空けた。凪の紙は中へ置いてきた。
日曜の夜、僕の水を飲んだ手を思い出した。新しい方を遠ざけると、凪は笑って、空の方を取った。
ここを出たら水を買うのかと思った。凪の分まで、と思いかけて鞄へ出した手を戻した。
小鈴が原稿の最初を出した。
「今日、忘れた物の客、面白かったよ」
僕は頷きかけた。
「でも、こっち見てないのに頷いた所。あれ、私、使わない」
小鈴は紙を鞄へ戻した。僕の名のある受付の紙は、その下にあった。