日曜の七時半、箱は劇場の裏口へ出ていた。
蓋の字は『食器』だった。畑野さんが紙を渡した。廃棄する衣裳、台本、布。詰めた人の名前は畑野さんだった。
「もう一つは?」
「昨日、小鈴たちが。今日の会場へ。大きくて、二人とも階段、一段ずつだったって」
僕は狭い手掛けへ軍手を入れた。板の端が爪に当たる。畑野さんが反対側を持ち、本が下へあるから重いと言った。
車輪が段差へ引っ掛かった。二人で持ち替え、荷台へ上げた。蓋と箱へまたがる三本のテープを撮った。欠けた車輪も。
「源さんは」
「小鈴の方へ行くんじゃないかな。昨日、箱を持って行く話をしてたから」
「月が十一時半です」
「そっちが先だったね。戻ったら電話してみて」
東倉庫では畑野さんが先に着き、シャッターを開けて待っていた。下ろした位置を撮り、署名をもらった。奥の棚には、前の台本がまだ積まれていた。
会社へ車を返すと、原田さんから電話が来た。
「東で火が出た。さっきの所だ」
僕は下ろしたばかりだと答えた。誰か中にいたかと訊かれ、畑野さんの名前を言った。二度目の電話で、本人が外にいると聞けた。
「箱、消防の人が見るから。そっちは先に月を頼む」
写真を消すなと言われ、いったん家へ戻った。父の洗った顔から水が落ちていた。
「飯は」
「あとで」
母が残したパンを一つ取った。
十時四十分、ルカから電話が来た。
「都、来てる?」
「僕、まだ劇場に着いてない」
「俺、小鈴の会場の前。まだ開いてない。都、来てないんだよ。昨日も帰ってない」
都の名で九時十八分に届いた文を、彼が転送した。少し考えたい、連絡しないで、とあった。
「源さんはそっち?」
「凪も聞いてる。劇場、いないの?」
劇場の裏口へ着いて、僕は自分の鍵を出した。作業室の戸は開いていた。長椅子は空で、替えの白いシャツが背へ掛かっている。棚と型紙は都の言ったままに残っていた。
小鈴が読む紙はなかった。台の上の短い紐だけが、鉛筆の下へ入っていた。
僕は源さんへ電話した。鳴る音はここでは聞こえなかった。
月を受け取る人へ、少し待ってほしいと連絡した。そのあと、借りた会場へ向かった。
小鈴が借りた部屋は、北品川の小さな建物の二階だった。ルカと凪は下で待っていた。ルカの電話は、そこで掛かって来たのだった。
入口の女の人は箒を片手に持ち、二階の鍵を壁の箱へ掛けていた。小鈴が鍵の人と呼んでいた人だった。
「部屋、十一時からね。荷物は先に見てもらっていいから」
凪が、小鈴の午前の司会はまだ終わらない、と言った。
「源さん、返事ないですか」
「劇場にはいない」
「昨日、ここへ来たんです。箱も一緒に。源さんは助手席で」
「靴、ないよね」
「ルカさんの作業用、借りて。車の所で履きました。箱は空だったんで、二人で階段、上げて」
「八時三十八分。源さんはこっちで待つって。俺、新しい後半を取りに戻って、小鈴さんは車を返しに」
「じゃ、ここにいたんだね」
「でも、四十二分、劇場にもいた」
凪は八時三十四分に来た文を開いた。小鈴の三分と彼の後半を、続けて二人の名で出すか。九時までに返事するよう求められていた。
「作業室の中。白い背、机に向いてた。俺、段ボール避けて行ったら、肩が机の方へ寄って。先に戻ったんだって」
「話せた?」
「声、掛けなかった。もうちょっと待ってって言われると思って」
僕が最後に見た背は薄茶色だった。
「俺、その時、工藤さんとこ」とルカが言った。
ねじの返却の控えを出した。八時半から四十八分まで店にいて、そのあと会場へ来たという。
「五十分過ぎ、源さんと台のこと、話した。靴も返してもらって。俺は車へ戻って、電話してた」
「俺が戻ったの、五十三分です」と凪が言った。「源さん、いなくて」
僕は階段の上を見た。二階の戸はまだ閉まっていた。
「ルカは、帰るところ、見た?」
「見てない。九時から工藤さんと映像で。八分に向こうが入って、二十分まで。待ってる間も工具、出せって。右の手まで出せって言われて、車の中で」
ルカは工藤さんから来た接続先を見せた。工藤さんが初めから残して、名古屋へ渡す。僕が停めた場所を訊くと、会場と反対へ二つ角を曲がる駐車場だと言った。
「終わってから戻った。階段、急いだら、こっちで凪が読んでて」
「借りた靴も返してあったんで」と凪が言った。「帰ったんだと思って」
凪は紙を二枚揃えた。昨夜ここで読んだ、彼の後半だった。
「俺が戻る客をやったんです。最初、ルカさんに聞いてもらって。息を切るとこ、もう一回」
ルカが頷いた。源さんへ掛け直すために戻ったが、凪の一行を聞いたという。九時半に、凪が会場の鍵を返した。
「箱、開けた?」
「開けてない。明日、小鈴さんが冷蔵庫にするので。源さんの紙も、ここへ入れるって言ってたから」
畑野さんが入口へ来た。紺の上着だった。土曜の灰色の服は着ていなかった。火事の話をするため警察からまた呼ばれるが、その前に源さんへ連絡したいと言う。
「ここに来たんですか。昨日」と僕は訊いた。
「来てない。ひばりへ都を送って、岸さんと電話して、そのあと劇場へ」
僕は時計を見た。
「十分早く、いいですか。月の人が来るんで」
「じゃ、いま開ける。昨日の荷物、先に見てね」
彼女は箒を立て、鍵を取った。凪が携帯を横にした。
「置く所、ここから撮ります。階段も。小鈴さんが来たら、また直すんで」
僕は先に二階の戸を押した。開かなかった。鍵の人が回して、手を外した。
黒い長箱が壁へ寄っていた。『旅箱』の蓋が上に載り、毛布の上から二本の縄が蓋を横切り、長い側板を押さえて底へ回っている。片方に「冷蔵庫・小鈴」と書いた紙札があった。机の前には一脚、別の椅子が残してあった。
「昨日もこれだけ出してた。これ、借りる数に入れる?」
「それも八脚のうちです」
凪は低い棚へ携帯を置いた。箱の上と、倒す側板の端まで同じ画へ入れ、手を離した。僕は窓から椅子を退けた。ガラスの脇を押したが開かなかった。
鍵の人が上の小さい換気口の紐を引いた。冷たい空気が頬より上へ通った。
「源さんも、窓、開けようとしてました」と凪が言った。「昨日、ここまで見てなくて」
「これ、上だけ。下は開かないのよ」
鍵の人は下へ戻った。
ルカが畳んだ椅子を二脚運び、凪は頁の順を直した。僕は月の人へ、もう少し待ってほしいと送った。
凪が箱へ掌を置いた。
「これ、開けたいんです。源さんが紙も一緒に入れるって言ってたんで」
今日は冷凍庫の役になる。上ではなく、長い側の板を手前へ倒す。凪が輪を引くと縄がほどけた。紙テープを巻いた四つの端が、床へ落ちた。畑野さんが蓋を持った。
僕は蝶番のある下へ手を出した。金具が一つ、内側へ戻っていなかった。
「押さえて。板、倒れるから」
凪が上の縁を持つ。僕が留め金を外した。
ルカが凪の前を通り、窓側の短い板へ回った。
「歩、一歩引いて。板、倒れる」
僕は入口側に出した靴を退けた。板の倒れる所だと思った。
布が板へ当たった。薄茶色だった。
白い靴下が二つ見えた。靴は履いていなかった。
源さんの顔は、窓側の短い板のそばにあった。閉じた目の上へ、眉の毛が一筋下がっていた。
「源さん」
畑野さんが箱の端へ膝をついた。僕も続き、肩へ手を伸ばしかけた。どこを持てばいいのかわからなかった。昨日は、触る前に自分でできると言った。
ルカが一一九番へ電話した。
「長い箱の中に人がいます。服に血。呼んでも」
向こうの返事を聞き、僕へ胸を見るよう言った。僕は見たが、動いているのかわからなかった。そのまま答えた。
ルカは携帯の音を大きくした。床へ出すよう言われ、畑野さんが肩の下の布を持った。上着は右肩から脱げかけ、背の布が毛布の端と一緒に側板へ折れ出ていた。僕は腰の下へ両手を入れた。源さんを箱の開いた側から、すぐ下の床へ移した。背の下の毛布が赤黒く濡れていた。仰向けにしようとして、曲がっている腕が床へ当たった。
「腕、伸びない」
僕は源さんの袖を持った。肘のところが動かなかった。首の横へ手の甲が触れ、冷たかった。
ルカがそのまま電話へ伝えた。僕は相手の言う胸の位置を探した。畑野さんが上着の前を開き、手を置いた。
「ここ。歩、ここ」
畑野さんは僕の手を引いた。押すと、思っていたようには沈まなかった。少しでも動かそうとして、僕のほうの肩が痛くなった。
ルカが数えていた。胸が動かない、腕も、と電話へ話す間は、僕が数えた。途中で、次の数が出てこなくなった。
昨日は椅子から立つ源さんへ肩を貸した。立った直後にまた工具を拾おうとしたので、僕は肩を離せなかった。
「源さん、返事して」
畑野さんが声を張った。僕の耳元でもう一度、同じことを言った。
凪は壁へ下がった。窓の下に置いた携帯の画面が、明るいままだった。
榊さんの声が会場の入口でした。
「劇場にいらっしゃらなかったので、こちらへと」
ルカがこの建物の名前を言い、救急車を案内してほしいと答えた。僕は胸を押した。月を受け取る人へ、まだ電話をしていなかった。
救急隊の人が僕の手を止めた。
「こちらで確認します。いったん離れてください」
僕は膝を動かせなかった。ルカに腕を持たれ、廊下へ出た。掌のつけ根が痛かった。畑野さんは戸のところへ残った。
そのうち、隊員の一人が出て来た。
「救急車では、お連れしません。警察へ引き継ぎます」
「車、来てますよね」
ルカが言った。隊員は、源さんに死後の変化があると説明した。腕や胸の硬さも、そのためだという。僕は戸の中を見た。源さんの胸へ手を置いている人はいなかった。
「僕、まだ押せます」
僕は両手を見せた。返事を聞く前に、ルカが僕の手首へ触れた。
月を受け取る人から電話が来た。もう近くまで来ていると言われ、今日は渡せなくなったと伝えた。相手は、二人とも聞いているので大丈夫、と答えた。戻れるところで、と、車の人へ話していた。
サエさんは三度目の電話で出た。
「いま、バス。靴、できた」
「源さんが、倒れて。救急の人が、来て。まだ、ここに」
返事はなかった。停留所の案内が聞こえた。
「待ってて」
彼女が電話を切った。
入口の外へ椅子を出してもらい、座った。ルカは都の姉へ電話している。凪は段差に座り、携帯を自分の靴の上へ伏せていた。
「消してない」
僕が見ると、凪が言った。
「置く所を撮ってた。入る前から、止めてなかった」
「消さないほうがいいと思う」
彼はうなずいた。警察官が近づくと、先に画面を差し出した。
畑野さんが建物から出て来た。源さんの家族へ連絡するため、番号を探していた。僕は自分の携帯を開いた。朝の箱の写真があった。蓋の字、テープ、車輪、灰色の床。
電話が鳴った。原田さんだった。
「いま、どこだ」
「小鈴の会場です。源さんが、救急の人に」
「人、いるな。警察は」
「来てます」
僕は朝の火事を警察へ伝えていないことに気づいた。原田さんは、先にそれも話せと言った。
「東は、火、消えた。おまえの下ろした場所も、これから聞かれる。伝票と写真、こっちは残してるから」
僕は画面から目を離した。畑野さんは源さんの家族の番号を探していた。箱の受取人の名前は、朝、目の前で書いてもらった。
「いまから行く。そこに、いろ」
原田さんが電話を切った。僕は携帯を持ったまま、警察官のほうを見た。