畑野さんは五時半に戻った。ひばりへ壁を入れ、日曜には二つ椅子を使いたいと頼んだが、もう処分してしまったと言われたそうだ。
都は灰色の服を持って待っていた。
「先に一回だけ。源さん、電話のところをやりませんか」
「今着たら、もう脱いでもらうよ」
「一回だけ。ね」
源さんは月の紐を台へ置いた。
「都、まだ測るか」
「今から。着てもらったらね」
畑野さんは灰色の服へ腕を通した。
「都。一回で終わるから」
「終わったらすぐ脱いで。椅子に引っ掛けないでね」
僕は客席から椅子を持ってきた。源さんが座り、後ろへ体重をかける。脚が一つ浮いた。
「歩、これ俺を落とすやつか」
「そこまで考えてなかったです」
ルカが畳んだ紙を脚の下へ押し込んだ。源さんがもう一度揺れてから、いいぞと言った。
凪が携帯を立てた。
「撮ってもいいですか。都さんの説明も頼まれてるんで、同じのに入っちゃうけど、あとで分けます」
「終わってからでいいよ」と畑野さんが言った。
凪は源さんも見た。源さんが掌で腹を撫でた。
「痩せて見えるほうから頼む」
「どっちですか」
「俺が聞きてえ」
都が吹き出した。畑野さんは紙を膝に伏せ、右の手を耳へ当てた。
「もしもし」
「そっち、雨か」
「まだ。窓が閉まらなくて」
「雨じゃねえなら今直せ」
「あなたが帰るまで」
「帰るって言ったか」
畑野さんの手が耳から落ちかけた。源さんは黙って待った。
僕は棚の荷物を数えながら聞くつもりだった。二つ目の箱に手を置いたまま、動かせなくなった。
畑野さんが紙へ目を落としかけ、源さんを見た。
「言わなかった。まだ待ってる」
「じゃ、閉めんな。俺は戸の鍵を持ってねえから」
凪は画面を見ず、二人を見ていた。都が彼の袖を引いて、携帯を指す。
「あ、まだ回ってる」
畑野さんが息を吐いた。
「終わり。もうない」
「尻が痛え」
源さんが言った。畑野さんは椅子を持ち上げようとして、止まった。
「源さん、立って」
「運ぶんじゃねえのか。俺ごと」
「重いでしょう」
「言うなよ」
僕も椅子へ手を出していた。源さんが立つと、急に軽くなった。足元の工具へ屈もうとしたので、僕は肩を貸した。まだ持ってろ、と言われ、彼が道具を取り終えるまで待った。
源さんは畑野さんの紙を取った。折り目を膝で伸ばし、自分が黙って待った行へ指を置いた。
「明日、ここから、もう一回」
「ひばりで? 三浦さんも来るって」
畑野さんはまだ椅子の背を持っていた。
「月を出してから行く。向こうに椅子あったか」
「借りられなかった。ここから二つ持ってく」
「じゃ、俺のはガタつかねえやつだ」
ルカが紙を抜いた。源さんはそれを靴で踏みかけ、避けた。
都が灰色の袖を裏返した。肘の内側に濃い所があった。
「これ、前から?」
「染めた時に片方だけ足りなくて。洗っても、もう落ちなかった」
「じゃあ写真に残す。月曜の面談へ、これ着て行くの」
「短くすれば。服は何でもいいって」
「何でもいいのに、これなの?」
畑野さんは袖を見て笑った。都はまだ笑わず、寸法を測った。
白い札には公演と役の番号があった。その下の細い布を、彼女は袖の裏から出した。
「借りた所の札。ここ、切らないからね」
「短くする所じゃないでしょう」
「札切ったら、返す時、困る。袖、上げて」
都が凪を呼び、袖の裏を撮ってと頼んだ。彼女は畑野さんの腕を横へ開かせ、布を一度戻した。
「ごめん、こっちから。いまの所も、あとで見せる」
凪は止めずに、二人の手の方へ携帯を寄せた。札を出した所でも待っていた。
「そこまで。知り合いへ送る。来週、片方だけ手伝ってもらえるか聞くから」
凪が都へ送ると、長すぎて分からないかも、と畑野さんが言った。
「私が戻してる所も要る。どの袖か、向こうで混ざるから」
「左袖って入れときます」と凪が言った。
都に宛先を読んでもらい、袖の方だけを送った。しばらくして、向こうから金額を出せると返事が来た。
「使えるって。ありがと」
都は針を戻した。凪は画面を閉じ、焼き菓子の包みへ指を出した。中身はもうなかった。
「俺、まだ一個あると思ってた」
「さっき食べたよ」と僕が言った。
「じゃ、あとで買う。まだ食べたい」
畑野さんが笑いかけた時、携帯が鳴った。片腕だけを下ろした。
「はい、届いてます。日曜にお渡しする。台も、引出しも一式で」
都が測る方の腕を上げ直させた。
「岸さん、源さんの番号はありますね。でも先に僕へ。積むのを手伝う人も呼ぶので」
電話を切ると、畑野さんは画面を都へ向けた。
「入った。こっちを先に払える」
彼は別の番号へ掛けた。来週、鍵を受け取る日に布団を入れてよいか聞いていた。
「最初の分、今日送ります。源さんの方は明日渡してから」
都が測る手を止めた。
「台の代金、いま入ったって言った?」
「そう。引出しも一緒に。明日、受取りをもらってから」
「源さんの台でしょう」
「先にこっちを済ませれば、次の仕事から払えるから」
畑野さんは電話へ戻り、都は袖の寸法を書いた。金額の欄へは書かなかった。
源さんが作業室から顔を出した。
「今の、何を渡すって?」
「台です。ひばりへ置く話と一緒に。あとで紙、持って来ます」
「引出しは開けるぞ。工藤の部品も入ってる」
畑野さんは携帯をしまった。都が袖をほどくと、鋏の先の布が一度跳ねた。
流しの脇で僕は葱を洗った。畑野さんが顔を洗い、袖で顎を拭きかけた。食器の布巾を渡すと、違う、と笑って、事務所から白いタオルを持ってきた。
「来月は何するんですか」
「夜の受付。荷物の車が来たら鍵を開けて、誰が受け取ったか残す。歩の仕事と反対側だね」
「決まった?」
「月曜にもう一回会う。三浦さんが紹介してくれたんだ。明日、閉まる前に見たいって、ここにも来る」
彼が棚からどんぶりを下ろした。僕も重なった端を持った。
「源さんと、明日もやるんですか」
「やれたら。今、やるとこを忘れるんだよね。でも待ってくれたでしょう」
僕は頷いた。畑野さんはどんぶりを置き、自分のタオルを段ボールへ戻した。茶碗の包みが引っ掛かって落ちた。
彼がしゃがみ、薄い花の絵を確かめた。
「母親が持ってけって。服を下に入れれば割れないから」
コップには使いかけの歯磨きが立っていた。僕が最初に泊まった晩にもあった気がした。
鍋が煮立ち、僕らは流しへ戻った。
サエさんが金の布を袋へ入れた。半分だけでも椅子には大きいというので、全部なら、と源さんが言った。
「ソファが二つある」
「持ってけ」
「こんな色、誰が選んだ」
「俺だ」
「そう。ちゃんと嫌な色」
「欲しかったんだろ」
「欲しかった」
僕は箱へ紐を掛け直した。源さんが折畳みナイフで端を切り、刃を畳んで作業台へ戻した。
サエさんは源さんの靴を直してくれる。彼が片足を入れると、今日は脱いで、と紙袋を出した。
「来月使う」
「来月までに直す。だから脱いで」
タクシーへ金の布を積む間、靴はサエさんの膝にあった。日曜の朝、受け取りに来られるか訊かれ、源さんは十一時にはいると答えた。
車が出ると、畑野さんが毛布の袋を自分の車へ入れた。
厚い廃棄袋を買うと言って、また出た。都が時刻を見た。六時を過ぎていた。