借りた部屋の机は三つ、壁へ寄せた。
小鈴が受付へ払いに行く間に、凪は原稿を出した。前半の三分と、自分が続けて出すはずだった後半を離して置いた。
「俺、客の方、一回やりたいんです。今書いてる方も、ここから戻すんで」
「今日、凪は持主だよ」と僕は言った。
「そこはやる。でも俺の最初も、歩さんなら」
小鈴が戻った。受付から借りた布を机へ置き、主人の紙を凪へ渡した。後半は今日は通さないと言った。
「私が冷蔵庫、凪が持主。歩は、一回帰った客が、忘れ物で戻ったところだけ。何か言ったら、そこから返して」
「何でも?」
「家じゃなくて冷蔵庫に戻って来たんだから、入る物で」
戻る客の行には、返事を待つ、とだけあった。次の行を先に探していた僕は、そこへ指を置いた。
凪が受付から二人、連れて来た。次の会場が空くまで待っている人たちだった。
「三分だけです。聞いてもらって、あと、出来た方だけ撮りたいんで」
「聞いてもらう三分なら」と小鈴が言った。「撮る方は、いま返事してない」
二人が前へ座った。僕は鞄を入口へ置こうとして、やめた。片方の人が、何を忘れるんだろう、と小さい声で言った。
持ったまま入った。
「忘れ物です」
一度に言った。凪が顔を上げ、小鈴が何を忘れました、と訊いた。僕は鞄を開けた。仕事の手袋と伝票しかなかった。
何も出さずに閉めると、客席の一人が笑った。
今度はゆっくり、留め金を掛けた。
「忘れた物も、忘れました」
凪が机の前へ出た。僕の鞄を覗き、何も出さずに戻った。
「じゃ、私も。何を返すか、忘れました」
小鈴が笑った。客席へ向け、二人とも忘れたので今日は何も減りません、と言った。凪は先に続きを言い、僕が返すまで紙へ戻らなかった。
速くなった分を最初から言い直さなくても、二人は笑った。
三分のあと、受付の人は次の部屋へ戻った。小鈴が客の用事の欄へ、忘れた物、と書き足した。
「今の、撮ってた?」と僕は訊いた。
「撮ってないです。言われたから」
凪は伏せてあった携帯を取った。
「もう一回。主人、いまの方、残したい」
「先に最後まで」と小鈴が言った。「歩が戻る所、今度は私が読んでみる。冷蔵庫の紙、歩、持って」
彼女が入口へ下がった。凪は主人の最初を言った。小鈴が用事を言わずに立つと、彼も紙をめくった。空欄だった。
凪は前の行へ戻り、膝の上で紙を僕へ向けた。
「忘れたって言って」
「次の客、同じ忘れ物にする?」
凪は僕を見た。
「さっきの人、もう一回呼べます?」
「別の部屋、始まった」と小鈴が言った。
僕は冷蔵庫の紙を机へ置き、鞄を持ったまま客席へ座った。小鈴がその紙を取った。
「ここで見てる」
凪が顔を上げた。僕へ最初を言うと、今度は小鈴へ、どの棚、と返した。僕はさっきの人より大きく頷いた。
凪がもう一度、僕を見る。
凪は僕が頷くのを見てから、次の行へ行った。
僕は鞄を膝で開き、携帯を探すふりをした。画面は見なかった。
凪の声が止まった。
「歩さん、今、聞いてました?」
僕は顔を上げた。
「うん」
小鈴が僕の椅子の前へ来た。僕が鞄を閉じかけると、持ち手を押さえた。
「そこに次の客、入ってる? そんなこと、書いてない」
凪は僕へ近づかなかった。
「歩さん、何を見てたんですか」
「聞かなくなったら、続くか」
小鈴が手を放した。
「どうして」
僕は鞄を膝へ置いた。留め金はまだ掛けていなかった。
「土曜も、こんなふうに源さんが見てたのか、知りたかった」
凪が自分の紙を取った。
「待ってたって、言いましたよ」
「そのあと、帰ったって言ったから。客を録り始めた時にはって。今日、こっちをやったら」
「三分をやるって来たんだよ」と小鈴が言った。
机の紙には、さっき僕が言った忘れ物がある。小鈴はそこを消さず、紙を取った。
「後ろを読まないって、受付にも言った。私、そう返事したから」
「土曜にどこで止まったか、聞きたかった。言わないで来た」
凪は携帯を鞄へ入れた。
「歩さんに見ててって、俺、昨日」
「うん」
「さっき、もう一回出来ると思ったんです。あの人たちが見てた方」
僕は立った。
「ごめん。客、ちゃんとやる。もう一回」
「いまはやらない」
小鈴は僕の紙も取った。最初の行にあった指の跡が、端へ残っていた。
凪は主人の椅子を壁へ寄せた。僕が端へ手を出しかけると、凪は持ち上げて壁へ置いた。僕は手を下ろした。
小鈴は受付へ布を返した。幅を確かめるため借りて来たが、広げないままだった。
僕は客の所へ立った。
凪は顔を上げなかった。次を待つ人も、笑う人もいない。
小鈴が戻り、今週の客は別の人へ聞くと言った。紙は僕へ返さなかった。
小宮さんへ、客の後ろをここで確かめようとした、本人から帰った所は聞けなかった、と送った。背の布を見た時と、朝、箱を開けた所を続けて見たいとも送った。
「もう署、行きます」
凪が鞄を閉じた。僕も行くと答えた。
小鈴が受付へ支払いの控えを返している間に、僕は自分の分を置いた。
「あとで割るって言ったでしょう」
返された金をしまった。凪は先に階段へ出た。