土曜の朝、母が卵焼きを残してくれた。
母は、僕が寝た時には帰っていなかった。何時に作ったのかわからない。端だけ少し固くなっていた。父は新聞を二つに折り、今日も劇場かと聞いた。
「片づけ。月、渡す前に」
「月は、夜だろ」
「舞台の」
父が笑ったので、僕も笑った。母が台所から、パンもあるよ、と言った。卵だけ食べて出ようとして、もう一口戻った。
劇場では、都が紺のジャケットを裏返していた。左の袖だけ、端を内側へ折ってある。
「小鈴が、九時に来るって」
「いま、九時十五分」
「そう。それ、言って」
僕が携帯を出すと、都は自分の携帯も出した。送る文を読んでいる間に、小鈴が扉を開けた。
「間に合った」
「何に?」
「着て帰るのに」
「腕、出して。両方」
小鈴はジャケットを着た。左だけ手首が出ている。都が右の袖口をつまんで折ると、同じくらい出た。
「今日は、マイク持つから。手、隠れないほうがいい」
「それ、今言う?」
「昨日も、言った気がした」
都は鋏を持ちかけ、置いた。
「いったん、見せて。マイク持つところ」
小鈴は受付のペンを握り、肘を上げた。僕へ、そちらのお客様、と呼びかけた。
「抽選、三回ありますので。最後まで、残ってくださいね」
「僕、何も買ってない」
「今のうちに。まだ開店してません」
都が笑い、袖の端へもう一度針を通した。
小鈴は二十四歳で、僕より一つ上だった。月に何度か、住宅展示場や店の催しで喋る。渡された文はたいてい覚えているのに、人が笑うと自分も笑い、次の説明へ行くのが遅れる。
「全部で、何回やるの」
「三回。最後が七時半だから、帰るのはそのあと」
都は袖口へ針を留めた。小鈴が財布を見た。
「出演料、もらってから払うのでいい?」
「千五百。今、なくてもいい。でも今夜、忘れないで」
小鈴は財布から千円札を出し、鞄の底を探って五百円玉を見つけた。
「払う。気になって、司会で言いそうだから」
「言わないでしょう」
「本日は袖の長さもそろえまして――」
僕が先に笑うと、小鈴は、ほら、とペンを向けた。
作業室へ行くと、源さんは月の縁を撫でていた。
僕も触るよう言われた。昨日より引っかかるところがない。そう答えると、そっちは昨日削ったとこだ、と裏へ回された。
「あ、こっちも」
「裏も撫でろ。そこ、手ぇ切るぞ」
源さんは毛布を広げた。僕が月を持ち上げると、端へ布を当て、紐を回してくれた。
「舞台、また出るんですか」
「出ろって言うのか」
「僕が言っても、出ないでしょう」
「何だ。決めてから来たのか」
紐を引くと、毛布の端が少し寄った。月を置いていいか聞くと、まだ、と源さんが答えた。僕は腕を替えた。
「僕、出ると、台詞が速くなります」
「走りたくなるか」
「はい」
「走る役、やれ」
「三回とも、座る役でした」
「誰だ、選んだの」
「畑野さん」
源さんは顔を上げた。笑うかと思ったが、結び目を押し、今度は俺が読む、と言った。
小鈴が来た。受付のタイマーを持っていた。
「ねえ、三分だけ、聞いて。片づける前に」
源さんは月を立て、壁へ寄せた。僕が手を放す前に、下が滑らないか確かめた。
「三分、何だ」
「自分で書いたの。冷蔵庫が喋る」
「新品か」
「明日、捨てられるほう」
小鈴は原稿を二枚出した。源さんが黙ったので、僕は聞くよ、と言った。凪が作業室の戸口へ来て、三分なら僕も、と座った。
受付へ椅子を三脚並べた。小鈴がタイマーを三分に合わせ、僕の隣へ置いた。
「鳴ったら、止めて」
「読むのを?」
「音。途中だったら、少し読ませて」
「今、三分に負けましたね」と凪が言った。
小鈴が冷蔵庫を読み、凪が持主を読むことになった。小鈴は笑ったままスタートを押した。古い冷蔵庫が、取り替えられる前の晩に喋りだす。主人が明日来る冷蔵庫も喋るのか聞くと、まだ会っていないので知りません、と返した。
僕が笑うと、凪も笑った。小鈴が先を読んだあと、凪は一つ戻してほしいと頼んだ。聞こえなかったのだった。
源さんが戸口に立っている。小鈴は同じ台詞を、二度目には少し遅く読んだ。
最後に主人が、冷凍室から古い誕生日のケーキを見つけた。小鈴は最後の二行を読み、原稿を膝へ伏せた。
「どう?」
「ケーキ、食べないよね」
僕が聞くと、小鈴は、書いてない、と答えた。
「そこ、言わなくてもわかるかな」
凪が持主の紙を借り、最初から読んだ。小鈴が冷蔵庫を返すと、同じ話なのに早く終わりそうに聞こえた。
「いま、そこ、待って。まだケーキ、見つけてない」
小鈴が言うと、凪は一行戻った。
「俺、もう食べました」
「捨てられる前に言わないで」
凪は笑い、食べる前の所を探した。
「源さんは?」
小鈴が顔を上げた。戸口にはいなかった。作業室から金属の音がした。
凪は原稿を握ったまま、もう一度、主人の最初の台詞を言った。途中で首を振った。
「俺、さっきのほうがよかった」
タイマーが鳴った。僕は音を止めた。小鈴は原稿を取らず、凪が読み直すのを待った。
十一時半、ルカが戻ってきた。
展示会で床を張る仕事を終え、靴へついた粉を裏口で払っていた。都は焼き菓子の袋を出した。ルカが半分もらうと、残りを僕へ渡そうとした。
「都のだよ」
「あ、そっか」
彼は袋を戻した。都は自分の分を取り、残りを受付へ置いた。
「来月、三か月、名古屋なんだ」
ルカが言った。都は包みを開けるところで止まった。
「二週間って言ってたよね」
「延びた。月曜から行けば、部屋も使えるって」
「月曜って、明後日?」
「違う、来月。今夜、条件をちゃんと」
ルカが携帯で台の図を出した。工藤さんから回って来た組立だという。木の足へ服を掛けて、試着する相手に見せる。
「最初の組立、俺がやる。こっちの服を着せる方も、向こうで一緒に」
「まだ注文じゃないよ。こっちで着せる人も、決まってないんだから」
「台だけ先に取っておけば。都の服、出せる時に使う」
都は画面へ手を出さず、自分の仕事机へ戻った。紙袋の底を片手で持ち上げ、僕へ見せた。
「これ、もう一枚、入れられる?」
ルカが続ける前に、僕は赤い柄の鋏を取った。