僕が運んだ箱は、その日、焼けた。
中に入っていたのは、衣裳と古い台本と布だった。そう書いた紙をもらっていたし、箱を詰めた人の名前も、受取りの署名も残っている。
なのに、箱を運んだ朝のことを聞かれると、僕は中身の話からできなかった。自分の指に当たった板の角を、いちばん先に思い出した。
金曜の午後、料理の本が詰まった箱を運んだ。
客は、最後の一箱を台所の入口で待っていた。僕が床へ下ろすと、底をのぞき、汁が出ていないかを見た。
「汁ですか」
「醤油、捨てるの忘れたの。使いかけでごめんね」
「本って、聞いてました」
「本も入ってる」
開けた箱の隅に、新聞紙で巻いた瓶が立っていた。原田さんがそちらを押さえたので、僕は反対側の本を出した。客が台所の棚へ自分で運び、一冊だけ、コンロの横へ置いた。
「今夜、作るんですか」
「買う。これ見て作るのは、引っ越して一週間たってから」
原田さんが笑った。客は瓶を持って、玄関へ戻った。
「これは捨てる。もう二本、開けたのがあるのよ」
車へ戻ると、原田さんが日曜の伝票を見せた。僕の知っている劇場の住所があった。
「日曜の便、ここからだろ。今日、下見できるか」
「行くつもりでした」
「じゃ、箱を見とけ。大きいの一つじゃ、車、決められない。寸法も送れよ」
「中身は、廃棄する衣裳で」
「それも、現地で。頼んだ人に聞け」
日曜の仕事を頼んだのは畑野さんだった。日付を確認する電話の途中で、月も運べないかと聞かれた。会社の車なので無理だと答えると、じゃあ月の人には自分で車を出してもらおう、と言ってくれた。人を断るより、荷物を断るほうが僕は少し楽だった。
木曜日という名の劇場は、品川区北品川にある。旧東海道から細い道へ入った先だった。
僕は倉庫で着替え、自転車で行った。正面の扉に『今月末閉館』の紙が貼ってある。剥がれかけた右下を押すと、指へテープがついた。
「そこ、貼り直すなら、新しいのあります」
凪が中から言った。携帯を横に構えていた。
「撮ってる?」
「閉めるとこ。一回、閉めていいですか」
「僕は外?」
「外。入る時、扉、見ないでください」
扉を閉めたあと、僕は一度だけ見てしまった。もう一回、と凪が言った。
「閉館の人って、どこ見て入るんだろ」
「目、閉じます?」
「転ぶ」
凪は画面を下げて笑った。二十歳で、僕より三つ下だ。劇場に来たころは、何も喋らずに舞台を撮っていた。今は、僕にも注文をつける。
廊下では、都が紙袋をほどいていた。型紙の先が上へ出ていて、持ち手へ重さが掛かっている。
「これ、底、危ない?」
「何入れるの」
「紙。厚い紙。月曜に持って帰る」
「今の量なら。でも、上から引っ張らないほうが」
僕は折り目を広げ、底へ段ボールを一枚入れた。都が端を切ってほしいと言う。裁縫の鋏を取ると、違う、と手を出した。
「そっちは布。紙の、赤い柄」
「これか」
「うん。箱、畳む時にも貸したでしょう。今週、納品三つあるから、切れなくなると本当に困る」
ルカが机の向こうから紙切り鋏を渡した。右の手首に黒いサポーターを巻いていた。ルカは右を机の上へ残し、左で鋏を渡した。僕は赤い柄を受け取った。
「棚、月曜に持って帰るんだよね」
ルカが都へ聞いた。
「棚は、値段聞いてから。袋だけ」
「俺の車、明日まで。知ってる人に聞いてみる」
「その人、いつ運べる?」
ルカは携帯を見た。
「聞くところ」
都は袋の底を押した。まだ返事のない車へ合わせて、型紙を動かす気はないようだった。
作業室では、源さんが月の縁を削っていた。月は大きな円の上から三日月の形を切り抜いた、舞台の道具だった。表は黄色、裏は茶色。僕がしゃがむと、源さんは削っていないほうを持てと言った。
「日曜、子供の劇団の人が来ます」
「何時」
「十一時半。二人、車も」
「毛布、あるか」
「会社へ聞いたら――」
「ここにある。貸すだけだ。持って帰られるなよ」
僕が月を傾けると、裏の字が見えた。電話番号と、渡す相手の名前。源さんはその下へ、自分の番号も書き足した。
「割れたら、俺に電話しろ」
「割らないつもりです」
「向こうがだ」
凪が携帯を取った。
「歩さん、最後の上演も撮っていいですか。俺も一本作るんで」
「小鈴の?」
「今やってるのを使って、別のにします。仕事の映像じゃなくて、俺が出すやつ」
凪は僕へ携帯を見せた。閉館の短い映像を頼んできた人から、扉の画をもう一度送ってほしいと来ていた。
「入る方じゃなくて、閉まる方でした」
「もう一回、閉める?」
「俺がやります。歩さん、これ、ちょっと持ってて」
僕へ渡しかけ、やめた。源さんの月を削る手に光が当たっていた。
「扉、閉まるとこでした。そっち送ったら、また撮れる」
扉の画を選び直してから、凪は鳴った電話へ出た。
「出演者はいます。いま本人もこっちにいるんで。尺は、送った分で」
僕へ背を向け、小鈴の名前を言った。源さんは削り残した所を探していた。
畑野さんが、肉まんの袋を抱えて来た。
「手、いったん洗って。こっち、もう開けるよ」
源さんは月を置いた。都は型紙を袋へ戻し、ルカが流しへ行った。僕が一つ取ると、畑野さんは薄い紙を僕の掌の下へ入れてくれた。
「熱いところ、出てる」
「ありがとう」
十九歳の時、僕は家を出た。父へ言い返して、仕事もなく、自転車で来た。ここへ来れば眠る場所くらいあると思っていた。自転車の鍵をなくし、裏口で車輪を持ち上げていた。
畑野さんは理由を聞く前に、前輪を抱えてくれた。鍵を探す間、冷めた焼きそばを出してくれた。食べ終わったあとも帰れなくて、客席の椅子を一緒に並べた。
今も、最初に何を食べたかだけはよく覚えている。僕は役者にはならなかった。舞台へ出ると台詞が速くなる。それでも月を包むのなら、手伝える。
「歩。箱、こっち」
畑野さんに呼ばれ、廊下へ出た。
事務所の入口には、枕を押し込んだ段ボールがあった。花の茶碗が新聞紙の端から見えていた。
「来週、部屋の鍵を受け取る。今度は布団も広げられるよ」
畑野さんが言った。
「決まったんですか」
「うん。月曜には仕事の説明も。荷物を受け取るほうになる」
彼は部屋の申込みの控えを枕の横へ入れた。僕が蓋を持つと、まだ使う物も入っている、と閉めなかった。
黒い長箱が二つ、並んでいた。蓋に『旅箱』『食器』とある。僕は肉まんを袋へ戻し、箱の前へしゃがんだ。
「日曜、どっちですか」
「旅箱」
留め金を外すと、内側は板で四つに仕切られていた。衣裳を入れるには、少し狭く思えた。
「これ、前は、何を入れてたんですか」
「食器」
畑野さんが答えた。僕は蓋の字を見た。
「ああ。蓋、逆かな。今週、塗り直したから」
「俺、塗りました」と凪が言った。
彼は二つの箱の前へ座り、乾いた塗料の出っぱりを爪で押した。どちらの蓋も同じ大きさだった。
作業室の椅子には源さんの替えの白いシャツが掛かっていた。灰色の服を試す時は、畑野さんがそこを空ける。
戸には上の方に細長いガラスがあった。源さんが中へ戻ると、台の端だけがそこから見えた。戸へ近づくと見えなくなり、畑野さんの段ボールを避けるため離れると、奥の白いところが入った。
「そこ、ぶつけるな。まだ枕、潰したくないから」
畑野さんが僕の箱を支えた。僕は横へ向きを変えた。中の台まで、ガラスの端へ逃げた。
僕が箱を引くと、一つの車輪が床の継ぎ目で止まった。しゃがむと、その車輪の縁が欠けていた。内側の手掛けに指を入れ、持ち上げる。爪が板の端へ当たった。
「こっち、狭い。持つ時は、手袋いります」
写真を撮って立つと、入口へ知らない女の人が来ていた。
「榊です。門脇さんと、六時に」
畑野さんの笑顔が、少し遅れて出た。僕はその人を作業室へ通すため、通路の毛布をどけた。